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整然と並ぶお屋敷通りを抜けて、集まった商店に人々の行き交う坂を下り、夜でも賑やかしく酸化した酒の匂い漂う歓楽街を過ぎた先にある、静かな林の奥。
急に木々がまばらになり、人の手がくわえられた開けた場所に、レンガの敷石がぽつぽつと連なっている。
若干草に埋もれてしまっているそれをたどると、小川のほとりに風車のある家が一軒だけ建っている。これがこの世界での麻衣の定宿だ。
「出張申請なし、日報なし、うるさいクソ共への接待も飲み会もなし、経費は増額どころかほぼ無制限。神か。いや、神は緒方野さんか」
家の前に作られた畑の前で大きく伸びをする。
ねこの飾りのついたゴムで一つに結ばれた髪は、ここ数日でツヤが増し、手櫛で梳かすたびに大量の毛が抜け落ちるなんてことはなくなった。
ここは水もいいらしく、肌も調子もいい。
たった3日でここまで健康的になるとは、やはり酒と酒の席は万病の素でしかない。
麻衣は今までの社会人生活を振り返りつつ、蘇ってきた苛立ちばかりの記憶に蓋をした。
老後に暮らすならこんなところがいいよなぁ、猫といっしょにのんびり暮らせたら宇宙で一番幸せでは?
空想の世界にきて、なお空想に浸っていた麻衣は、首から下げられた社員証が目に入り一気に現実へ引き戻された。
どうも、これをある程度携帯しておけば現実世界からの意識が保たれるらしい。
「しゃあね、ごはん食べたら仕事しに行くか」
胸元にさがった無機質なプラスチックのネームプレートをいじりつつ、麻衣はもう一度だけ深呼吸をして、支度をするべく家に戻っていった。
彼女は田中麻衣。第一営業部係長を務める、接待と飲み会嫌いでうっすらと有名な社員である。
麻衣が現実世界から持ち出したものの数は多くはない。とはいえ、今のところ何かに不自由することはない。
家の中には電気ガス水道すべて通っているし、食料はなぜか使った分どこからか補充されている。
金銭のやり取りはなぜか手をかざすだけでどこでもできる世界観らしく、異世界にきて初日に城下町の商店で入用のものを購入したが、問題なく決済できた。
いったいどこに口座があっていくら入っているのか謎だ。来る前になんやら説明は受けたが、要はお金は無尽蔵に湧いてくるってことね、という麻衣の雑な投げかけに、謎の美形がその通りです、と答えていたので大丈夫だろう。
お金周りに関しては、後々、同じく現実世界から異世界に来た社員に教えてもらおうと思う。
頭の中で今日の行動のおおよその算段をたてつつ、ずらりと並んだクローゼットの中身からよそ行きの服を選び袖を通した。
詰襟のワンピースの下にパニエをはけば、あっという間にお嬢さんのできあがりだ。
これが、この出張中の麻衣のオフィスカジュアルになる。
「じゃ、行くか?」
両手でスカートをふわふわと抑え込み、膨らみ具合をたしかめながら家の玄関の脇にある、地面におかれた同心円状のオブジェの上にたつ。
異世界らしく、このオブジェが人々の主な移動手段になっており、オブジェの上に立つことで、別の場所にある任意のオブジェまでワープ移動可能な便利な代物だ。
基本的には、町の入り口や病院などの公共施設にしかないものだが、なぜかここには玄関先に鎮座している。
麻衣はすでにこれを使いこなしていて、先日は町で洋服やら靴やらしこたま買い込んで、一瞬で家までワープして持ち帰ってきた。
はやくも勝手知ったるオブジェの上で、麻衣は革製のトランクを抱え込んで、ふん、と踏ん張った。
「町までたのんだ!」
声に反応して、オブジェから幾筋もの光が放たれる。妙に体に力の入ったまま中腰になった麻衣のポージングはどう見ても光り輝くゴリラだったが、すぐに光に包まれ町の向こうに消えたおかげで誰かの目にとまることはなかった。