虚の海
遠く、深く
誰にも届かない場所で
虚の海
「おや」
皎夜が珍しそうに周囲を見渡した。壁も床もなく、天地さえも存在しないような暗闇。深海に似たその場所に、煌々と輝く欠片が散っている。それに触れることはできず、そしてその欠片は時を忘れたかのように動くことはない。光というものがおよそ感じられないその場所で、欠片達はその内側にのみ灯した輝きで、底のない暗闇の中を瞬いている。
立っている、歩いている。その事実を疑おうものならば、全てが崩れて果て無き地に落とされそうなその場所で、皎夜は漂う音の主を探した。
それはまだずっと遠い筈だけれど、腹の底に響くような音だと皎夜は感じた。それにしては随分と、この場所の空気は静かなままなのだ。
「どうかしたか」
「嗚呼、龍慶。どうやらほら、珍しいものが通りかかったみたいだから」
ほら、音がするでしょう。皎夜はそう言って、突然現れた人物に驚いた様子もなく微笑んだ。龍慶は腕を組んで少しだけ耳を澄ます。両目を閉じて更に集中しても、何かがいることは分かってもその形を捉えることはできなかった。
音。確かにそう感じられる何かがある。けれどこれを五感で明確に捉えることは不可能だ。龍慶はすぐに理解した。そして知識の中から、今自分達のいる境界に近い世界を、その形を選び出す。
「鯨か」
「さすが。よく解ったね」
遠く遠く何処までも響かせるような音だった。しかしそれは、誰にも届かないまま暗闇へと消えていく。それを受け取る相手などいない。世界とは、その外側からみれば随分孤独なものなのだ。だからこそ世界という概念がどれだけ望もうとも、世界という体を成している以上、同じものにはなれない。
龍慶達のいるアクシズは世界と世界の合間に存在する。理によって形を得た世界とは異なり不定形で不確かなこの場所は、ほんの少しずれるだけで世界の影に触れてしまうことがある。
天体のような周期も持たず、目まぐるしく生まれては消える世界は時折こうして姿を見せる。時には記憶となって、時には生命となって。世界というものが指し示すあらゆる形になって、こうして著しく近づくことがある。
「よく聞こえるものだ」
「耳が良いからね。まあ、残念ながら、その世界の性質に近いから、というわけではないから、干渉はできないけれど」
「その必要はない。どうせすぐ過ぎる」
龍慶の髪が水中を漂うように舞い上がる。先ほどまでしっかりと立っていた皎夜が、重力を失ったかのように浮かび上がった。呼吸には何の影響もないけれど、何かが触れているような気がする。温度のないそれは体の全てを包んでいる。まるで水中に閉じ込められているかのようにふたりは何もないその空間でお互いだけを明確に認識していた。
来る。
ずっと圧倒的で、認識の限界を超えるほどの何か。世界という枠組みを賜った、尊く儚いものが。
「近すぎるかもしれないね」
「問題ない。あれはここまで近づいたとしてもバランスを失わない強固な世界だ。此方も、あれだけ明確に境界を持たれては干渉できないだろうな」
「僕らの世界よりずっと強いんだね」
皎夜が感心したように龍慶の背後を見る。
来た。
音では認識できない龍慶も、その存在が近いことを認識していた。それはぐんぐんとスピードを上げて、ふたりの元へとやってきた。
おおおん。
地鳴りのような、鐘の音のような、深く激しく響く音。
本来であれば誰も聞けないはずのその音はふたりの体を貫くように通り過ぎた。
嗚呼、と思わず嘆息する。自分達の世界もこれくらい強いものだったなら面倒にはならなかったというのに。
稀有な経験に感動よりも悪態をついてしまうのは最早これらの事象に価値など感じていないからか。細い細い可能性に希う心など、生まれたときから持っていなかった。
龍慶の淡々とした反応とは逆に、しっかり感嘆符をつけた反応したのは皎夜だ。
「わっ、こんなことあるんだね。触れたような気もするけれど、それを裏づける感覚的なものも、事実も、何も残らない」
「そういうものだ。世界を無数に認識し抱えるなど、神ですら傲慢だ。ひとりの人間程度が認識できるだけでも随分と異常なことだからな」
「そうなの?嬉しいと思うべきかな、それとも、嫌がるべきかな。ふふ、君に似てきたかな。それとも紫音?それなら悪くもないと思うのだけれど」
龍慶は興味がなさそうに片手を振って歩き出した。方位すらも感じられないその場所を数歩進んで、押し開けるように腕を伸ばす。そこには部屋があって、確かな有限さがあった。
「行くぞ」
「うん。仰せのままに」
その足取りに迷いはない。そこには確かにこの空間の先があると信じて疑わず、そしてお互いが同じ場所に踏み入れるという確信があった。
暗闇の果て、光というには空虚な白に向かって進む。ふたりの姿が消える頃、どこか遠い遠いところで、細く美しく寂しい声が、暗闇の中に響いた。
何処かで出会うこと待ち望んでいるような、あるかもしれないという約束のない何かに向かって、ただひたすらに駆け抜けるように。
(知らないことを、知り得ないことを、希望と呼ぶには、あまりにも)