27_兄と妹の関係
数日後、ウィンターは公爵邸の自室で身支度を整えていた。今日は、第二王子ルークに招待され、王宮に行くことになっている。
鏡台の前で口紅を塗りながら、台の上に飾られた猫のぬいぐるみを見つめた。
真っ黒な胴体に黒い瞳。そして、バツ印の口が印象的だ。ギノに似ているこのぬいぐるみは、彼と一緒に訪れた宝石屋で見つけて買ったものだ。ちなみに、ギノがウィンターに似ていると言った犬のぬいぐるみは彼が持っている。
(本当にギノ様に似てる)
「かわいい……」
思わずそう呟き、指でぬいぐるみをつんと突くと、自然と頬も緩んだ。
そのとき、コンコン、と部屋の扉がノックされた。入室を促せば、礼服を着たユアンが部屋に入ってきた。
「そろそろ行くよ。支度は終わった?」
「うん。ちょうど終わったとこ」
ウィンターは口紅を置き、振り返った。今日は長い髪を複雑に編み込み、ハーフアップにしてリボンをつけている。いつもと違う雰囲気の髪型を見たユアンは、わずかに眉を上げた。
「へー、その髪、かわいいね」
「え……そうかな。あ、ありがとう」
ストレートに褒められて恥ずかしくなり、髪のひと束を掴んで赤くなった頬を隠した。
今日はユアンも王宮に用事があるらしく、一緒の馬車で移動することにした。
以前まではウィンターを警戒していた彼だが、最近は兄妹らしく、少しずつ仲良くなってきている気がする。とはいえ、兄妹といっても血の繋がりはないし、そもそもユアンは人間ですらないのだけれど。だが、ウィンターは前世で家族との関係が希薄だったため、ユアンとの関係を大切に思っている。
彼はこちらに歩いてきて、鏡台の上のぬいぐるみを見下ろした。
「このぬいぐるみは?」
「この前街で買ったの。誰かに似てると思わない?」
「ああ、むかつく顔してる」
「ふ。そこがかわいいじゃん」
ウィンターは椅子から立ち上がり、ソファーに置いておいたバッグを手に取った。
ユアンはライバルでも見るかのようにぬいぐるみをじっと見つめたあと、鏡台近くの机に積まれた本の山に気づいた。
「勉強熱心だね。昨夜も遅くまで部屋の明かりがついてたけど」
「うん。私には時間が限られているから。やれるだけのことをやろうと思って」
新たに神界から出された課題は、ルーヌ川近くの瘴気溜りの結界修復。これは未来予知でもあり、まだ結界に穴は空いていない。予定では、結界の穴が空き、騎士団や聖女が派遣されるのはひと月後のことだ。
穴を塞げなければ、ウィンターは神界に聖女として認められない。そして、聖女の地位を失えば、再び『人々を混乱させた罪』で断罪されることになるだろう。ウィンターはずっと、ゆらゆらと揺れて安定しない一本の綱の上を渡っているような気分だった。
「君は、偉いね」
そう呟いたユアンはゆっくりと視線を落とし、ウィンターの左手に光る指輪を見つけた。
◇◇◇
エヴァレット公爵家の馬車は、家が移動しているのではないかと思うほど大きくて立派だ。白を基調とし、エヴァレット家の紋章が刻まれた車体は、陽光を反射して煌びやかに輝きながら街道を走っていく。
立派な馬車を目にした人々は、「一体どこの名家の馬車だろう。なるほど、名門エヴァレット公爵家か」と噂をする。
車輪を石畳や軽やかに踏み締める音が、街の喧騒に溶け込んでいく。
馬車の中で、ウィンターはユアンと向き合って座り、本を読んで勉強しながら過ごしていた。
「下向いてると酔うよ」
「平気」
「それは何の本?」
「瘴気の本。ルーヌ川の瘴気について勉強しておきたくて」
瘴気溜まりには、それぞれ性質がある。例えば、爬虫類系の魔物を発生させる瘴気や、毒性が強い瘴気、火を吹き出す瘴気もある。
ルーヌ川の瘴気は、下級魔物を発生させるのと、瘴気自体が人間の精神に干渉する力を持っている。
「記憶に関与するって……どんな感じなんだろう」
「ルーヌ川の瘴気は、過去のトラウマを蘇らせるらしい。瘴気に当てられれば、記憶の世界から戻って来れなくなるとか」
「なんだか、怖い」
過去に同じ性質の瘴気に当てられた数名は、過去の記憶に囚われ、幻聴や幻覚に苦しめられたまま回復せずにいるとか。
「でも絶対、うまくやらなきゃ」
ウィンターはスカートをぎゅっと握り締め、覚悟を込めながら呟く。ウィンターに失敗は許されない。こちらの深刻そうな表情を見て、ユアンは眉尻を下げる。
ウィンターひとりの実力では、二メートルの結界の穴を修復するのに不安があるので、できれば、神に選ばれた覚醒済みの聖女ステラに協力してほしいところだ。しかし今回は、ウィンターひとりが派遣される予定になっている。
「今回の課題、上から僕とギノは君の手助けをしないようにと言われてる。だから、君自身がクリアするしかない。あんまり怖がらせたくはないけど、今の君の実力だと……命の危険もある」
「そっか……」
おもむろに窓の外に視線を移すと、豊かな都市の奥に、壮大な王宮が少しずつ姿を現し始めていた。まだ王宮に着くまで、少し時間がかかりそうだ。
「逃げる?」
「え……?」
予想外の誘いに、思わず振り向けば、ユアンは真剣な顔してこちらをじっと見つめていて。
「神界は掟に従って、君を異端として排除しようと躍起になってる。常に危険な課題を与えられ、ジャッジされるのは辛いはずだ。もし君が望むなら、安全な場所で生きていけるように僕が何とかしてあげる。――神界の掟に逆らうことになったとしても」
ウィンターはその提案に、目を見開いた。彼の提案は、とても甘い響きだ。安全な場所で生きていけたら、きっと幸せだろう。前世で病気がちだった冬佳が叶えられなかったことも、叶えられるかもしれない。それでも……。
「私は逃げないって、お兄様はよく知ってるでしょ?」
ユアンにふわりと微笑みかけ、薬指の指輪をひと撫でする。
「私が逃げれば、お父様やお母様に迷惑かけちゃうし、せっかく応援してくれたギノ様を裏切ることになる。それに、神界に認められるように頑張るって決めたの。私……こう見えて頑固だから。一度決めたことは最後まで貫く」
「やっぱり、ウィンターはウィンターだね」
「ふふ、何それ」
「ほんと、尊敬する」
彼はそっと目を伏せた。
「僕はラピナス十神に属しているけど、向上心も目標もなくて。ただ、自分の地位を維持するために、他の神の顔色をうかがってきた。時々、際どいこともしてね」
「そう……なの?」
「うん。でも君を見てると、なんだか心が揺さぶられるんだ。一生懸命っていいなって。変わろうと足掻く君が、眩しく見える」
「お兄様……」
ユアンの目に自分がそんな風に映っていたとは思わなかった。
彼のウィンターに対する思いに、鼻の奥が痛くなった。
「私こそ、お兄様にすごく感謝してるよ。神力の訓練に付き合ってくれたり、こうやって気にかけてくれて。お兄様は神様だし、私なんかが理解できないような苦悩や葛藤があったかもしれないけど、その経験はきっと何かの形で役に立つはず」
「ありがとう」
「なんでお礼?」
「なんとなく」
「ふふ、最近やっと本物の兄妹らしくなれた気がする。血は繋がってないけど、お兄ちゃんっていいね」
ウィンターは柔らかに微笑んでから、膝の上の本を閉じて鞄にしまった。ずっと下を向いていたせいで、気分が悪くなってしまった。それから、窓に頭を預けて小さく息を吐く。
「酔った?」
「ちょっとだけ」
「言わんこっちゃない」
下を向いていたら酔うと彼に忠告された通りになった。ユアンは席から立ち上がり、ウィンターの隣に腰を下ろした。そして、ウィンターの片手を取って、手のひらを揉み始める。
「酔いに効くツボらしい」
「ありがとう」
「少し休みな。着いたら起こすから」
「うん、じゃあちょっとだけ」
昨晩も夜遅くまで勉強していたせいで疲れており、目を閉じてまもなく、ウィンターは心地の良い微睡みに包まれていた。隣に座るユアンは、ウィンターの指輪に触れて、「妬けるな」と苦笑をこぼした。けれど、その呟きは、すっかり夢の世界にいるウィンターの耳には届かなかった。
ユアンはウィンターの寝顔を見つめながら、頬を指でそっと撫でて、囁く。
「最近、君を妹として見れなくて困ってるよ。ねー、好きになってもいい? ……なんてね」
もちろんそんな囁きも、ウィンターには届かないのだった。




