後編
ある日、いつものように終わらない仕事の山を目の端にとらえながら、取り敢えず目の前の仕事をこなしていく。
社内放送でチャイムが流れる。時計を見ると、業務終了の時間を示していた。
だとしても今の自分には関係が無い。少なくともこの仕事の山を片付けてからでないと帰れない。
そう心の中で思いながらため息を付く。
その瞬間に携帯電話がメールの受信を知らせて来る。
なんとなしに確認すると彼女からだった。
「助けて」
ただそれだけが書かれたメール。
読んだ瞬間に心臓が大きく脈打つのを聞いた。冷や汗を感じながら頭を回す。
過去の出来事を参照にすれば、これはそれほど大事では無いはず。正確に言えば彼女にとっては大事でも、世間一般の尺度からすればそこまで大騒ぎするほどの事では無いはず。具体的に言えば何か事件に巻き込まれたとか、そういったものでは無いはず。
それでも、万が一が有るかもしれない。
考えるより先に体が動き始めていた。上司に急用の為、定時退社する旨を伝え、残りの仕事は明日行う事を約束する。
きっとその時の私は鬼気迫る顔をしていたのだろう。上司は驚きながらも二つ返事で了承してくれた。
大急ぎで家に帰る。慌てて震える手で何とか鍵を開けて、玄関の扉を開ける。
そこはやはり真っ暗だった。明かりは一つも付いていない。
「ただいま。大丈夫」
声をかけながら、靴を脱ぎ捨ててその勢いのまま彼女の部屋を開ける。
真っ暗な部屋の中、唯一の明かりであるモニターの明かりに照らされて、椅子の上で膝を抱え込み頭を沈めている彼女が居た。
「大丈夫」
もう一度、声を掛ける。その声を聞いてやっと彼女は頭を上げた。
泣き腫らし充血した目で私を確認すると彼女は口を開いた。
「私、絵描けなくなっちゃた」
彼女の向こうのモニターに映るのは真っ白な画面。
「私の唯一の取柄が、私がただ一つ出来る事が、出来なくなっちゃた。
そしたらもう私の生きている価値なんてない」
そう言ってふさぎ込む彼女を後ろから抱え込む。
「大丈夫。落ち着いて」
言い聞かせながら自分自身も落ち着かせる。大丈夫。この状態もすでに何度か経験している。
言ってしまえばいつもの発作みたいなもの。
彼女の心が暴発しないように一言一言考えて言葉をかける。
「どうして描けなくなっちゃたの」
「どんなにちゃんと描こうとしても人が上手く描けないの。描けば描くほど酷くなっていくの」
ぽつぽつと話し始めてくれた彼女の言葉を一単語も逃さずに聞いていく。
どうやら、きっかけかは描いている本人にしかわからないような些細な違和感だったようだ。それをどうにかしようとするたびに他との釣り合いが崩れて、どんどんと絵が崩壊していった。
泥沼で数時間もがいた後には、既にその些細な違和感に気が付く前の絵は描けなくなってしまった。
「参考資料みたいな物は無いの」
「写真じゃ駄目。もっと細かくわかる参考がなくちゃ」
どうやら今回の答えはとても簡単そうだ。
「だったらここに私が居るじゃない。
私を参考にして描いてみてよ。言ってくれれば好きなポーズをとるし」
私の提案に彼女はやっと顔を上げた。
「でも、上手く描けないよ」
「そしたらもう一回やり直せば良い。納得が行くまで幾らでも付き合ってあげる」
「でも、どれくらい時間がかかるか分からないよ」
「私はそこまで長時間、集中してポーズを取り続けるみたいな事は出来ないけど、私の時間を全部使っていいよ」
「・・・」
あまり乗り気になってくれない彼女に、部屋に置いてある紙を渡し、ペンを強引に握らせる。
咳払いを一つして、わざとらしいおどけた声で宣告した。
「あなたへの課題は、あなた自身が納得する絵です。時間は無制限、では始めてください」
さも試験管のような偉ぶった物言いをして笑いを誘う。
彼女はくすりと笑ってくれた。その笑顔を見て山場は超えたと確信した。
彼女は次の一息付いた時には表情が変わっていた。鋭い目つき。その視線を私と手元の紙の間を交互させ、その手に握られたペンを走らせる。
こうなってしまうと、もう彼女には話しかけても声は伝わらない。
今の彼女にとって私はただの描く対象でしかない。
彼女がもう一度描き始めてくれた事に喜びを覚えながら、近くの椅子に腰かける。きっと今夜は長丁場になるだろう。
時折、彼女はその手を止めて、私に歩み寄り至近距離で色々な角度から私の隅々を観察する。その手で触って質感を確認して、納得すると席に戻り描き始める。
ある程度描き進めると、いきなりその紙を捨てて新たな紙に描き始める。その捨てられた一枚を見てもどこがどう駄目だったか、なんて事が素人の私に分かる訳が無い。
部屋の中にはペンの走る音だけが響く。
彼女が黙々と描き続けているからと言ってこちらまで黙る必要は無いが、こちらが何かを話しかけても彼女から言葉が返ってくる事は無いだろう。
結果、何かを口に出してもそれは独り言にしかならない。
手持無沙汰になりつつも、モデルを引き受けた以上はそれを放り投げてどこかに行くわけにはいかない。
ただただ、椅子に座り彼女が満足のいく一枚を書きあげるまで待つことしかできない。
何も出来ずただ待つだけの時間は、日中の労働で疲れ果てた体には、睡魔を引き寄せる恰好の餌でしかなかった。
椅子から落ちそうな感覚を覚えて目を覚ます。
いつの間にかに眠りに落ちていた。
「ごめん。寝ちゃった」
とっさに謝るも、返事は返ってこない。
視線を上げると寝落ちする前はこちらを向いて紙にペンで描いていたはずなのに、今の彼女はモニターの薄明りに照らされて真剣な表情で画面の中の絵を描き上げていく。
その絵はすでに私の素描ではなく、全く別の人物を書き込んでいた。
そして、彼女の足元には私が寝落ちする前の数倍の高さに積みあがった私の絵が置かれていた。
彼女の真剣な表情の中には、私がこの部屋に入ってきた時にあったような不安な気持ちは一切感じ取れない。
むしろ絵を描くのが楽しくてしょうがないと言った感じだった。
「良かった」
安堵のため息がこぼれる。
きっと彼女の中の大きな悩み事は、この足元の山を作り上げた大量の素描により解消したのだろう。
その勢いのまま仕事の絵を描き始めたのだろう。
足元の紙の山にも、そして私すらも気に留めずに。
こうなってしまったらもう私がここでモデルをしている意味は無くなってしまった。
私は彼女が快適に作画出来るように環境を整え、彼女があまり無茶をしないように目覚まし時計を設定して部屋を後にした。
私がどんなに彼女の事を思っても、彼女の関心事の一位には決してなれない。
張り合ったところで自分が傷つくだけなのに、どうしてもそんな無駄な事を考えてしまう。
ため息をつきながら時計を見ると、あと数時間で朝になってしまう。
何とか家事やら身支度を整え床に就く。いくら彼女の部屋でうたたねをしたとは言え、明日はきっと寝不足だろう。
どうしようもない事を無駄に考えてしまう前に、睡魔を味方につけて脳の電源を落とす事にした。
結局彼女はいつもの調子を取り戻したようで、その後はそれまでと同じように絵を描けるように戻った。
彼女自身は私の素描を大量に描きあげた中で、その気になっていた点を克服したのだろう。
私にもその説明をしてはくれて言われた時はなるほどとは思いもしたが、少し時間が経つといまいち理解がしきれていない自分に戻っていた。
それでも、彼女がまた楽しそうに絵を描いてくれるようになって良かった。
ついてない日の災厄は、こちらがどんなに気を付けていても貰い事故のように向こうから降りかかってくる。
その日は一人の上司に捕まってしまった。
その上司にはおおよそ配慮という言葉からは程遠い人物だった。
「お前さんは他の同期に比べて仕事が出来る。一番に出世するのはお前さんだろう」
「ありがとうございます」
「だが、今のままでは駄目だな。お前さんには仕事に対する情熱が感じられない」
「・・・はあ」
「そんな若い身空だ。どうせ彼氏でも居るんだろう。そちらにばかり現を抜かしていると、あっという間に他の同期に抜かれるぞ。
俺の若い頃は、休日も寝る間も惜しんで仕事に生かせる内容の勉強をしたもんだ」
そこからは上司の自慢話ともとれる昔話を長々と聞かされる。それに対して適当に相槌を返した。
上司としては部下に仕事に対してやる気を持ってもらいたいのだろう。しかし、私はそこまで出世欲などは無く、ただ目の前の仕事を捌いていっているだけでしかない。
私は上司が伝えたい本文より、その前の言葉が気になってしまった。
やはり彼氏と交際をしていて余暇を充実させて過ごすと言うのが「普通」なのだろう。
生憎と私に彼氏は居ない。それどころか交際すらしているか怪しい。
嫌な事は照らし合わせたかのように、同時期にやってくる。
仕事の帰り道、遠くで暮らす母との他愛ない連絡のやり取り。そこに突如現れる、向こうからしたらいつもの決まり文句。
「いい加減、孫の顔が見たいわね」
自分の表情が凍り付くのを感じながらも、いつも通りに返信する。
「それは当分叶えられそうにない」
ルームシェアという形で彼女と暮らしていることは母も知ってはいるが、さすがにその関係性までは想像の範囲外だろう。
誰もかれもが、私が女である以上、男と付き合う事を前提として言葉を投げかけてくる。
しかし、私は彼女を愛している。
たとえその愛が一方通行だとしても。
彼女に想いを伝えた事は無い。
いくら彼女が絵の事しか考えていないとしても、私のこの想いを知ったら嫌悪感を抱くかもしれない。
伝えた後に返ってくるであろう否定の一言が怖すぎて、とても口には出せない。
彼女にとっての一番の地位に居るのは私では無い。その場所は絵画が鎮座している。
私がどう頑張っても、どれだけ彼女に尽くしても、その場所に私が足を踏み入れさせてもらえる事は無いだろう。
そもそも彼女は私の事をどう思っているのだろうか。
ほとんどを絵画に埋め尽くされた彼女の心の中に、私への思いが存在するのだろうか。
もしかしたら、彼女にとって私の存在は自分の周りで世話を焼いてくれるお手伝いさん程度のものかもしれない。
私の想いはきっと届いていない。
そこまで考え込んでしまってから、ため息と共に思考を全て捨てる。
ついてない日に考え込んでも良い事ない。それを教訓にして帰りの歩みを早める。
たとえどう思われていたとしても、私が彼女を愛している事は変わりない。そして、私が彼女に手を貸さなければ彼女は日常生活を行う事すらままならない。
だから今日も早く家に帰り、彼女の為に夕ご飯を作らなければ。
一週間の労働が終わり週末の休日。
彼女の方もまた、一つの納品が済んで次の締め切りまでにやや時間があるということで、二人でまったりする時間を作る事にした。
基本的に彼女は外に出る事に興味を惹かれない。そんな彼女に合わせると自然と家の中で過ごす事になる。
おしゃべりをしながらゆっくりと晩御飯を食べて、リビングでくつろぎながら映画鑑賞する事になった。
彼女からの絵のアイデアの元にしたいという提案により、見る映画が決定する。
往年の名作と呼ばれる恋愛映画。
私自身は何回も見た事は有ったが、彼女と二人で見るのは初めてだった。
内容自体は恋愛映画の王道で、見ず知らずの主人公の男とヒロインが出会って身分違いの恋に落ちる。
私にとってはそのヒロインがどんなにいい女性でも、隣で呆けた顔で画面を見つめる彼女のほうが素晴らしく感じる。
それでもヒロインに彼女を投影し主人公の男に自分を投影し、映画の世界に入り込む。
ただ、その映画の終盤で極寒の海に投げ出された二人。ヒロインを助ける為に主人公の男は自らの命を諦める。
私はその男の行動に賛同した。愛する人の為だったら自分の事はどうなっても構わない。
仮にこうして映画を一緒に見ている彼女と共に、突然このような状況に陥ったらまず間違いなく同じ行動を取るだろう。
ふと、考えて言葉にして彼女に伝える。
「もし私たちがこんな状態になったら、私は間違いなく彼と同じ行動を取ると思う。
そしたら君は生き残ってくれるかな」
画面では極寒の海に沈んでいく主人公の男に対して、ヒロインが悲痛な表情で嘆いていた。
私の質問を聞いて、彼女の視線が私に向けられる。そして、まったく逡巡することなく答えた。
「あなたが冷たい海の底に沈むと言うのなら、私も一緒に沈むだけ」
私は驚きつつも反論してみた。
「しかし、私一人の犠牲で君は助かるのに。何も二人して命を手放す必要はないんじゃないか」
「だって、あなたが居ない世界で一人で生きていける気がしないし。それだったら最後の瞬間まで一緒のほうが、ずっといい」
彼女の言葉に対して、身震いに似た感覚が全身を襲った。
彼女にとって私という存在がそこまで大きくなっていた事を始めて知った。
確かに彼女は誰かに支えられないと、生きていくこともままならない。
しかし、その誰かは誰でも良いと思っていた。たまたま、今の彼女を支えているのが私だった、ただそれだけだと思っていた。
だが、彼女は私というちっぽけな存在にそれ以上の価値を見出してくれていた。
私は動揺する心を隠して、既に近かった座っている位置をより彼女に近づけた。
彼女は微笑んでから、私にもたれかかってそのちいさな頭を私の肩に乗せた。
どうやらこの肩にかかる重さは勝手にどこかに行ってしまうことは無いようだ。もちろん、私自身が手放す事は絶対に無い。
きっと傍から見れば、私と彼女の関係は歪に映るかもしれない。
お互いがお互いを支えあっているように見えて、その実、お互いを動けないようにがんじがらめにしあっている。
しかし、私はこの関係を正す気にはなれない。いったい誰に甘美で心地よいぬるま湯のような現状を手放す事が出来るだろうか。たとえそれが廃頽的だとしても。
私たち二人は無言のまま映画のエンドロールを眺めた。