有住ルナの願いⅠ
「おはようございます」
少女はにこやかに笑いながら、安楽椅子に座るルナに挨拶をした。
「ここは……?」
「ここは観測室です。私は天象儀と呼んでいますが」
「プラネタリウム?」
「ええ、綺麗な星でしょう?」
そう言って少女は包帯が巻かれた指で天井を指した。その手につられるように、ルナは観測室の天井を見渡した。星飾りが無数にぶら下がる天井。その隙間に並ぶ、ウサギとオオカミの人形。地球や月を模したボールもまた、星飾りの隙間に吊るされていた。
「我ながら良いネーミングだと思うのですが、あのお方は、観測室はあくまで観測室であると主張されるのです。呼び方一つ変えたところで何の問題もないと思うのですけれども」
「確かに良い名前だと思うよ。その人はちょっと頑固なのかもね」
「ふふ。ありがとうございます」
少女は嬉しそうに礼をした。雪のように白い髪がふわっと広がった。
「私もちょっと頑固なところがあってね……。それでハルトと喧嘩しちゃったんだよね」
「ハルト? それは何ですか?」
「わたしの彼氏――――、だった人。とってもカッコいいんだから」
「彼氏ですか」
平坦な口調で少女はそう答えた。そして、手近な星飾りを引っ張った。すると、古びた手帳が床に落ちた。彼女はそれを拾い上げて、ほこりを払った。パラパラとページをめくり「有住ルナ」の項目を見つけだした。
「ところで、お名前は有住ルナ、で間違いないでしょうか」
「そうだけど、どうしてわたしの名前を知っているの?」
「ここにはあなたの全てが書いてあるのです」
古ぼけた手帳を少女はポンポンと叩いた。その度に紙の欠片が零れ落ちていった。
「なるほど」
「例えば、そうですね。あなたの彼氏の名前は、ええと」
少女は手帳をパラパラとめくった。
「ありました。泉川晴斗、ですね。誕生日は一二月六日、今年で二十一歳、あっていますか?」
「すごい。あってる!」
褒められて、少女は少しだけ良い気分になった。
「良かったです。間違っていたらどうしようかと」
「ねえ、他にはどんなことが書いてあるの? ねえ、教えて!」
ルナに囃し立てられ、少女はべらべらと色んなことを喋った。有住ルナの出身地、誕生日、家族構成、現在の住所――――。そのどれにも、何一つ間違いはなかった。
「本当に何でも書いてあるんだね」
「そうですよ。だから、嘘をつこうなんて思わないことです」
「まさか。わたしは正直だもの。嘘なんてつかないわ」
嘘という自分の言葉に反応し、ルナは顔を曇らせた。
「でもね。わたしの彼氏、嘘をついていたの」
「嘘ですか」
「わたしだけを愛してるって、ハルトは言ってくれた。でも、それは嘘だった。ハルトの周りにはいっぱい女の子がいたの。わたしだけを見てないって気付いてた。わたしはハルトに愛されていれば、それで良かったのに。それで、喧嘩しちゃって」
ルナは安楽椅子の上に足を上げ、それを抱きかかえた。その目は潤んでいた。
「何があったのですか?」
「ハルトから言われたの。別れようって。ほら、わたしって頑固だからさ。ちょっとしたことでハルトと喧嘩しちゃって。そしたら、ハルトが――――」
ルナの声は嗚咽に飲み込まれていった。少女はそんなルナを優しく抱いた。
「辛かったですね」
ルナは少女に胸に抱き着いた。涙の粒が少女の純白の服を濡らしていく。そうしてルナが泣き終わるまで、少女はじっとルナを抱きかかえていた。
「あなたは優しいのね。ハルトの周りにいた女とは全然違う気がする」
「ええ。私はあのお方の代理人ですから」
「あのお方って?」
ルナは赤く腫れた目を上げた。右目に包帯を巻いてはいるが、聖女のような微笑みが眼前にあった。
「あなた方の言葉で言えば神です」
「神……?」
「ええ。そして、私は神の代理人です」
「面白いこと言うのね」
「事実です!」
少女はぷくっと頬を膨らませてそう言った。ルナにはそれが、ちょっと面白おかしかった。ぷっと軽く噴き出すと、少女の胸からそっと離れた。
「何ですか」
「ああ、ゴメンね。あなたが真面目にそんなことを言うなんて思わなかったからさ」
「私が神の代理人じゃダメですか?」
「そんなこと言ってないよ。本当に似合っているから」
少女は面白くなさそうにルナの頬を軽くつねった。
「本当ですか?」
「痛たた。本当だってば。こんな可愛い子が神の代理人だなんて、最高じゃん」
白髪の少女はぱっと手を離した。その顔は少しだけ赤くなっていた。
「私が、可愛い……? 本当に?」
「うん、とっても可愛いよ。」
「そんな……。私が可愛いだなんて」
「ほら可愛さに自信をもって」
「何だかはっきりと言われると照れますね」
「でも、まだまだ可愛くなれるよ。だからね、もっとこう――――」
少女はルナの言葉を最後まで聞かず、顔を隠しながら小走りに、観測室の壁際にせり出した装置の下へと向かった。話の腰を折られたルナは面白くなさそうにそれを見つめていた。
「何かお飲みになりますか? とっても気分がいいので大サービスしますよ」
「あ、ええと――――」
「可愛い私が決めますね! えっと、オレンジジュースが良いかな。それともリンゴジュース? ここは可愛く、イチゴジュースにしましょう!」
少女はポチっとボタンを押した。ぱかっと装置が開いたが、そこからイチゴジュースは出ることはなく、代わりに天井奥から現れたロボットアームがコップを持ってきた。ルナは差し出されたそれを、驚きの表情を浮かべて取り上げた。しかし、少女はそれに気付いてはいなかった。
「あれ? 調子悪いですね」
少女は装置のスイッチを強めに叩いた。ガタガタと変な音がして、装置は緑色の煙を吐き出す。すると突然、少女の頭上から大量のイチゴソースが降り注いだ。少女はもろにそれを被ってしまい、全身べたべたになった少女はその場に呆然と立ち尽くしていた。
「だ、大丈夫?」
少女は顔に付いたイチゴソースを指先でなぞった。そして、そのソースをぺろっと舐めた。確かにイチゴ味だった。
「ええ、大丈夫です」
「何か拭くものとか……」
「いいですよ。既に汚れていましたから」
真っ白の髪にべっとりとくっついたイチゴソースを、少女は落としていた。べたべたとした赤い液体が少女の足元に溜まっていく。それでも少女の真っ白の髪には、なおも大量のソースがべったりとくっついたままだった。少女はそれを落とすのを諦め、ルナに対して向き合った。
「さて」
少女はイチゴ色に染まった包帯で、ルナを指差した。指先から赤いソースが垂れていく。
「これからあなたは死後の世界に送られます。しかし、死とは絶望の象徴です。その絶望から人間は逃れられない運命を背負っています。それを神は憂いています。しかし、死は絶対です。神が作られた肉体と精神に飽き、知性を求めたアダムとイヴが知恵のリンゴをかじったことにより、あなたがた人間は死という罪を背負い込むことになってしまったのです。死こそなければ人間はより幸せに暮らせるのでしょう。けれども、一度エデンの園を追放された身では、そこに戻ることは決して許されません。一度破裂した風船が、もう二度と空へと浮かべないように、人間が死にゆくという運命は、決して変えることができないのです。しかしアダムとイヴはともかくとして、その子孫であるあなたたちがその責を負う謂れがあるでしょうか。神は苦悩なされました。そして、一つの結論にたどり着いたのです。それは、代わりに人の子に祝福を与えるということです。死という苦しみに値する一つの祝福を授けることにしたのです。それを行うのがこの観測室であり、この私が神に代わって、死者に祝福を与えます。優秀にも耐え難い死を乗り越えた者に対しての、いわば、ご褒美です」
ルナは突然始まった少女の演説をぽかんと聞いていた。
「突然、何?」
「これからあなたには祝福が贈られます。それについて――――」
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
「はい?」
言葉の暴走を始めた少女を、ルナは引き止めた。
「何言っているのか、さっぱり分からないんだけど」
「理解できませんでしたか」
「はい。理解できませんでした」
ルナは少女の言葉が癪に障ったのか、ぶっきらぼうに答えた。
「つまりですね。人類最初のカップルがあんまりにも馬鹿なことしたので、人は死ぬ運命を背負っていました。ですが、そのバカップルの罪を人間が背負うのはあんまりだと思ったので、神は人の死後、その願いを叶えることにしました。あなたは死んでしまったのでその権利があります」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、わたしが死んだみたいじゃん」
「そうです。あなたは死んだので、この観測室にいるのです」
少女は服からボタボタとイチゴソースを垂らしながら答えた。
「そんなの信じられるわけない……」
「では、何であると考えますか」
少女の問いにルナは一瞬、言葉詰まらせた。しかし、すぐに答えを絞り出した。
「これは夢。そう、夢よ」
「夢ですか」
「そうだよ。そうじゃなければ、わたしやハルトのことなんて知りようがないもの。わたしは知っているの。これは明晰夢っていうものでしょう?」
「いいえ。これは夢ではありません」
少女は強く念押しした。ルナは、それがおかしいとでも言いたげに手を振った。
「そんなことはない。こんなのが夢じゃなかったら、何だっていうのよ?」
「あなたの世界とは別の世界です。現世と死後の世界の狭間とでも、言えばいいですかね」
「そんなこと言われたって、信じるわけないって」
ルナはコップに入ったイチゴジュースを飲み込んだ。それを見て、少女は赤いソースでべたべたになった古びた手帳を掲げた。
「ここにはあなたの全てが書いてあります。先ほども色々と言いましたよね? あれは事実ではありませんでしたか?」
「それは、これがわたしの夢だからで」
「あなたは死んだ。だからここにいるのです」
語勢を強めながら少女はルナに話していく。一方でルナの方は、話を受け入れられないという風に耳を塞ぐ。
「嘘だ」
「現実です」
「だったら、わたしはいつ死んだっていうの!」
ルナはこぶしを握り締めながら叫んだ。少女はいたって冷静に、ソースまみれの指先で手帳をめくっていく。
「あなたにとっての今、つまりあなたの誕生日である十二月五日の午後七時二十八分四十九秒に、泉川晴斗の自宅にて死亡しました」
「はあ? 何それ?」
「これが現実ですよ。受け入れてください」
「そんなの受け入れられるわけない!」
「ここにはあなたの全てが書いてあります。先ほども色々と言いましたよね? あれは事実ではありませんでしたか?」
「うう。そうだったけど」
「あなたは死んだ。だからここにいるのです」
少女は冷酷に言い放った。
「じゃあ、どうしてわたしは死んだの。確かにその日、わたしはハルトの家にいた。ハルトと喧嘩もした。だけど、死ぬようなことなんて起きてない」
「それは本当ですか?」
「本当に、何にもなかったんだから」
「あなたは泉川晴斗と喧嘩した。しかし、本当にそれだけですか?」
「本当に何もないったら!」
「そうですか。そうですよね。人には認めたくないことはあるものです」
少女は指に付いた赤い液体を舐めて、その指先でルナを指した。
「では、あなたの衣服に付いたそれは何ですか?」
「え?」
ルナは自分の服を見た。べっとりと、赤い液体が服に付いていた。
「これは――――」
ルナは顔を起こした。少女の服にもイチゴソースではない赤い染みが付着していた。少女はそれを見ながらルナに話しかけていく。
「それはイチゴソースではありませんよね。では一体、何でしょうね?」
「あなたが自分で付けたんでしょう!」
ルナは怒鳴った。赤い何かが飛んでいく。
「いいえ。思い出してください。私がこのソースまみれになった後であなたに触りましたか? では、それ以前では?」
ルナはその問いに答えようとしなかった。そんなルナに、業を煮やした少女が続けていく。
「そういえば、あなたは泣いていましたよね。その時、私はあなたに触れた。その時にこの汚れは付いたのです。違いますか?」
「違う! その時、あなたの服は汚れていなかった」
「汚れていなかった? ご冗談を。私は言ったはずです。既に汚れているから拭かなくて良い、と。あなたは見たくないものを見ていなかっただけに過ぎないのです」
その言葉でルナは思い出した。確かに少女がジュースを勧めてきた時、既にその服は汚れていた、と。その真っ赤な染みが何であるのか。ルナは、だんだんと理解していた。
「あ、ああ。わたしは――――」
「思い出してきたのではないですか。あなたが何をして、ここへやって来たのか」
少女はにっこりと微笑んだ。ルナは赤く汚れた手で頭を抱えた。
「わたしは……、わたしはハルトを――」
「包丁で刺した」
少女は手を包丁の形にすると、もう片方の手に当てた。赤いソースが垂れていく。
「そして、あなたは自分さえも刺した。だからここにいる」
少女は包丁の形にした手を首に当てた。手のひらを伝って赤い液体が流れ落ちていく。
「あああああああああああああああああああああああああ」
ルナは泣き叫んだ。指の隙間から、ぽたぽたと血が零れていった。