有住ルナの願いⅣ
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。願イハ聞キ届ケラレタ。可及的速ヤカニソノ願イヲ実行スル!」
人形がけたたましく笑う声がした。そのまま半透明の糸に吊られて、観測所の天井にゆっくりと戻されていくその様子を、少女はじっと見つめていた。
「あなたの願いは聞き届けられました。あなたはすぐに有住ルナと会えますよ」
「良かった」
男はほっと胸をなでおろした。
「まさか、ルナが僕を生き返らせてくれていたなんて、思いもしなかったよ」
「良い彼女をお持ちになられましたね」
少女はにっこりと笑った。男もそれにつられてにっこりと笑った。
「あなたはきっと、待ちきれないことでしょう。ですが、出会いには準備が必要なのです。恋路にも遠回りは必要ですから」
少女は観測室の壁際に向かった。そして、新品のドリンクサーバーの真向いにある、真新しい真鍮のレバーを力いっぱい引いた。
「足元に気を付けてください」
振動音とともに、男の足元が円形に開こうとしていた。男が退くと、床にはぽっかりと穴が開き、荘厳な装飾が施された大理石の扉が上がってきた。
「これは……?」
「この扉の先に有住ルナがいます。きっと、そろそろ現れることでしょう」
少女はそう言うと同時に、扉が開き始めた。
「ルナ!」
ハルトは両手を広げた。その胸にルナが飛び込んできた。
「ハルト、会いたかったよ!」
「僕もだよ、ルナ」
男はルナを抱きしめた。そんな感動の再開を、少女はニコニコと笑って見ていた。
「ん……?」
ルナは抱き着いた際の柔らかい感触に違和感を覚えた。生前のハルトは筋肉質で、太っていなかった。ルナは彼のストイックな体が好きだった。しかし、その男の腹は柔らかかった。まるでマシュマロのように。
ルナはハルトと名乗る男を見上げた。そこには、見知らぬ太った男がいた。
「誰……?」
「やだなあ。僕だよ僕。ハルトだよ」
男は脂ぎった顔で、満面の笑みを浮かべた。粘ついた唾液が口の隙間から見える。ルナはすぐに彼の腕を押しのけた。
「本当にハルトなの……?」
「そうだよ。忘れちゃったの?」
「嘘……。どういうこと……?」
ルナはじりじりと後退していった。一方でハルトと名乗る男は彼女へと近付いていく。
「嫌……。近寄らないで」
「え……」
彼は立ち止まった。そして、しょんぼりするようにうなだれた。それを見た少女は口を挟んだ。
「何を言っているのですか。この方は正真正銘、あなたの愛する泉川晴斗ではないですか」
「どこをどう見たら、そう言えるのよ! ただのおっさんじゃない! わたしのハルトは、こんな人じゃない!」
「あなたが知っている泉川晴斗は彼ですが?」
少女は首を傾げた。太った男は同調するようにうなずいた。
「そうだ。僕は晴斗で間違いないんだ。そして君は、僕の恋人だった有住ルナだ。忘れもしないよ」
「なら、言ってみてよ。わたしの誕生日は?」
「僕と一日違いの、一二月五日だよね?」
男の言っていることは正しかった。
「じゃ、じゃあ、これは――――?」
ルナは男に様々なことを聞いた。有住ルナの出身地、家族構成、当時の住所――――。そのどれにも、何一つ間違いはなかった。
「なんで合っているの……」
「良かった。昔のことだから、間違っていたらどうしようかと思ったよ」
男はほっと胸を撫で下ろした。脂を含んだ汗が地面に垂れていく。
「分かりましたか? この人は泉川晴斗です」
「こんなの、おかしいよ……。あんなのハルトじゃないよ……」
「もしかして、気付いていませんか?」
「え?」
ルナは素っ頓狂な声を上げた。
「あなたは何を願いましたか?」
「わたしは、ハルトを生き返らせてほしいと――――」
「そうです。あなたの願いによって彼は生き返りました。その後、彼はどうなったでしょう?」
「どうなったって。生き返って――――。あ……」
「分かりましたか?」
少女は微笑んだ。そして、男の脂汗まみれの肩に寄りかかった。少女の服がそれを吸い込んでいく。
「まさか――――」
「そうです。彼は生きたのです。あなたが死んだ二十ニ年後まで、ね」
「でも、ハルトはこんなに気持ち悪くなかった。スラっとして、カッコよくて……」
「あなたが死んだ時点までは、ですよね。それに、彼を変えたのはあなたではないですか」
「何言っているの……?」
ルナは決してハルトを直視しようとしなかった。少女はそんなルナの肩に寄りかかった。いやに冷たく、ぬるぬるとした感触が少女の服を介して伝わった。
「あなたは彼を独占しようとしたではないですか。ダイレクトメッセージを送り続けたり、電話をかけ続けたり、GPSを仕込んだり、そうして彼を束縛し、追い詰めたのは誰ですか。加えて、彼の友達にあることないことを噂させ、それにもかかわらず、あたかも自分だけが彼の味方であると錯覚させたのは誰ですか。それでも、ちょっとしたすれ違いを理由にして、彼を刃物で切りつけたのは誰ですか。挙句に、勝手に別れ話を切り出されたという事にして、彼を滅多刺しにしたのは誰ですか」
「そんなこと……、わたしは知らない……」
「都合よく忘れたふりなんてしないでください。虫の息だった彼を救おうともせず、自らの喉を掻き切ったのは誰ですか。そんな彼を生き返らせるように願ったのは誰ですか」
少女は更にまくし立てていく。
「別れを切り出されたと思いこんだあなたは、包丁で彼を刺しにした。それで終わりにしなかったのはあなたですよね? そのまま死ぬはずだった彼は、あなたの願いによって生きなければならなくなったのです。あなたに分かりますか? その後、彼がどんなに苦しんだのかを。あなたのことがトラウマになり、人と触れ合えず、孤独を味わった彼が、ひっそりと部屋に引き籠り、ネットの海に沈んでいった、そんな彼の苦しみを、あなたは分かっているのですか?」
「いい加減にして!」
ルナは少女から離れようとした。だが、少女はそれを乱暴に引き留める。
「あなたは彼を独り占めにしようとした。あなたが死んだ時点では、彼はその手を離していたのかもしれません。ですが、死の直前、彼は思い直しました。素直にあなたに従っていれば、きっとロクでもない人生を送ることはなかったと。あなたと一緒にいた時が、実は幸せの絶頂にあったのではないかと。しかも、彼は知ったのです。あなたが彼を生き返らせるように願ったということを。そうして彼は願いました。あなたを二度と手放さないために、あなたと幸せにいたいために、あなたの愛する人は、あなたの愛を受け入れたのです。そんな彼の愛を何故、受け入れないのですか」
「だったら、こいつを若い頃のハルトに戻してよ! あのハルトにわたしは会いたい!」
「それは出来ません」
少女はぴしゃりと告げた。
「何でよ!」
「願いは一人一つだけです。神は全てにおいて平等ですから」
「平等、平等、って何よ! じゃあ、わたしの願いを取り消してよ!」
「それも出来ません。言った通り、願いは一つだけです。願いを取り消すなんて、そんな願いを受け入れらないことくらい分かってください。神は全てにおいて平等です。あなたも彼も、一人の人間として、平等に願いを叶えただけに過ぎないのです」
少女はルナの手を掴んでいた。ルナはそれを振り払い逃げようとしたが、できなかった。嫌がるルナは少女の細い腕にに引きずられていく。
「どうしてそんなに嫌がるのです? 素直に喜べばいいじゃないですか。あなたへの愛を強要された彼は最期、それに応えたのです。感謝こそすれ、突き放す必要がどこにありますか?」
「嫌! 離して!」
「ええ。離しますよ」
そう言って、少女はルナを投げ付けた。汗染みだらけのTシャツの中に、ルナは吸い込まれていった。
「あなたが最期に求めた願いは、確かに神に届けられました。あなたたちは願い通り、永遠に一緒です」
少女はハルトに向かって微笑んだ。ルナは何も言わなかった。ただ、絶望した目でじっとハルトを見ていた。そんなルナを、ハルトはうっとりと見つめていた。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、真心を尽くしてくださいね」
大理石の扉の前に少女は小さくジャンプした。真っ白な髪がヴェールのようにふわりと舞う。その顔は、子供のような屈託のない笑顔で満たされていた。
「それでは、お二人とも、死後の世界ではお幸せに」
この話はこれで終わり。次回からは、また別のお話。