とある宿にて・1
出先で急な雨に降られた。のみならず、水かさが増した川のせいで橋が水没寸前となり通行不可。どうしたものかと逡巡していたのが不味かったのか、それとも彼女の決断が早すぎたのか。
いや、ある意味正しくはあったのだ。
時刻はすでに夕暮れ時。橋を通らなくては次の街への移動はかなりの遠回りとなる。この土砂降りの中、慣れない道を馬で駆け抜けるのは危険だろう。一人だけならまだしも、自分にとっても、この国にとっても大切な人物が一緒なのだ。そんな危険な真似は出来ない。となると、早急に宿を探すのが必要となり、その宿を彼女が先に見つけてくれた。
そう、その宿が、普通の宿であれば何も問題は無かったというだけの話だ。
「うわあ、雨どんどんひどくなってますよ」
セレスは暢気に窓の外を見つめている。遠くでゴロゴロとした音も聞こえ、確かにこの雨の中、野宿だのなんだのとならずに済んだのは運が良かったとシークも思う。思う、のだがしかし。
「……とりあえず着替えましょうか。いつまでも濡れたままじゃ風邪引きますよ」
「あ、そうですね。わたしはあなたのお陰でほとんど濡れてませんけど」
下に行って温かいお茶でももらってきますね、とシークの脇をセレスは通過する。運良く部屋を押さえられたとはいえ、それは一室が限界だった。あげく部屋の中に置かれたベッドはこれまた一つだけ。通常より横幅が広いのが唯一の救いである。
なので、セレスにしてみればこれはシークに対する二重の気遣いだ。自分がいては着替えがしにくいだろうと。あと本当に冷えた身体にせめて温かい飲み物を、という。
だがシークは通り過ぎるセレスの襟首を捕まえた。喉が締まり、セレスは「ぐっ」と苦しそうな声を上げる。
「なにするんですか!」
「飲み食いする物は俺が持ってきますからここにいてください。っていうか、一人で出たら駄目です」
「でも」
「着替えはそこに衝立があるでしょ。ソレ広げてすぐに着替えるんで、それまですみませんがベッドの上で大人しく待っていてください」
有無も言わさぬ勢いで、シークは半ば放り投げる様にセレスをベッドに座らせる。衝立を目の前に置き、覗かないでくださいねと言えばセレスは真っ赤になってそっぽを向いた。そんなセレスについ笑みを浮かべながら、シークは急いで濡れた服を脱ぎ身体を拭く。部屋に用意されていた寝間着の上だけをとりあえず着替えれば、まあ宿の中をうろつくくらいならば許されるだろう。元々、そんな気品のある高級宿というわけでもない。
そう結論を出したシークは「着替えましたよ」と一声かけて衝立を動かす。
「何か食べたい物とかありますか?」
「スープとかシチューとか、身体が温かくなりそうなのがいいです」
「寒いです?」
冬が終わり、春を迎えたとはいえまだ時折寒さはぶり返す。あげく今日はこの土砂降りで、気温はグンと下がった。部屋へ入ってすぐに暖炉に火は入れたものの、室内全体が暖かくなるにはまだもう少しかかるだろう。
「寒くはないですってば! そんなシーツでグルグル巻きにしないでください」
そう言われるそばからシークはセレスを簀巻きにする。もぞもぞと抜け出そうとするセレスの肩を軽く押せば、あまりにも簡単にベッドの上に転がった。うわあ、と思わず眉を顰めれば、さらに険しい顔でセレスが睨み付けてくる。
「なんであなたがそんな顔するんですか」
むしろこっちがその顔なんですけど! とセレスは噛み付いてくるが、シークにしてみればそれはただ煽っている様にしか見えない。あまりにもこう、簡単すぎるだろうといっそ心配にもなってくる。
「これは貴女が迂闊なんですか? それともそれだけ俺を信頼してるって事です?」
「ええええなにを突然……まあ、あなたを信頼してるのは、そりゃあしてますけど……」
「あっすみません俺が悪かったですその顔をやめてもらっていいですか」
「喧嘩売ってます?」
セレスの怒りは当然だ。簀巻きにされてベッドに転がされて、あげく表情に駄目だし。しかしシークにとって、この状況でそんな煽る様な言葉と顔をされては堪えている色んな欲が吹き上がってしまうのだ。
一見普通の宿ではあるが、ぶっちゃけてしまえばここは連れ込み宿の一つだ。受付の時点でセレスはあまりにも浮いていた。顔が見えないようにとシークの上着を頭から被せたままではいたが、それでも醸し出す空気でバレてしまう。彼女が、どれだけ清廉であるのか。
部屋を取るための受付が酒場と兼用になっていたのも不味かった。ただでさえガラの悪い連中が、酒の勢いもあってか品定めをする視線を遠慮なくセレスに向けていた。それらをセレスに気付かれぬよう、一瞥で黙らせはしたものの、そんなシークの反応が余計に興味をわかせたらしい。セレスの肩を抱くようにして一番値段の高い部屋――一定の客しか上がって来られないとしている三階へと向かう途中、やたらと不穏な気配を感じた。
狙われているのは間違いないだろう。それが強盗としてなのか、隙あらば自分の部屋へと連れ込もうとするそういった意味合いであるのかはシークには分からない。例えどちらであろうとも許すはずもないし、そんな目付きで彼女を見たという時点でその首ごと跳ね飛ばしてやりたいくらいだ。
そんな殺意を抑え込むのにわりと理性を動員している中、全く気付いていないセレスはゴリゴリとシークの忍耐を削ってくるのだから堪らない。
一応そちら方面の知識は持っている様だが、経験は皆無だ。シークが少しでも触れ様ものなら真っ赤になって固まってしまう。嫌では無い、怖いわけでは無いのだと言ってはくれるし、実際そうなのだろうと思うけれど。ここまで初心な反応をされてはそれ以上先へ進む事などシークには無理だ。そもそも、名前を呼ぶだけでも恥ずかしいと騒ぐのだからどうしようもできない。
とはいえ立派な成人男性である。心から愛し、さらには二年近く想い続けて若干拗らせている自覚もある。
そんな相手と連れ込み宿で一泊、という本来泣いて喜ぶべき状況でありながら、シークにとってはただの拷問だ。一番良いのは部屋の前の廊下で眠る事だろう。それならセレスの安全を確保しつつ自分も休む事ができる。が、到底そんな真似は彼女が許さない。かといって、同じ部屋で一晩過ごすにはかなり辛いものがある。これでベッドまで一緒となると襲わない自信はない。いや、むしろそこまできたら誘われているのと同義で襲ってもいいのではないか。
そんな男の身勝手な思考が一気にシークの脳内を駆け巡り、慌ててその煩悩を頭を振って外へと追い出した。
「……どうしたんですか?」
セレスにしてみれば、自分を見つめたまま突然押し黙ったかと思えば、今度は勢いよく頭を横に振り出したのだ。怪訝な顔になるのも無理はない。
「大丈夫です、何でもありません」
「これっぽっちも大丈夫そうに見えませんけど?」
「とにかく、今から下に行って適当に食い物持ってくるんで、絶対にここから出ないでくださいね。俺が出て行ったらすぐに鍵を掛ける!」
「だったらこの状態どうにかしてください!」
セレスはどうにか動いて起き上がろうとするが、何しろ簀巻きの状態ではそう簡単にはいかない。ベッドに横になり、首だけを動かし下から見つめてくる。ぶわっ、とシークの腹の奥底で何かしらの欲が暴れそうになったが、それを鉄の理性で抑え込み、無心でセレスに巻き付けたシーツを解いていく。
「戻って来た時は扉を続けて三回、一拍空けて二回叩きます。それ以外では絶対に、何と言われても鍵は開けないように」
「そこまでします?」
「するんです。いいですか?」
「はあい」
キャンキャンと言い返しはするが基本的には素直な彼女である。過保護、と文句を言いつつも頷くのを確認し、シークは食事の確保の為に一旦部屋の外へ出た。




