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作者: 高峰 玲




 あれはきっと夢だったに違いないわ……!




「……おじょうさま……」(声が呼ぶ)


 でないと、私は困る。ものすごく、困ってしまうことになるもの。


「お嬢さま、シャンドラさま?」(しつこく声は呼ぶ)


 だって、そうじゃない。よりにもよってこの私、フォーチュン家の後継たるシャンドラ=リム・フォーチュンともあろう者が……あああ。


「もし、お起きくださいませよ、お嬢さま」


 思い出すのもいまいましいわ、まったく。

 おまけに、誰? 私、まだ眠っていたいのよ。やわらかな寝具の中で、ぬくぬくしていたいの!

 なのに、もう。ゆさゆさするの、やめてよ。


「シャンドラお嬢さまっ」


 あーもう、もう。ばあやだわ。相も変わらず、すこやかな惰眠をむさぼろうとする人間に容赦のない……うちで(ただ)ひとり、私を“お嬢”呼ばわりできるって立場をここぞとばかりに利用して!


「いいかげん、お起きにならないとお召し替えもなさらないうちにクロセットさまがおみえになりますよ、お(ひい)さま!」


 とたんに目が覚めたわ。


「私のことを“姫”だなんて呼んだら承知しないって言っておいたはずよ! ばあや」


 起きぬけ一番に叫んでいた。

 すでにこれは条件反射というやつね。自分でやっておいて苦笑してしまう。他の召使いたちは、“姫さま”なんて呼んだら首をちょん斬ってやる、と(おど)したのを真に受けて“お嬢”呼ばわりすらしないというのにばあやときたら、私を刺激するのに使うんだもの。おまけに、誰が来るですって?

「はいはいはい。さようでございましたね、シャンドラさま」

 にこやかにばあやは言った。以前にも増して楽しそうに笑んでいる、と思うのは私の気のせいかしら?

「今日はまた、いちだんと素晴らしい朝でございますよ。露をおいたバラの匂いがおわかりでしょうか? 朝日が昇りきるのさえ待ちきれぬといった風情で花開こうというのですよ」

 妙にうきうきと、まだ半分横になったままの私の髪に櫛を入れようとする。洗いざらしで眠ってしまったため、もつれてすごいことになっていた。

「ささ、(はよ)うお仕度いたしませんと。ばあやはシャンドラさまが、武芸に()けてはいても女子(おなご)らしい魅力に欠けるお嬢さまだなどとクロセットさまに思われなさるなど我慢なりませんからね」


 クロセット、ですって!


 その名は私にとって、いとも耐えがたき現実にほかならないわ。深いふかい眠りのうちに忘れ去ってしまいたいことだと思ってしまうもの以外のなにものでもない。だからこそ、ぐずぐずと起きるのを渋っていたというのに。

 いつもの私ならば、現実逃避なんていう甘えの道は敬遠してしかるべきなのだけれど、今朝だけはべつ。いっそこの世の終わりまでも眠っていたい気分。

 ただ、不思議なことにクロセットを憎いとは思わなかった。変ね。この私に、生涯で最大の屈辱を与えた相手を憎まないなんて。

 でも実際に私の心の中を占め、現実を認めまいとしているのは、私自身に対する怒りと自責の念と……そして多分、哀しみ。

「さぞやお(なか)がおすきでしょうに。おとついから何も召し上がっていないんですからねぇ。今朝の御膳はいかがいたしましょう?」

 よどみなく丁寧に、だがしっかりと側頭部の髪を編み込みながら、ばあやはやさしく訊いた。

「いらないわ」

 そう言われてみるとここしばらく飲食した覚えはないんだけど、何かを口に入れたいって気も起きないわ。自分がひどく空っぽなのはわかるんだけど、それは食べものによって満たされる種類のものではないの。

 フォーチュン家の娘として生まれて、物心ついたときから今まで……正確にいうと一昨日の夜まで、私の中にあった大切なものが失われてしまった空虚さと、哀しみと、絶望とそして、そのような仕儀をまねいてしまった自分の未熟さが、ただくやしい。それらが、よってたかって、私をむなしくさせているのだ。

「お食べにならないと、お身体がもちませんよ。もしやこのまま病の床におつきになるのではないかと奥方さまも心配なさっておいでです」

「やまい……病気ですって? なれるものならば、なりたいものだわ。そうすればずっとこのまま、あたたかで何の憂いもない寝室にひきこもっていられるんだわ」

 私の傍でかいがいしく世話をやいてくれているのがばあやだけなので、つい弱音をはいてしまった。少し多めに垂らした(びん)の巻毛を整えながら、ばあやが珍しいものでも見るような目を私に向けているのに気づき、さらに言った。

「そう思わない? 始終やみついている陰気くさい女なんて、いくら地方領主(大公)の娘だからってどんな馬のほねだってもらってやろうなんて思うわけないでしょうに」


「シャンドラ!」


 とたんに鋭い声がとんできて、私は驚きのあまり言葉を失ってしまった。なんとなればその声は、私の母さまのものだったから。

「奥方、さま……」

 ばあやですら、一瞬あっけにとられたほどよ。

 母さまがいらした衣ずれにさえ気づかなかったなんて、私も相当の無神経になったものだ。それに母さまのあの叱責。母さまがあんな声をお出しになるなんて、思いもしなかった。

 だけど、私が口をつぐむとすぐに母さまはやさしく微笑んでおっしゃった。

「きれいに仕上がったこと。本当にばあやは髪を結うのが上手ね。青花と黄金細工で飾るのが、シャンドラには似合いそうだわ」

「おおせのように、すぐにご用意いたしましょう」

 いと優雅に母さまにお辞儀してばあやは行ってしまった。

「母さま……」

 私の声の震えなどには気づかぬふうをして、母さまはおっとりと、それでいて容赦なく私を寝床から追い立ててくださったわ。

「さあ、いつまでも夜具にもぐりこんでいては、せっかくの髪がくずれてしまいますよ」

 ただ一言で、私をたしなめてしまったことなどまるで嘘のように、母さまの口調はおだやかだった。

「身じまいを終えてお食事なさいな。あなたは丸一日と少し、眠っていたのですからね。食欲がないなどとは言わせませんよ。どうしてもいやなのならば、せめて薄仕立のスープを少しお飲みなさい」

 このとてもやさしい命令には、従わざるをえなかった。

 とりあえずお腹にものが入っただけで、あれほど絶望のドン底に沈み込んでいると感じた心が、少し軽くなったように思えるなんて不思議。でも、それよりもっと不思議なのはばあや以外の召使いがひとりも姿を見せず、折り紙つきの“お姫さま育ち”をなさった母さま──何といっても王女であらせられたのだから──がばあやと一緒になって私の身仕度を手伝ったことだった。

「シャンドラはまるで(いにしえ)の……伝説の王国レムリアの乙女たちのように細い腰をしていること。矯正着なしで衣装がぴったりだわね」

 髪飾りの青花とおそろいで、私の目とも同色の青の衣を母さまは選んでくださった。

「よく鍛えられただけあって、とても引き締まったお身体でいらっしゃいますよ」

 かがみこんでスカートの襞を整えながらばあやがうなずく。

 何かしら、いまさらのように“お姫さま扱い”をされているという気がしてきて、私はまた現実について考え出してしまった。

「母さま?」

 やや迷ったものの、口を開くと言葉はさらりと出てしまう。

「なあに」

 まるで癖のように私の両鬢の巻きを指で押さえながら母さまは私を見つめた。

「母さまは私を、恥ずかしいとお思いなのですか? それゆえに召使いもお呼びにならず、その目に触れさせず、そのくせこのように私のことを婦女子として扱われるのでしょうか」

「あなたは自分のことを、恥ずかしいと思っているのですか」

「思って……います」

「心に恥じるような、悔いが残るような戦いしか、しなかったというのですね?」

 やんわりとした母さまの口調が、却っておそろしく感じられたけれど、私はいつわらざるところを告げた。

「いいえ! 私は己のすべてをかけて、全力を出しきって戦いました。そのことについて、悔やんではいません。私が恥ずかしいのは……自分の未熟さゆえにお父さまに、このフォーチュンの家名に、敗北という不名誉を与えてしまったということです。そして」

「そして? どこの馬のほねともわからぬ傭兵あがりの男をやがては夫としてむかえねばならないことが、恥ずかしい?」

「たとえそれが傭兵であれ、地方領主(大公)であれ、日王さま(国王陛下)であったとしてでも、私にしてみれば男などというものはすべからくみな馬のほねと呼ぶべし、です。その身分や地位で人をはかろうとは思いません。しかし、宣礼(せんれい)の式で敗れ、フォーチュン家の娘として己の旗を引き継げなかったことだけが、残念でなりません!」

 とうとう、口に出してしまった!

 よりにもよって宣礼で、ディスデマール=クロセットに負けを喫したことを認めてしまった。


「そう。一生涯ただ一度の宣礼に、負けてしまったことがあなたはくやしいのですね」


 海に沈んだ王国レムリアの末裔がこの“大陸(ドヴィーパ)”と呼ばれる地にレムール王国を築いて一千年……爾来、王家はもとより地方領主となった大公家や旧家の娘が成人すると宣礼の式をして娘の成長ぶりを披露し、あわせて武芸大会を催してその優勝者を娘婿としてきたことは大いなる慣習といえることだわ。最終的に娘と優勝者を競わせ、娘が勝利した場合には選婿権を与えることは公正であることだし。

 物心ついたころから私は宣礼式を勝ち抜き、選婿権と共に父さまの……フォーチュンの黒染めの紋章旗を授かり、女大公として家名を引き継ぐことだけを考えて、生きてきた。年頃の姫が心おどらせるドレスや宝石よりも、ただ己を鍛え、武芸に秀でることだけにあけくれていた。

 母さまの今の口ぶりは、そんな私の生き方をまるで……あざわらっているかのように冷たく、しかし、やさしさに満ちあふれたものであった。

「何故、勝ち負けにこだわっているの? 戦うことだけがあなたの人生のすべてではないでしょう。あなたのすべてをかけた戦いではあったかもしれないけれど……宣礼で負けた娘をそしる者など、このレムール王国にはいませんよ。あなたの態度はひとりの姫として、フォーチュン大公家の娘として、立派だったのですから」

「立派……? 私が立派だったと、お思いになるのですか母さま?」

 私は思わずそう尋ねてしまった。ならば何故、母さまは私の生き方に批判的な様子をおみせになるの?

 そんな私の胸中に応えるかのように、母さまは、うっとりと見とれてしまうほどの微笑を浮かべておっしゃった。

「シャンドラ=リム・フォーチュン、宣礼の武芸大会に第一戦から参加する姫君が、今の王国にいったい何人いると思って? しかもそれを何戦も勝ち抜き、たったひとりの相手と三日間戦い続けた姫など、わたくしは名を聞いたこともありませんよ。あなたは己自身が体得した武術のつたなさのゆえに負けたのではなく、その資質が女性であったがために敗れたのです」

 今、目の前で話しているのは母さまであって母さまではない方だ、と私は感じた。フォーチュン大公妃であってさにあらず、神々(こうごう)しいほどの威厳に満ちた今の母さまには“王女ミーナークシー”という呼び名こそが似つかわしい。

「しかし、尊師さまは体力を補ってなおあまりある闘気をみなぎらせたならば、男女の体力差など問題ではなくなると」

「力だけにおいてあなたにまさっている者を相手にするときならば、師の教えは理にかなうでしょう。しかし技術がともに等しく気力も同等、ただ力において歴然たる差があったならば、どうなります? 同じ土、同じ火で焼かれた器でも、大きさが異なれば容れる水の量は違いますよ」

「私の、人としての器量が小さかったから、大人物たるクロセットに敗れたとおっしゃるのですか」

 さすがにこれは失言だったと、すぐに私は後悔したのだが、母さまはとたんに悲しいお顔になってしまった。

「お(ひい)さま」

 ばあやまでもが有無をいわさぬ調子でやりはじめる。

「お負けになったことを屈辱と思しめされるのはシャンドラさまの勝手でございますがね、何故そうも卑屈になられるのです。お姫さまらしくもない」

 あまりの迫力に“姫”呼ばわりをとがめる気さえしない。

「私らしくない、ですって? 当然のことだわ。負けを負けと認めるからこそ、宣礼での勝利を前提として生きてきた私にはこの敗北の後をどうすればいいのかわからない。そんな私が以前の私と同じであろうはずがないわ!」

 心の内を吐露していくにつれ、自分で自分が情けなくなってくる。

 たとえひとりで百人の敵に立ち向かうとしても、けっして退かないだけの勇気は、おそらく今でもあるのだろう。しかし逆に、後に再び挑むために退くほうの勇気が、私にはない。今までの私の人生観に、それは必要ないものだったから。

「シャンドラ……」

 ややあって、母さまはおっしゃった。

「あなたが本当に宣礼式での敗北を認め、それでもまだフォーチュンの娘としての生き方を変えようがないくらい混乱しているというのならば……あなたにひとつだけ、希望をあげましょう」

「希望?」

 それではやはり、母さまも私が絶望していると思っていらっしゃるのね。

「もし仮にあなたが宣礼を勝ち抜き、選婿権を手に入れたとして、あなたはどのような殿方を夫として選びますか? 女大公としての立場上、武術のたしなみさえ知らぬような方を選ぶほかはないとしたら? 気をおちつけて、よく考えてごらんなさい」

 夫を、選ぶ……?

 女大公としての立場から?

 そんなこと、考えてもみなかったことだ。私はまだ十六歳になったばかりで、結婚なぞ、二十歳を過ぎてからか、あるいはいっそしないほうがいいとすら思っていたことだもの。だけど私に兄弟姉妹はいないし……世取りを残せなければ、本当にフォーチュンの名を継いだとはいえないことなのだわ。

 それならば……。

 いくら腕がたつとはいえ、父さまの私兵の中から選んでは彼らに迷惑というものね。彼らの中に私が恋する人でもいてくれたなら、いくらか望みも持てるけれど、私にとって彼らはそういう対象ではないもの。幼いころから私に剣を教え、ともに競ってくれた仲間以外のなにものでもない。

 だから、彼らのほうでも私に礼をつくして武芸大会には参加しなかった。誰ひとりとして。

 傭主としてフォーチュン家は破格だから、いまさら他家からの引き抜きを望む者などいるはずもないけれど、公の場で自分の腕を売るには名のある家の宣礼はまたとない機会なのに。彼らは、家によっては自分のところの私兵を参加させて勝負を操作することすらまかり通ってしまっている宣礼に一回戦から出場しようという私の、ひいてはフォーチュン家の、顔を立ててくれたのだ。腕といい、侠気といい、我が家の私兵は最高だと私は思う。だが、それと婿問題とは別ものだ。それにだいいち、二日もすれば彼らのほうで女大公の夫なぞ、やっていられなくなるに違いない。

 父祖代々、フォーチュン家に仕えてきた郎党にしても、私と年の近い者たちには期待できそうにない。皆、子供のころからさんざっぱら惨敗の憂き目をこうむったくせに、長じてからもせっかくの体力差を技術の補いとするまでに至っていないやつばらなぞ、いくら忠誠心が強くてもとうてい夫とできる器ではないもの。ある程度、年が離れている者たちならば、力ばかりではなくその思慮分別に妥協点を見いだせそうだけれど、そこまでいくとほとんどの者が妻帯している。

 私はもちろん、フォーチュンの者は皆、他の大公家の子息を婿にとろうなどというつもりはなかったから、近隣の二、三家の御曹子が参加してくれたのもご近所のよしみ、義理というやつくらいにしか思ってなかったし。彼らがうちの婿がねなどというタマではないことなど何年も前からわかりきっていたことでもあり、私自身レムール王国一の美女とたたえられた王女ミーナークシーの娘として生まれながら尚武の家系であるフォーチュンの血のほうが濃いらしく、気がついたときには“フォーチュン大公のじゃじゃ馬娘”と陰口されていたから、じゃじゃ馬ならしをしようなんて奇特な家門があったとは思えない。だから政略結婚以外でご近所から婿を選ぶ必要(りゆう)はないことになる。

 そうすると、いちばん理想的なのは父さまの()()()であるアルジナおじ上の息子たちで、武芸の冴えといい、人となりといい、及第ものではあるけれど、いかんせん一回り以上も年が違う。ただ、彼らは三十四歳の長男カルスをはじめとして次男アペリオル、三男マッツラと三人そろって独身で、私の()()()ではなく()()()だという点で周囲は有望視していたらしい。昔から兄妹みたいに接してきただけあって気心も知れているから、べつに私も彼らは嫌いじゃないし……。

 宣礼の武芸大会が順調に進んでいたら、決勝かそれに近いところで私とぶつかり、もしも私の体力がもたなかったならば、あるいは三兄弟のうちの誰かがフォーチュン大公となる運命に出会えたのかもしれない。そう、私が、四回戦目で、ディスデマール=クロセットと出会わなかったならば。

 考えが再びクロセットのことに及び、私は思わず唇をかみしめてしまった。

「……選婿権を得たところで、あなたに選択できるだけの人物は限られてしまっているということがわかりましたね。ならば、まったく未知の第三者とめぐりあえた偶然という名の幸運……あるいは奇跡的なまでの天の配剤に感謝しなければならないということも、わかりますね?」

「それが、希望?」

 そう言った私はきっと物足りない表情(かお)をしていたのだと思う。母さまはかすかに笑ったもの。

「それだけでは不服ですか」

 まるで、わかっているはずなのに言葉に出して言わなくては気づかないなんて(ねんね)ちゃんね、と揶揄しているようで、母さまは楽しそうに言を継ぐ。

「ではもうひとつ。まだ恋することすら知らない女剣士さんに、素敵な現実を」

 希望の次に現実? それに、恋することすら知らない女剣士って……つまり、私のこと?

「ディスデマール=クロセットは傭兵を生業(なりわい)として生きる人です。これは自明のことね」

 とまどう私にはおかまいなしよ、母さまは。そのくすくす笑いがあんまり嬉しそうなので、質問は後まわしにすることにした。

「となれば、彼が武芸大会に出場した目的はフォーチュン家か、列席した名家にその腕前を売るためだけであって、あなたの夫になろうという野心などは微塵もなかったのでしょうね。それなのに彼はあなたと刃を交え、全身全霊をかけて戦った。それは何故かしら?」

 確かに、フォーチュン家の婿になるつもりがなければ傭兵としての腕を見せるために参加した者が私と戦う必要などない。見る目のある人には、クロセットが剣士としては最高の部類に属することなど、一戦のみでわかるのだから。

 本来ならば……クロセットが一私兵としてのたつきを得るつもりだけならば、彼は私とあたる前に棄権するか、わざと負けただろう。だがクロセットはそれをしなかった。それが彼の性分だとか剣士としての私への儀礼だと考えることはたやすい。しかし、クロセットは傭兵である。()()は無益な戦いなどしない。しかもあれは、宣礼式での武芸大会だったのだ!

 だんだんと頰が火照ってくるのが感じられた。

「素敵な現実に気がついて? 女剣士さん」


 何が素敵……なんって現実なの!


 思わずめまいがしたわ。こともあろうに! ディスデマール=クロセットはあの一戦で私に求婚したことになるんだわっ。そして私はそれを断りきれなかったということになる!

「どうして!」

「どうして……?」

 母さまは不思議そうに私を見つめた。微笑みながら。

「……わたくしも同じように尋ねたものよ。昔……宣礼の後で、あなたのお父さまに。そうしたら逆に訊かれてしまったわ。恋をするのに理由がいるのか、と」

 私は笑ってしまった。いかにもお父さまらしい。

 偉大で、聡明で、勇敢なフォーチュン大公スンダレーシュヴァラ。王女であった母さまを見初めた父さまは、母さまの宣礼で武芸大会に出場し、パンジャブの若い王やランカーの王子、名だたる勇士をことごとく撃ち破って母さまを勝ち取り、母さまの心までつかんでしまわれたのだ。

「だからあなたが今、どうして、というのならば、ディスデマールのかわりにわたくしがあなたに尋ねます。あなたに恋したことに理由が必要ですか、シャンドラ=リム・フォーチュン?」

「母さま?」

「いいえ、わたくしはディスデマールよ。お答えくださいな、シャンドラ」

 それがまったくの他人事ならば、恋をすることに理由などいらないと私は答える。でも自分のこととなると、即答するには一瞬、考えてしまう。そして沈黙してしまうの。

「沈黙があなたのお答えですかシャンドラ」

 そのまま黙りこくっていると、母さまはまた元通り私の母さまに戻り、いたずらっぽくつぶやいた。

「かわいそうなディスデマール」

 

()()()()()()()?」

 

 今、気づいたわ。母さまはクロセットのことを親しそうにディスデマールと呼んでいらっしゃる! ばあやなんてクロセット()()って呼んでいたわ。どういうこと? 皆、私が何も知らないうちにやつをフォーチュン家の婿として遇しているの?

 それは確かにクロセットは私に勝ち、その資格を得た。だけど、こうもあからさまだなんて、何だかかなしい。

「あなたはずっと眠っていて知らないでしょうけれど、わたくしたちは昨日、昼と夜の食事を共にしたのです」

 私の心の中なんて全部お見通しなのだ母さまは。私を見つめるまなざしも微笑みも、やさしくて、あたたかくて、依怙地に心を凝り固まらせることの愚かさをじんわりと溶かしていくみたい。

「お話も少し、しました」

 私は、私たちは、三日間闘技場で顔をあわせながら一言も言葉を交わさなかった。私は知らない。やがては夫となるであろう男が、どんな声で、どんな調子で話すのか。何を思い何を考え、そして、何を行うつもりなのかも。

「シャンドラ」

 凛然とした母さまの声音に私は体を固くした。

 私が心の奥底では知りたいと思いながらも知りたくないと(かたく)なに心を閉ざしていた事実を、とうとう口になさるという予感がした。威儀を正した母さまは、あたかも女神(デーヴィー)が神託を下されるかのようにおごそかにおっしゃった。

「お父さまは、喜んでいらっしゃいます。ディスデマールは、きっとあなたの()き夫となるでしょう」

「喜んで、いらっしゃる?」

 何故……? 私はディスデマール=クロセットに負けて、武名高いフォーチュン家に敗北という黒星を落としてしまったのに。

「確かに、宣礼であなたが敗れてしまったことは残念にお思いでしょうが、それによってフォーチュンの家名が傷ついたとは考えていらっしゃらないわ。それよりもあなたの……あなたとディスデマールの戦いぶりに満足しておいでなのよ。そして、あなたゆえにディスデマール=クロセットという人間がフォーチュン家に顕現するということも」

「母さま! それでは、私は勇者に負けるために剣をとる手弱女に……強い血を家系に取り入れるためだけに生きてきた姫に、すぎないのでしょうか」

 もしそうならば、物心ついてからずっと私がやってきたことのすべては無にかえってしまうことになる。

「それは世の中の姫君に対する偏見(さべつ)ではなくて、シャンドラ? わたくしも宣礼で敗れてあなたのお父さまの妻となったのですよ?」

「あ……」

 思わず赤面した。つまらないことを言ってしまった。でも母さまは怒らずにやさしい微笑みをくださった。

「シャンドラ……かわいいわたくしのおばかさん。あなたがそんなことを考えているのならば、さらにひとつ、あなたに救いをあげましょう」

 希望に現実に、救い……それらが私をして、フォーチュンの娘として再び生きるしるべとなってくれるというのですか、母さま?

「すくい?」

「そう。救い、です。シャンドラ、何故宣礼の式では剣をふるう術すら知らぬ……重い剣を支えるのさえやっとという姫君にまで、優勝者と競わせるのか知っていますか」

「いいえ」

 言われてみれば不思議な気もするけれど、慣習だとしか思ってなかった。

「あなたが剣を抜き、それをふるうのはどのようなときかしら。そしてそれは何故?」

 この質問は、わかるわ。答えることは可能。

「敵と対応したときです。敵を倒すために私は剣を抜き、戦います」

「それは宣礼でも同じですね。選婿権を得る(敵を倒す)ために、姫君には剣と、勝者()と戦う機会とが与えられる。選婿権が欲しいならば姫はその戦いを勝利すればいいし、それができなければ相手を夫とするしかありませんね。しかし姫君にはもうひとつだけ、とることのできる道があるのですよ」

 まさか……!

「相手を倒すことも夫とすることもできないならば、姫は、与えられた刃に我と我が身をさらす道を選べばよいのです。選婿権があろうとなかろうと、決定権を握っているのはわたくしたち女性なのですよ」

「それが、救い?」

「あなたは己の剣に身を投げはしなかった……救いとするかしないかはあなたしだい、でしょう。だけどシャンドラ=リム・フォーチュン、これだけは肝に銘じておきなさい。最終的にディスデマール=クロセットを夫と認めるのは、宣礼の慣習でもお父さまでもなく、あなただということを」

「けれども母さま、それならばクロセットにも私を選ぶ権利があります」

「シャンドラ。かしこいおばかさんね」

 巻毛のかわりに母さまは私の耳を軽く引っぱった。

「彼はあなたを選んだからこそ求婚者となったのでしょう? それを忘れてはいけませんよ」

 それから、母さまはまた私の巻毛を指で整えてくださった。

「さ、父さまにご挨拶しておいでなさい。娘の寝間に入ってこられないお立場の大公さまは、あなたの顔を見られず、ひどく心配なさっておいでのご様子よ」

「お父さまが?」

 ばあやまで、にこにこ顔でうけあったわ。

「ええ。表面上は好意的にクロセットさまと接しておいでですが、お嬢さまがいつまでもお出ましにならなきゃ、逆うらみでいつかはクロセットさまに毒を盛られるんじゃないかって感じですよ」

「また、ばあやはお口の悪いこと」

 やんわりとたしなめていながら、そのまま母さまはいと優雅に楽しげに笑われたわ。それがひとしきりおちつくまで待つのももどかしく、私は訊いていた。

「それで、お父さまは今どちらに? 居間?」

「いいえ。今朝は早くから役所へおいでよ」

「ありがとう、母さま」

 私はそっと母さまを抱きしめ、頰をあわせた。きつく抱いたら、たおやかな母さまはのびてしまうもの。だから、すべての想いは言葉にこめるの。

「ありがとう」

 たった一言。でもそれが言えるようになったのは母さまのおかげだわ。

 抱擁をとくと母さまは嬉しそうに私を見つめてくれた。

 ばあやがはっとしたように私を見る。

 私も、微笑んでいた。

 そして、月王さま(王后陛下)にする最敬礼を母さまにして、寝間を後にした。




 今日という日ほど、館から役所へ渡る回廊が長いと感じられたことはないわ。すぐ隣に建っているというのに!

 それは、まあ、久々にドレスなぞ着て、裾をからげて走っているせいもあるかもしれない。いわゆる“姫装束”というものは、私は冠婚葬祭時以外には着ないもの。

 息が切れる前に何とか役所にたどりつき、私は走るのをやめた。父さまは多分、執務室においでのはずだから、ゆっくり歩いていけば呼吸も整う。

 まだ役人たちが出てくる刻限には早く、廊下やホールには人影ひとつ見あたらなかった。

 ひっそりと静まり返る中をゆくと、私の衣ずれがいやに耳につく。おちついて歩いているつもりなのに、なんてあわただしいのかしら。

 立ち止まって深呼吸。それからは、衣ずれもそれほど騒がなくなった。

 再び足を止めたのは目指す執務室の手前。明り取りを大きくとった待合室にさしかかったときだった。廊下から扉のない(かまち)を越えてふと目を上げると、作りつけの書架の前にたたずむ人影に気づいたのだ。

 上背のあるがっしりとした体は半ば肩布に覆われていたけれど、仕立の良い詰襟の軍装の襟元までかかる暗褐色の髪の流れには見覚えがある。ゆるやかに波うつ髪……顔かたちは母さまに似たけれど、髪の質は母さまの癖のないものではなく父さまに似たのだ、私は。

「お父さま……」

 後ろ姿に向けて静かに呼びかけると、熱心に書を読みふけっていたその人は振り返って私を見た。

「あなた、だれ?」

 そのひとは私の父さまではなかった。

 後ろ姿はよく似ているのに、顔立ちも感じもまるで違う。まだ若い男で……美髯公というのが父さまの異名でもあるのに、この男はひげなどたくわえてはいなかった。はしばみ色の鋭い目に、とまどいと驚きの表情(いろ)を浮かべて反問する。

「シャンドラ姫、か?」

 そのまなざしにこそ、見覚えてしかるべきであった。

 驚きはやがて喜び(?)へと変わっていくのだ。今も、そして……闘技場で相見(あいまみ)えたあのときも。

 “姫”呼ばわりされてやっと気づくとは私もたいがい鈍感だわ。この男が、ディスデマール=クロセットなんじゃないの!

 外見は闘技場に現れたときと変わっている(それはお互いさま、か)。

 頰といわず顎といわず、伸ばし放題だった不精ひげをすべて剃りおとし、芥にまみれていた衣をあらためている。満場の喝采を浴びて私の前にうっそりと立っていた男はまるで小山のように感じられたけれど、こうして屋内で見ると背ばかり高くて、どちらかというと細身だ。一回りどころか二回りは年かさだと思っていたのに……私より五歳年長といえるかどうかってところよ。

 だけど、うるさいくらいに顔にかかる前髪の向こうの両眼は、油断ならない光を相も変わらずたたえていた。

 名のりあうまでもなく互いにそれと見知ったわけだから、私は黙って歩を運んでクロセットの正面に立った。

 多分、私の顔は緊張のあまりひきつっていたのだと思う。それを、何をどう思い違ったのかクロセットはいきなり詫びだした。

「すまない姫、俺は……」

 一度ならず二度までも“姫”呼ばわりするとは何てやつ。キッとにらみつけると、とりあえずクロセットは口をつぐんだ。

「私……“姫”と呼ばれるのは嫌いよ。まるで自分が無能で着飾るだけの、木偶(でく)人形になったみたいに感じるのだもの」

 べつにこんなことまで話すつもりじゃなかったのに……今度“姫”呼ばわりしたらひっぱたいてやるって言うつもりだったのに。私、気がついたらそんな話をしていた。

 さもおかしそうにクロセットは笑った。

「それは、世間一般の姫君への偏見だな。シャンドラ、どの」

 一瞬言いよどんだだけでクロセットは私の呼称を変えた。結構。頭は使えるようだ。

「ええ、そうね」

 私もつられて笑ってしまった。笑うとクロセットはまるで少年(こども)みたいにやんちゃな感じがした。よく見ると、目鼻立ちは存外、整っている。

 笑いながらクロセットのほうも、私を観察していたに違いない。ふと笑いが途切れ、私たちは沈黙したまま見つめあってしまった。不自然に視線をはずすのもどうかと思い、そのままでいたら、ややあってクロセットは言った。

「……シャンドラどのにはすまないことをしたと思っている。俺のせいで、晴れの宣礼に黒星を、つけさせてしまった」

 あたかも自分以外で私を破る男なぞいないという口ぶりだと冷かしてやろうかと思ったけれど、かろうじて私は沈黙を守り通した。

「見てのとおり、俺は傭兵だ。シャンドラどのの宣礼大会にも仕官のために参加した。だが……第一戦目のシャンドラどのの戦いぶりを見て、女性も大会に参加できるのかと傍の男に尋ねたら、あれがフォーチュン家のシャンドラ。泣く子も黙る鬼姫だ、と教えられた。二戦目で、どうやらあまり(シャンドラどのと)勝ち進めない(早くあたる)ほうのクジを引いたと後悔し、三回戦で早く負けなければシャンドラどのとあたってしまうと焦った。そして第四戦でシャンドラどのと刃を合わせて俺は……あなたに勝ちたいと思った」

 まるで、恋の告白を聞いているような気分だ。

 いいえ。まるで、ではなく、まぎれもないこれは恋の告白なのだ。いささか……かなりぎこちなく、武骨でさえあるけれど。これがディスデマール=クロセットという人間なのだと思うと、何だか頬がゆるんでくる。

 深みのある声が淡々と語る。

「しかしあなたを勝ち取りたいと思う反面、あのままずっとシャンドラどのと競いあっていたいという気持ちもあった。三日目の夕刻になり、仲裁役をあなたが追い払ってくれたときの嬉しさが、わかるだろうか」

 ふつう、宣礼の武芸大会は日没になると翌日に順延される。初日の午後遅くに私はクロセットとの試合を始め、先手必勝とばかり斬りこんだけれど、二、三合でひいてしまった。それからにらみあったままでいるうちに陽がおちて仲裁に入られて……。

 二日目は午前に五度、午後に三度、斬り結んだだけで仲裁された。斬り結びの合間も闘気をみなぎらせてのにらみあいでかなり消耗していたから、私は三日目の夕刻で腹をくくった。つまり、仲裁に入ってきた立会人のひとり、エローラ大公を目顔で押し留めてそのまま勝負に出た。

 かがり火をたいた中を真夜中すぎまで撃ち合って……。

「私はただ、仲裁がわずらわしかっただけだわ。あまり日を長びかせては私のほうは分が悪くなるばかりだから、早いうちに決着をつけたかった。だから陽がおちてからも戦いをやめなかったのよ。けれどそれは私の誤算だったのかもしれない」

 何だか照れくさくなって、私はつっけんどんに言った。クロセットはそんなことに頓着せず、ただ相好をくずした。

「それはいえる。あそこでまた一晩休んでいたら、翌日は俺が負けていたかもしれぬからな」

「まさか」

 謙遜する必要なんてないと言いかけたのをまた私はのみこんでしまった。どうして? (ひが)みぐちをたたきかけると、自然と言葉が途切れてしまう。

「いや、これは本当のことだ」

 真顔に戻ってクロセットは言った。

「俺は今まで、女性と刃を交えたことなどなかった。これでも腕に覚えはあると自負しておるゆえ、よほどの猛者(つわもの)を相手としないかぎりは苦戦を強いられることなどないと思っていたのだが……よもや、俺と対等に渡り合える女性がいようとは、思いもしなかった」

 一歩間違えれば、これは女性蔑視ととれる発言だわ。だけど、人間がわかってくると、彼がけっしてそのような意図をもってかく言ったわけではないことが理解できるの。

「俺は驚き……やがて戦いの中でその驚きは大いなる喜びへと変わっていった。それは俺にとって、好敵手たる人間と出会えたことへの喜びであり、その相手が女性、しかも若く美しく、立派な剣士であるというこの上ないものだった。俺はただ……そんなあなたを勝ち取りたかっただけなのだ。それによってシャンドラどのの名誉を傷つけてしまったことは、申しわけなく思う」

「何故、私の名誉が傷ついたと思うの?」

「シャンドラどのは、俺と同じく武をもって生きる種の人間とみた。いかに言葉を飾ったところで敗北は敗北ゆえ」

 なんて私と似たものの考え方をするのだろうと思うと、とたんに可笑しくなった。母さまが私のことをやさしく“おばかさん”とお呼びになった気持ちがわかるような気がする。

「それでも、私たちのうちどちらかが敗北しなければ宣礼は終わらなかった。私はあなたに敗れはしたものの、無様な負け方だけはしなかったと思ってる。それが私の誇りよ、ディスデマール=クロセット」

 ああ、偉大なる私のお母さま。あなたのおかげで私はこうして顔を上げて、何ら心に恥じることなくクロセットを見つめることができました。

「立派だ、シャンドラどの」

 まるで怒っているみたいに表情を険しくしてクロセットは言った。

「それでこそ、俺が……いや、フォーチュンの娘の名に恥じぬふるまいだ」

 おそらく、クロセットは本当にそう思ってくれているのだろう。だが……いかんせんそう言う目つきが尋常でない。何だか剣呑な輝きを秘めていて、こわいくらいなのだ。

「シャンドラどの」

 ぎくしゃくとした動きで私のほうに腕が伸びると同時に何かが落ちた。読んでいた本を持っていたのを、失念していたらしい。

「何を読んでいたの?」

 かがみこんで本を拾うことによって私は何とかクロセットから視線をはずした。あのままずっと見つめあっていることが、そらおそろしいような気がしたのだ。

 クロセットはそっと息をつくと目を閉じて窓枠に腰掛けた。何やらぶしゃぶしゃつぶやいているようだが、聞きとれやしない。

 手近なベンチに座ってから私は本の表紙を見た。

「フォーチュン家の叙事録……」

 ちょっとムッときたわ。今からこんな本を読むだなんて、用意周到というか厚かましいというか……。

 するとそんな私の思いを察知したらしく、ニヤリと笑ってクロセットは言った。

「中におもしろい預言があった。

 ドゥルガーが平らげ、チャンディーが勝ち取り、

 そして私──カーリーが破壊する  」

 私が少なからず感情を害したことなど気にかけるつもりはないというのね。だけどそのことで目くじら立てたいとは思わなかった。

「……私、幼いころはどうしてその三人にちなんだ名をつけてもらえなかったのかとうらめしく思ったものよ。あきらかにそれは女の子の名前だし、尚武のフォーチュン家の娘にこれほど似つかわしい名はないんですもの」

「だが常識的にこんな大それた預言の名など、娘につける親はいないと思うが」

 私はちょっとだけ笑って言った。

「そうね。長じて預言の持つ深い意味がわかるようになると私もそう考えるようになった。けれど、だからこそ、それはフォーチュン家に生まれる娘たちの名となるものだと思うの。ただそれが私ではなかっただけ……でも私は自分の名が好きよ。これが“私”なのだから」

「なるほど」

 クロセットはうなずいた。

「では、やがて娘が生まれたならば、俺がその名をつけよう。フォーチュンの娘たちにふさわしい名を」

「なっ……!」

 私は思わず叙事録をふりあげながら立ち上がった。

 臆面もなく、なんてことを言うの、この男は。

「シャンドラ」

 本を持つ私の右手首をひっつかんでクロセットは私につめよった。

 冗談、ではない。クロセットは真剣そのものであった。

「俺は、都へゆく」

「都へ?」

「そうだ。都へ上り、国王の……日王の軍に入る。傭兵ではなく軍人になるつもりだ」

 まるで私に二度と視線をそらさせまいとするかのように、クロセットは残る左手までも押さえて私を束縛してしまった。こんなことされて沈黙していては負けになる……そう思った私はとりあえず訊いた。

「なぜ?」

「あなたに……フォーチュン大公のご息女にふさわしいだけの地位を手に入れるために。アルジナどのの猶子となってあなたを娶れと人はすすめるが、それでは俺の立つ瀬がない。待っていてくれるか、シャンドラ? 俺があなたに見合うだけの功を成し名を遂げるその日まで」


 …………返事をする前に唇をふさぐのはどうかと思う。


 公正だとはいえないことだ。でも、それでやっと人心地ついたようにじっと私を見守るクロセットを見ていると、やはり憎めなかった。

 ゆっくりと、クロセットは私の手を離した。掴まれていた右手首をさすりながら私は言った。


「私は、待たないわ、ディスデマール=クロセット」


 そのとたん、クロセットの面輪には深い落胆の色が浮かび……それを見て私は勝った、と思った。きっと今、私は笑んでいる。

 私が待()ないと言った理由を訊こうともしないでクロセットはそのまま横を向いてしまいそうになった。

 今度は私のほうが、彼の視線をからめとる番よ。

「あなたが日王さま(国王陛下)の軍に入るならば、私は月王さま(王后陛下)の親衛隊に入り、功をあげてみせるわ」

「シャンドラ、どの……?」

 とまどったクロセットはまるで無防備で、不安(うたがい)と期待の入りまじった目で再び私を見つめる。せいぜい澄まし顔でそっけなく言ってやろうにも、微笑もうとがんばる口元を、私はおさえることができなかった。

「私は待()ないとは言わなかったはずよ? 待たずに、私もあなたに似つかわしいだけの地位を、手に入れるの。フォーチュン家の娘としての私ではなく、あなたと同等の、月王に仕える女兵士をあなたは妻にすることになると思うけれど……それでは不満かしら?」

 当然、ディスデマール=クロセットはそれを不満と答えたりはしなかった。




 それから数年が過ぎ……クロセットは日王の軍団長のひとりに、私は月王の親衛隊長になった。

 そして──。


 私が産んだ最初の娘に、ディスデマール=クロセット・フォーチュンは、カーリーと名づけた。





『ノンディスクリプト』

  NONDESCRIPT

     ── 了 ──







nondescript

得体の知れない;

特徴のない,漠然とした(indfefinite).

得体の知れない人[物].

               ⇒馬のほね





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