有住ルナの願いⅢ
「あなたの願いは聞き届けられました。泉川晴斗は死ぬ運命から逃れられたことでしょう」
「良かった」
ルナはほっと胸をなでおろした。
「これからあなたは死後の世界に送られます」
「ねえ、死後の世界ってどんなところなの?」
「分かりません。それは私の管轄外ですから」
「そっか。行ってからのお楽しみ、ってわけね」
「そうですね。では、これから準備を――――」
少女が観測所の天井にぶら下がる星飾りを引っ張ろうとした、その時だった。天井奥の暗闇から、子供のような甲高い声が聞こえた。
「ちょっと、まったああああああああああああああああああああああああ」
「ん?」
少女はその声の方を向いた。すると、天使のぬいぐるみが少女の顔面に落ちてきた。その勢いで、少女は仰向けに倒れた。ぬいぐるみはその上に立って、短い手をルナに向ける。
「まだおまえは、つぎのせかいにはいけない! てんしちゃん(かっこかり!)はそれをつたえにきた!」
「今度はぬいぐるみ……?」
「ぬいぐるみじゃない! てんしちゃん(かっこかり!)だ! おぼえとけ!」
天使のぬいぐるみは小さなフェルトの羽をパタパタとさせながら、偉そうに言った。
「てんしちゃん?」
「てんしちゃん(かっこかり!)だ! まちがえるな!」
「痛たた。何が起こったんですか」
少女は頭を押さえながら、立ち上がった。天使のぬいぐるみが転がり落ちる。そんなぬいぐるみを見た少女は、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「何だ。クソ天使か。何の用だ」
少女はぬいぐるみの首をガシッと掴んだ。
「ぎゃあああああああああ! おに! あくま! めりる!」
「このまま引き千切ってやる」
「こわいよう! こわいよう! てんしちゃん(かっこかり!)はないちゃうよお!」
天使のぬいぐるみは涙の代わりに、綿くずをボタンの目からこぼした。
「びええええええええええええええええええ」
「うるさい!」
少女は怒鳴りながら、ぬいぐるみを床にたたきつけた。
「いたい! てんしちゃん(かっこかり!)は、ぜったいにめりるをゆるさない!」
「好きにしろ。それで、要件は何だ?」
イライラしながら、少女は尋ねた。しかし、ぬいぐるみは何も聞いていない。
「いまにみてろ! てんしちゃん(かっこかり!)はめりるをやっつける!」
「何をしに来た、クソ天使」
「てんしちゃん(かっこかり!)は、てんしちゃん(かっこかり!)だ! いいかげんおぼえろ!」
「知ったことか! さっさと要件を言え!」
「べー、だ! てんしちゃん(かっこかり!)はおしえないもんね!」
ぬいぐるみはそう言ったが、天使の姿をしたそれには舌どころか口さえない。ただ、バツ印の縫い目があるだけ。しかし、ぬいぐるみは舌を突き出すかのように顔を前に突き出した。
少女は無意識に頭を掻いていた。雪のように純白な髪が乱れていく。そして、天井から吊るされた手近なオオカミのぬいぐるみを、ぐいっと引っ張った。すると、すぐに黒色の箱が少女の目の前に落ちてきた。その側面にはドクロマークとRa226の文字が乱暴にペイントされている。
「決めた。殺す」
少女は箱を開けた。中には自動小銃が入っていた。少女はそれを取るとすぐに、銃口でぬいぐるみの腹を押さえつけた。そして、そのトリガーに手を掛けた。
「え? めりるは、ほんき?」
天使のぬいぐるみは細い手足をじたばたさせながら逃げようとした。しかしそれは叶わない。殺意にあふれた目付きがボタンの目に映っていた。
「やめてね。てんしちゃん(かっこかり!)はおねがいするよ」
「…………」
「ゆるしてください」
「…………」
「ごめんなさい」
少女は小銃のトリガーから指を離した。しかし、ぬいぐるみの腹は押しつぶされ、へこんだままだった。
「それで、要件は?」
「そのにんげんは、まだ、つぎのせかいにはいけない。てんしちゃん(かっこかり!)はそれをつたえにきた!」
「なるほど。願われたのか。だが、そんな記述はなかった」
天使のぬいぐるみはじたばたしながら、綿の詰まった手をルナに向ける。
「そのにんげんのねがいでかわった! そう! そのにんげんは、ねがわれるようになった! かみはすべてにおいてびょうどう! だから、かなえなくちゃいけない! てんしちゃん(かっこかり!)はそれをつたえにきた!」
「それで全部か?」
「ぜんぶだ! てんしちゃん(かっこかり!)はだんげんする!」
やっと全てを伝えた天使のぬいぐるみのその言葉を聞いて、少女は自動小銃を除けた。すぐさま、ぬいぐるみは逃げようとした。それが気にくわなかった少女は、その首根っこを掴んだ。
「はなせ!」
「お前の出番は終わりだ! クソ天使!」
少女は暴れるぬいぐるみを真っ暗な天井裏に投げ込んだ。
「おぼえてろ!」という声とともに、がっしゃんと、何かが崩れる大きな音がした。その音がした方向に向かって、少女は自動小銃をぶん投げた。ぬいぐるみの声はついに聞こえなくなった。
「お騒がせしました」
少女はルナに向かって深々と一礼した。ルナは目の前で繰り広げられた少女の豹変に困惑しきっていた。
「あのぬいぐるみは――――?」
「お騒がせしました。申し訳ありませんでした」
少女は食い気味に答えた。ルナはこれ以上の詮索はよそうと心に決めた。
「ええと、それで、わたしはどうなるの?」
「まだ死後の世界には行けないようです。あなたに対して願われた願い事があります」
「わたしに願われた願い事って?」
「神は全てにおいて平等ですから、他の誰かに願われることがあるのです。すなわち、あなたは他の誰かの願い事の対象になったということです」
古びた手帳をめくりながら、少女は話を進めていった。ついでに、空いた手で髪をすいていた。
「でも、誰が?」
「それはあなたが一番、分かっているのではないですか?」
「それって――――」
その言葉でルナは気が付いた。
「ハルトが……?」
「そうです。泉川晴斗があなたに願ったのです」
「でも、それがハルトの運命が変わったことと何が関係あるの?」
「泉川晴斗はあなたの願いによって生き永らえました。ですから、その運命が変わったように、その願いも変わったのです」
「なるほど。でも、ハルトはどんな願い事を、わたしに?」
嫌な予感がルナの頭をよぎった。いくら願い事でハルトを生き返らせても、刺した事実は変わっていない。もしかしたら自分を恨んでいるのかもしれない、とルナは考えた。
しばらく少女は手帳を読んでいた。時折、指で文字を追いながら、泉川晴斗に関することを頭に入れていた。その時間はルナにとって、いつになく長いものだった。
「ふむふむ。なるほど」
「ねえ、教えてよ。ハルトはどんな願い事をしたの?」
少女は手帳を閉じ、ニヤッと笑った。その気味の悪さにルナは震え上がった。最悪が頭をよぎっていく。
しかし、少女の答えは予想外のものだった。
「あなたと、ずっと一緒にいたいようです」
「へ?」
ルナは目をぱちくりとさせた。
「ですから、あなたとずっと一緒にいたいと、泉川晴斗は願いました」
「本当に?」
「本当です。私は嘘をつきません。それは神の下の平等に反しますから」
少女は両手を広げた。無邪気な笑顔がそこにはあった。
「わたし、ハルトを刺したのに……」
「もはや過ぎたこと、ということでしょう。良かったではないですか、あなたはまだ愛されているのですから」
「そうだね。ハルトに会ったら謝らなくちゃ。あんなひどいことをしたんだもの」
「良い心掛けです」
少女は観測室の壁際に向かった。そして、壊れた装置の真向いにある、緑青まみれのレバーを力いっぱい引いた。
「足元に気を付けてください」
振動音とともに、ルナの足元が円形に開こうとしていた。ルナが飛び退くと、床にはぽっかりと穴が開き、華美に装飾された大理石の扉がゆっくりと上がってきた。
「これは……?」
「この扉の先に泉川晴斗がいます。私は先に行っていますので、心を決めたらどうぞ中へ」
ルナが気付いた時にはもう、少女の姿は消えていた。ルナが観測室を見渡しても、天井から吊り下がる装飾品があるだけで、その姿はどこにもなかった。一人残されたルナは、少女が示した扉に近付いていった。
「この先にハルトが……」
ルナは扉に触れた。ひんやりとした石の冷たさが指先から伝わってくる。
「なんて謝ろうかな。刺しちゃってごめんなさい、かな。でも、そんなので許してくれるのかな。けど、一緒にいたいって願ってくれたのはハルトだもんね。私も悪かったけれど、ハルトはハルトで悪かったんだから、お互い様なのかな――――」
ルナは独り言をつぶやきながら、大理石の扉を押した。ゆっくりと、扉が開いていく。その奥へと、ルナは足を踏み入れていく。まばゆい光がルナを包んだ。
「ルナ!」
奥から愛する人の声が聞こえてきた。姿かたちは見えないが、その声はハルトであると確信した。ルナはその影に飛びついた。