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モデルに恋して

作者: 小倉 旬

第一話 交差点


「おい、もう着くぞ。起きろ。」

先輩の平山が、肩をたたいた。

工場から出る廃液を運ぶ10トンタンクローリー車の助手席で、

亮は、眠い目をこすった。


カーオーディオのテレビでは、

朝の情報番組で、綺麗なモデルが、

今年流行の服を紹介していた。


「やっぱ、スカートは短いほうがいいよな。」

亮は、つぶやいた。

「じゃあ、今夜キャバでも行くか?」

「おごりですか?金ないっすよ。」

「残念。」


白石亮  33歳、独身。

産業廃棄物処理の会社に勤め、

タンクローリー車で、各地の工場廃液を運ぶ仕事をしている。

仕事はまじめだが、女っ気がない。

高校のとき、ずっと好きだった女の子に、9回ふられた。

卒業式の日に、10回目の告白をして、

押し切られたように、一度はOKしてくれた。


しかし、4月になって、おたがい進む道が違い、

「他に好きな人ができちゃった。」

という手紙が来た。

ゴールデンウィークの旅行の計画は、遂に実行されることはなかった。


タンクローリー車は、目的の工場に着いた。

今日は、タンクに溜まった廃液を抜く作業。

タンクの底はヘドロが溜まっていて、

それも掃除するとの依頼となっている。


「今日はヘビーだな・・・」


液が大方抜き終わった後、亮はスコップを片手にタンクの底へ入った。

底のヘドロは臭かった。

体中に匂いがしみつきそう。

ヘドロは、ところどころ固まっていて、

スコップの歯が立たなかった。

それでも、なんとか2時間程度で片付いてきた。

3月なのに、汗だくだ。


午前中で、だいたいの作業が終わった。

後は、処理工場へ戻り、タンクローリーから液を抜いてもらうだけ。

しかし、午前中で、もう1日分の仕事をした感じだった。


「おーい、今晩どうする?」

平山の声に、振り返った。

「今晩って?」

「さっき、話したじゃん。キャバだよ。」

「え?本気だったの。だって、金ないっすよ。」

「だから、おごりだよ。ちょっとさ、先週これで出たんだよ。」

平山は、パチンコの手振りをしてみせた。

「そういうことですか。じゃあ、話が違いますね。今夜は花見だ。」


6時すぎには、二人は街に出て、

居酒屋で軽く腹ごしらえ。

これからが本番とばかりに、二人は、

まだ会社帰りが行き交う夜の町を、さっそうと歩いた。


二人は、この辺では一番賑やかな歓楽街へと、

スクランブル交差点を渡ろうとしていた。

信号が青に変わり、歩き始めたとき、

一人の女性が横断歩道の向こう側から近づいてきた。

ピンクのワンピースに、薄手のコートを羽織っている。

短い裾からは、細くて形のいい足が伸びて、

大きめの歩幅で近づいてくるたびに、

まぶしく、目に飛び込んできた。

肩までの髪を揺らしながら、スレンダーな体を、

歩にあわせてくねらせた。

それは、まさにモデルのようだった。


亮が、ぶつからないようにと、体を交わそうとしたとき、

その女性が亮の腕をつかんだ。

次の瞬間、女性の唇が亮の唇に触れた。

3秒くらい続いただろうか?

「ごめんなさい。」

女性は、ひとこと言い残し、

もと来た方向に走り去っていった。

キスの後、一瞬、亮の目を見た、彼女の瞳には、

涙が浮かんでいた。

亮は、呆然と立ち尽くし、

女性が去って行った方向を見ていた。

「なんだったんだ・・・?」




第二話 まちぶせ


今日の仕事は、隣の県。

ちょっとしたドライブだった。

窓から海が見えていた。


「どうした?ぼーっとして。」

「え?ぼーっとなんか・・・」


昨夜の交差点の彼女が気になってしかたがなかった。

一体、だれなんだ?

なんであんなことを?

なんでおれなんだろう?

なんで、「ごめんなさい」なんだろう?

なんで、泣くの?

なんで?


「やめとけよ。なんかの間違いだぞ。」

「何がですか?」

「交差点の彼女だろう。顔に書いてあるよ。

 あのさ、気になりついでだが、

 あの子、テレビに出てるモデルの子じゃないか?

 なんて言ったかなあ?

 たしか、なんとかゆきえ・・・だったかな?」

「マジっすか?」

「朝のテレビにでてるだろう。はやりもの紹介するコーナー。」

「あ、そう言われれば・・・似てたかも」

「ま、仮にそうじゃないとしても、

 あんなきれいな子が、見ず知らずのおまえなんか、

 まともに相手するわけないからな。

 なんかの遊びか、頭おかしいか、どっちかだよ。」

「それくらい、分かってますよ。」

「ならいいんだが。」


今日の仕事場で、廃液を受け取り、

自分の工場に着き、タンクローリーから廃液を抜いた。

場所は遠くだったが、仕事は順調だった。

予定通りに、仕事が終わり、

今日は、先輩の平山から誘われることもなく、家路に着いた。


しかし、亮は、まだ何か気になっていた。

もしかしたら、もう一度同じところにいたら、

会えるような気がした。


ファーストフードで、軽く食べて、

例の交差点で、少し待ってみることにした。

こうして見ていると、実に様々な人がいる。

女性だけを見ていても、それぞれ個性があって、

綺麗な人もいっぱいいる。

なのに、自分には、ここんとこずーっと彼女がいない。

運命的な出会いはないんだろうか?

昨日の彼女は運命じゃないのか?


3月の夕暮れ時は、じっと立っているには少し寒かった。

もう少し、もう少し、と思いながら、

4時間が過ぎてしまった。


「来るはずないよな。」


次の日も、その次の日も、

亮は待ってみた。


小学校1年生のとき、クラスで桜の木を植えた。

初めはみんなで世話していたが、

いつの間にか、興味がなくなって、

亮だけが面倒をみるようになっていた。

結局、6年間世話をしつづけて、

今では、大きく立派な木に育っている。


小さい時から、そんなところがあった。

これと決めたら、辛抱強いほうだった。

だから、同じ女の子に10回も告白したのだろう。


土曜日は仕事休みで、まだ明るいうちから街に出た。

暗くなったら、例の交差点に行くつもりだ。


「おれって、ストーカーかな?」


駅前のデパートあたりを歩いていると、

何やら人だかりがあった。

後ろのほうからのぞいてみると、

テレビの撮影をしているらしかった。


人と人の隙間から、かすかに見えた、撮影現場。

交差点の彼女だ。

朝の情報番組の撮影の様子。

周りの人に聞くと、

ここのデパートに入ってるケーキ屋さんを取材に来てるらしい。


彼女は、一生懸命にテレビカメラの前で、

ケーキを食べて見せ、

明るい笑顔を振りまいていた。

まるで別世界だった。

自分と、彼女との距離、わずか十数メートルの間に、

厚く大きな壁があった。


「あの子とキスしたんだよな・・・」


なんだか、信じられなくなってきた。

別人ではないかと思った。

しかし、顔も背格好も、全くの同一人物だった。


亮は、むなしくなって歩きはじめた。

無理だ。

ここで、撮影現場に遭遇したことさえも奇跡だ。


商店街にあるゲームセンターで、

クレーンゲームをして、

ぬいぐるみをゲットしても、

むなしさは消えなかった。


ふらふらと、町で時間をつぶして、

しかたなく、自分のアパートへと足を向けた。


そのときだった。

やっぱり、これも偶然なのか。

大通りから1本裏手に入った路地のまんなかで、

彼女とばったり会った。


「あ!」

亮は、おもわず口に出した。

「あの、こないだの・・・」

「え?どなたでしたっけ?」


???

やっぱり別人?

それとも、忘れたのか?


「あ、思い出した!」

彼女は、さっきの笑顔にも劣らない笑顔を見せた。

その笑顔に、亮は金縛りにあったように動けなかった。

「交差点でキスした彼だ!」

「あ、はい。」

「あのときは突然失礼なことしちゃってごめんなさい。

 いろいろ事情がありまして。」

「はあ。」

「あの、今、急いでるんで。すみません。」


彼女が立ち去ろうとした次の瞬間、振りかえりざまに、

思いついたように、亮の手を引っ張った。

「ちょっと一緒に来てくれますか?」

と言ってるそばから、

すでに亮も、手を引っ張られて走っていた。




第三話 サクラサク


大通りに出ると、彼女は手を挙げてタクシーを止めた。

二人は、開いたドアに転がりこむように飛び乗った。

「どちらまで?」

「とにかく出してください。」

彼女は、運転手さんにそう答えると、

しきりに走ってきた方向を気にしていた。


「あの・・・」

「あ、そうですね。また、迷惑かけちゃってごめんなさい。」

「そんな、迷惑なんかじゃ」

亮は、一緒にいられるうれしさと、

なにがどうなってるか分からない不安が交錯していた。

まさに、予期せぬ展開だった。


「わたし、高嶺ゆきえっていいます。

 これでも、ローマ字のYUKIEで、一応モデルやってるの。」

「うん。知ってます。」

「えー、そうなんだ。うれしい!」

「朝の9チャンネルの情報番組に出てる・・・」

「そうそう。」

また、とびっきりの笑顔だ。

その笑顔が炸裂するたびに、

亮は、頭が真っ白になり、何も言えなくなってしまう。


「あなたは?」

「は?」

「あなたの名前。」

「あ、し、白石亮といいます。」

「白石亮・・・いい名前。」

「とんでもない・・・

 あの、ゆきえさんほどじゃ。」

「亮さん、お願いがあるんだけど。」

亮は、一瞬、ドキッとした。


「重ね重ね、申し訳ないんですけど、

 荷物置いてきちゃったんで、お金ないんです。

 タクシー代、貸してもらえますか?」


なんだ・・・。

それが、おれの手を引っ張った目的か。

亮は、財布の中身と料金メーターが気になりながら答えた。

「うん、いいけど・・・何かあったの?」

「わたし、逃げてきちゃったんです。」

「え?」

「テレビの撮影の後、スポンサーさんと食事の予定で、

 わたし、嫌になっちゃって。」

「どうして?」

「スポンサー会社の取締役の人がいやらしいの。

 すぐに横に来てさわってくるし。

 変なことばっかりさせられるし。」

「変なことって?」

「こないだも、食事の席で、さんざん飲まされた挙句、

 王様ゲームみたいなことやって、

 町で最初にすれ違った人にキスしろ・・・だって。」

「それで、あのときおれに・・・?」

「あ、・・・そうなの。ごめんなさい。」

「はは、すっかりよろこんでた。」

「ごめんなさい。」

「ゆきえさんが、あやまることないよ。

 おれは、うれしかったんだし。

 でも、それってセクハラだよね。」

「うん。でも、これが現実。

 スポンサーはお客様だから、何も言えない・・・。」


車は、港近くの公園に着いた。

料金を支払ったら、亮の財布はかなりピンチだったので、

近くのコンビニで、1万円おろした。


「ここまでは来れば、とりあえず大丈夫かな。

 マンションに戻ると先回りされてるから、

 亮さんさえいいなら、少し付き合ってもらえますか?」

「おれは、もちろん平気だよ。

 ボディーガードだね。」

「ありがとう。」


また、笑った。

笑うと、口元の両側に浅いえくぼができた。

こんなにキュンとくる「ありがとう」は、初めてだった。


海沿いの歩道を、二人並んで歩いた。

歩道の脇には、桜が満開に咲いていた。

真っ青な空に、淡いピンクの花びらが舞う中、

亮の横には、ゆきえの笑顔が咲いていた。

亮は、手を握りたいのを必死で我慢していた。




第四話 携帯電話


「ひ〜とみ〜を、と〜じて〜

 き〜みを〜おも〜うよ〜

 そ〜れだ〜けで〜い〜い〜・・・♪」 *1


月曜日、

まだ、朝の肌寒さの中、タンクの中から熱唱が聞こえる。

今日も、廃液タンクの底で、泥んこになりながら、

亮は、完全に舞い上がっていた。


「なあに、ずいぶん調子よさそうじゃねぇの。」

タンクの上から平山が叫んだ。

「いや、別に。」

「ま、まさか、あの子と会えたのか?」

「いや〜、別に♪」

「えー、まじかよ。どこでだよ?」


土曜日は結局、暗くなるのを待って、

マンションの近くまで送って行った。

別れ際の彼女は、亮の目に、

少し寂しそうに映った。


「大丈夫?」

「うん、もうすぐそこだから。

 今日はありがとう。」

「スポンサーの人とか、事務所の人とかは?」

「そっちは、まあ、なんとか。

 あやまるしかないし。」

「大変だね。」

「あ、そうだ。これ、あげるよ。」

亮は、ゲームセンターでゲットした、

プーさんのぬいぐるみをさしだした。

「たいしたものじゃないけど。」

「ありがとう。大切にする。」

「うん。」

「あの、お金・・・」

「いいよ。おごるよ。・・・それじゃあ。」

「あの・・・」

「なに?」

「だれでも良かったわけじゃないからね。」

「え?」

「キスしたの。

 最初にすれ違うように、

 亮さんのほうへ歩いて行ったんだから。」

「・・・ほんと?」

「おやすみ。」


別れ際の笑顔が忘れられない。

今朝のテレビでは、いつもと同じように、

YUKIEとして、笑顔を振りまいていた。

あの子がそばにいたなんて信じられなかった。


平山は、割とまじめな顔で話を聞いてくれた。

「で、携帯の番号とか聞いたのか?」

「あ・・・」


すっかり忘れていた。

亮は、こういうことに慣れてなかった。

平山はあきれた顔をした。

「ばーか。」

「そっか、携帯番号か・・・

 おれって、ばかばかばか!」

「でもな、傷が浅いうちに言っとくけど、

 無理だよ。

 お前を選んでキスしたって言っても、

 それは、キスしなきゃいけない状況だったからだろ。

 ムリムリ、やめとけ。」

「そういう問題じゃない。

 おれが、好きならそれでいいんだ!」

「じゃあ、好きにしな。」


タンクから、歌は聞こえなくなった。


もう会えないのか・・・?

亮は、仕事が終わってから、

タクシーで彼女を降ろした場所に行ってみた。

しかし、どのマンションだか分からない。


また、待ち続ける日々なのか・・・?

今度こそ、本当にストーカーだ。


そのとき、亮の携帯電話が鳴った。

未登録の番号からだ。

「もしもし」

「あ、ゆきえです。」

「え?」

「ばかやろう!」

今度は平山の声だ。

「え、今の?」

「彼女、例の交差点で待ってたんだよ。」

「おれが、偶然通りかかって声かけたら、

 お金を借りたから、返したいって。」

「そんなの、いいのに。」

「また、会えるんだから、いいじゃんか。

 とにかく、すぐに来い。」


亮は、タクシーで急いだ。

ゆきえは、交差点近くのカフェにいた。

薄いピンクのジャケットに花柄のミニスカートを履いていた。

人目を気にしてか、伊達眼鏡をしていた。

平山はもういなかった。


「すみません。わざわざ。

 お金はいいって言ったのに。」

「そんなわけには。

 返そうと思ったら、電話番号聞くの忘れちゃってて。」

「あ、おれも。

 番号聞くの忘れて、悔しがってたとこだった。」

「あはは。」

「はは・・・。」

「いい人ですね。平山さん。」

「ぶっきらぼうですけどね。強引だし。」

「探してくれてたみたいですよ。わたしのこと。」

「偶然見つけたって言ってたけど・・・そうなんだ。」


天国にいるような気分だった。

さっきまでの落胆は、すっかり忘れていた。

カフェの中の、亮とゆきえが座った席だけが、

別の空間にいるようだった。

時間が止まっているかのようだった。


「ねえ、どうしてモデルに?」

「うーん、モデルと言うか、芸能人というか、

 小さいころからの夢かな。

 小さいころ、地元のデパートにアイドル歌手が営業に来て、

 そのとき初めてアイドルを生で見て、

 すごく、輝いてた。

 いつかきっと、自分もあっちの世界に行きたいと思ったの。」

「夢か・・・」

「うん。だから、夢を実現するためなら、

 どんなことでも耐えられると思ってた。」

「思ってた?」

「うん。最近、自身なくなってきちゃった。」

「スポンサーのひととか・・・?」

「うん。世の中、理不尽なことが多すぎる。」

「そっか・・・。」


そのとき、ゆきえの顔が一瞬青ざめた。


「ねえ、出よう。」

「え?」

「事務所の人が来た。」

「まじで?」

亮が入り口を振り返ろうとすると、

「見ちゃダメ!気づかれる。」


二人は、その男が奥の席に座るのを見計らって、

出口へ向かった。

そのとき、男がこちらに気づいたようだった。

出口のドアのガラスに、

男が後ろから追ってくるのが写った。

サングラスに黒いコート。

そして、黒革の手袋。

いかにも殺し屋風のスタイルだ。


「走れ!」亮が叫んだ。

そして、力強くゆきえの手を引っ張った。



*1 瞳を閉じて/平井堅




第五話 橋本


「おれが、守るから。大丈夫、心配しないで。」

「うん。」

ゆきえは、なぜか笑顔だった。


夜のネオンの光が後方へ流れて行く。

男が、後ろから、15m、10mと迫ってくる。

身長が、190cmくらいありそう。

組み合っても勝ち目はない。

亮は、通りから細い路地へと、ゆきえを引っ張った。

道路わきに立て掛けてある、あらゆるものを倒して、

男の行く手をふさごうとした。

しかし、そのたびに、男は寸前でそれらをかわし、

速度をゆるめなかった。


「くそっ」


そんなとき、息を切らしながら、

ゆきえが叫んだ。

「亮さん!」

「え?」

「ありがとう。」

「どうしたの?こんな時に、突然。」

「亮さんに会えてよかった。・・・言っておきたくて」

「おれのほうこそ・・・」


次の瞬間、ゆきえが転んでしまった。

「ゆきえちゃん!大丈夫?」

「亮さん!」

曲がり角をこちらに折れ、男が追っかけてくる。

「亮さん、先に行って。

 もう、これ以上、迷惑かけられない。」

「なにを言ってるんだ!つかまっちゃうぞ。」

亮は、むりやり、ゆきえの腕を引っ張り上げた。

そして、また走り出した。


「くそー、ひつこいな。

 なんなんだ、あいつ!?」

「橋本。」

「橋本?」

「事務所の人」

「用心棒か?」

「違う。普通の社員。でも、運動神経はいいみたい。」

「それは、おれも知ってるよ。」


路地は、この先、大通りへとつながっていた。

大通りを渡る信号の青が点滅していた。

亮は、このタイミングで渡れば、振りきれると思った。

横断歩道へ出た瞬間、

右折車が猛スピードで突っ込んできた。

ひかれると思い、亮はゆきえを突き飛ばした。

車が急停車した。

「亮さん!」


亮は、その場にうずくまっていた。

が、すぐに起き上がり、ゆきえの方を見た。

すでに、後ろから来た橋本につかまっていた。

「ゆきえちゃん!」

「亮さん!」

そこへ、黒いBMWが来て、

橋本は、ゆきえをその中に押し込んだ。


「ゆきえちゃん!」

黒いスモークガラスの向こうで、

かすかに、こちらを向いて叫ぶ、ゆきえが見えた。

亮にははっきりと、

「亮さん!」

と叫ぶのが分かった。


そのBMWは、急加速して走り去って行った。

亮は、横断歩道の中ほどで、

車を立ち往生させ、クラクションを鳴らされながら、

小さくなっていくBMWを、呆然と目で追い続けた。



第六話 危機一髪


スコップを握る手も、力が入らなかった。

いつもの仕事で慣れてはいるが、

スコップでヘドロを掘るのは大変な作業。

特に今日は重たく感じた。


ゆきえが連れ去られて、1週間が過ぎた。

車に接触したとき、少し手を擦りむいたが、

すでに治りかけている。


朝起きて、仕事に出かけ、

アパートへ帰ったら、一人でコンビニ弁当。

仕事とアパートの往復。

ゆきえと出会う前、

あたりまえのように続いていたこの生活が、

今では苦痛に思えた。


あれから、ゆきえはテレビにも出演していない。

朝の番組のコーナーは、代役の子がやっている。

携帯電話にかけても出ない。

あの交差点で待っていても会えない。

マンションの近くで待っても、同じことだった。


今日も、亮はマンション近くの公園に来ていた。

ひとり、ジャングルジムに登って、

あてもなく、ぼんやりと、

太陽が沈んだばかりの西の空を眺めていた。


そこへ、1人の男が近づいてきた。

黒いコートに、黒いサングラス、

黒い革手袋・・・

橋本だ!


亮は身構えた。

橋本は、ジャングルジムの下まで来て、

亮の方を見た。

「おい。」

低く太い声が響いた。

「なんだよ。」

「ちょっと、降りて来い。」

なんだ?殴られるのか?

しかし、ゆきえを探すてがかりが分かるかもしれない。

亮は、ジャングルジムから降りて、

橋本から少し距離をおいて立った。


「ゆきえちゃんはどこにいる?」

「おまえに答える必要はない。」

「ゆきえちゃんを返せ。」

「それは、こっちのセリフだ。」

「なに?」

「とにかく、もうゆきえには近づくな。」

「なんでだよ。」

「お前とゆきえでは、住む世界が違う。あきらめろ。」

「おれは、あきらめない。」

「ふっ、好きにすればいい。

 しかし、こんなところで待ってても無駄だということは、

 教えといてやろう。」

「なに?」

「用事はそれだけだ。じゃあな。」

「ゆきえちゃんはどこだ!」

「・・・」


橋本は、あのときの黒いBMWに乗って去って行った。

亮は、また、BMWのテールを見送ることしかできなかった。

ゆきえは、いったいどこへ行ったのか?

はたして、無事なのか?

亮の頭に、不安の波が次々に押し寄せていた。


そのころ、ゆきえは、

都内の高層ホテルの一室にいた。

窓からは、東京の夜景が一望できた。


「いい眺めだろう。」

シャワー室の明かりから、水の音とともに、

しわがれた声が聞こえる。

ゆきえは、何も答えず、悲しげに外を眺めていた。

西の空は、すでに暗くなっていた。


シャワー室の明かりはさらに続けた。

「やっとその気になってくれたんだね。うれしいよ。」

そうしているうちに、シャワー室のすりガラスの扉が開いて、

40過ぎの、ずんぐりした男が、

バスローブの腰ひもを結びながら出てきた。


「逃げなかったんだね。

 ぼくの気持ち、受け止めてくれるんだね。」

「・・・」

「なんだよ、何とか言えよ。」

「・・・」

「おい、さっさと脱げ!

 そのつもりで来たんだろうがよ!」

男は、さっきまでの優しい声が豹変し、怒鳴りだした。

「・・・」

「どうした。このまま番組降ろされてもいいのかよ。

 おれは、スポンサーだぞ!

 ほら、さっさと脱げ!」

男は、ゆきえのブラウスをわしづかみで引っ張った。

「きゃっ。」

パラパラと、ボタンが床に落ちた。

男は手をゆるめなかった。

ゆきえは、片手で服を押さえながら抵抗するも、

あっという間に、下着姿にされてしまった。


次に男は、ブラのホックに手を伸ばし、

いとも簡単にそれをはずした。

ゆきえは、辛うじて手で押さえていた。

「もういいだろ。覚悟を決めろよ。」

男が、さらに手を伸ばし、

ブラジャーを剥ぎ取ろうとした瞬間、

ホテルのガラスが割れ、だれかが侵入してきた。

「やめろ!」

ゆきえは、顔を上げた。

背の高い、黒づくめの服・・・

そこにいたのは、橋本だった。



第七話 花びら舞い散る


「乱暴はやめろ!」

橋本は、スポンサー会社の男を突き飛ばした。

「なんだ、いきなり!

 お前、なにしてるかわかってんのか?」

「あんたのほうこそ、こんなの犯罪だろう。」

「番組はどうなってもいいんだな!」

「ああ、こんなことしてまで、

 仕事をもらう必要はない!

 そこまで、おちぶれちゃいない!」

「勝手にしろ!

 そっちの社長さんが必死に頼むから、

 話につきあったまでのこと。

 まったく、不愉快だよ。」

と、吐き捨てると、

男は、服を着て、そそくさと部屋から出て行った。


ゆきえは、呆然と、その場にうずくまっていた。

橋本は、ゆきえの肩にバスローブをかけた。

「ごめんなさい。」

ゆきえは、ふるえながら小さく言った。

「心配するな。おれがなんとかする。」

橋本は、背中を向けたまま、窓の外を見ていた。



亮は、今夜も交差点で待っていた。

「ほれ、あんちゃん、食え。」

このあたりを寝床にするホームレスと、

いつしか顔見知りになっていた。

「あ、どうも。」

ホームレスからめぐんでもらうなんて・・・

と思いながらも、

ここのところの不景気で給料も減らされていたため、

もらったコンビニ弁当を頬張った。


そのとき、携帯電話の着信。

ディスプレイには、「ゆきえちゃん」の文字。

亮は、あわてて口に入ってるものを飲み込んで、

咳きこみながら、電話に出た。


「こんにちわ。」

「ゆきえちゃん!?」

「うん。」

「今、どこにいるの?」

「あの、・・・」

「誰かにつかまってるの?」

「とりあえず、大丈夫。」

「そっか。大丈夫ならいいんだけど。」

「亮さん、明日、会える?」

「も、もちろんさ。」

「じゃあ、朝10時、港が見える公園で。」

「わかった。」


翌日は平日だったが、

亮は、かぜをひいたと、会社に連絡した。

約束より30分早く、公園に着いた。

ゆきえは、まだいなかった。

平日で、人もまばらの公園は、

少し寂しい感じがした。

天気は良かったが、風が強く、

海沿いの歩道の桜が散り始めていた。


10時を5分ほど過ぎたとき、

ゆきえが現れた。

「ひさしぶり。」

「うん。」

「あれから、どうだったの?逃げられたの?」

「うん・・・」

「今、どうしてるの?仕事とか・・・」

「あのね・・・」

「何?」

「・・・」


亮には、なんだか、ゆきえが遠くに感じられた。

「おれ、・・・」

亮は、今引き止めないと、もう会えない気がして、

思い切って切り出した。

「おれ、ゆきえちゃんが好きだ。」

「・・・」

「おれが、守ってあげたい。」

「・・・」

ゆきえの表情は晴れなかった。

あのときの笑顔はなかった。


少し経って、ゆきえは無理に笑顔をつくって言った。

「わたし、これから忙しくなるかも。」

「え?」

「これから、別の仕事が入りそうなの。」

「そうなんだ。」

「今までの仕事より、いい仕事。

 出演時間も多いし、レギュラーみたいな感じで。

 だから・・・」

「そうか。」

ゆきえが言いたいことは分かった。

要するに振られたってことだ。

「夢なの。夢が叶うの。」

「・・・おれが、そばにいてはダメなのか?」

「うん。

 世界が違うでしょ。亮さんとは。」


ゆきえの口から、その言葉が出るとは思ってなかった。

亮は、そこから言葉が出なかった。

「じゃあ。これでお別れね。

 いろいろ、ありがとう。」

そう言い残すと、ゆきえは、

公園の入り口で待っていた、黒のBMWの後部座席に乗り込み、

去って行った。


亮は、海を見ていた。

水平線に、船が小さくなって、消えて行った。

強い風に吹かれ、桜の花びらが舞った。

流れた涙も、風に吹かれて空に散って行った。



♪桜舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる

 吹き止まない春の風あのころのままで

 君が風に舞う髪掻き分けた時の淡い香り戻ってくる

 二人約束した あの頃のままで


 ヒュルリーラ ヒュルリーラ・・・


            (♪ 桜/ケツメイシ)



今までにも、同じように何度も振られてきた。

何回振られたかは覚えてない。

今の亮には、100回くらい振られたように思えた。

そう思えば、たかがその中の1回だと思える。

そう思いたかった。


BMWの中では橋本が待っていた。

「ケリはついたのか」

ゆきえは、顔を抑えたまま、

コクリとうなずいた。

ゆきえの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。



第八話 夢


「おい、もう着くぞ。起きろ。」

平山が、肩をたたいた。

工場から出る廃液を運ぶ10トンタンクローリー車の助手席で、

亮は、眠い目をこすった。


カーオーディオのテレビでは、

朝の情報番組で、新人のモデルが、

この秋、流行の服を紹介していた。


亮がゆきえに振られてから、半年近くが過ぎた。

季節はもう秋。

再び坦々とした生活に戻っていた。


「これから忙しくなるかも・・・」

と、ゆきえは言っていたが、

テレビにも雑誌にも、この半年間、

ゆきえの姿を見かけることはなかった。


「そんな、甘いもんじゃないよな。」

亮は、ときどきそんなことを思い出す。

「夢なの、夢がかなうの。」

最後にゆきえは、気丈に言って去って行った。

「夢か・・・」

おれはというと、こんなとこで何してんだろう。

毎日、変わらない生活・・・

おれの夢ってなんだろう?


小さいころは、宇宙飛行士になりたかった。

でも、初めからそんなの無理だって分かっていた。

あとは、特に覚えていない。

毎日を坦々と生きてきた気がする。

熱く燃え上がるようなことはない。

ただひたすら、坦々と。そしてコツコツと。


よく人から、根気強いと言われる。

特に、がんばってるわけではない。

人から見るとそう見えるらしい。

決して器用ではない。

口もうまくないし、社交的な方でもない。

テレビとか、モデルとか、

そういう世界とは、最も遠い人間かもしれない。


この日の仕事は楽勝だった。

午前中には廃液をタンクローリーに吸い取り完了した。

郊外のバイパスを、

平山と一緒にカーラジオを聞きながら走る。

いつもの光景だ。


「平山さん、夢ってありますか?」

「なんだよ、いきなり。」

「ふと思うんですけどね、おれの夢って何かなあとか・・・」

「そうだな。おれは、腹上死だな。」

「何言ってんですか。冗談じゃなくて・・・」

「冗談じゃないよ。ほんとだよ。

 要は満足して死ねれば、それでいいってことだよ。」

「そりゃそうだけど・・・、

 もっと目の前の、目標とか・・・

 世の中のために・・・とか。

 そもそも、なんでこの仕事やってるんですか?」

「そりゃ、メシ食うためだよ。

 社会に貢献だとか、そんなこといちいち考えてる暇ないだろ

 毎日の仕事をコツコツやってりゃ、

 それが、世の中のためになってるんだよ。

 それも、立派な夢だと思うけどな。」

「む。」

「なんだよ。」

「いや、たまにゃ、いいこと言うと思って。」

「一言余計だよ。」



テレビ番組制作会社の一室、

橋本とゆきえの、テーブルを隔てて向こう側には、

新進気鋭の若手プロデューサーの武井が腕組みをしていた。

突拍子もない番組で、最近売り出し中だ。

先日も、若手芸人を、

パンツ1枚で、渋谷の街を走らせ、

物議をかもし出した。


橋本にとっても、ゆきえにとっても賭けだった。

何をさせられるか分からない。

しかし、ここまで、雑誌でも広告でも、

いろんなところを駆け回ったが、

裏から手が回っているらしく、

いい仕事にはありつけなかった。

毎日、バイトをしながら、2人なんとか食いつないでいた。


しかし、橋本には確信があった。

「なんでもいい。ひとつ何かで話題になれば、

 必ずブレイクする。」

もともと、ルックスもスタイルもいい。

あとは、日本中が覚えてくれるインパクトさえあれば。


橋本は、思わず土下座した。

「おねがいします!どんなことでもします。

 番組で使ってください。」

ゆきえも一緒に土下座した。

「汚れ役でも、なんでもやります。」


武井は、腕組みをしたまま考えていた。

そして、橋本とゆきえを交互に見た。

「深夜だけど、いい?」

「いいんですか?」

「タレントさんまで土下座されちゃあね。

 あとは、どこまでやれるか。

 がんばってよ。」

「はい。」



第九話 下積み


この日は、廃液運搬の仕事はなかった。

運搬がない日、平山と亮は、水処理工場を手伝っている。

手伝いといっても、

水槽の掃除や、配管の分解、清掃など、

いつもと似たような仕事だった。


「おれ、大型の免許取ろうと思うんですけど。」

亮は、配管のボルトを外しながら言った。

「ほう。とったれ、とったれ。」

「馬鹿にしてません?」

「そんなことねえよ。

 夢の話の続きだろう。

 次のステップを目指していくなら、

 それはそれでいいんじゃない。」

「ですよね。

 焦っても仕方ないし。

 1歩ずつ。」


そこへ、水処理工場の山城課長が声をかけた。

「おーい、白石。社長が呼んでるぞー!」

「あ、はい。」

「お前、また何かやらかしたのか?」

平山が茶化した。

「いやー、なんもないはずだけど。」


コンコン

「失礼します。」

亮が、社長室に入ると、

少し、神妙な顔の社長が、

カタカタとパソコンを操作していた。

「おう、来たか。まあ、座れ。」


亮は、恐る恐る、ソファに腰かけた。

「仕事は、大変か?」

「いえ、もうだいぶ慣れましたけど。」

「入社して何年だっけ?」

「5年です。」

「だが、いつまでも平山の助手というわけにはいかんだろう。」

「ええ、まあ。

 あの、それで、おれ・・・」

亮は、大型免許の話を切り出そうとしたが、

社長の言葉が、それを遮った。


「水処理工場へ移ってもらいたいんだが。」

「え?」

亮は、一瞬、茫然とした。

せっかく、大型免許をとって、

今の仕事で一人前になろうと、心を決めたというのに、

亮にとっては、最悪のタイミングだった。


「異動ってことですか?」

「まあ、そういうことだ。」

「はあ。」

「まあ、そう気を落とすな。

 悪い話じゃないんだ。」

「はあ。」

「うちの会社で持ってる水処理設備の特許が売れたんだ。

 それで、近く大手鉄鋼メーカーの下水処理施設に設置される。

 その技術指導に行く。

 その前に少し、水処理工場の操作を勉強してほしい。」

「はあ。」

「うまくいけば、宣伝効果は抜群だ。

 忙しくなるかもしれないぞ。

 ま、しばらくは、山城君についてもらうけど。」


亮は、茫然として、

後半の話はほとんど聞いてなかった。


夕方、亮が帰り支度をしていると、

平山が声をかけた。

「今日、大丈夫だよな?」

「え?何の話?」

「何言ってんの。合コンだよ、合コン。

 前に言ってたじゃない。」

「あれ、ほんとの話だったの?

 っていうか、おれ、人数に入ってたんですか?」

「うーん、正直なところ人数が定まんなくって、

 直前で、やっぱり足らないってことに・・・。」

「やっぱり、人数合わせか。」

「まあ、いいじゃない。」

「おれ、今日は、あんまり乗り気じゃないんすよ。」

「どうしたんだよ。おまえらしくない。

 さっき、社長室に呼ばれた件か?

 何言われたんだよ。」

「い、いや。あとで話しますよ。」

「とにかく、お前しかいないんだ。来い。」


こういう場合、実際のところ、亮に選択権はなかった。

平山から、強引に引きずられて、

駅前のイタリア料理の店に着くと、

既に、同じ会社の男2人と、平山の友人1人がいた。

そして、ほどなくして、

相手の女性、5人が到着した。


乾杯と自己紹介をして、

少しずつ会話が飛び交うようになった。

しかし、乗り気でない亮は、

黙々と、出てきた料理を消化することに集中した。


しばらくして、

亮の前に座った女性が、しびれを切らして声をかけた。

「ねえ、なんかしゃべってよ。」



第十話 合コンの夜


「なんでしゃべらないの?」

「い、いや、べつに。」

女性は、じっと亮の顔を覗き込んだ。

「かわいい顔。」

「かわいい?おれが?」

「何してる人?」

「他のみんなと一緒だよ。水処理関係。」

「ふーん。」

「・・・」

「会話が広がらないわねぇ。

 あたしにも聞いてよ。同じこと。」

「あ・・・、何してる人?」

「ただのOL。」

「・・・広がらないね。」

「あはは、そうだね。」

「名前、なんていうの?」

「さっき、自己紹介したでしょ。聞いてなかったの?」

「ああ、そっか、えーっと・・・」

「黒沢恵理。28歳、独身!」

「おれは・・・」

「白石亮、33歳、独身!

 ちゃんと聞いてたから。さっき。」

「あはははは。」

「白と黒だね。」

「あー、ほんとだね。」


恵理は、見た目も話し方も、

どちらかというとお姉さま風の、

少し大人びた感じだった。

肩より長く伸びた、ストレートで、

キューティクル豊富そうな髪が印象的だった。


「亮さんは、どんなタイプの人が好き?」

「うーん、明るくて、やさしくて・・・、

 人の心にどんどん入り込んできて、

 すごく前向きで・・・」

「誰のこと?」

「あ、いや。そういう感じの人がいいなと・・・」

「ずいぶん具体的。」

「そう?」

「好きな人、いるんでしょ。」

「そんなのいたら、こんなとこにいないよ。」

「うそ。いそうな気がする。」

「いないってば。」

「こいつ、ちょっと前に振られたばっかなんですよ。」

平山が割って入った。


「そうなんだ。傷心なんだ。」

恵理が、亮をためすように言った。

「そんなの、もう忘れたよ。」

「じゃあ、あたしと付き合って。」

「え?」

「いいでしょ?」

「ちょ、ちょっと待って。」

「彼女のことは忘れたんでしょ。」

「あ、えーっと、別に彼女だったわけでもないし・・・、

 でも、それとこれとは別だよ。」

「急すぎる?」

「うん。お互い、よく知らないし。」

「じゃあ、お友達からね。」


そう言うと恵理は、

自分の会社の名刺の裏に、

携帯電話の番号とメールアドレスを書いた。

「はい、これ。」

「え?」

「暇なとき、連絡ちょうだい。」


こんなことって・・・。

亮には、にわかに信じられなかった。

話がうまくいきすぎというのもあるが、

それよりも、亮自身、まだゆきえのことが忘れられないでいた。

他の子と付き合う気などなれなかった。


その夜、1時にアパートの部屋に戻って、

何気なくテレビをつけた。

すると、そこに、ママチャリに乗って、

日本を旅するゆきえが映っていた。


「ゆきえちゃん!」

東京から、鹿児島県の南端を目指して、

自転車で旅をするという、

新進気鋭、武井プロデューサーの番組だった。

ゆきえは、海沿いの道を、

時には、峠を越え、

自転車がこげなくなっても、押しながら、

必死で前に進もうとしていた。


旅の途中、立ち寄った町で、

地元の特産品や、名所を紹介していた。

今日は浜松。

うなぎや、餃子を、

おいしそうに頬張っていた。

その姿は、まさに、あのときのままだった。


亮は、テレビを見ながら、

知らないうちに、涙があふれていた。

遠いところで、がんばってる姿が見られただけで、

亮はうれしかった。

そして、その必死な姿を見て、

自分も、一歩ずつ頑張ろうと、

心に誓っていた。



第十一話 峠


「水の色をよーく見てろよ。」

山城は、瞬きもせず、

処理水の排出パイプをにらんでいた。

処理水が出てきた。

「うーん、もうちょっとだな。

 白石、添加剤の亮を少し増やせ。」

「はい、山さん。」

亮は、添加剤を送るポンプの、

スピード調整ツマミを上げた。


廃水処理装置の技術指導ができるよう、

課長の山城に指導を受けていた。

山城は、この道30年のベテラン。

廃水処理のプロだった。

これまでに、山城が開発に携わって、

商品化された処理装置が何台もある。

そのうちのいくつかは特許となったものもある。

まさに、団塊の世代、日本を支える技術職人だった。


「山さん。」

山城が振りかえると、平山がいた。

工場脇の休憩室は、喫煙所になっていて、

愛煙者のたまり場になっていた。

平山は、煙草にライターで火をつけながら言った。

「どうですか?白石のヤツ。

 がんばってますか。」

「なかなか、覚えはいいぞ。

 このまま、1か月も一緒にやってれば、

 だいたいの操作は分かるようになる。

 なにしろ、真面目だし、

 よく質問してくるし、

 がんばってるよ。」

「なーんだ、そうっすか。

 異動になって、ちょっと落ち込んでたから、

 どんな調子かと思ってたら・・・」

「そんなことないぞ。

 スジもいいし。

 あいつ、技術屋に向いてるんじゃないか?」

「山さんの、いい右腕になりますかね?」

「おれも、もうすぐ定年だ。

 右腕というより、後継者になってほしいな。」

「育ててやってください。」

「ああ。」



もう10月だというのに、

ゆきえは、汗だくになって、

必死にペダルを踏んでいた。

今日は山越え。

標高500メートルほどの峠を登っていく。

ペダルが異常に重かった。

それでも、止まりそうになっても、

ゆきえは、必死でペダルを踏んだ。


撮影車で、橋本は、一緒にリキんでいた。

「なんとか、がんばってくれ・・・」

祈るような思いだった。


そのとき、ゆきえの足がペダルからはずれ、

バランスを崩し、転倒した。

ヘルメットや、膝パットは装着していたが、

かなり、勢いよくぶつけたようだった。


「ゆきえ!大丈夫か?」

橋本が、撮影車から飛び出した。

「だ、大丈夫です。」

「ケガは・・・?」

「大丈夫。こすった程度で。」

見ると、足首のあたりを擦りむいて、

少し出血していた。

「ちょっと待て。」

橋本は、撮影車に戻って、

救急箱を持ってきた。

中から、消毒液とバンソウコウを取り出して、手当てした。

「立てるか?」

「はい・・・」

橋本は、ゆきえの肩を支え、

立ち上がるのを助けた。

「橋本さん・・・」

「よし、もう少しだ。頑張れ!」


ゆきえは、橋本に目をやった。

橋本はうなづいた。

ゆきえは、自転車を起こし、

また、こぎ出した。


次の日も連続の撮影になっていて、

この日は、スタッフ全員、

山間の小さな町のビジネスホテルに泊まった。


スタッフと一緒に食事を済ませ、

ゆきえは、ホテルに戻って寝る支度をしていた。

そのとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「はい。」

「おれだ。橋本だ。」

「はい。すぐ開けます。」

ゆきえは、急いでドアのロックをはずし、

ドアを開けた。

「これ。」

橋本は、コンビニの袋を差し出した。

中には、日焼け止めと、

缶入りのカクテルが入っていた。

「そろそろ、切らすころだろう。

 あと、疲れてるだろうから、

 それ飲んで、ぐっすり寝ろ。」

「はい。」

「じゃあな。」

橋本が、ドアを閉めようとした。

「あの・・・」

「なんだ。」

「橋本さん、いろいろ、ありがとうございます。」

「・・・」

「え、えっと・・・」

「お前は商品だからな。

 大事にするのがおれの仕事だ。」

「はい。」

「じゃあな。」

「おやすみなさい。」


ガチャッと閉まったドアを、

ゆきえはしばらく見つめていた。

そして、ふーっと、深い息をついて、

ベッドにもぐった。

ベッドに入ると、1分もしないうちに、

深い眠りに落ちてしまった。



第十二話 夢へと続く道


「だいぶ、要領がつかめたな。」

山城は、水処理装置の排水パイプから、

連続で流れ出る、透きとおった水を見ながら、

亮に聞こえるように言った。

「はい!ありがとうございます。」

「短期間で、よくがんばったな。」

「いやー、才能ですかね。」

「こら!うぬぼれるな。

 あくまで、”だいたいの操作”に関してだ。

 根本的な原理がわかってないと、

 予期せぬトラブルの対応なんか、分かんないぞ。」

「ははは、すみません。」

「来週は、阪神製鉄所に設備の納入だ。

 それに合わせて、おれたちも現地入り。

 初期セッティングを行う。

 とりあえず、おれの指示で動いてもらうが、

 よろしくたのむぞ。」

「はい。」


実際、亮はがんばっっていた。

新しい職場で、新しいことにチャレンジできる幸せと、

ゆきえのがんばりに触発されてか、

将来に向けて、自分の道が見えたような気がしていた。


このうれしさを誰かに伝えたくて、

仕事の帰り際、平山を飲みに誘った。

すると、平山はめずらしく、

まずそうな顔をした。

「悪い。今日はちょっと。」

「なんだよー。せっかく誘ったのにぃ。

 あ、もしかして、これですか?」

亮は、小指を立ててみせた。

「え?なんでわかるんだ?」

「え?本当に?

 冗談のつもりだったのに。」

「ははは。実は、そうなんだ。

 こないだの合コンの子・・・

 おれの前に座ってた・・・川上結衣さんって言うんだけど、

 なんだか気が合っちゃって。」

「ずるいなー。黙ってるなんて。」

「いやー、隠すつもりはなかったんだけど・・・」

「でも、良かったじゃないですか。」

「ああ。」

「いいなあ、青春してて。」

「あ、それで、

 その結衣ちゃんが言ってたんだけど、

 お前と話してた、黒沢恵理ちゃん。

 お前からメール待ってるんだけど、

 ぜんぜん来ないって言ってたらしいぞ。」

「え?マジ?」

「おまえ、全然連絡とってないのか?」

「ええ。だって、なんかの冗談でしょ。」

「冗談だっていいじゃねえか。

 とりあえず、連絡取ってみろよ。

 減るもんじゃなるまいし。」

「うん。まあ。」

「言ったからな。ちゃんと、言ったからな。

 連絡しろよ。

 おれは、結衣ちゃんとデートだ!

 じゃあーねー!」

「はあ・・・」



「水着で行こう!」

武井プロデューサーが、椅子から飛び上がり、

声を上げた。

橋本とゆきえは、

目をまるくして、武井の方を見た。

これから、撮影に入る準備中だった。

他のスタッフは、いつものことと言わんばかりに、

何事もなかったかのように、

作業を続けている。


「今日は、大阪に入る。

 ルートを少し変えてさ、

 大阪の町中を通るんだよ。

 大阪の中心のビルの間を、水着のおねえちゃんが、

 ママチャリで走る・・・

 絵になると思わない?」

「んー、そうですかねえ?

 だいぶ遠回りだし・・・

 それより、本人は大丈夫なんですか?」

スタッフも気を遣った。

「いいんだよ。大丈夫だよな。」

武井は、ゆきえの方を向いた。

「あ、はい。」

「ほらな。

 そのほうが、絶対数字とれるって。」

「まあ、武井さんがそういうなら仕方ないけど・・・」


数時間後、ゆきえは、

鮮やかなブルー基調のアロハカラーのビキニに、

ヘルメットと、肘あて、膝あて、

そして、ママチャリというコラボで、

大阪梅田近くのビジネス街を、駆け抜けていた。

道行く人は、目を奪われ、指をさした。

「だれだ?あれ。」

「タレント?」

「モデルらしいぞ。」

「前に、朝の番組に出てた?」

その後ろを、”進め!突撃アイドル 木曜日深夜25時”

という、番組名が入った撮影車がついていく。


ゆきえは、はずかしさを忘れようと、

一心不乱にペダルを踏んでいた。

夢へと続く道を踏みしめるように。



第十三話 再会


朝日がまぶしく工業地帯の大型のタンクや三角屋根を照らす。

工業団地の幅の広い道路の、

歩道よりの一車線を独占して、

水着姿のゆきえのママチャリと、

撮影車がゆっくり走っていく。


このところ、3日連続の撮影。

なにしろ、予算が少ない深夜の枠。

だんだんと、東京から遠ざかると、

撮影は、2〜3回週分、一気に行われた。

ゆきえの体力も限界に近づいていた。


今日は、ルート沿いにある、

日本でも有数の製鉄所の取材を予定していた。

工場に入ると、高炉や大型の設備が頭上から迫ってくる。

なにもかもが、普段の生活からすると、規格外だった。

重さ、数十トンの鉄の塊が、

クレーンで吊られて、

まるで生きもののよう移動した。


広い工場を、ワゴン車で奥へと進むと、

鉱石置き場や、水処理設備があった。

錆色の色彩の工場にあって、

ふと、真新しい設備が目に飛び込んだ。

なにやら、人がたくさん集まっている。


スタッフのひとりが聞いた。

「あれは、新しい設備ですか?」

「はい。新しく導入した高性能の水処理設備です。

 まだ、スタートアップなんですがね。

 安定して有害物を除去することができ、

 しかも、低コストなんです。

 降りてみますか?」


取材の一行は、ワゴン車を降りて、

あわただしく動く、大勢の作業員たちを、

遠目に見ていた。


「ポンプスタート!」

大きな声で、作業者に指示する若者がいた。

どこかで聞いた声。

どこかで見た顔。

「亮さん・・・」

ゆきえは、目を疑った。

しかし、どう見ても、半年ぶりの亮だった。

テキパキと指示を与え、真剣な表情。

そんな亮を見るのは初めてだった。


しかし、ゆきえは、

まだ成功したとは言えない、今の自分では、

亮に見せる顔がないと思った。


ところが、そのときは偶然にやってきた。

みんなが車に戻っていくとき、

ゆきえは、一人トイレに入った。

そして、出てきたとき、

資材を運ぶため、現場を離れた亮と、

ばったり顔を合わせた。


「あ。」

製鉄所の工場の中で、突然、

水着にヘルメット姿のゆきえを見つけた亮は、

すぐに言葉が出なかった。

それを見たゆきえから声を出した。

「ひ、ひさしぶり。」

「あ、ああ、ひさしぶり。」

「元気?」

「うん元気。ゆきえちゃんは?」

「元気だよ。

 あいかわらずで、売れない芸人だけど。」

「そんなことないじゃん。

 テレビ見たよ、ママチャリに乗ってるの。」

「ああ。見てくれたんだ。」

「うん。がんばってるね。」

「今日も、その撮影なんだ。

 亮さんこそ。

 がんばってる姿、かっこいいよ。」

「ああ、見てたの?でも、まだまだ勉強中で・・・。」

「そうなんだ。」

「うん・・・。」

「こないだは、ごめんね。

 ひどいこと言っちゃって。」

「なんのこと?」

「世界が違うって・・・」

「ああ、別に気にしてないよ。本当のことだもん。」

「でも、わたしだって、こんな、ぜんぜんなのに」

「でも、目指してがんばってるんでしょ。

 その、違う世界を。」

「うん。」

「がんばって。応援してるから。」

「うん。」

「おれも・・・、

 夢というか、目標をもてたような気がしてるんだ。

 漠然とだけど。

 それを目指して、がんばってる。」

「そう。よかった。」


ひさしぶりに会ったら、

お互い、素直に話ができた気がした。


亮は、その自然な会話が、

妙に懐かしく、うれしかった。

この何気ない会話の時間が、

ずっとつづいてくれればいいのにと思った。

しかし、それは希望に反して、長くは続かなかった。


「亮さん、」

「?」

「わたし・・・」

「なに?」

「気になってる人がいるかも。」

「ほんとに?」

「うん。」

「だれ?どんなひと?」

「それは・・・、まだ言えない。

 でも、亮さんには本当のことを言っておきたくて。」

「そっか。」

「夢、かなえられるように、がんばってね。

 自分のためだからね。」

「うん。」

「それと、体にきをつけて。」

「わかった。」

「じゃあ、スタッフが待ってるから。」

「うん。さよなら。」

「さようなら。」


いまさら、どうでもいいはずだった。

ゆきえが、だれと付き合おうが、自分とは関係ない。

亮は、これで本当の区切りがついたような気がした。



第十四話 ダブル


「平山さーん、お待たせ。」

「おお。」

「待った?」

「ちょっとだけな。」

「うそ、こんなにたくさんタバコ。」

結衣は、平山の足元に落ちている、

10本以上はあろうかというタバコを指差した。

「お願いだから、待ち合わせの時間ちょうどに来て。

 そんな、1時間も早く来ないで。」

「だってさー、家にいても落ち着かなくてさー。」

「そうなの?」

「だって、会うのが楽しみなんだよ。」

「ほんとかなー?」

「ほんとだってば。」

「あははは。」


今日は、結衣がスカートの買い物に出るというので、

平山も一緒につきあった。

2人は、駅から少し歩いたところの、

ファッションビルに入って行った。

「どう?似合う?」

結衣は、試着室の扉を開け、

平山に向かって、ポーズをとった。

「うーん、そうだな?」

「分かってるよ。どうせ、もっと短いのって言うんでしょ。」

「ばれた?」

「こないだ、水着を選んだときだって、

 すごいきわどいのばっかり選ぶんだから。」

「いいじゃん、おれ、男なんだし。

 それくらいが、健全だよ。」

「はいはい。」


買い物が終わって、2人は同じビルにある、

アイスクリーム屋に入った。

平山は、抹茶アイスをダブルで、、

結衣は、オレンジのジェラートを、

これまたダブルで注文した。

「そういえばさ、」

「なに?」

「恵理なんだけど・・・、

 黒沢恵理。」

「あー、おれ、白石に言ったよ。

 電話しろって。」

「でしょ。言ってたもんね。」

「あいつ、電話してねーの?」

「みたい。」

「ばかだねー。」

「電話くらい、くれてもいいと思うんだけど。」

「だよな。」

平山は腕組みをした。

窓の外は、買い物途中の人たちが、行き交っていた。


「そーだ!いい考えがある。」

「なに?」

「ダブルデートに誘うなんてーのはどう?」

「なるほど。いいんじゃない。」

「な、な、だろ。」


次の週末、4人は平山の車で、

郊外のテーマパークに出かけた。

運転する平山の隣には、結衣が、

亮と恵理は、後部座席に並んで座った。

「ねえ。」

窓の外を眺めている亮に向って、

恵理の方から声をかけた。


亮にとって、ゆきえのことは整理がついていた。

ただ、長い間、恵理に連絡もしなかったことで、

気まずい気持ちを隠しきれなかった。


「山がきれいだね。」

「あ、ああ。」

「あれ、大きいなあ。何?あの丸いの。」

「ああ、何かの化学工場だろうね。

 いつも、仕事でこんなとこばかり来てるよ。」

「へー、すごいのね。

 仕事は忙しい?」

「うん、まあね。

 最近、職場が変わったから、

 いろいろ覚えることがあって、大変。」

「帰り、遅いの?」

「そんなに遅くはないけど、

 帰ってから、部屋で勉強してる。」

「そんなにがんばらなくても・・・。

 無理は体に毒だよ。」

「うん、大丈夫だよ。」


テーマパークに着くと、秋の行楽シーズンで、

大勢の人で込み合っていた。

そんな中、平山が、ジェットコースターや、

回転系の絶叫マシンに、

亮を強引に乗せ、連れまわした。

それを見て、女性二人は大はしゃぎだった。


「あー、目が回る。」

「こんなんで、根を上げてるのか?

 まだまだだ。

 お、あれ、いいな。あれ、行こう!」

「あれって、バンジージャンプじゃないですか!

 おれ、いやだよー!」

「なにごちゃごちゃ言ってんだ。さあ、来い。」

また、平山に強引に連れて行かれた。


結衣が、恵理に聞いた。

「どうなの?白石さん。」

「うーん、はっきりしないなあ。」

「ちょっと前のことで、いろいろあったみたいだから、

 あまり答えを急がない方がいいかもね。」

「うん。」


4人は、パーク内のレストランで食事をした。

食事が終って、結衣がトイレに行くと言って席を立った。

ちょっと行きかけて、すぐに戻り、

平山に声をかけた。

「剛くん、ちょっと。」

「剛くん・・・もう、そんな仲なの?」

亮がやきもち交じりに言った。

「はは、いいだろう。」

「はいはい。」


結衣と平山は、レジの近くで、

会計の話をしているらしかった。

亮と恵理は、2人で座って、コーヒーを飲んでいた。

「ねえ、亮くん。」

「え?はい。」

「亮くん、って呼んでもいい?」

「あ・・・、うん、いいよ。」

「まだ、忘れられないのかな?

 前言ってた人。」

「・・・忘れた。」

「ほんとに?」

「うん。忘れたよ。」

「そうなんだ。」


恵理は、表情に出たうれしさを隠さなかった。

実際、恵理は、冷静に見てもいい女だった。

こんな子がアプローチしてくるなんて、

亮にとっても、悪い話ではなかった。


「じゃあ、また会おうか?亮くん。」

「うん。」



第十五話 ブレイク


青く透きとおった波が、

白波を立てて、起き上がり、

水のトンネルをつくっては、砕ける。

砕けた水しぶきが、

太陽の光を、プリズムのように反射する。


海沿いの道路を、

オレンジ色のビキニの、

スタイルのいい女性が、

ママチャリで全力疾走する。

そして、ママチャリを止め、

道路わきの自販機でジュースを買い、

ごくごくと飲み干す。


清涼飲料水のCMだった。

その女性は、

まさしく、”YUKIE”だった。


深夜ではない。

朝の情報番組や、ゴールデンタイムの番組中、

このCMがなんども流れた。


まさに、ブレイクだった。

ママチャリに、ビキニ姿が好評で、

人気に火がついた。

ここのところ、2,3本のCMで起用され、

話題になっている。

情報番組でも取り上げられ、

紹介されていた。


亮が、それを目の当たりにしたのは、

郊外の家電量販店へ、

蛍光灯を買いに出た時だった。

アパートの蛍光灯が、前から点滅していたが、

とうとう切れてしまったので、

買い物に来たところだった。


蛍光灯を片手に、

展示のテレビの前に釘付けになった。

「ゆきえちゃん、おめでとう!

 がんばって!

 おれも、がんばるよ。」


亮はうれしかった。

と同時に、少し寂しかった。

どんどん、ゆきえが遠くなっていく。

恋愛の対象として、けじめはついていても、

短い間に、一緒に体験したことや、

感動や、心の共鳴は、消えはしなかった。

そして、今、自分が、

一人前と呼ぶには、まだまだであることが、

寂しさを増幅していたのかもしれない。


亮は、その夕方、恵理と会った。

恵理がおいしいお好み焼屋を知ってるというので、

そこで一緒に食事をした。

店には、テレビがついていて、

クイズ番組をやっていた。

その回答者として、YUKIEが出演していた。

天然ボケ風の回答をして、

笑いを誘っていた。


「亮くん、この子、好きなの?」

恵理が聞いた。

「い、いやあ、そんなこと、とんでもない!」

「そんなに、大げさに否定しなくても。」

「あ、ああ、そうだね。

 好きなわけじゃないけど、

 回答が面白いから・・・。」

何気なく聞いた「好き」が、

亮にとって、そんなに重い意味があるとは、

恵理には知る由もなかった。



第十六話 クリスマス(1)


季節はめぐる。

木枯らしが、通りの木々をはだかにする。

やがて、コートの襟をつかんで、

首にまきつけたくなるような季節。

クリスマス、歳の瀬、

街中が慌ただしく、賑やかになる。

駅前のファッションビルの壁には、

YUKIEの巨大なポスターが貼られていた。

夜になるとライトアップされ、

街路樹のイルミネーションとともに、

夜の街を華やかに彩った。


亮は、納入した水処理設備の、

想定外のトラブルに悩まされていた。

この日も、9時を過ぎても、

亮がいる事務所の明かりは、

ついたままだった。


「おーい、まだやってくのか?」

「あ、山さん。

 すみません、もうちょっとだけ。」

「こないだのトラブルか?」

「あ、はい。」

「ありゃあ、ちょっと難しいな。

 最悪、もうひとつ装置を増やさなきゃな。」

「そうですね。」

「だが、そうすると、

 客から、最初の話と違うって言われるな。」

「はい。

 沈殿物の分子が壊れないように、

 水を送れれば、装置を増やさなくてすむと思うんですけど。

 なんか、いい方法はないですか?」

「うーん、難しいな・・・。

 そうだ、ちょっと待ってろ。」

そう言い残すと、山城は自分の机の引き出しから、

古く分厚い、ハードカバーの本を引っ張り出した。

「水処理の教科書だ。

 ちょっと古いが、基本が分かる。

 物事は、全て基本の応用だからな。」

「ありがとうございます。」

「学校と違って、仕事には答えが用意されてない。

 自分で考え、自分で道をつくるんだ。

 また、それが仕事のおもしろさってやつだ。」

「はい!」

「今夜も寒くなるな。

 あんまり無理するなよ。じゃあな。」

「お疲れ様です。」

山城が、部屋を出て行ったかと思うと、

すぐにまた、ドアが開いて、山城が顔を出した。

「今、しんどかろうが、

 高くジャンプするには、

 低くかがむんだぞ。」

「はい。わかりました。」


アパートに戻って、コンビニの弁当を食べた後も、

亮は、山城からもらった本を読み続けた。

そこへ、携帯電話が鳴った。

恵理からだ。

「もしもし。」

「恵理だけど、明日はどうするの?

 会える?」

「ごめん、ちょっと仕事が・・・」

「明日、何の日だか知ってる?」

「え?えーっと、た、誕生日・・・」

「違うよ!」

「じゃなくて・・・」

「クリスマスイブ!」

「あ!」

「最近、そういうの、多いよ。

 わたしたち、ほんとにつきあってるの?」

「ごめん。」

「普通、男の人は、

 クリスマスイブに彼女をほっとかないよね。」

「うん。忘れてた。

 仕事はなんとかするから。」

「うん。」

「とりあえず、7時に、駅前のミスドでいい?」

「わかった。遅れないでよ。」


翌日は、クリスマスイブ。

恋人たちが寄り添い、

それぞれの愛を確かめ合う日。


亮は、新しい装置のテストや、

データ整理の仕事が立て込んでいたが、

早めに切り上げ、6時には会社を出た。

アパートへ帰り、シャワーを浴び、

少しめかしこんだ服を着た。


部屋のドアノブに手を掛け、

出ようとしたとき、

携帯電話が鳴った。

液晶画面に「ゆきえちゃん」の文字。


「もしもし?」

「・・・」

「ゆきえちゃん?」

「亮・・・さん。」

「そうだよ。亮だよ。

 どうしたの?」

「わたし・・・もう、ダメかも。」



第十七話 クリスマス(2)


「何かあったの?」

「・・・」

電話の向こうで、ゆきえは泣いていた。

「今、どこにいるの?」

「交差点。」

「どこの?」

「亮さんと、初めて会った交差点。」

亮は、ハッとした。

急に胸が高鳴る気がした。

「わかった。すぐに行く。

 待ってて。」


亮は、アパートを飛び出した。

駅までは、歩いて20分。

走れば、10分で着く。

ワープのように、まわりの景色が流れて見えた。

しかし、目的の交差点には、

もどかしいように遠く感じられた。


走り出してすぐ、亮は恵理に電話をした。

「ごめん、ちょっと仕事が押しちゃって。

 少し遅れるから。」

「そう。わかった。」

「ほんとに、ごめん。」

後ろめたい気持ちはあった。

しかし、電話のゆきえは、何か緊急事態のような気がした。


駅前を通り過ぎた。

すでに、7時が近い。

遠目に、ドーナツ店の中を確認した。

恵理らしい女性が、窓際に座っているのが見えた。


 ほんとに、ごめんなさい。

 すぐに、行くからね。


交差点に着いた。

息を切らしながら、辺りを見渡した。

すると、スクランブル交差点の横断歩道の向こう側に、

見たことのあるシルエット。

深い帽子をかぶっているが、亮には分かった。

間違いなく、ゆきえだった。


信号が青になり、

ゆきえの元へ駆け寄った。

「ゆきえちゃん。」

「亮さん・・・。」

ゆきえは、亮の肩に顔をうずめた。

亮は、そっとゆきえの肩に触れた。

「どうしたの。急に電話してきて。」

「・・・」

「とにかく、飲み物でも飲もうか?」

亮は、駅とは反対方向に、少し歩いたところの、

カフェに、ゆきえを案内した。


頼んだコーヒーが出来上がり、

それをトレイに載せて、

2人は、一番奥のテーブルに座った。

「人気、絶頂なのにさ、

 なんか、つらいことでもあったの?」

「うん。ちょっと。」

「めずらしいね。

 ゆきえちゃんが弱音を吐くなんて。」

「なんだか、つかれちゃって。

 なんだかんだ強がってるけど、

 ほんとは弱いんだ。わたし。」

「仕事、そんなにつらいの。」

「分かってて飛び込んだんだけどね。」

「それだけじゃ、ないんじゃないの?」

「・・・。」

「言いたくなきゃ、いいけどさ。」

亮は、ひざを組んで、

コーヒーを一口、含んだ。

「仕事とか、人間関係とか、

 プライベートとか、いろいろ。」

「そう言えば、気になる人がいるって言ってた・・・」

「うん。」

「つきあってるの?」

「うん。」

「じゃあ、いいじゃん。

 うまくいってるなら。」

「奥さん、いるの。」

「え?」

亮は、一瞬言葉を失った。

「その人、結婚してるの。子供も・・・」

「そうなんだ。」

「最近、分かったの。

 今日は、家族でクリスマスなんだって。」

「・・・」

「ごめんね。嫌われちゃったかな?

 亮さんしかいなくて。

 こんな話できるの。」

「ううん。いいんだよ。

 なんでも話してよ。」


ゆきえは、その後、そのことについて、

多くを語らなかった。

その相手が誰かは、結局、亮には話さなかった。

しかし、これまでの道のりや、

芸能界の裏話、意地悪な先輩、

常識のないファンの迷惑行為・・・。

ゆきえは、ダムが決壊するように、

話し出したら止まらなかった。

華やかな成功の裏には、

人知れぬ深い悩みと、ストレスがあり、

それに打ち勝つには、そうとうに強い精神力が必要だった。


「ごめんね。

 長くなっちゃって。」

「ううん。いいよ。」

「何か、用事があったんじゃない?」

「いや、別に。」

「わたしのことばっかり話しちゃって。

 亮さんのほうは、仕事とかうまく行ってる?」

「うん。

 こないだ会ったときの製鉄所もそうなんだけど、

 今、水処理装置を勉強してて・・・、

 これを、とにかくがんばろうと思ってるんだ。」

「うん。

 亮さんなら、大丈夫だよ。

 わたし、応援してるから。」

「ありがとう。」

「恋愛は?」

「うん、まあ。」

「彼女、いるの?」

「うん。」

「あ、ごめんなさい!

 こんな、イブの日に。

 彼女と約束があるんじゃないの?」

「うん。少し遅れるって言ってある。」

「だって、もう9時だよ。」

「え?もう、そんな時間?」

「さあ、早く行って!ここは、わたしが払うから。」

「うん。ごめん。」

「なんであやまるの。こっちこそごめん。

 自分のことしか考えてなくて。

 わたしは、今日、話を聞いてもらったから大丈夫。

 あとは、じぶんでなんとかしなきゃ。」

「うん。」

「ほんとに、来てくれて、ありがとう。」

「おれも、会えてうれしかったよ。

 また、困ったことがあったら言って。」

「うん。」

「じゃあ、また。」



第十八話 すれ違い


亮は、駅前のドーナツ店へ急いだ。


 もう帰ったかな・・・


ドーナツ店に飛び込み、

窓際の席に目をやった。

そこに、恵理がいた。

氷の解けたジュースのコップに、

先の曲がったストローがうなだれていた。

恵理は、うつむいたままだった。


亮は、恵理の向かいの椅子に滑り込み、

テーブルに手と頭をつけた。

「ごめん!」

「・・・」

恵理は、どちらかというと、

思ったことを、ためらわず口にするほうだ。

怒って、怒鳴る顔が目に浮かんだ。

恐る恐る、顔を上げると、

涙であふれた恵理の顔がそこにあった。

その反応は意外なものだった。

「よかった。」

「え?」

「よかった。来てくれて。」

「あ、うん。」

「もう、来てくれないかと思った。」

「ごめん。」

「遅くなったけど、ご飯食べに行こうか。」

「うん。」

そして2人は、クリスマスの街の雑踏に紛れた。

外は真冬の寒さだった。

恵理は、亮にぴたりと寄り添った。

街路樹のイルミネーションがきれいだった。

その向こう側に、YUKIEのポスターが浮かび上がっていた。



年が明け、また、仕事に追われる日々。

亮は、この日も、

装置の問題解決の試験と、その勉強で、

夜遅くまで仕事をしていた。

そこへ、恵理から電話がかかって来た。

「もしもし、恵理だけど。」

「うん。どうしたの?」

「今からこっち来れる?」

「え?なにかあった?」

「いや、別に。

 何かなきゃ、会っちゃいけないの?」

「そんなことないけど・・・

 まだ、仕事終わらないんだ。」

「仕事と私とどっちが大事?」

「そりゃ、恵理ちゃんに決まってるだろう。」

「じゃあ、来てよ。」

「ごめん。

 今、装置の開発の大事な時なんだ。

 おれ、今の水処置装置を極めて、成功したいんだ。

 ある意味、夢なんだ。」

「わたしには分からない。

 成功なんかしなくていい。

 そばにいてくれれば、それでいい。」

「そんなこと言ったって・・・」

「最近、いつもこんなだね・・・。」

「・・・」

「・・・」

「わかった。明日、時間作るから。」

「・・・」

「いい?」

「うん・・・わかった。」


翌日、少しがんばって、2人で焼き肉を食べた。

恵理の機嫌は少し直ったようだった。



ある日、営業の水谷という男が亮を呼び止めた。

あの合コンにも参加した男だ。

「今度の金曜日、つきあいのある商社関係で、

 映画の制作披露パーティーって招待が来てるんだけど。

 お前、行くか?」

「え?おれなんかが行っていいの?」

「前に装置を納めた清涼飲料水メーカーあるだろ。」

「ああ。」

「そこが、その映画のスポンサーなんだと。」

「へー。」

「で、その商社に、招待券が割り当てられてて、

 要は人集めさ。

 主催者側としては、盛大な方がいいからね。」

「なるほど。」

「お前さ、こないだ、その装置の納品に関わっただろ。

 それで。」

「ふーん。ま、予定は空いてるけど。」

「というより、人数集めるように言われてるんだ。

 協力してくれ。」

「初めからそう言えばいいじゃんか。」

「はは、まあな。

 とりあえず、4人なんだ。あと・・・」

「それさ、部外者でもいいか?」

「だまってりゃばれないと思うけど。」

「じゃあ、おれ、2口な。」

「なんだよ、彼女でも連れてくるのか?

 お前、彼女なんかいたっけ?」

「一応、あの合コンで逢った子とうまく行ってる。」

「そうなんだ。」

「なんだよ。おれも女誘わなきゃかっこつかないじゃんか。」

「ははは、がんばれ。」




第十九話 パーティーにて


金曜日、

結局、水谷は、総務課の女子を誘った。

亮は、恵理に対して、少しでも挽回したかった。

場所は、都内、某結婚式場。

各方面から集められた、招待客と、

映画関係者、マスコミ関係者などで賑わっていた。


パーティーが始まり、各々がバイキング式で、

料理や飲み物を手に取った。

まわりは、知らない人ばかり。

亮も恵理も、2人で話しながら、料理を頬張った。

「せっかくだから、食べられるだけたべちゃおう。」

「そうだね。食べたもん勝ちだよね。」

水谷は、営業のお客で知っている人がいて、

その人たちと談笑していた。

総務課の女子も、横にちょこんと立っていた。


しばらくして、司会者のMCが始まり、

映画監督や、制作スタッフが紹介されていた。

そして、主役の俳優のあいさつ。

スクリーンには、プロモーションの映像が流れていた。

亮が、出演者を紹介する字幕を眺めていると、

そこに、”YUKIE”の文字が並んでいた。


亮は、ハッとして、周りを見渡した。

すると、ステージの手前、

映画のスタッフたちが並ぶ中に、

ゆきえの姿を見つけた。


ゆきえはピンクのパーティードレスを身にまとい、

煌びやかで、華やかだった。

亮とゆきえの間は、十メートルあまりだったが、

そこには、目には見えない、厚い壁があった。

そこにいるのは、”ゆきえ”ではなく、

”YUKIE”だった。


亮は、料理をとりにいく振りをして、

YUKIEのほうへ近づいていった。

その間、わずか5メートル。

スタッフの声が聞こえた。

「なんと言っても、YUKIEは、

 人気、赤丸急上昇だからね。

 今回は、ヒロインの友人と言う脇役だが、

 ゆくゆくは、主役を張ってもらわなきゃね。」

「ははは、そんな・・・、ありがとうございます。」

YUKIEは、周りに笑顔を振りまいていた。

それは、以前、亮に向けられたのとは違う、

営業用のスマイルだった。

亮の顔も、YUKIEの視界に入ったはずだった。

しかし、YUKIEは、何事もなかったかのように、

その営業スマイルをくずさなかった。

近づいても何の意味もないことくらい分かっていた。

明らかに、世界が違っていた。


それからというもの、

亮は気が気ではなかく、

恵理との会話にも集中できなかった。

というのも、クリスマスの夜の話が気になっていた。

最後には、元気な笑顔をつくっていたが、

ゆきえの悩みは、簡単には消えないだろう。

様々なプレッシャーに耐えながら、

あの笑顔をつくっているはずだ。

体調は大丈夫なのか・・・?


心を落ち着かせようと、

亮は一旦、トイレに行った。

すると、トイレから出てきたとき、

”ゆきえ”に遭遇した。

「あら。亮さん。」

「ゆきえちゃん。」

「来てたの?」

「見えなかった?近くにいたよ。」

「うん。見えてた。

 仕事の関係?」

「うん。清涼飲料水の・・・」

「ああ、そうか。」

「ゆきえちゃん。」

「なあに?」

「大丈夫?」

「え?なにが?」

「なにがって、こないだの・・・」

「大丈夫じゃないって言ったら・・・?」

「え?」

「うそ、冗談よ。」

「別れちゃいなよ。その男と。」

「え?」

「ゆきえちゃんがそんなつらい思いしてるのに、

 おれ、耐えられないよ。」

「亮さん・・・」


そこへ、パーティーのスタッフが割って入った。

「YUKIEさん、そろそろ記者の取材の時間なので。」

「あ、はい。」

何人かのスタッフがゆきえを連れて行った。

少し遅れて、橋本が通りかかった。

「なんだ、お前か。」

「・・・」

「もうつきまとうなと言ったはずだ。」

「知るか。」

「YUKIEは、今おれの事務所にいる。

 おれが育てて、今まさに成功へ向かっている。」

「それがどうしたんだ。」

「だから、邪魔するな。」

そういうと、橋本は去っていった。


 おれなんかの出る幕じゃ・・・


亮は思った。

今日ほど、自分とゆきえの立場のギャップを感じたのは、

初めてだった。


ふと気がつくと、恵理が迎えに来ていた。

「亮くん!」

「あ、ああ・・・」

「なかなか戻ってこないから。」

「う、うん。ちょっと。」

「さっきの・・・、タレントさん?」

「うん。」

「知り合いなの?」

「うん。」

「なんで言ってくれなかったの?」

「なんでって・・・、

 誤解されても困るから・・・。」

恵理は、寂しそうな表情だったが、

無理にでも納得したようだった。



第二十話 スクープ


亮は、ある結論に達していた。

水処理装置へ導入する原水への、

添加剤のタイミングをあえて遅くすることで、

不純物分子を壊すことなく濾過できる。

そのための、添加剤の種類と添加量を再検討するため、

様々な条件でテストを繰り返していた。


「山さん、この方法で、

 トラブルも解決すると思うんですけど。」

「ああ、この短期間で、よくがんばったな。」

「とんでもない、山さんのおかげです。

 あとは、実機の改造ですね。」

「ああ。それともうひとつ。」

「実機改造して、少しデータがそろったら、

 展示会に出して記者発表しよう。」

「それは、営業の仕事でしょ。」

「そうだが、お前も一緒にやるんだ。」

「どうしてですか?」

「お客さんの反応を直に見れるということだ。」

「はあ。」


仕事が終わり、

亮がアパートに戻ったのは夜中だった。

亮は、ろくに食事もとっていなかったため、

近くのコンビニへ歩いた。

よくある風景だ。

買い物した弁当と飲み物の袋を片手に、

雑誌コーナーで立ち読みしていた。

何気なく、写真週刊誌を手に取った。

表紙に、

「スクープ! YUKIE 不倫疑惑!?」の文字。

亮は、ハッとして、ページをめくり、

記事を探した。


ゆきえの相手は、あの橋本だった。

うそか本当か分からないが、

そこには、打合せや番組ロケを装っての密会、

ホテルから出てくる写真、

そして、橋本の奥さんのインタビューなどが、

赤裸々に書かれていた。


亮は、にわかに信じられなかった。

よりによって、あの橋本と・・・。

ゆきえは、だまされているんじゃないか?

しかし、事実、橋本の手腕により成功している。

それが、信頼へとつながったというのか?

それにしても、不倫と言うならば、

その先には、未来があるのか?

亮は、いてもたってもいられない気持ちになっていた。



海が見える道路沿いのカフェ。

夜の海は、真っ暗で、

ときおり、打ち寄せる波しぶきが、

白く浮かび上がっては消えた。


窓際の席に、男女が向かい合って座っている。

女は、うつむいたまま、

テーブルの上の、もう冷めてしまったコーヒーのあたりに、

視線を落としていた。

男は、向い側の席でたばこを一服ふかすと、

夜の海へと視線を投げたまま、話し始めた。

「ゆきえ、もう、終わりにしよう。」

「・・・」

「こうなってしまっては、もう、どうしようもない。

 ただの、マネージャーとタレントに戻るんだ。」

「・・・」

「家族のことは、おれの問題だ。

 お前が心配することはない。

 世間には、イメージダウンになったかもしれないが、

 逆に話題になって、名前は売れたはずだ。」

「橋本さんは、結局、ビジネスなのね。」

「え?」

「名前なんて、売れなくていい。

 わたしは、橋本さんの愛がほしかった。

 橋本さんがいてくれたから、ここまで頑張って来れた。」

「前にも言ったじゃないか。

 おれと、お前は・・・」

「そうよ。マネージャーとタレント、

 売手と商品。

 わたしだって、わかってた。

 でも、じゃあ、なんであのとき一線を越えてしまったの?」

「それは・・・」

「・・・」

「お前が魅力的な女になるためだ。

 恋をしてる女が一番魅力的なんだ。」

「そんな・・・」


ゆきえの目から涙がこぼれおちた。

橋本は、また、遠くを見た。

そしてもう一度ゆきえを見て、ゆきえの気持ちを静めるように続けた。

「おれだって、おまえのことを魅力的だと思ってる。

 だから、こんなに一生懸命になれるんだ。

 だが、おれには、妻も子もいる。

 家庭を犠牲にはできない。」

「だってあのときは、一番大切だって・・・」

「・・・すまない。」

「謝らないでよ!」

泣きながらそう言うと、ゆきえは扉のほうへと走り、

出て行ってしまった。

橋本は走って追いかけたが、

たまたま通りかかったタクシーに、

ゆきえは乗ってしまった。


亮の部屋で、携帯電話が鳴っていた。

閉じた携帯の、外側の小窓の液晶に、

「ゆきえちゃん」の字が浮かんでいた。

だが、携帯はマナーモードになっている。

亮も既に眠りに落ちていて、気がつかないでいた。


タクシーの後部座席で、

ゆきえは、携帯電話をパタンと閉じた。

はぁ・・・と、ひとつため息をついて、

流れる景色を見た。

「お客さん、行先は?」

「・・・西へ。」



第二十一話 逃避行


橋本は、時計を見ながら、気が気ではなかった。

テレビ局の前で、ゆきえが来るのを待っていた。

あれから、電話をしても、

ゆきえの電話の電源が切れている。

今朝、マンションへ迎えに行っても、

起きてこなかった。

オートロックのマンションのロビーにある集合ポストに、

宅配ピザの広告が配られていた。

ゆきえのポストにも入ったままで、

帰った様子はなさそうだった。


ついに、お昼の生番組が始まってしまった。

亮は、平山と一緒に、食堂で昼食をとっていた。

食堂にあるテレビでは、

昼の番組「笑って生テレビ」をやっていたが、

司会者が、YUKIEが遅れていることを謝っている。

3年ほど前に売れた、

別のモデル出身のタレントが、代役を務めていた。

「どうしたんだ?」

平山が亮に尋ねた。

「おれだって知らないよ。」

亮は、ふと携帯電話を開いた。

そこには、ゆきえから3回の着信があった。

あわてて、その着信履歴を選択し、リダイヤルした。

しかし、電源が切ってあり、つながらなかった。

昼休みが終わるころ、番組もエンディングだったが、

ゆきえはついに現れなかった。



瀬戸内海に浮かぶ小さな島をめざし、

ゆったりと海の上をすべるフェリー。

その甲板の上に、ゆきえの姿があった。

少し地味な、モスグリーンのコートを着込み、

2月の冷たい風をうけながら、

次第に大きくなっていく、島を眺めていた。


太陽の光が、海に広がる小波で乱反射され、

ゆきえのサングラスに、

キラキラと光りをあてた。


フェリーが、島の港に着くと、

ゆきえは、島の周りをぐるりと周る道路を歩き、

ある一軒家を目指した。

そこには、ゆきえの親戚がいた。

ゆきえも小学生のころまで、この近くに住んでいた。

親の転勤で引っ越してからも、

度々、ここを訪れていた。


中学生の時に1度、高校生の時に2度、

家出をして、ここに来た。

以前から、何かあると、ここへ来て、気持ちを落ち着けた。


しばらく歩くと、山側へ伸びた1本道へと入り、

段々畑とみかん畑を横目に見ながら、

高台まで登った。

そこに、一軒の重厚な木造りの家が見えてきた。

軒先で、犬が吠えている。

ゆきえが近づき、目の前にしゃがみ込むと、

匂いにきがついたのか、吠えるのをやめ、

差し出した手のひらをぺろぺろとなめた。


「あら、ゆきえちゃんじゃない。」

縁側の引き戸を開け、中年の女性が声をかけた。

「おばさん!」

「どうしたん?また、家出?」

おばの敏江が笑顔で、冗談交じりに聞いた。

「家出も何も、一人暮らしだし。

 でも、まあ、そんなところか。」

「忙しそうじゃないの。」

「うん。でも、疲れちゃって。」

「まあ、とにかく上がって、ゆっくりしてって。」

ゆきえは、家に上がり、

床の間に座った。

お茶と、煎餅がテーブルに載った。


「おや、めずらしい。」

おじの伸介が襖を開けた。

「お邪魔してます。」

「べっぴんさんになったのう。」

「そんな。」

「結婚はまだなんか?」

一瞬、橋本の顔が浮かんだ。

「ううん。ぜんぜん。」

「そうか。まあ、まだあせることはないがの。」

「そういえば、久美子姉ちゃんは?」

「あれ、結婚したの知らんかったか?」

「ああ、そうなんだ。

 最近周りのことに、ぜんぜん疎くなってたみたい。」

「もう、お腹に子供がおっての。

 来月にも臨月なんじゃが。」

「へー。」

「今日は、病院行く言うとったが、

 連絡すりゃあ、遊びにくるんじゃないかの。」

そういうと、おじは慣れない手つきで携帯電話をかけた。


夕方になって、久美子夫婦が来た。

「だんなの、立石幸典さん。」

「立石です。よろしく。」

みんなで、もつ鍋を囲み、

ゆきえが幼いころの話で盛り上がった。

「小学生のころだったかな。

 うちに泊まったとき、ゆきえったら、おねしょしたのよ。」

「えー?そんなことあったっけ?」

「すっごく朝早くに、突然泣き出して、

 大汗かいたって、ごまかそうとしたのよ。

 覚えてないの?」

「えー!?覚えてない!」

東京でのつらいできごとが、まるでうそのようだった。

ゆきえが、何か悩みがあって来たことは、

みんなも分かっていたが、

あえて、その話を聞こうとはしなかった。

笑い声が、夜おそくまで続いた。


6畳ほどの和室に、ゆきえの布団が敷かれた。

今日はゆっくり眠れそうだった。

そのときだった。

廊下を隔てた隣の部屋から、

大きな叫び声が聞こえた。

久美子の声だ。

ゆきえは、慌てて部屋を飛び出した。

「どうしたの?」

「お腹が・・・あかちゃんが・・・」

幸典は、落ち着いて行動しようと努めていた。

「すぐに、病院へ。

 ゆきえちゃん、手伝って。」

「うん。」

幸典と、ゆきえの2人で、久美子を両脇から支えた。

「歩けるか?」

「うん・・・」

その言葉とは裏腹に、久美子は苦しそうだった。

伸介と敏江も起きてきた。

「病院へ電話しとくから。」

なんとか、久美子を車まで運び、病院へと向かった。

あとから、おじとおばも別の車で向かった。



第二十二話 新しい命


病院の急患用入り口に着くと、

すでにに看護師が待っていて、

寝台車に載せられた。

「久美子ねえちゃん、がんばって。」

「うん。」

苦しみながらも、久美子は笑顔を見せた。

他の家族も、みな口々に、がんばれを言った。


そして、久美子を乗せた寝台車が、

手術室へと消えていった。

その後から、夫の幸典だけが、つきそいに入った。


3時間ほど経過しただろうか。

まだ、一向に、生まれる気配がなかった。

「予定日よりだいぶ早いけんの、

 ちと時間がかるんかもしれんのう。」

伸介が厳しい表情で言った。

敏江は黙ったままだった。

時計は午前3時をまわっていた。


すると、手術室から看護師の出入りが激しくなった。

奥では、機器の警報音がけたたましく鳴っていた。

たまらず、伸介が看護師を呼び止めた。

「久美子は、どないな具合ですか?」

「今はなんとも・・・

 医師をはじめ、最善を尽くしておりますので・・・」

そういい残すと、看護師はまた手術室へ入っていった。


「久美子姉ちゃん、大丈夫かな・・・?」

ゆきえは、心配と不安で、手の震えがとまらなかった。

その手をつかんで、敏江が言った。

「大丈夫。久美子、がんばりよるけん。」

伸介も大きくうなづいた。


6時、東の空がうっすらと明るくなってきた。

そのとき、手術室の奥で、大きな元気のいい泣き声が聞こえた。

しばらくして、幸典が出てきた。

「長い時間、ありがとうございます。

 男の子です。」


難産だった。

途中まで、自然分娩だったが、うまく出て来れずに、

結局、帝王切開となったのだった。

苦しみを乗り越えての、喜びだった。

夜が明け、久美子も病室へと移された。

みんな、一度帰ったあと、病室へ入った。

病室では、ベッドの上に、

久美子と、その横に、小さな寝顔があった。


「かわいい。」

ゆきえが近寄った。

「抱いてみて。」

「いいの?」

「うん。」

ゆきえは、慣れない手つきで、赤ちゃんを抱いた。

まだ、目も見えない、生まれたての赤ん坊。

それでも、新しい命が、力強く生きていた。

あんな苦しい目にあっても、力強く。

ゆきえの目に、涙がこみ上げてきた。

「久美子姉ちゃん、体は大丈夫?」

「うん、大丈夫。

 生まれてきてほしかったから・・・

 この子に会いたかったから、

 がんばったよ。」

「すごいよ。姉ちゃん。」


ゆきえは、病院の帰り、みんなと別れ、

一人、高台の寺に行った。

昔、よく来た場所だった。

そこからは、港と海の向こうに本州の陸地が一望できた。

太陽に照らされた海を見ながら、

ゆきえは、つぶやいた。

「帰らなきゃ。」


伸介の家に戻り、帰り支度をした。

支度と言っても、着の身着のまま。

かばん一つだった。

廊下から、敏江が声をかけた。

「パジャマはそのままでいいけんね。」

「あ・・・」

「もう、行くんじゃろ。」

「はい。3時の船に乗ろうかと。」

「じゃあ、すぐじゃね。

 ちょっと、待っちょき。送っちゃるけん。」

そう言うと、敏江は外へ出て行き、

畑用の軽トラのエンジンをかけた。


港に着くと、もう折り返しの船が着いていた。

軽トラから降りたゆきえに向かって、

敏江が、窓を開けて声をかけた。

「実家にも顔だすんよ。心配しよってじゃけ。」

「はい。」

「しんどいこともあるじゃろうけど、

 つらくなったら、いつでも帰ってきんさい。」

「ありがとうございます。」

その言葉で、余計に勇気がわいてきた。

そして、ゆきえは、桟橋を渡り船へ乗り込んだ。

船が桟橋から離れ、次第に島が小さくなっていった。

ゆきえは、島を目に焼き付けた。

不思議と涙は出なかった。



第二十三話 逆境


「ばかやろう!どう始末してくれるんだ!」

「申し訳ありません。」

橋本は、ゆきえと一緒に、ひたすら頭を下げた。

プロデューサーはカンカンだった。

それでも、二人は謝り続けるしかなかった。


部屋を出て歩きながら、ゆきえは橋本に謝った。

「すみません。」

「いや、当然だ。おれにも半分責任がある。」

「プライベートを仕事に持ち込むなんて、

 プロとして恥ずかしいです。」

「ああ。その気持ちを忘れないでくれ。

 あと、テレビが2件と、雑誌関係が2件。

 この2日でキャンセルした仕事だ。

 全部、謝って回るぞ。」」

「わかりました。」

「今日はこれから、

 朝売テレビのバラエティーの収録だ。

 気持ちを切り替えて、がんばれよ。」

「あの・・・」

「なんだ?」

「わたし、気持ちの整理はつきましたから。」

「うん、すまない。」

「切り替えて、がんばります。」


テレビ局に着いて、楽屋のドアの前でフーッと深呼吸して、

気合を入れなおした。

「おはようございます。」

しかし、周りの目は冷たかった。

化粧台の鏡の前で、あるタレントがメイクしながらつぶやいた。

「まったく、何様のつもりよねえ。

 勝手にドタキャンして、何事もなかったようにご出勤か。」

お昼の生番組で、ゆきえの穴を埋めた、

柳井裕子というタレントだ。

ゆきえ同様、モデル出身で、

以前は、同じ事務所の先輩だった。

後輩の穴埋めをさせられ、虫の居所がわるかった。


ゆきえは、すぐに裕子のそばへ近寄り、謝った。

「大変、ご迷惑をおかけしました。」

「いいのよ。こっちは出番が増えて。

 いつも暇だからね。

 賞味期限を過ぎたタレントなんて、こんなもんよ。

 あなたも、そんなことやってたらすぐだからね。」

きついイヤミだった。

しかし、正直、重い言葉だった。


そこへ、タレント仲間で同い歳の小森れなが、

ゆきえの腕をつかんで、部屋の隅へ引っ張った。

「気にしなくていいからね。

 あんな、ババァの言うことなんて。

 売れなくなったもののヒガミだから。」

「れなちゃん、ありがとう。

 でも、半分以上、当たってるから。」

「ゆきえちゃんは努力してるじゃない。

 柳井さんなんて、過去の栄光だけで、

 何の努力もしてないんだもん。」

「でも、迷惑かけたし・・・」

「これから、また、がんばればいいのよ。」

「うん。」


テレビの収録が始まった。

何があっても、画面では笑顔。

その場を楽しむことに努めた。

「少し、お休みされたようですが、

 なにかあったんですか?」

と、司会がゆきえに際どい質問をぶつけた。

「ええ、ハナコが病気で死にそうだったので、お見舞いに。」

「ハナコさん・・・ですか?」

「あ、実家の犬です。」

と、冗談交じりにかわした。

そのやり取りに、雛壇の最上段から、

柳井裕子の冷めた視線が向けられていた。


収録が終わり、この日の仕事が終わった。

夜8時には、マンションへ帰った。

ソファーに沈みこみ、フーッとため息をついた。

明るくふるまう分、その倍の疲れを溜めこんでいた。


そのとき、ゆきえの携帯電話が鳴った。

さっき共演した、小森れなからだった。

「あ、ゆきえちゃん?」

「うん。」

「今、飲んでるんだけど、

 ちょっと出てこない?」

「ごめん、今、そういう気分じゃないの。」

「お願い。

 男の人と一緒なんだけど、

 一人じゃ不安なの。」

「・・・」

「お願い。」

「うん。わかった。」

そう答えると、ゆきえは、重い腰を上げた。


れなから聞いた居酒屋に入った。

奥の座敷に、れなと、一人の男性が座っていた。

最近、合コンで知り合ったという、

その男は、吉岡と名乗った。

貿易関係の自営業をやっていて、羽振りが良さそうだが、

服装やしゃべり方は丁寧だった。

「ゆきえさん、テレビで見るより美しいです。」

「そんな、お上手ですね。」

ゆきえは、いつもの愛想をふりまいた。



第二十四話 誘惑


しばらくして、3人は、

吉岡の行きつけのバーに場所を移した。

中は、カウンターと、

立ち飲みのテーブル席が数脚あって、

けっこうな人でごった返していた。


3人はカウンター席に座り、それぞれ、飲み物を頼んだ。

しばらくして、れながトイレに立った時、

吉岡がゆきえに話しかけた。

「ゆきえさん、仕事、大変なんでしょう。」

「でも、みんな応援してくれるから・・・

 それが、励みで。」

「がんばってるんですね。」

「ええ。」

「すごいなあ。

 それに引き換え、私なんてダメですよ。」

「そんなこと・・・

 だって、貿易会社を経営してるんでしょ?」

「いやあ、ダメだなあ。

 社員の前では、”できる社長”のふりしてるけど、

 プレッシャーに押しつぶされそうなんです。」

「そうなんですか?」

「先日、海外の取引先が倒産しちゃったんですよ。

 1億くらいの回収ができなくて。

 それに、別件で、お客様からのクレームもあったりなんかして。」

「大変なんですね。」

「こうやって、飲んでる時くらいですよ。

 そういうこと忘れられるのは。」

「実は、私も・・・

 最近、結構つらくって。」

「つらいって?」

「仕事、休んでしまったこととか、

 けっこう責められて・・・。」

「そうなんですか。」

「プライベートなことも、いろいろあるんですけど、

 全てを押し殺して、

 テレビの前では笑顔でいなきゃいけないし。」

「そうですよね。」

「あ、でも、そんなことは、当り前で、

 みなさん、やってることなんです。」

「・・・」

「がんばらなきゃ、いけないんです。

 タレントになるために、いろんなものや、

 人との関係を捨ててきたんですから。」

「音楽でも、かけましょうか?」

「え?」


吉岡は、ゆきえを奥のVIPルームへ案内した。

そこは、カラオケルームになっていて、

防音構造となっていた。

ゆきえをソファに座らせた後、

吉岡は、カラオケの機械を操作し、

R&Bっぽい洋楽を、大音量でかけた。


「いいんですよ、ここでは。

 素の自分に戻っても。」

「そんな・・・」

「泣きたかったら、泣けばいいんですよ。

 だれも見てないですから。

 なんだったら、私も向こう向いてましょうか?」

「・・・」

ゆきえは、はりつめていたものが、

プツンと音をたてて切れたような気がした。

酒の力もあってか、疲れが一度に出てしまったか、

涙があふれてきた。


ゆきえは、両手で顔を押さえ、

声を出して泣いた。

泣き声は、音楽でかき消された。

「泣いていいんだよ。」

吉岡はゆきえの肩にそっと手を置いた。


しばらくして、吉岡が合図すると、

店員が小さな箱を持ってきた。

吉岡は、その中から煙草のようなものをとりだし、

火をつけ、一口だけふかすと、

それを、ゆきえにさしだした。

「すーっと、気持ちよくなるよ。」

「あ、いえ。私は・・・」

「大丈夫だよ。ほら。」

吉岡が、もう一口吸って見せ、気持ち良さそうに微笑んだ。

「気持ちよく・・・?」

何もかも忘れられる気がした。

吉岡の言う通りにすれば、楽になれる気がした。

部屋に広がっていく煙に、過去の思い出や、

つらいことや苦しいことが、

映し出されては、消えて行った。


小さいころ、歌手を夢見てたこと、

家を飛び出したこと、

瀬戸内海の親戚、

理不尽なスポンサーの仕打ち、

自転車・・・

橋本・・・

橋本からの逃亡・・・

街の路地へ・・・

だれかに手を引かれ・・・

スクランブル交差点・・・

「あ・・・」

亮さん!


ゆきえは、ハッと我に帰った。

よく見ると、辺りのテーブルの上には、

錠剤の空のようなものが散乱していた。

「あの、わたし・・・」

「どうしたんですか?」

「帰ります。」

「いいじゃないですか。もう少し。」

吉岡は、ゆきえの腕をつかんだ。

「帰してください!」

吉岡の手をふりほどき、ゆきえはVIPルームから廊下へ出た。

隣のVIPルームの扉の隙間から、

数人の男女が、服を脱いで入り乱れているのが見えた。

廊下をふさぐように、さっきの店員が前から近寄って来た。

後ろからは、吉岡が追ってきた。

ゆきえは、店員の横をすり抜けようとしたが、

腰のあたりに腕をまかれ、つかまってしまった。

「助け・・・」

叫ぼうとしたゆきえの口を、吉岡がふさいだ。

「部屋へ戻せ。」

吉岡が店員に言った。

店員は、さっきのVIPルームにゆきえを押し込み、

ゆきえの体をソファに抑えつけた。

「きゃあっ」

ゆきえは、両腕を背中に回されガムテープで留められ、

身動きができなくなった。



第二十五話 逆光の中に


吉岡は、ポケットから錠剤を一粒取り出し、

自分の飲みかけのスクリュードライバーに落とした。

オレンジ色の中に、泡をたてて錠剤が溶けて行くのが見えた。

ゆきえの顔にグラスを近付け、

そしてさらに、口元へと近付けた。

「やめて!」

ゆきえは顔をそむけたが、

店員が、頭を押さえ、ゆきえの口を無理やり開いた。

吉岡が、ニヤリと笑った。

「調子に乗って好きにやってると、いろいろ反感買うんだよ。」


そのとき、廊下で大きな足音がしたかと思うと、

勢いよくVIPルームのドアが開いた。

「ゆきえちゃん!」

見上げると、そこには、

廊下の蛍光灯が逆光で見えにくかったが、

間違いなく、平山が立っていた。


「何やってんだ!見張りは!?」

吉岡が叫ぶ間もなく、

平山は、吉岡と店員を突き飛ばし、

ゆきえを抱きかかえた。

廊下に出て、店のホールを勢いよく駆け抜けた。

廊下の入り口には、店員が腹を押さえてうずくまっていた。


行く手には、1人の店員が出口をふさいでいた。

「走れるか?」

「はい。」

平山は、ゆきえを立たせ、

出口の店員を突き飛ばした。

そのまま店の外に出て、2人は懸命に走った。

すぐに、店員が数名、追ってきた。


ゆきえは、はいていたヒールを脱ぎ捨て、

裸足で走った。

それでも、店員が追い付いてきた。

人通りの少ない裏通りを抜け、

大通りに出た。

店員は追走をやめない。


タクシーもすぐにはつかまりそうになかった。

「くそっ、しかたない。」

平山は、そうつぶやくと、

ハザードを点滅させて停車している、

コンビニの配送トラックに飛び乗った。

「早く!」

躊躇するゆきえの腕を引っ張って、

助手席に乗せた。

「右よし、左よし! 後方確認ヨシ! 出発進行!」

走り出したコンビニトラックの後ろからは、

追いかけてきたバーの店員と、

コンビニトラックの運転手が追いかけてきた。

「すぐ返すからねー、ごめんね、ごめんねー。」


トラックがスピードを上げると、

店員と運転手も、さすがに追ってはこれなかった。

「なんであそこにいたんですか?」

ゆきえは、少しホッとして、

平山に問いかけた。

「たまたまだ。昔のダチと飲んでたんだよ。

 あの店は、5〜6回目くらいだったけど、

 なんか怪しいとは思ってたんだ。

 まさか、薬やってたとは・・・。」

「私がわかった?」

「ああ、奥の部屋に入っていくのが見えた。

 そのあとで、なんだか騒がしい感じだったから、

 心配になって見に行ったんだ。」


数キロ走って、タクシーを見つけると、

平山は、ゆきえをおろした。

「亮のアパートへ行け。

 おれから連絡しとくから。」

「分かりました。

 平山さんは?」

「このトラックは、GPS付きだ。

 このままだと、居場所がバレちまう。

 どこか、適当な場所で乗り捨てて行くよ。」

「気をつけて。」

「ああ。」

「あ、」

「なんだよ。」

「平山さん、ありがとう!

 かっこよかったよ。」

「おう。」

トラックは、急発進して、

夜の車の流れに飲まれていった。



第二十六話 やり残したこと


ゆきえが、亮のアパートの前でタクシーを降りたとき、

すでに、亮が外に出て待っていた。

「ひさしぶり。大変だったね。」

亮は、ゆきえを部屋に案内した。

急なことで、部屋はたいして片付けられてなかった。

独身男が住む、6畳一間のアパートに、

流行の先端の服をまとった、トップアイドルが座っている。

しかし、その足元は、

ストッキングが破れ、血がにじんでいた。


しかし、ゆきえは、安心した顔で口を開いた。

「初めてだね。」

「何が?」

「亮さんの部屋、初めて上がった。」

屈託のない笑顔だった。

「ごめんね。汚い部屋で。」

「そんなこと・・・あるね。(汗)」

「ほんと、良かった。助かって。

 平山さんがいて、よかった。」

「うん。

 でも、亮さんも助けてくれたんだよ。」

「ん?だって、おれは何も・・・」

「あはは。」

「はは・・・?

 それにしても、危険なところだね。芸能界って。」

「これは、罠かも。」

「罠?」

「うん、なんとなく・・・」

「だれかが手を回したってこと?」

「その吉岡っていう男が言ってた。

 調子に乗ってると、みんなから反感買うんだって。」

「心当たりは?」

「う・・・ん、ないこともないけど。」

「誰だよ?」

「うん・・・。」

「それって逆恨みじゃん。

 そんなひどいことをされる筋合いはないよ。」

「うん・・・」

「もう、やめちゃいなよ。芸能界なんて。」

「え?」

「こんな目にあってまで、いるところ?

 芸能界って。」

「・・・」

「夢なんだろうけどさ・・・、

 もう十分頑張ったよ。

 ゆきえちゃんのためだ、やめた方がいい。」

「わたし・・・」

「・・・?」

「わたしも、半分はそう思う。

 だけど、まだ、やり残したことがあるの。」


時計は2時を回っていた。

話してるうちに、ゆきえは座ったまま寝てしまった。

ほっとして、疲れが出たのだろう。

亮は、ゆきえを抱きかかえ、

自分のパイプベッドに寝かせた。

その寝顔に、しばらく見とれてしまった。

それにしても、平山は大丈夫なんだろうか?

携帯に電話しても出なかった。


朝、亮はベッドの脇に、毛布1枚で寝転がっていた。

携帯電話の音で目が覚めた。

すでに8時を回っていた。

「おはようさん!」

平山からだった。

「大丈夫なんですか?

 連絡もないから。」

「おー、気を遣ってやったんだよ。

 すっきりしたか?」

「怒るよ、平山さん!人が心配してりゃあ。」

「ははは、わりーわりー。」

「ゆきえちゃんだって、今はそういうときじゃないでしょ。」

「そういうときだったら良かったのか?」

「また、人の上げ足を!

 俺には、恵理がいるんだから、

 そんなことしねーよ。」

「ははは、そうだな。」

「そんなことより・・・」

「ああ、トラックはうまく乗り捨てた。

 心配するな、同じ系列のコンビニに返しといたから。」

「そこは心配してないっ!

 ・・・あれ?」

「どうした?」

「ゆきえちゃんがいない。」


携帯電話で平山と話しながら、

やっと、頭も冴えてきて、周りを見渡すと、

そこに寝ているはずのゆきえの姿がなかった。

見ると、テーブルの上に書置きがあった。


「おはよう。

 迷惑かけてしまってごめんなさい。

 亮さんが起きたら、気持ちが揺らいじゃうので、

 寝てるうちに、家に帰ります。

 昨日は、ありがとう。

 もう少しだけ、がんばってみます。」


昨夜、ゆきえは、こう話していた。

「自転車の旅・・・、

 途中で止まってるの。

 最後まで・・・、鹿児島の佐多岬まで、

 やりとげたいの。

 だって、それが始まりだったから・・・。

 だから、戻らなきゃ。」

平山も心配した。

「大丈夫かよ。」

「さあ・・・、だけど、おれにもそれ以上は・・・」



第二十七話 再スタート


見上げると、関門大橋。

川のような幅の関門海峡の向こうは九州。

チャリの旅はここで止まっていた。

ゆきえのたっての希望で、再スタートさせてもらった。

海の下を通る関門トンネルには歩行者専用の道路があって、

ゆきえは、そこを通り向けた。


3月になり、暖かい九州地方では、

花の便りも届き始めていた。

河川敷は、菜の花の黄色で埋め尽くされていた。

太陽が出ていれば、それほど寒くなく、

自転車のペダルを踏んで、

熱くなったゆきえの体を、風が心地よく冷やしてくれた。


あのとき、あの店で、

トイレに行ったまま、いなくなった小森れなから、

次の日、ゆきえに電話があった。

「ゆきえ、昨日は大丈夫だった?

 あたし、トイレに行ったら、

 急に後ろから口を押さえられて、

 別室に連れて行かれたの。

 スキを見て、逃げ出したんだけど・・・

 怖くて、店に戻れなくて。

 ゆきえを一人にしてしまって、ごめんなさい。」

そして、こう続けた。

「これは、きっと罠よ。

 だれかが、わたしたちを落とし入れようと・・・」

ゆきえは何も言わなかった。

柳井裕子・・・?

様々な思いを振り払い、ゆきえはペダルを踏んだ。



亮は、自分が開発した新しい方法で、

実機に改良を加えていた。

既に納入した、阪神製鉄所の設備にも、

改良を加え、データをとっていた。


数日間出張だったので、恵理がぐずっている。

「亮くん、まだ帰って来れないの?

 私と仕事とどっちが大事なの?」

「そんなの、恵理にきまってるだろう。」

「じゃあ、明日帰ってきて。」

「無理だよ。」

「じゃあ、あとどれくらい?」

「1週間くらいかかる・・・かな。」

「えー!そんなに?」

「うん、ごめんね。」


出張先のホテルの部屋で、電話を切った後、

ビールを片手に、ベッドに腰掛け、テレビをつけた。

そこには、必死に自転車と格闘するゆきえの姿があった。

3月の、まだ冷たい風を受け、

ペダルを踏んで紅潮する頬が、

なんとも可愛らしかった。

さすがに、水着ではなかったが、

かなりセクシーなレオタード風のスポーツウェアだった。

時には、向かい風に悩まされながら、

重いペダルに、細い体の全体重を集中した。

サドルからお尻を浮かせ、

体全体でペダルを踏んだ。

その一生懸命な姿が、印象的だった。


あと、1週間くらいで鹿児島へ入るようだ。

番組の途中で告知があった。

ゴールの佐多岬で、ゴールの瞬間をお祝いするため、

ファンが集まってのイベントが開催される。

亮は、ゆきえのゴールの瞬間を見届けたい気持ちに駆られていた。

恋愛感情は別にして、

これまで、場所は違えど、

それぞれの夢に向かって、共に戦ってきた。

言わば戦友の、夢が完結する瞬間を見届けたかった。

当然、恵理に話せば怒るに違いない。

しかし、こういう気持ちを持ったまま、

もう、これ以上、恵理との付き合いを続けて行くわけにはいかなかった。



「ママチャリの旅」の撮影をつづけながら、

ゆきえは、バラエティーやCM、雑誌と言った仕事を、

精力的にこなした。

柳井裕子と、仕事が一緒になったのは、

あの”事件”以来、半月余りが過ぎたころだった。

裕子は、いつものように楽屋の鏡の前で、

メイクをしながら、嫌味をこぼした。

「まだ、続いてるのね。

 いい根性してるじゃない。」

いつもなら、聞き流すゆきえだが、

そこに居たのは2人だけということもあり、

最も疑いの強いこの女に対し、

つい、言い返してしまった。

「わたし、負けませんから。

 どんなことをされても、負けませんから。」

「わたしが何をしたって言うの?」

「とぼけるんですか?」

「口が悪いのはいつものことよ。

 あきらめてちょうだい。」

「そんなことじゃないでしょう!

 あんなの犯罪行為じゃないですか!」

「だから、なんのこと!?」


柳井裕子が犯人じゃないのか・・・?

ゆきえは、とっさに裕子を試してみた。

「吉岡さん、全部しゃべったんです。

 あなたから、指示されたことも。」

「吉岡?だれよ、その人。」


 本当に、何も知らない・・・?

 じゃあ、だれの仕業?


面識のない吉岡自身の判断とは思えない。

きっとだれかに依頼されたに違いない。



第二十八話 佐多岬


阪神製鉄所での仕事も明日で終わり。

亮は、最後のデータ収集にとりかかっていた。

3月も終わりに近づき、

桜前線も北上中だというのに、

この日は朝から寒く、雪がちらついていた。

そのとき、現場作業員から連絡が入った。

「水処理設備へ送水する配管が破裂しました。」

古い配管ではあったが、

今朝の冷え込みで凍結してしまったらしい。


工場関係者が復旧にあたったが、

亮も、スコップを手に取り、

辺りに散らばった大量の泥の撤去作業に当たった。

汗だくで、スコップで土を運びながら、

なぜか、ゆきえと初めて出会ったときのことを考えていた。


交差点で、突然のキス。

待ち伏せ。

港の公園。

満開の桜。

屈託のない笑顔。

「夢なの・・・」と、遠くを見る瞳。


この日、ホテルに戻ったのは、午前1時を過ぎていた。

今夜は、YUKIEが出演する、

「進め!突撃アイドル」はやってなかった。

かわりに、消費者金融のCMに

YUKIEが出ていた。

いよいよ、明日、ゆきえのゴールの収録がある。

深夜の若手お笑い芸人が出る番組でも番宣していた。


「鹿児島へ行こう!」


亮の頭の中では、

それしか選択肢がないように思えた。


しかし、恵理になんて言おう。

・・・正直に言うしかない。

深夜だが、思い切って、携帯のダイヤルボタンを押した。

5回くらい呼び出しがなった後、

眠そうな声で、恵理が電話に出た。

「どうしたの?こんな夜中に。」

「ごめん。どうしても、話しておかなきゃならないことがあって。」

「なに?」

「ごめん、明日、帰れなくなった。」

「仕事、長くなったの?」

「そうじゃないんだ。

 そうじゃないんだけど・・・。」

「亮くん、何かあったの?」

いつもそうだった。

亮の気持ちが揺れているときは、

見透かされたように、

恵理の口から、怒りではなく、

素直な言葉が返ってくる。

「何か、良くない知らせなの?」

「おれ、明日、鹿児島へ行く。」

「え?」

「おれ、やっぱり・・・」

「やだ。聞かない!」

ブチッと通話が切れた。

その後、何度かけても、恵理は電話に出なかった。



「鹿児島は、もう桜が満開か。」

翌日、仕事の休みを取って、

亮は、鹿児島へやってきた。

鹿児島空港に降り立ち、そこからバスを乗り継ぎ、

佐多岬の公園にやってきた。

薄曇りの空に、太陽が時折顔をのぞかせては、

暖かさを運んできた。

公園の桜が、満開だった。


ゆきえは、佐多岬のゴールの10kmほど手前で、

立ち往生していた。

あと、山を1つ越えなくてはならないが、

もう、膝が限界に達していた。

ここのところ、連続の撮影で、

1週間、毎日、自転車に乗りっぱなしだった。

ペダルに足をかけ、踏み出そうとするが、

膝に激痛が走る。

ペダルに足をかけては、止まり・・・を繰り返した。


橋本も心配そうに声をかけた。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。」

そう言うと、また、ペダルを踏み出した。

すると、足に力が入らず、

ペダルから足が滑り落ちた。

そのまま、反動で反対側へ転倒してしまった。


亮が待つゴール地点では、

すでに数百人のファンが集まっていた。

ゴールのゲートの飾りつけの周りには、

これまでの名場面のパネルが展示されたブースや、

キャラクターグッズを販売するテントが仮設されていた。

そして、トラックの荷台に設置されたオーロラビジョンには、

坂道と格闘しながら峠を越えようとする、

YUKIEの姿が映し出されていた。

集まったファンたちは、祈るように、

画面から目を離さなかった。


亮を始め、ファンたちは、

峠の向こうから、YUKIEの姿が見えてくるのを、

今か今かと待ちわびていた。

裏腹に、YUKIEの自転車は、前に進まなかった。

徐々に西へと傾いていく太陽が、

時間の経過を教えてくれた。



第二十九話 ゴール


そのときだった。

森の中から、撮影車が現れ、

少し距離を置いて、YUKIEが現れた。

とても、ゆっくりと、

今にも倒れそうなくらい、ゆっくりと、

自転車を前に進めていた。

ひとこぎ、ひとこぎ、踏みしめるように、

最後の力を搾り出すように、

ゆっくりと、ゴールに近づいた。


やがて、撮影車はスピードを上げ、コースをはずれた。

残されたYUKIEは、

孤独に、ただもくもくとペダルをこぎ続けた。

周りのファンたちも固唾を呑んで見守った。

だれも手助け出来ない、

孤独な闘い、そして自分自身との闘いだった。


だんだんと、YUKIEの姿が大きくなってきた。

ペダルの重さに苦しむ、苦悶の表情が、

肉眼でも分かるようになった。

いつしか、ファンから声援が沸き起こった。

「YUKIE! YUKIE!」

亮も、自分でも知らないうちに声を嗄らしていた。

「YUKIE! YUKIE!」

大声援だった。


そして、YUKIEの目にもゴールが見えたのか、

その嬉しさからか、

残り数百メートル、立ちこぎで、

ぐんぐんとスピードを上げた。

そのまま、大勢のファンが見守る中、

YUKIEは、ゴールのゲートを駆け抜けた。

観衆からの拍手と喝采の雨、

そして、満開の桜が、

YUKIEのゴールを祝福した。


大勢のファンから握手攻めに遭いながら、

YUKIEは、自転車を停めた場所から動けないでいた。

もみくちゃにされながらも、

「ありがとう。」

「ありがとう・・・。」

と、何度も、ファンに応えていた。


スタッフたちの手により、ファンの間に道が作られ、

足を引きずりながら、やっとのことで、小さなステージに上がった。

音楽が流れ、司会者による短いMCのあと、

YUKIEが、息を切らせながら、ファンに向かって挨拶をした。

「みなさん、最後まで応援してくれて、

 どうもありがとう。

 みなさんの声援が、とても励みになりました。

 みなさんのおかげで、最後まであきらめず、

 ゴールすることが出来ました。

 今は、感謝でいっぱいです。

 途中、旅のトラブルとか、プライベートも、

 いろいろあって、ゴールは無理かなと思うことも・・・。」

涙で声が出ない。

会場から、「ゆきえ、がんばれー!」と、掛け声がかかる。

「ありがとうございます。

 ・・・わたし気がついたんですが、人生も旅のひとつなんですね。

 一歩一歩、歩いていかないと前には進めない・・・。

 そんなことを、この自転車の旅を通して、

 学んだような気がします。

 それと、みんな一人じゃないです。

 まわりに、応援してくれる人は必ずいます。

 これから先の人生も、

 みなさんに感謝しながら、がんばっていきたいと思います。

 ありがとうございました。」


会場から、割れんばかりの拍手と、

YUKIEコールが沸き起こった。

亮には、引退の言葉にも聞こえた。

スピーチが終わり、YUKIEは、撮影車へと消えていき、

鳴り止まないYUKIEコールも、

次第にまばらになっていった。

亮は、確かに見届けた。

「これでいいんだ。」

会場の端で、感慨に浸りながら、

亮も、家路につく人並みに続こうとしていた。


そのとき、後ろから肩をたたかれた。

振り返ると、帽子を深くかぶり、眼鏡をかけたゆきえがいた。

「ゆ・・・」

驚いて、思わず出しかけた言葉を、

ゆきえの手が抑えた。

「みーつけた。」

ゆきえは、愛らしく、無邪気に笑って見せた。

そして、2人は、会場の端の、

人のいないほうへと歩いた。


海沿いの駐車場の脇には、桜が満開だった。

いつか、満開の桜の歩道を歩く、

ゆきえの横顔に引き込まれていった、

あのときと同じ光景だった。

「来てくれたんだ。」

「うん、どうしても、ゴールを見届けたくて。」

「亮さんのおかげだよ。」

「そんなことないだろう。

 あれだけ、多くのファンの声援があったじゃない。」

「それもそうだけど、

 亮さんは別。

 亮さんの存在が、元気の元なんだ。」

「それを言うなら、おれのほうだよ。」

「え?」

「おれ、ゆきえちゃんがあんなにがんばってる姿を見て、

 自分も仕事がんばろうと決めたんだ。」

「そうなんだ。」

「うん。

 それでさ、おれ、夢がかないそうなんだ。」

「ほんと?」

「夢って言うか、おれの場合、目標なんだけど、

 今の自分の仕事が、世の中で役に立ちそうなんだ。」

「うん。」

「開発した装置のデータが集まったら、

 展示会で、お客さんの前で発表する。

 このおれが・・・だよ。」

「おめでとう!

 亮さん、がんばったんだね。」

「発表までうまく行ったら・・・」

「うまく、いったら?」

「そしたら、もう一回、ゆきえちゃんに、

 おれの想いを伝えたい。」

亮は、ゆきえを見つめた。



第三十話 旅立ち


ゆきえは、亮の真剣な表情に、思わず吹きだしてしまった。

「あはははは・・・」

「笑うところじゃないよ!」

「あ、ごめん、ごめん。

 だって、亮さんらしいというか・・・。

 押しが弱いと言うか。」

「あれ?そう?」

「ありがとう。

 でも、亮さんには恵理さんがいるじゃない。」

「恵理には話したよ。」

「なんて?」

「ゆきえちゃんに会いに行く・・・って。」

「そしたら?」

「それから話を聞いてくれないけど・・・、

 ちゃんと、話をする。」

「そうなんだ・・・。」

「うん。」

「期待持たせると悪いから、

 はっきり、断るね。

 ごめんなさい。」

「え・・・、今断らなくても・・・」

「うん、でもね。

 わたし、亮さんに甘えそうなの。

 やさしすぎるよ、亮さん。

 ここで甘えたら、わたし、一生ダメなんじゃないかと思う。

 結局、転んでも、起こしてくれる人がいるというか・・・。

 そのうち、わたし、きっと嫌な女になっちゃう。」

「そんなことないよ。」

「自分のことだから、分かるの。」


亮は、空を仰いだ。

「ゆきえちゃんは強いよ。さすがだよ。

 おれ、大好きだよ。」

「ありがとう。

 でも、わたし、今の状況を、

 自分で乗り越えたいの。」

「ゆきえちゃんに、こうして断られるの、何回目だろう。

 でも、この気持ちはどうしようもないんだ。

 たとえ、100回でも、同じ気持ちをぶつけるよ。」

ゆきえは、亮の目に力強さを感じた。

その強さに、一瞬、ひるんでしまう自分に気がつき、

そんな自分を悟られないよう、言葉を続けた。

「わたし・・・100回目も断わるから。」

「そしたら・・・」

「そしたら?」

「101回目の時を待つよ。

 いつまでも、ゆきえちゃんを待ってる。」

ゆきえは、その言葉に、またひるんでしまい、

言葉を失った。

そして、少しだけ笑顔を見せた。



自転車旅行のゴールから半月余りが過ぎた某日、

それは突然の出来事だった。

亮が、仕事から帰宅して、テレビをつけると、

テレビ各局でYUKIEの引退会見を中継していた。

「精神的なこと」

「海外へ行って勉強したい」

が主な理由だった。


「いいのかよ。黙って行かせて!」

翌日、平山が亮につめよった。

「おれに止める権利はないよ。」

「見送りくらい行けよ!

 必ず帰って来いくらい、言ってもいいだろ。」

「だって、出発日もわかんねえし。」

「そんなの、携帯で聞けばいいじゃんか。」

「まあ、そうだけど・・・。」


成田空港のロビーは、

ゴールデンウイーク前のオフシーズンということもあり、

人通りはまばらだった。

ゆきえは、紺のベレー帽とサングラス、

そしてクリーム色の春コートに身を包み、

大きなスーツケースを引きながら、

イギリスへ向かう飛行機の出発ゲートへと向かった。


チェックインカウンター前の座席に座っていると、

30歳くらいの、小太りの青年が話しかけてきた。

「YUKIEさんですよね。ファンなんです。

 握手してもらえませんか?」

「あの・・・」

「イギリスへ行くんですか?」

「人違じゃないですか?」

海外へ行けばこういうこともなくなる。

雑音のないところで静かに、人生を見つめ直したいと、

ゆきえは考えていた。

そして、これから、なにを目標に生きていくべきかを。


カウンターの横にある大画面のテレビでは、

「小森れな、麻薬所持疑惑で逮捕」のニュースが、

流れていた。

どうやら、吉岡と繋がっていたのは、

小森れなのようだった。

ゆきえは、仲が良かっただけに、

裏切られた気持ちでショックだったが、

もう、そんな芸能界に戻ることもないと思うと、

意外にさばさばしていた。


カウンター上の表示が、

「準備中」から「機内へご案内中」に変わり、

場内アナウンスが流れた。

ふう・・・と息を吐いて、

ゆきえは、席を立った。

「ゆきえちゃん!」

一瞬、後ろから、亮の声が聞こえた気がして振り返った。

しかし、そこには誰もいなかった。

ゆきえは、気をとりなおして歩き出し、

飛行機に乗り込んだ。


飛行機は、滑走路を加速し、離陸したかと思うと、

みるみるうちに高度を上げていった。

亮は、空港の脇の道端に車を停めて、

ゆきえの乗った飛行機を見上げていた。

空港までは来たものの、今、会っては行けないと思った。


ゆきえが甘えを断ち切るため、

亮の思いを振り切ってイギリスへ行く決意に対して、

その気持ちを裏切る行為に思えた。

いつかまた会える・・・そう自分に言い聞かせていた。

しかし、そんな根拠はどこにもなかった。

亮とゆきえの人生という名の2つの道には、

もう、交差点はないようにも思えた。



第三十一話 光と影


1年後・・・


亮は、東京国際展示場で開かれる、

環境機器関係の展示会で、

大勢の観客が見守る中、

自分で開発した水処理装置について、プレゼンテーションしていた。


前面のスクリーンに、

プロジェクターで、装置の構造や、

試験データのグラフが映し出された。

亮は、慣れない文章に、

手直しされた原稿を片手に、

それでも、練習した甲斐あってか、

流暢に、この装置のメリットを伝えていた。


観客の反応も上々だった。

発表が終わると、大きな拍手が沸いた。

いくつか質問も出た。

すぐに見積がほしいという人もいた。

亮は、意見や質問にも、すらすらと答えていた。


そうした観衆の最後方に、

深い帽子と、メガネで変装したゆきえの姿があった。

静かに、微笑みを浮かべながら、

時折、涙がほほを伝った。

専門的な話の内容は分からない。

ただ、亮の元気な姿と発表の成功を見て、感動していた。

「よかったね。亮さん・・・。」


発表を終えた亮に、

営業の水谷が話しかけた。

「おつかれさん、うまくいったじゃない。」

「ありがとう。」

「そういえば、一番後ろの席に、

 綺麗な女の人がいたけど・・・。

 知ってる人?」

「いや、気がつかなかった。」

「深い帽子をかぶってたけど、綺麗だったな。

 スタイルもよくて。

 この場に似合わないんで、目立ってたぞ。

 なんだ、知り合いじゃないんだ。

 紹介してもらおうかと思ったのに・・・。」

亮は、ハッとして、会場の外に出た。

が、既にそれらしい人影はなかった。

「まさかね・・・。」



展示会のドタバタもひと段落して、

亮はまた、新しい製品の開発に取り掛かっていた。

自分の机で資料を整理しながら、

ふと窓の外にある桜の木をを眺めると、

まだ蕾が多く、2分咲きといったところだった。


そのとき、1本の電話が入った。

「え?平山が!?」

対応した総務課長が大きな声を出した。

総務課長のただならぬ様子に、

社長が敏感に反応した。

「平山がどうしたんだ?」

「硫酸を含んだ廃液を、全身に浴びたみたいです。」

「本当か!」

「廃液の引き取り先で、

 抜き取り作業中に配管が破裂したそうです。

 救急車で病院に運ばれました。」

それを聞いた亮も、

全身の血が引いていく感じを覚えた。

「総務課長は病院へ行け。

 おれは、事故現場を見てくる。」

社長がすぐに指示を出す。

「総務課長、おれも行きます。」

亮が勢いよく詰め寄った。

「分かった。」


亮と総務課長が病院に着いたとき、

まだ、平山は手術室の中だった。

2人は、手術室近くのベンチに腰掛けて待った。

後から、水谷や、山城課長、

ほかの工場作業員も、数人かけつけた。


しばらくして、手術が終わり、

執刀医からの説明があった。

腕、肩、首、胸、足と、全身にわたり、

薬品による火傷。

肩の一部は、皮膚の損傷がひどく、

他の部分の皮膚を移植したと、その医師が言った。

事故現場へ行ってた社長も駆けつけた。

事故は、配管の劣化が原因だった。

平山のほかにも、数名が病院に運ばれ、

そのうち1人は、意識不明の重体ということだった。


翌日、亮と山城課長は、

見舞いに病院を訪れた。

平山は、ベッドに横たわり、

顔や手には包帯が幾重にも巻かれていた。

「どうだ、調子は?」

山城が声をかけた。

「どうもこうも・・・、このザマです。」

「痕が残るんですか?」

亮も心配そうに聞いた。

「ああ、医者が言うにはな。

 腕で顔にかかるのを防いだ分、

 腕から肩にかけてがひどいんだ。

 幸いなことに、顔は腫れがひけば、

 目立たない程度には戻るらしい。」

「顔は、元から腫れてるからな。」

山城が笑いを誘った。

「山さん、笑うと顔が痛てえんだ。

 やめてくれ。」

「はははは、わりい、わりい。」


同じく入院していた作業員のうち、

意識不明だった作業員は、死亡が確認された。

死亡者が出たことで、

新聞やテレビでも報道された。

直接の原因は、廃液の引き取り先の工場だが、

マスコミは、亮の会社にも押しかけた。

亮も含め、会社中がその対応に追われた。



第三十二話 101回目の告白(最終回)


ある日、

平山が病室のベッドで、エッチな雑誌を読んでいると、

ある中年の女性看護師が小声で話しかけた。

「今ね、ナースステーションで、

 綺麗な女の人が、平山さんの病室を聞いてたわよ。

 いつも来てる人と違うみたいだけど、

 大丈夫なの?」

「え?だれ?」

「すごく綺麗な人、平山さんも隅におけないねえ。」

「何言ってんだよ。

 そんなんじゃないよ。たぶん。」

平山には予想がつかなかった。


少しして、病室に顔を出したのは、ゆきえだった。

「おひさしぶり。」

「なんだ、ゆきえちゃん!」

「怪我、大丈夫ですか?」

「ああ、とりあえず、生きてるけど。

 あ、ごめん、こんな顔で。」

平山の顔は、既に包帯は取れていたが、

まだ、完全には腫れが引いてなかった。

「でも、元気そうですね。」

ゆきえはチラッと、ベッドの上の雑誌に目をやった。

「あ、ああ。」

平山は、慌ててそれらを布団の下に隠した。

「どうしてここがわかった?」

「新聞に出てたから、会社に電話して・・・。」

「亮に聞けばいいのに。」

「ああ、うん。」

「会ってないのか?」

「うん。」

「そういえば、イギリスへ行ってたんだよな。

 何してたの?」

「うーん、わかんない。」

「わからない?」

「気持ちをしっかり切り替えて、

 これからのことを考えなきゃと思ってたんだけど・・・。」

「だけど?」

「目標なんて見つからなかった。

 何をやっても夢中になれなくて・・・。」


ゆきえは、ロンドンに住み、

留学生向けの大学に通いながら、アルバイトで暮らした。

芸能界のことや橋本のことは、

既に気持ちの整理はついていた。

しかし、芸能界という大きな夢が終わった今、

次の目標など、何もイメージできなかった。

ただ、自転車旅行のゴールの達成感と、

あのとき、亮が言った言葉が、

強烈に頭の中に残っていた。


ゆきえは、時計を見てゆっくり立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ。」

「しばらく、日本にいるのかい?」

「たぶん・・・」

「元気でな。」

「ありがとう。」

ゆきえが、病室を出ようとしたとき、

平山が、もう一度呼び止めた。

「ゆきえちゃん。」

「はい?」

「亮を、よろしく頼む。」

「・・・」

「ゆきえちゃんさ、亮の優しさが怖いんだろう。

 一度、優しさに甘えてしまうと、それを失う怖さがある。

 わかるよ。

 でもさ、いいじゃん、甘えれば。

 怖さを恐れて逃げてたんじゃ、前には進めないぜ。

 失ったときは、そのときさ。

 ゆきえちゃんなら、そんなの耐えられるよ。

 もっとも、そうはならないと思うがね。」



さらに、1年が過ぎ・・・


海が見える丘の上に立つ白い教会。

大勢の来賓の列の間を、

新婦の手を引きながら階段を下りる平山の姿があった。

腕や、肩に、まだ傷跡が残るものの、

仕事にも復帰できるまで回復していた。


亮は、列の後ろのほうで、

幸せいっぱいの2人の姿を眺めていた。

新婦の友達に当たる恵理も出席していた。

恵理と会うのは、亮が鹿児島から帰った直後に、

一度会って以来だった。

亮が別れてほしいと言ったが、

一方的だと言って、恵理はその場では受け入れなかった。

そのまま、お互い連絡をとっていなかった。

「亮くん、ひさしぶり。」

「あ、うん。」

「元気そうだね。」

「うん。恵理ちゃんも。」

「うん、まあまあかな?」

「あのときはごめんね。いろいろ。

 それっきりになっちゃって。」

「ううん、もう大丈夫。立ち直った。」

「そう、よかった。」

「・・・」

「結局、平山さんと結衣ちゃんは、いい組み合わせなんだね。

 平山さんの顔が腫れてても、

 つきっきりで看病してさ。」

「平山さんのプロポーズの言葉、なんだか知ってる?」

「いや、知らない。」

「看病してる結衣に対して、

 今度はおれが、たとえ結衣が歩けなくなっても、

 たとえおばあちゃんになって、老々介護になったとしても、

 お前を守るから・・・だって。」

「ははは、なるほど。

 結衣ちゃんより、平山さんの方が10歳も年上だからね。」


しばらく沈黙があって、恵理が口を開いた。

「亮くんは、去年だっけ?

 結婚したの。」

「うん・・・

 あ、ごめん、はがき一枚で。」

亮は頭をかいた。

その左手の薬指には、キラリと結婚指輪が光った。

「ううん、いいのよ。

 前の女なんだから。」

「それ、嫌味?」

「嫌味に聞こえた?」

「ははは・・・。」

「わたしも、

 結局、かなわなかったな。

 ゆきえさんにも。

 亮くんの一途な気持ちにも。」

「・・・」

「亮くんは、どんなプロポーズしたの?ゆきえさんに。」

「おれ、情けないけど、

 プロポーズされたんだ。」


1年前・・・

あるとき亮は、仕事中、ゆきえから呼び出された。

急用だと会社に言って、慌てて車を飛ばした。

待ち合わせは、あの、港近くの公園だった。

そしてやはり、桜の季節だった。

亮は、海沿いのベンチに腰掛けたゆきえを見つけ、近づいた。

亮から、声を掛けようとしたとき、

ゆきえは、急に立ち上がり、振り返った。

「亮さん。」

「はい?」

「私を、お嫁さんにして!」

一瞬、時がとまった。

予期しない、ゆきえから発せられたその言葉を理解するには、

亮の頭では、数秒を要した。

その数秒が、亮には数分にも感じられ、

これまでの様々な思い出が、次から次に脳裏に浮かんでは消えた。

この公園で、桜が舞う中、

「夢なの・・・」と言ったゆきえの笑顔が、

今、目の前のゆきえと重なった。

「はい!もちろん。」


それは、ゆきえが平山を見舞いに行った直後の出来事だった。

満開の桜が、2人を包んだ。

101回目の告白は、亮からではなく、

ゆきえからだった。



                     おしまい


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― 新着の感想 ―
[一言] ゆきえさんの、どんなことがあっても夢をあきらめない姿と、主人公のひたむきな思いが伝わりました。桜や海の情景も目に浮かんできます。 楽しませていただきました。
2009/08/31 12:39 ぷ〜たろう
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