2人での2日目
由美を家まで届けた後、私は1人家でボーッとしていた。
気になることはたくさんあったが、なにから考えて良いのかわからなかった。
私は試しに目を閉じてみた。
まだ外は太陽が昇っているはずだが、とても暗い。
これが彼女を覆う世界なのだろうか。
由美は一人でちゃんと暮らせるだろうか?転んだりしてないだろうか?彼女の目に、彼女自身に私はどう映ったのか?
そんな不安がよぎっては消えなかった。
私の感じる夜の闇よりも、この不安の方が明らかに濃くて暗かった。
私は目を開いた。
とても明るくて鮮明だ。
私は耳が聞こえない。
目が不自由なのか、耳が不自由なのか、どっちの方が生きやすいのか、その答えは明らかに目の見える方が生きやすいというのは知っている。
なぜならば本にそう書いてあったからだ。
人は情報の9割を視覚で認識する、とどっかで読んだ。
今や由美は残りの1割でこの世で生きる事を強制されているのだ。
残りの1割で普通の人の得る情報全てを認識することなど不可能だし、キャパオーバーだ。
さっき目を閉じた時のことを思い出した。
恐怖。
その感情が一番適していた。
一寸先は闇と言うものだけれど、彼女の場合は一寸ですら見ることは敵わない。
彼女はもう慣れたから、といった様子で毎日を当たり前に過ごしているけれど、これは慣れで片付けて良いものではない気がする。
目が不自由になることは仕方ない、耳が不自由になるのも仕方ない。
問題はその先なのだ。
今の私たちは「福祉」という観点で、もしくは「社会」という観点で捉えて正しいのか正しくないのか。
しかし私にはそんな大それたことを考えられるような知識も人生経験も足りていなかった。
そんな私たちに出来ることはなんなのか。
私は以前より自分がちっぽけに見えた。
次の日、私は由美の家の前で彼女を待っていた。
彼女は時間がかかるためか、いつも早く学校に行くようで、私もそれについて行くことにした。
5分ほど経ってからだろうか、彼女が家から出てきた。
彼女は家の鍵を閉めると鍵をしまい、代わりにスマホを取り出してメッセージを送ってきた。
《おはよう》
「おはよう」
《インターホンあるよ?》
別に私はインターホンに気づかなかったから鳴らさなかったのではない。
インターホンなんてどこの家にもついている。
私の家にだって無意味に付いている。
ただ、私はインターホンを鳴らして彼女を急がして転ばせたりしたくなかったから鳴らさなかったのだ。
ただ、彼女のことばかり心配するとそれも彼女に対する失礼になるのではないかと考えた。
「だって私耳聞こえないから鳴ってるかわかんないもん」
彼女はそれに気づいていなかったのだろう、すぐにスマホを操作した。
《ごめんなさい》
私の意図しない方向に由美が進んでしまったので私は急いでフォローした。
「いいっていいって、お互い苦労してるんだから」
由美は少し頬を染めて頷いた。
「それよりも行こ。ほら、肘掴んで」
由美は少し驚いた顔を見せた。
予想通りの姿を見せてもらえて満足した私は得意気分で答える。
「驚いた?私昨日勉強したんだよ。UTubeで」
動画内では目が不自由な人にはこうすると良いということが書かれていて私はそれを実践してみたのだ。
しかし、それを聞いた由美は何か戸惑っているようで私はもしかして間違えて勉強したのではないか、と不安になった。
《美里の手の方が暖かい》
由美はモジモジしながら先ほどよりも頬を染めて私に向かい合っている。
私はなんだそういうことか、とケロッとさっきまでの不安を拭い去って「任せとけ」と彼女の手を握った。
ちなみに由美のスマホはいつでも話せるようにと私が持つことになった。
しばらく歩くとコンビニに着いた。
私と由美2人で店内に入るとそこには40代くらいの女性の店員さんがいるくらいで、店内はガラガラだった。
店員さんはこちらに気づくと何やらビニール袋を持ってこちらにやってきた。
中にはおにぎり3つとお茶が入っていた。
よく食べるなぁ。
2人が楽しそうに会話をしていることからきっと彼女にいつもお昼を渡している人なんだな、と思った。
やがて店員さんの目が私に向いた。
店員さんの笑顔はとても優しくて、この人が店員なら私は商品を必要よりも多く買ってしまいそうだ、きっと商売上手なんだろう。
おそらく由美から説明を受けたのだろう、店員さんは左手の甲を右手で垂直に叩いた。
私はそれを「ありがとう」の手話だということにすぐ気づいた。
この店員さんは手話ができるらしい。
私は嬉しさのあまりいつもよりも元気な声で「どういたしまして!」と言って、ビニール袋を受け取った。
元気そうに伝わったかは分からないけれど。
由美は一旦手を離してお財布を取り出した。
お財布に入っていた500円玉を取り出して店員さんに渡した。
いくらかのお釣りをもらい、お会計を済ませた私たちは外に出た。
「一回手を離すね、お昼ご飯しまってあげる」
私は手を離して彼女のカバンにおにぎりが潰れないよう優しく入れた。
「あの人って手話出来るんだね」
《松坂さんは昔私があのコンビニに初めて行った時私のためと思って手話の勉強したんだよ》
「え?盲目なのに?」
《間違えたんだってさ》
「…まあ、私にとっては嬉しいからいいんじゃない?」
結果オーライ。
昼休み、私はいつも1人でおにぎりを食べる。
松坂さんに用意される3つのおにぎりはどれも美味しい。
梅はとても酸っぱい。
でもその酸っぱさは決して嫌な酸っぱさではなく、味として綺麗な酸っぱさだ。
香りもまたよく、具にまで辿り着ければ食べていない時でも鼻と口でその香りを感じることができる。
ツナはとても食べ応えがある。
何かのお肉のようだが、何かはわからない。
でも牛や豚よりはあっさりとしているから魚肉だろうか?
ツナのおにぎりにはツナだけでなくマヨネーズで味付けがされている。
私には少々濃い味だが、これを食べればお腹が空いていても満腹になれる。
昆布は甘塩っぱい。
昆布についているタレのようなものはおそらく甘ダレなのだろうが、その中でもしっかりと塩味がついていてとてもバラエティに富んだ味だ。
それだけでなくゴマも一緒に握られており、そのゴマが風味を出すだけでなく、食感にもアクセントを加えてくれる。
それらが今までに食べてきた中で得た感想だ。
さて今日は何から食べようか。
そんなことを考えていると教室のドアが思い切り開かれる音がした。
私がなぜそんなに勢いよく開けられたのか見ても分からないので、おにぎりのチョイスに意識を戻す。
「お、いた由美」
2日目にしてすでに聞き慣れた美里の声がしたのでその声の方向に振り向いた。
多分美里、ていうかそれ以外にない。
扉を思い切り開けたのは美里だろうか?
だとしたら納得だった。
美里の髪は特徴的だ。
普通の人の頭は黒っぽく、髪の色が黒なんだな、というところまでは何となくわかるのだが、美里は髪が黒じゃない。
黒じゃないということしかわからないが、それが特徴的なので私にも多少はわかりやすかった。
黒じゃない髪は校則的に大丈夫なのかな?
黒じゃないなら金とか銀とかなのかな?
「ご飯一緒に食べよう?」
そんなことを考えていると彼女特有の特徴的な疑問形が放たれた。
彼女は私が唖然としていたからなのか、待ちきれなかったからなのか、私の手から丸いシールの貼られたおにぎり(梅)を取り上げて、白杖を持たされた。
私は立ち上がり、彼女についていくことにした。
彼女が私を昼食に誘うときは半ば強引だったが、私を昼食を食べる場所に連れて行くときはとても優しかった。
「ここで食べよう」
私はスマホを取り出して音声入力をした。
《ここはどこ?》
トイレの中とかだったら嫌なので一応聞いた。
まあ、トイレじゃないな、というのは匂い的にわかったけれど。
階段を随分と登った気がするけれど何処なのだろうか、ということも気になった。
「屋上近くの階段。ここなら人も来ないし由美ちゃん聞き取りやすいでしょ」
屋上近くだと昼休みが終わる前に移動しないと授業に間に合わないかもしれない。
階段を登るならまだしも、降りるときは少し怖い。
私の場合は遅れたところで怒られることはないからいいか。
それに美里が私のためと思って選んでくれた場所というのが嬉しかった。
美里は私の手を階段に触れさせて、「ここに座れるよ」と教えてくれた。
こういう気遣いがとても暖かかった。
私も彼女の役に立てているだろうか?
あまり立てていない気がする。
昨日あんなに恥ずかしいことを言った手前、何もしていないというのはこれまた恥ずかしかった。
「昨日も誘おうと思ったんだけどね、佳子先生に反省文書かされたんだよね。寝坊はいけませんって」
それを聞いた私は心苦しかった。
本当は寝坊をしたのが私で、彼女はきっと私を手伝わなければ間に合っていたからだ。
私は彼女のためにもやはり昼休み終了前に移動する事を心がけるようにした。
「さ、食べよう」
私が謝ろうと思った時に、その言葉が投げられた。
私の謝罪はいらないよ、ということなのかもしれないし、お腹が空いているのかもしれない。
おそらく前者。
私はおにぎりを、彼女はパカッという音からおそらくお弁当を取り出した。
「何味?」
《昆布と梅とツナだよ》
「いつもそれ?」
私はうん、と頷いた。
「飽きないの?」
味に飽きる、というのが私にはわからなかった。
私は目が見えない分、味で食べ物を知るしか無いため、新しい発見ができないか何度も咀嚼する。
それに私はこの3つ以外のおにぎりの味を知らなかった。
だから味に飽きるなんてことはないのだ。
《これしか知らないんだ》
「え、鳥五目食べたことないの?人生の9割損してるよ」
鳥五目ということは「鳥」と「五目ご飯」だろうか?
想像するだけで美味しそうだった。
でも自分がこれ以外の味を知ってしまうと松坂さんを困らせる事になってしまうかも知れないから今のままでもいいかな、と思っている自分もいた。
話に区切りがつき、お互い黙ってしまった。
本当にここは静かで、騒がしかったクラスとは別の建物のようだった。
実際別の階ではあるけれど。
私はもっと美里と話したい、何か話題を提供しなければと思い、マイクに自分の声を吹きかけた。
《美里ってどんな人》
「私?…由美にはどう見えてるの?全く見えない?」
《髪の毛が黒じゃない女の子》
「これはねー、クリーム色。そんでもって美少女だよ」
あまり人と話さないのでわからないけれど、日本人はあまり自分で自分のことを褒めなかった気がする。
それを自信ありげに大声で恥ずかしげもなく言っていた。
本当にそう思っているのか、耳が不自由だからなのか。
おそらく両方だろうな。
「由美もね、可愛いよ。とっても美人。黒い髪はツヤツヤしてるし、そのショートもすごく似合ってる。…その目も素敵」
お世辞だとは思うがとても嬉しかった。
自分の容姿なんてほとんどわからない。
洗面台に一応鏡があるが、そこに写っているはずの自分は見えないし、そもそも自分がしっかりと鏡を見れているのかもわからなかった。
私は照れて温度が上がった顔をあまり見られないように髪で隠しながら《ありがとう》と返した。
私も美里に「美里も耳が綺麗だよ」と言うべきかな、と思ったけれど、何か気持ち悪い気がしたのでよしておいた。
私は梅味を食べ終え、ツナのおにぎりを手にした。
コンビニのおにぎりの良いところの1つに海苔がある。
水っ気を吸っていない海苔のあのパリッという音が私は好きだ。
「おにぎり3つも食べれる?」
《食べれるよ》
《ちょっと多いけど》
そう、ちょっと多い。
とくにツナが重い。
体育はいつも参加出来ないので基本的にカロリーをあまり消費しないのが私だ。
しかし、治るものも治らない、といつも多めに用意されるおにぎりが勿体無いので食べてしまう。
自分の必要以上に食べてしまうので、太っていないだろうか、と心配になってしまう。
時々自分のお腹を撫でてみるけど今のところでてきている様子はないので大丈夫だろう。
目が見えない私だって年頃なりに不安は抱くのだ。
《美里は何食べてるの》
「私は卵焼きと白米とその他冷凍食品」
《お弁当だね》
「そうだよ、お弁当。由美は料理はできるの?」
《よほど難しく無ければできるよ》
「すごい!今度作って見せてよ」
《いいよ》
いいよ、とは言ったものの、何を作れば良いのか全くわからなかった。
私の料理は上手くいくという事は滅多にない。
私は料理の完成度を高めるつもりなどなく、そこそこ美味しければ良いという感覚で作っている。
しかし美里相手に食べさせるとなれば別だ。
例え目が不自由だから、で片付けることが出来たとしてもそれは私が許せなかった。
美里に美味しいと言ってもらいたい、喜んでもらいたいという意地が生まれる。
私は自分が美里に美味しいと言わせることが出来そうな料理を考えた。
しかし、やはり何も思い浮かばない。
難しければ難しいほど完成度は低くなるし、かといって目玉焼きなど出そうものならそれは果たして料理として認められるか。
とりあえずは美里に美味しいと言ってもらえる料理を模索する、そこを目標にしてこれからのご飯を作ろう。
最後のおにぎりを口に放り込み心にそう決めた。
スマホを開き、時刻が昼休み終了5分前だということを知り、隣に座っている美里が弁当箱を閉じている音がする事から食べ終わったのだな、と感じ取り《そろそろ戻ろう》、と提案した。
美里は「うん」と返事をして私の手を握り、それに応じて私はゆっくりと階段を降り始めた。