プロローグ
ちゃんと最後まで書くことが目標。最初5話くらいまでは毎日投稿します。
「困ったことに、なりました」
野村編集長は肘をついたままうなだれ、頭を抱えた。声は事態が深刻であることを物語っていた。
「緒方野先生が失踪?ほんとなんですかそれ」
皆があぜんとするなか、口を開いたのは、この癖だらけの第二文芸部のメンバーを唯一統率できる男、デスクの佐々木だ。
「上が言うには、そうなる。連絡がつかないから親族に確認してみれば、自宅にも実家にも、他の先生が行きそうなところにもいない。部屋には電源がついたままのPCがあって、どこの版元にも持ち込まれてない原稿のデータが開いたままだったそうだ。どうもご家族は編集部が先生に恋愛小説を書かせなかったのがショックでいなくなったんじゃないかと思ってるそうで、責任もって探せと言ってるらしい。」
「それで、会社も探せっていってるんですか?」
やたら付箋の挟まった分厚い手帳に何かを書き込んでいた中澤が顔をあげる。
たたきつけるように置かれた朱色のペンが床に落ちた。
「探せ、というか、人気作家の失踪が変な形で表に出る前に片づけろ、と。担当の不始末の責任は編集部。当たり前のことだ。だ、そうだ」
中澤は舌打ちして、クソ社畜能無しワンワン共が、と吐き捨てた。
「責任ねえ、とにかく臭いものを誰かに押し付けたかっただけでしょ」
彼女の背に隠れる位置、編集長から一番遠い席に座っていた小野は、血の気のひいた顔がさらに土気色に変わり、震える手で手を押さえている。
半年前、小野は先輩の中澤から緒方野先生の担当を引き継いでいたが、あまり対人の会話を好まない先生とのやりとりがうまくいかないことを悩んでいる。編集部内のだれもが知っていた。
「あ、あの、ということは、私、ここにいられなくなるんでしょうか……」
もともと細めの声はすでに蚊よりも随分と細い声になっているが、普段と違い静まり返った会議室では十分だった。
「いや、そういう単純な話でもないんだ。社員が6人、体調不良で欠勤している。みな、一様に謎の眠気を訴えたまま一度寝入ったきり起きないらしい。それで、その原因が先生の失踪にあるらしい……とはいえ、俺もまだまったくどういうわけだか把握してないんだが」
「いや、なにそれ。怪奇現象じゃないですか」
説明した編集長に、黙って聞いていた狭川が思わずといった調子でよこやりを入れる。
一気にあつまった皆の目にもひるまず、狭川はつづけた。
「みんな寝たまま起きないって、先生が恨みつらみで一服盛ったってんならわかりますけど、あの人極端な出不精でしょ。本職のやばいやつらに頼んだとか言いだします?それとも、そこのお兄さんがどうやったか説明してくれんのか、」
佐川が言葉を切って、皆が最初から気になっていたが指摘できずにいた男を見る。
首から下げている『来館者用』と書かれた入館証を見るに社員ではないらしい。
高そうなスーツにぼさぼさの頭で顔が見えないし、やたらに背が高い。釣り合いのとれていない格好がやたらに目につく男だ。
「あ、はい。あの、ご紹介いただけるまで待ってたんですが、なかったので。わたくし、全国世界線保全協会から参りました、桐田、と申します」
会議がはじまる前から編集長の横に不自然に突っ立ったままだった男は、お手本のような一礼をして挨拶した。顔半分を覆っていた髪が流れ、やっと桐田と名乗った男の顔がわかる。
「わ、すご、髪あげたら美形。ほんとにいんだ」
にこ、と浮かべた笑みに、今まで我関せずの沈黙を貫いていた千代がつぶやいた。
これ幸い、とばかりに桐田とやらも千代へほほえみで返す。それに千代の横にすわっていた中澤もちら、と千代と目くばせをする。
それに関しては異議なし。中澤はそう小さく答えたようだ。
反対に、敵意を隠さない狭川ほどではないが、暗い面持ちのままの男性陣は、微妙な反応を返すだけだった。
佐々木はどうにも空気の締まらない会議室の中で、少々投げやりに桐田に問いかけた。
「んんっ。はい、どうも。で、その全日本なんたら協会さん?は、何を教えてくださるんです」
「ぜん、せかいせん、ほぜん、きょうかい、と申します」
桐田は室内の緊張した空気も一部女性陣の黄色い声も意に介さないらしく、いいえ、と否定から入って佐々木の言葉を訂正した。
あまりにも抑揚なく、ゆっくりと組織名を言い直す桐田にはなんとも言い難い不自然さがぬぐえないが、それでも確かにイラついたらしい狭川が、はいはい、わかりましたよ、とおざなりに返事をする。
「簡単に言えば、公安の外郭団体です。ひそやかに日本の平和を守っているので、ここで話したことは、関係者以外にはご内密にお願いいたします」
「なんだよ、開始一分しないのにもう脅し?」
狭川の言葉に、桐田はとんでもない、と機械的にほほ笑んで、それでは本題に、と、かばんからタブレットを取り出した。
「まず最初に、今現在起きていることを説明しますと、現代の人間が突如現れた異世界に引きずり込まれ、帰還が困難になる現象が発生していますつまり、緒方野先生と、その他御社の社員の6名は、先生が趣味でかかれた小説の世界にいらっしゃいます。有態に言えば転生……この場合は亡くなっていないので、意識だけの異世界トリップ、でしょうか」
こちらを、と編集部員たちに見えるように差し向けられた桐田のタブレットには、監視カメラの映像のようなものが映っている。随分と荒い映像で、そこに人が映っていることはわかるが、個人を認識できるかはぎりぎりといった具合だった。
「あ、これ、情シスの岡留!」
狭川が身を乗り出してタブレットをのぞき込む。
「え、うわ、ほんとだ」
おなじように中澤もタブレットを見つめ、あ、と指さした。
「たしかに、これは岡留だわ」
うんうん、と納得する二人をよそに、他の編集部員は納得がいかない様子で映像をにらみつけている。
「この動画、女性しか映ってないように見えるんですけど、岡留さん男性ですよね」
千代はとなりに座っていた中澤の肩からひょいと身を乗り出して、動画を指さして質問した。
中澤は、あー……と言葉を探すように視線をさまよわせる。
「いや、岡留は性別なし、だ。格好もズボンもはきゃ、スカートもはく。どっちもよく似合うよ、あいつ」
逆に、あっけらかんと答えた狭川に、千代がちいさく、なるほど。とうなづいた。
「や、それで納得できるのがすごい」
中澤が言えば、千代は、あ、いえ、と手をひらひらと振って見せる。
「驚かなかったわけじゃないんですけど、ま、そうゆう人もいるよねって思ったので」
今時だなぁ。中澤は感心したようにつぶやいた。
そしていままで続いていた映像が途切れ、最後の喫茶店のようなところで女性たち(内一人は岡留)が和やかに会話しているシーンで静止した。
「以上、こちらが弊協会の仕入れた、緒方野先生の作られた“あちら側”での映像になります。このように、あちら側に引き込まれた面々は凡そ現実世界を忘れているか、もしくは過去のもの、つまり前世のように思えるようになっているようです。現実の彼らは、夢の世界に閉じこもったまま、出てこない、つまり植物人間状態になるケースが多いです」
皆が黙ること3秒。ほとんど全員がそれが真実であるかはまだ疑っていたが、桐田のいうことは概ね理解していた。ここは出版社の文芸部。ジャンルが違うとはいえ、そのテの話はテンプレから邪道まで、構造から周知している。
「岡留君の名前も確かに欠勤している社員の中にある。彼、すごくまじめな子だから、連絡もなく欠勤なんておかしいとは情シスもいってたけど、まさか異世界……」
「……もし実際、異世界にいたと仮定して、そんなとんでも事態の責任どうとれっていうんだ」
嘆く野村と佐々木の役職二人に、桐田はでは、こちらをと今度は紙媒体の冊子を編集部員に手渡していく。
無駄にかさばるA4の冊子は表紙に『別の世界に行くことになったあなたに』と印刷されている。
「異世界、と呼称されてはいますが、元は現実に生きる人間の作った虚構です。実はこの事例、過去にも複数例確認されていまして、そのほぼすべての例においての被害者の救出、および開いてしまった異世界を閉じることに成功しています。ページ3をご覧ください」
狭川と千代はすでにページをぺらぺらとめくっていたが、まじめに話を聞いていた他の編集部員は言われるままに3ページを開く。とたん、うっ。と千代が呻き声をあげた。
「エタるな、とな……」
千代の呻きに似た声に、ええ、と桐田が頷いた。
「『物語を完結させなければならない』」
佐々木が読み上げ、狭川があー、と納得している。
編集部員たちの苦虫を噛んだような表情をよそに、そもそも、と桐田が皆と目を合わせ、胸の前で自分の両手を合わせて見せた。
「この物語から異世界が発生する現象、もともとの要因は二つと考えられています。一つは、物語は基本、完結にむかって進みたがる性質が人々を巻き込むため。
暖かい空気が上にあがるように、とじこめられた空気が水の中で縮こまるように、物語は完結へ向かう性質をもつ。だからこそ、未完の物語が力を得たとき、その創造主たる作者やほかの想像力を持つ人間を巻き込んで、物語を終わらせようとする、その一連の動きは、まさに今回の現象と一致します」
そこまで行って止まった桐田は、なにか言いたげにしつつもじっとしている千代へゆっくりと視線を移した。千代はええと、と一度口ごもり、遠慮がちに「二つ目は?」とだけ聞いた。
桐田は珍しく表情に、なにかのニュアンスをふくませたが、それも一瞬、ふたたび朗々と解説を始める。
「ええ。二つ目の要因は、物語を作って世間一般に公表する人々の急増です。物語は個人の胸のうちにあるうちは基本的に力を持たない。しかし、それが意志を込めて作られ、物語が作れるほどの想像力豊かな人々の目にとまり、そのたびに少しづつ力を蓄えます。そしてヒット作が生まれる、そうでしょう?」
「ま、近年のネット発をものすごーくいいように解釈してゆるーく説明したらそうなるわな」
桐田に同意を求められ、狭川はしぶしぶといったように同意した。
「そうですよね、世に出てしっかりと物語から人へ、人から物語へ、そうして力が伝播していけば何ら問題はない。ただ、もし、中途半端に力を得た物語が、何らかの理由で放置され、完結にいたらないままになってしまえば、ないしは作者がその物語を放棄するような明確な意思をみせれば、力を持った物語は、先ほど言ったように、現実に生きる人を飲み込み、強制的に終わりを目指します。ただ、作者のいない物語ですから、広がるばかりでいつまでたてども終わらない。今回も、先生は渦中の小説をご自身のプライベートなサイトに掲載していたと聞いています。今回はそこで得た力が暴走したのでしょう」
「確かに、先生は非公式で運営していた個人的なサイトで、今回の小説を連載していた。でも、正直そこまでの閲覧数は稼いでなかったはずだぞ」
野村は、今朝がた会社から聞かされた内容を頭の中でなぞりながら疑問を呈した。
たしかに、まったくのゼロではなかったが、もし自分が担当だったとして、じゃあ商業でも出版しましょうと言いたくなるような数字ではなかったはずだ。
野村は桐田が話し出すのを待っていたが、意外にも口を開いたのは中澤だった。
「確かに、先生の個人サイトのファンは人数こそ数百ですが、そのうちの7割以上が新作が上がるたびに感想を残していく熱心なファンです。もし物語に対する熱量で図るならば、けして大手の小説掲載サイトの万にも匹敵するかと」
中澤が、そうでしょ、といったように桐田を見れば、桐田はにこやかに「説明すべきことは中澤さんがすべていってくださいましたね」とほほ笑む。
野村は今になって、まだ中澤が担当だったころに緒方野先生の恋愛の新作のプロットをことごとくハネていたことを思い出した。若干の居心地の悪さにひじ掛けに置いた手を膝の上で組みなおす。
「ええ、なるほどな。つまりほっといてもその力を持った物語とやらは悪さをするばかりで終わりが見えないから、外からの圧力をかけて終わらせろ、と」
野村の言葉に、中澤は一瞬眉を跳ね上げた。幸か不幸か野村は気づいていなかったが、向井に座っている狭川は、今に彼女が怒りを面にださないかと内心ひやひやするばかりだ。
しかし桐田は、そんな二人をあおるように、そうです、と大げさに頷いた。
「その通りです。冊子にも記載させていただいた通り、異世界といえど誰かの創作ですから、その方に話にケリをつけていただければ世界も終わりを迎えます。無事、完結、というわけですね。そのためには何をもって作者が完結としているのか、その異世界の終末は何なのかを誰かが異世界に潜り込んで明確にし、なるべく早く終わりへ導かねばなりません。そしてそれは、常日頃物語を生み出している機関によって行われるべき、つまりマスコミ、今回の場合は緒方野先生を抱えている出版社である御社にお願いをした次第です」
「え、でもどうやって異世界にいるやつらに干渉するんです?」
中澤が桐田の顔をまじまじと見つめながら質問する。
「それは、御社の中で異世界化している物語との適正が高い方に、被害者の方々と同じく異世界トリップしていただきます」
「え、俺が!?」
心底嫌そうに顔をしかめた狭川に、桐田がご安心ください、と答えた。
「今ここにいらっしゃる方でなくても構いません。しかし、緒方野先生は御社専属とのこと、今回の責任は御社にあると判断し、社員の方々からどなたかお願いいたします。心配しないでいただきたいのは、今から向かわれる方々には我々が現実で生きている人間であることを忘れないように処置を施しますから、異世界にいったことで正気を失うことはありません。
ただ、世界が完結をむかえないまま続いた期間が延びればのびるほど、世界に飲み込まれる被害者が増加する傾向があることが分かっています。なるべく早い世界の完結をお願いいたします」
「あの、」
小野がおずおずと手をあげた。
「でも、うちの社員のだれかっていっても、どうやって選ぶんですか?そもそも、この話聞いてるの私たちだけだし、どうやって探せば……」
いまだ体を小さくして、絶えず視線を右に左にさまよわせ不安げにする小野に、思わず千代が彼女の背をさすった。
「過去のケースで、より適正が高いとされてきたのは、現実の何かに強い執着を持っている方です。なので、この人こそ、執着に取りつかれた人間だ、という方をそれぞれ何名か教えていただければ、後は我々で時間を割いて細かく調べ、送り出します」
「異世界へ行っている間は寝てしまうんだろう?ならば仕事はどうすればいい。編集の奴らは、なかなかすべての仕事を人に短時間で引き継ぐのは難しいし、他の奴らだって事情があるだろう」
他人のキャリアを壊すのは、と渋面の編集長に、いえいえ、ご心配には及びません、と桐田は否定した。
「異世界へ出向いただいている間の身柄につきましては弊協会で責任をもって管理させていただきますし、期間中の給与は平時の5倍で算出していただくよう、御社からご承知いただいております。帰還後、本人が望むようであれば部署移動やキャリアアップも約束いただけました」
桐田の断言した内容に、佐々木が渋い顔をした。この会社の頑固な老人たちをどう説得したのかは知れないが、その話が本当だとすれば、この意味の分からない仕事でもやりたいと手を上げる社員はいるだろう。推薦を出すにしても、社内であればすべて話しても大丈夫というのであれば、まぁ、酒のついでにトンチキ話として聞いてみることは可能だ。
「それを餌に、なにがしかに執着してる社員をつってこいと」
息を吐き出して、なるほどな、と佐々木が頬を両手でこする。これは、佐々木が何かにしぶしぶ納得した時の癖だ。横で見ていた狭川は、あ、デスクが落ちた、と目を細めて桐田を見やる。そしてあのさ、と桐田を三白眼をとがらせてにらんだ。
「他に出してない情報は?いろいろあんでしょ。小出しにしないで全部わかるように提示しろよ、めんどくせぇ」
「そうですね、御社と弊協会の結んだ約束について、これ以上はありません。が、細かい質問等あればいつでも私にお願いします。この件に関しての社員の方々と御社との窓口は私になっているので、私のほうから御社の責任者に確認してお答えします。あと何かまだ話してないことといえば、」
桐田は首をすこし傾げ、そうですね、と逡巡した。
「あと、あるとすれば……、ああ、例えばもし自分が物語の主人公だったら、やってみたかったことって何でしょう?……中澤さんは、どんなことがしてみたいと思いますか?」
急に話を向けられた千代は戸惑いつつも、少し考えて答えた。
「え、私ですか?うぇ、あー、そうだなぁ。公序良俗の範囲内で答えるなら、豪遊して一生働かないで暮らしたい?」
「なるほど。働かない、の部分は、業務として物語を完結に導くことが本来の目的なので難しいですが、豪遊という部分であれは可能です。異世界へ出向の際には、弊協会で生活環境と金銭の保証をいたします。どれだけ贅沢していただいても構いません。世界を終わらせていただくために、いくら金を使っても構いません。物語の中ですから、柔軟な発想で対処をお願いいたします。なるべく早く、とは言いましたが、一分一秒を要求できるほど簡単に事態が進んだ例もないので、出向された社員の方の息がきれない程度に休暇もとっていただいてかまいません」
「それなりに楽しむ分には文句はいわないってわけ……」
「そうなりますね」
にこやかな美形の桐田から放たれる金、金、かねのオンパレードに若干ひきつつ、千代はじゃあ、と続けた。
「仕事もお金も立場にも響かないどころか、そのすべてかいいほうに転がっていく可能性が多いにある、と。ただ出向先は異世界だから、いつ帰ってこれるか、もはや本質的に帰ってこられるかもイマイチはっきりしない……ギャンブルだなぁ」
千代に続いて、今度は狭川が口を開いた。
「その社員になら話していいってのは、いまあんたと俺らとで話したこと全部って認識でいいんだな」
「ええ、もちろん話していただいてかまいません。ただ、社員以外、家族やSNSなどには決して話を漏らさないようにお願いいたします」
「人の口に戸はたてられねえだろうが。万が一漏れたらどうすんだよ」
桐田は、そうですね、と同意して、答えた。
「いますぐ具体的には申し上げられませんが、原因を追究して責任を取ってもらうことになるかと」
「やっぱり脅しじゃねえか」
狭川はあからさまなため息をついて事務椅子にもたれかかった。
「いいえ、皆さん、それぞれ人とのやり取りを仕事にしてらっしゃいますから、どなたかふさわしそうな方がいれば、いいようにとりなしてくだされば」
対する桐田は、極めつけとばかりに機械のように均整の取れたアルカイックスマイルをひとつ残し、「時間ですので、私はこれで失礼します」ときれいに一礼して部屋を後にした。
「あ?あいつ、時間制限とかあったんです?」
呆れた顔で桐田の姿を見送った狭川が野村に聞き、野村は「いや、でもたぶん」と部屋の壁にかかった時計を見た。
「結局官公庁と同じだから、定時でかえったんじゃない、今ちょうど6時だし」
「いやいや、いまどき役所勤めが一番残業激しいですって。毎日定時ちょうどに帰るのは、第一文芸の派遣のミュウミュウちゃんくらいじゃ?」
「あー!あの全身ミュウミュウって噂の。私まだあったことないんです。お嬢様なんですかね?実家は株主?馬主?」
急に緊張感のなくなった会話に、こわごわと小野が声をあげる。
「でも、その、誰か推薦しなきゃいけないんですよね。会議中にうちの編集部宛てにメーリスで連絡があって、そこには推薦状は一週間以内に、って……」
小野の一言にわざと頭の片隅においやっていた問題に引き戻された編集部員たちは、ふう、とみな深く椅子に座りこんだ。
「とりあえずは、一週間以内に候補をだして、このメールのフォーマット通りに僕のところに提出。それを僕がまとめてあの桐田さんとやらに持っていくよ。ちなみに、みんないろいろ共有したくないこともあるだろうから、提出した書類は本人以外誰も目を通さないようにしよう。提出が無理そうなら早めにいってくれ。質問は?」
狭川は先ほどまでとはうってかわって冷静に挙手をした。
「本人以外に見ないって、もし推薦がダブったらどうすんです?」
「別にあいつも、メールでも、何人以上出せ、とか、かぶりはダメとか書いてないし、書いてないってことは何かそれで不具合がおきても向こうの責任だろ」
「いやいや暴論」
「いいんだよ、暴論で。そもそももとはこっちがわけわからん無茶おしつけられてるんだから」
言って、遠くを見た佐々木に、皆がそれぞれに頷き、一部は文句をいいつつ同意した。
「ということで、今回の会議は解散でいいですか、のむさん」
話はまとまった、と、佐々木は常日頃に愛称で編集長に同意を求める。
「はいはい。みんな今日はお疲れ様です。かえって酒でものんでゆっくりして」
おざなりな編集長の挨拶とともに、皆が会議室を後にしていく。
みなで編集部に戻ってからも、なんとなく落ち着かない様子で仕事にならず、さっさときりあげて帰っていった佐々木デスクと野村編集長の後に、狭川がふらふらとどこかへ出ていき、中澤は業務を終わらせてから夕飯をつくらなきゃとあわてて出ていった。
「小野ちゃん、だいじょぶ?コーヒー買ってこよか?」
緒方野先生の騒動とトンデモ会議で一日手がつかずじまいだった仕事にひと段落つけて、PCを落とした千代は、隣の席で一生懸命に作業をしている小野が心配になってそう聞いてみた。
「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
小野は千代を見上げて、疲れた顔でそれだけ言うと、再び作業に集中し始める。
「そ?ちゃんとおうちには帰らないとだめだよ、無理しても体壊すだけだし。じゃ、お疲れ様」
「はい、お疲れ様です」
いよいよ立ち去る前にもう一度声をかけてみたものの、小野は今度は画面から目を離さずにそれだけ答えた。
「だいじょうぶじゃあ、ないよなー」
フロアには残業にいそしむ社員がそれなりに残ってはいる。
皆、それぞれ、疲れていたり、いらついていたり、様々だが、小野は形容しがたい異様などんよりとした空気をまとっている。
思いつめる後輩をどうフォローしたものか。
まいったなぁ、そう考えつつ、千代は下りのエレベーターを待っていた。