36_統合と手放し
それから、冬佳の記憶の中で過ごす日々が続いた。両親は毎日喧嘩ばかりをしているし、あちこち痛くて苦しい。何より辛いのは、体が全く動かないことだ。一度経験していた辛さだが、辛いものは辛い。
けれど、毎日ぼんやりと頭に響いてくるギノの声が、冬佳の救いだった。
『寝てばかりいたら、体が凝るだろう。少し解してやる。気持ち良くなったか?』
『外に珍しい花が咲いていた。お前が好きそうだったから飾っておく』
『今日は以前お前が楽しみにしていた本の新刊が発売されていた。面倒だが読み聞かせてやる。その前に、学園の教科書を読むぞ。勉強がかなり遅れているからな』
『バイオリンはこうやって弾く楽器だ。お前の演奏はなかなか前衛的だったが。……まぁあれも、味があって悪くない』
それはまるで、ウィンターが石像に封じられていたギノにしたように。ギノはお喋りな性格ではないのに、毎日毎日、飽きもせず冬佳に話しかけた。
両親も、姉も、誰も心配してくれない。友達も知り合いもいない。けれど、ギノだけは、孤独の中にいる冬佳に寄り添ってくれた。彼の声を聞くと、不安が和らぎ、寂しさが癒えていった。彼の声が届いていたから、挫けずに頑張れた。
『俺の声が聞こえてようといまいと関係ない。ずっと、傍にいるからな。お前をひとりにしない』
(聞こえてるよ、ギノ様。体は苦しいのに、心はぽかぽかするの。こんな風に気にかけてもらえて私は幸せ者だな。一緒に食べた焼きマシュマロアイス、美味しかったな。会ってお礼が言いたい。動いて、私の体……)
健康になれなくても、みんなに嫌われていてもいい。ないものねだりはやめて、あるものを大切に生きていくから。だから、ギノに会いたい。自分を必要としてくれる彼のところに行きたい。
冬佳がそう強く願ったとき、意識がどこかに引っ張られる感覚がした。
◇◇◇
「ん……」
次に気がついたとき、声が出ることに気づいた。指も動く。そして、瞼を持ち上げることもできた。
見覚えのある天蓋付きの寝台は、乙女ゲーム『ラピナスの園』の悪役令嬢ウィンターの私室にあるものだった。ゲームの世界に再び戻ってきたのだと、徐々に実感していく。瘴気が見せていた幻覚の世界から解放されたのだ。
(戻った……?)
視線の先で、サイドチェアに座ったギノがこちらを見下ろしている。彼はウィンターの手を握っていた。手のひらから伝わる温もりは、記憶の世界で感じたそれよりもずっと鮮明だった。
「ウィンター……!」
「ギノ、様……」
ウィンターは、ゆっくりと半身を起こした。窓から差し込む夕日が、ふたりを優しく照らす。
ギノを見た瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れるように、感情が溢れ出した。ウィンターは瞳から涙を零しながら、ギノに静かに抱きついた。ギノはウィンターの背に腕を回し、頭に片手を優しく添えた。
「私、ずっと記憶の世界にいて……っ」
「もう大丈夫だ」
「ふっ……ぅ、う……。怖かっ、た……」
ひとしきり泣いたあと、彼を見つめながら不安そうに尋ねる。
「ギノ様は、幻じゃない? 本当にここにいる?」
「確かめてみろ」
彼はウィンターの手を自分の頬に誘導する。ぺたぺたと触って確かめてみると、温かくて、ギノがちゃんとここにいるのだと分かった。ウィンターは安堵や切なさが入り交じった複雑な気持ちで、眉尻を下げる。
「やっぱり、寂しいのは嫌いです」
「……ああ、そうだな」
「終わらない悪夢の中で、ギノ様の声が聞こえてきました。ギノ様に会いたいと願ったら、戻ってこれたみたいです。ありがとう、全部ギノ様のおかげです。ありがとうございます、ありがとう……」
ありがとうと何度も繰り返すウィンターに、ギノは困ったように「分かったから」と言った。
「俺はただ、お前がしてくれたことを返しただけだ。お前は半年眠っていた。無理に動かない方がいい」
「は、半年!?」
長い夢を見ていたような感覚だったが、まさか半年も寝たきりだったとは思わず驚く。それだけ長期間眠っていれば、体力や筋力も相当落ちているだろう。
また、ウィンターの部屋には、騎士団や神殿、聖魔法師団などからいくつか見舞いの品が届いていた。
ギノはそれから、ウィンターが瘴気溜まりに落ちたときのことを話した。ウィンターは意識を手放す直前に、指輪に神力を送ってギノに助けを求めた。呼びかけに気づいたギノは、瞬間転移でウィンターを助け、結界の外に連れ出したのだという。
「強い瘴気に当てられたお前は憔悴していた。その日から、神殿の神官たちが治癒を施してきたが、今日まで眠り続けていた」
ギノが来なければ、ウィンターは結界の外に出ることができなかった。それを想像するだけで、背筋に冷たいものが流れる。
「私が眠っている間、お見舞いに来てくれてたんですか?」
「ああ、毎日」
「……心配をかけて、ごめんなさい」
「全くだ」
すると、ギノはウィンターの手を引き寄せ、自分の額に押し当てた。
「お前が永遠に目覚めなかったらと思うと、頭がおかしくなりそうだった。人間は俺たちよりずっと弱いからな。俺にはお前が必要だ」
「ギノ様……」
ウィンターは、病死した前世の自分の境遇をギノに重ねて、石像に毎日話しかけていた。前世の経験がなければ、ギノの元に通うことはなかっただろう。
(私があの病気になった意味は、ちゃんとあったんだな。良かった、頑張ってきたことは報われてたんだ。こんな素敵な人に会えたんだから)
触れている彼の手の温もりに、心がじんわりと温かくなった。するとギノは、ウィンターを寝台の上に押し倒した。
「お前はすぐ無茶をし、心配ばかりさせる。いっそ、目の届く場所に縛り付けておこうか」
「へっ……? ギ、ギノ……さま」
組み敷かれながら彼を見上げ、ウィンターは頬を赤くする。心拍数が上がって、顔がのぼせ上がるように熱い。そして、ギノの漆黒の瞳から、目が反らせない。
ちょうどそのとき、部屋の扉が開いて、ユアンが入ってきた。
「声がしたけど、まさかウィンターが目覚め――」
「お兄様……!」
ユアンはいつも、絶妙なタイミングで現れる。
絡み合うような体勢のふたりを見て、ユアンは目を見開いた。
「……何してんの? ふたり」




