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観測室のメリル  作者: 伊和春賀
幸せな女
36/37

日隈梨夫の願いⅣ

「あなたの願いは聞き届けられました。それでは、準備をしましょう」


 ベレー帽を被った少女は、天井にぶら下がっているキリンのぬいぐるみを引っ張った。すると、白色の箱がすとんと落ちてきた。


「それは?」

「ん?」


 少女は白い箱を指差す男の指先をたどってようやく、箱が落ちてきたことに気が付いた。


「すみません。いつもの癖で……。今回は必要ないですね」


 少女は箱を天井に投げ込もうとした。しかし、それをやめ、中からパイプ椅子を取り出した。少女はそれに座ると、足を組んだ。


「たまには座って応対するのもいいものですね」

「僕の願いはどうやって叶えられるんだい?」

「まずは、あなたの絵をここまで持ってくる必要がありますね。さて、どうしましょうか」


 パイプ椅子の下に白い箱を押し込みつつ、少女は考え込んでいた。時折、そのマットを爪で引っ掻きながら、足をバタバタとさせている。


「僕の部屋に行って、それを持ち出すというのは?」

「そうできればいいのですが、あいにく、ここは観測室(プラネタリウム)。現世とは一方的にしか繋がっていないのです」

「一方的に?」

「ああ、でも、そうか。別に、気にすることないのか」


 少女は立ち上がると、何やら呪文のように難解な理論をぶつくさと呟きながら、男の目の前に立った。


「少しだけ、目をつぶってもらえますか」


 言われたままに、男は目をつぶった。同時に、ひんやりとした感触が目を覆い、光を完全に失わせた。それが少女の手であると気付いた頃には、手は男から離れていた。


「どうぞ。目を開けてください」


 男は目を開けた。すると、そこには、見覚えのあるイーゼルに立てつけられたキャンバスが、純白のベールに覆われていた。


「これは僕の――――」

「良かった。間違いないですね」


 男はゆっくりと、キャンバスに近付いていった。そして、純白のベールを、ゆっくりとめくっていった。



 カラフルなキャンバス。その中に、男の理想が静かにたたずんでいる。物を言わず、それでいて、頬を赤く染めて、男を魅了した唇もそのままに、今にも飛びそうな麦わら帽子をしっかりと押さえている。


 それは、男と女の心を秘めたキャンバスだった。


 男は彼女の頬に触れようとしたその手を、自身の髪の毛に向かわせた。くしゃくしゃの髪を、出来る限り整え、いつ、女性に出会っても良いように心がける。それでも、息は荒く、心臓は高鳴るばかりだった。


「僕は本当に、この人と出会えるのか?」

「はい。そのためには、絵の向こうから呼び出さなければなりません」


 少女は男の腕を取り、キャンバスへと向かわせた。


「僕が、彼女を連れ出せ、と?」

「そうです。あなたの手で、彼女をここに呼んであげましょう」


 微笑む少女の手をそっと離し、男はキャンバスに触れた。その手は吸い込まれるように、キャンバスの中に入っていく。


 すると、小さな手が見つかった。男はその手を取り、ゆっくりと後退した。


 きめ細かな白い指が、腕が、キャンバスから姿を現した。


「ああ……」


 その手を、男は覚えていた。ゆっくりと現れるワンピースにも、麦わら帽子にも、艶やかな唇にも、見覚えがあった。


 男はそっと、彼女を抱きしめた。優しく、愛おしく、そっと、抱きしめた。

 女性は何も言わず、彼に寄りかかった。


「僕は君に会いたかったんだ。その顔を僕に見せてくれ」

 女性は何も言わない。

「照れているのかい?」

 女性は何も言わない。

「僕の方から見てしまうよ」

 女性は何も言わない。

「いいのかい?」

 女性は何も言わない。


 男はゆっくりと、その顔を覗き込んだ。頬を赤らめて、恥ずかしそうにしている。そんな女性の表情は見覚えがあった。


 いや、見覚えがありすぎた。

 

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も見たその顔を、男が忘れるわけがなかった。


 だからこそ、違和感を覚えた。

 だからこそ、気が付いてしまった。


 女性の表情が、キャンバスにいた頃と、寸分違わないことを。


 決して、表情は崩れない。恥ずかしそうに微笑んだままだった。男が揺さぶろうが、声を掛けようが、常に微笑んだまま。呼吸音の一つ、心臓の鼓動の一つさえ、聞こえない。麦わら帽子は床に落ちない。それを支える腕は、固まったように動かない。彼女の着ているワンピースは、風になびいた姿のまま、動かない。口は堅く閉じられたように、動かない。


 男はしばらく、何も言えなかった。ただただ、立ち尽くしていた。


「どうでしょう。理想の女性と出会えた感想は?」


 男は女性をその場に立たせると、静かに、少女の胸ぐらをつかんだ。


「なんですか?」

「これはどういうことだ?」

「あなたの願った通りですよ。あなたの願い通り、絵の中の彼女と会えたではありませんか」

「そうじゃない」


 男は、少女の服を更に引っ張り上げる。


「不服ですか?」

「僕は彼女に会ってみたかったんだ」

「間違いないではありませんか。キャンバスの中の、まさに絵そのものの彼女に出会えたのですから」

「そうじゃない」


 男は少女から手を離した。少女は服を整えた。


「生きている彼女と会いたかったのですか?」

「…………」


 男は何も答えなかった。しかし、彼の表情は肯定を意味していた。


「絵に命はありませんよ。所詮、絵ですから」

「所詮とはなんだ!」


 男は怒鳴った。しかし、少女はひるまずに続けていく。


「石は感情を持ちません。土も感情を持ちません。絵もまた、感情を持ちません。至極、当たり前のことでしょう?」

「だから何だって言うんだ!」

「あなたは、絵に何を求めているのです?」

「僕は、彼女を愛していたんだ!」


 叫ぶ男を、少女は冷めた目で見ていた。


「あー……。その女性で満足できませんかね?」

「僕は彼女の愛も欲しいんだ」

「…………」


 少女は呆れて、パイプ椅子に座った。その少女に男は詰め寄る。


「僕の願いはまだ、叶い終わっていない。神様は何でも叶えるんだろ? それじゃあ、僕の願いだって、僕が思った通りになるはずだ」

「確かにそうですけれど……」

「でも、現実はそうなっていない。だから、すぐに僕の願いを、ちゃんと叶えてくれ」

「まあ、一理ありますけれど……」


 少女は唾を飛ばす男から目を逸らした。


「なあ? 話を聞いているのか?」

「解決策を考えているところです……。ああ、でも、これだけはやめた方が……」

「どんな方法でもいい。僕の願いを叶えてくれ」


 男の唾は、更に少女にかかっていく。少女はそれを拭いながら、しぶしぶ口を開いた。


「その女性に命を与えるという方法です。しかし――――」

「何の問題もないじゃないか!」

「たぶん、面倒なことになるかと……。それに、その女性が、あなたを愛しているとは限りませんよ」 

「僕はこんなにも彼女を愛したんだ。彼女だって僕を愛してくれる」

「…………」


 少女は溜め息をつくと、男をよけて、銅像のような女性の横に立った。


「後悔しませんね?」

「ああ、どこにも後悔はない。だって僕は彼女を愛しているから」


 少女は頭を掻くと、大きなため息をついた。そして、女性の心臓あたりに手を置いた。

 小さな白い光が、女性を包み込む。その輝きに目がくらみ、男は目をつぶった。そして、次に目を開いた時、男は女性がその場に座り込んでいるのを見つけた。

 きょろきょろと辺りを見回す麦わら帽子の女性。困惑したように、じっと白髪の少女を見つめていた。そして、男を見つけると、すぐに、その胸に飛び込んだ。


「あなたに会いたかったの!」

「僕もだよ!」


 二人はぎゅっと抱き合っていた。それを少女は、苦々しく見つめていた。


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