日隈梨夫の願いⅤ
少女は絵を描いていた。
木のパレットに絵の具を乗せて、真っ白なキャンバスに思うままに筆を走らせていく。
これは飛魚。
それは孔雀。
あれは水蛇。
どれもが異質な形をしていた。それでも少女は満足だった。けれど――――。
少女は筆を置いた。
観測室の端。機械の一つがバラバラに分解されている。部屋中に広がるネジや金属片はその残骸。その空いたスペースには、一枚の絵が、額縁に飾られている。
少女はその絵を見ながら、溜め息をついた。筆を投げ捨て、パレットを投げ捨てた。
「面白くない」
ネジを蹴飛ばしながら、少女は天井にぶら下がる星飾りの一つを引き千切った。それを天井の暗闇に投げ捨てては、他の星飾りに手を伸ばす。数十回、それを繰り返したところで、少女は床に転がったパレットと絵筆を拾い上げ、再び、キャンバスに向かった。
そうして、少し時間が経った。
観測室の中の機械は相変わらず、ピカピカとランプを光らせている。少女が引き千切ったはずの星飾りは、いつの間にか、元通りになっていた。
少女は絵を描いている。
これは琴。
それは蛇。
あれは竜。
どれもが異質な形をしていた。
そうして、しばらく少女が絵を描いていると、突然、何かが落ちてきた。それは、金属片の散らばる床に、一直線に落ちていった。
「いたっ! なんだこれ! てんしちゃん(かっこかり!)はいたがっているよ!」
「お前か……」
ネジを体に食い込ませているそれは、天使のぬいぐるみだった。小さなフェルトの羽をぱたぱたとさせて、短い腕を少女に向けている。
「はんにんはおまえだ! と、てんしちゃん(かっこかり!)はだんげんする!」
「はいはい。犯人は私ですよ」
少女はぬいぐるみに取り合わず、キャンバスに向かっている。
「おまえ、ほんとうにめりるか? てんしちゃん(かっこかり!)は、ぎもんをおぼえる!」
「私は正真正銘、本物だよ」
「ほんとうか? てんしちゃん(かっこかり!)はうたがっている!」
「好きにしてくれ」
「うーん? てんしちゃん(かっこかり!)は、なんだかこわくなってきたよ!」
「今はお前の相手をする気分じゃないんだ」
少女はなおもキャンバスに向かって、筆を走らせている。
「めりるが、てんしちゃん(かっこかり!)にかまわないなんて!」
「ほら、さっさと帰れ」
「かまってえええええええ。さびしいよおおおおおおおお」
「うるさい」
泣き喚くぬいぐるみを、少女はそっと手招きした。
「こっちに来い。いいもの見せてやる」
「にせものおおおおおおお。なんだよおおおおおおお」
少女は近付いた天使のぬいぐるみを、瞬時に椅子の脚で潰すと、体重をかけた。潰れたぬいぐるみは、甲高い悲鳴を上げた。
「やっぱり、ほんものだああああああ。てんしちゃん(かっこかり!)は、だまされた!」
「ちょっと、黙ってくれないか」
「だまるものか! てんしちゃん(かっこかり!)は、ほんものめりるにくっしない」
「…………」
少女は体重のかけ方を変えて、更にぬいぐるみを痛めつける。悲痛な叫びに、少女はますます、イライラしていった。
「それで、お前は何をしに来た」
「いいしつもんだ! てんしちゃん(かっこかり!)は、すこしだけ、おまえをほめる!」
「何をしに来た?」
「そのにんげんは、ねがわれた! って、あれ?」
「お客人は、もういないよ」
「いない……? どこにいったの、って、てんしちゃん(かっこかり!)は、ぎもんをおぼえる!」
「さあ? どこか遠いところ、かなあ」
少女は壁に掛けた絵を眺めていた。
「そうか! なら、てんしちゃん(かっこかり!)のようはない!」
「さっさと消えろ」
「でも、てんしちゃん(かっこかり!)はうごけない!」
「少し待ってろ。今、楽にしてやる」
少女は天使のぬいぐるみの羽を引き千切った。ぬいぐるみは悲鳴を上げる。その悲痛な叫びが消える前に、羽の跡に出来た穴に絵筆を突っ込んだ。更に甲高い叫びに、少女は思わず耳を塞ぐ。しかし、それはすぐに消えた。少女が椅子の下を覗き込んだ時にはもう、天使のぬいぐるみはどこかに消えていた。
「まったく、うるさい奴だ」
少女はキャンバスを蹴っ飛ばした。乾いていない絵の具が、少女の足にべっとりとくっついた。
「やっぱり、面白くない」
少女はバケツいっぱいの絵の具をちらっと見ると、大きなため息をついた。
「何シテイルンダ?」
今度は、操り人形が、半透明の糸に吊られて降りてきた。
「お絵描き。でも、飽きた」
「ソウカ。ソレデ完成カ?」
「それでいいんじゃない。これ以上はやる気が出ない」
倒れたキャンバスに、乱雑に書かれたよくわからないものを見て、少女が本当に絵を描いていたのか、操り人形は気になった。しかし、口には出さなかった。
「ソウダ。一ツ、聞キタインダガ」
「なあに、エクス?」
「二人ノ時ハ、エクス、ッテ呼ンデクレルンダナ」
「聞きたいのは、そんなこと?」
「違ウ。ソウジャナクテ、今回ノオ客人ハ、何処ニ行ッタンダ?」
「さあ?」
少女は欠伸をして、椅子に座ったまま背伸びをした。
「知ラナイワケナイダロ」
「知らないことにしておいてよ」
「無理ナ相談ダ」
「あれ」
少女はやる気無さそうに、観測室に飾られた額縁を指差した。
「アノ絵ハ何ダ?」
「タイトルは『幸せな女』」
「…………?」
首をかしげる人形をよそに、少女は立ち上がった。そのはずみで、バケツに入った絵の具が床中に広がった。
「オイオイ。観測室ヲ、汚サナイデクレ」
「エクス、私は願いを叶えられたのかな……」
「突然、何ダ……?」
「いや、なんでもない」
少女はじっと、額縁に飾られた絵を見つめていた。
嬉しそうに微笑む女性。麦わら帽子を被り、ワンピースをなびかせて、にこやかに笑っている。
そのすぐそばにはもう一人いた。無精ひげを生やした、くしゃくしゃの髪の男を、確かに少女は覚えていた。
その男の表情は――――――――。
今回の話はここまで。次回からは、また別のお話。




