日隈梨夫の願いⅣ
「あなたの願いは聞き届けられました。それでは、準備をしましょう」
ベレー帽を被った少女は、天井にぶら下がっているキリンのぬいぐるみを引っ張った。すると、白色の箱がすとんと落ちてきた。
「それは?」
「ん?」
少女は白い箱を指差す男の指先をたどってようやく、箱が落ちてきたことに気が付いた。
「すみません。いつもの癖で……。今回は必要ないですね」
少女は箱を天井に投げ込もうとした。しかし、それをやめ、中からパイプ椅子を取り出した。少女はそれに座ると、足を組んだ。
「たまには座って応対するのもいいものですね」
「僕の願いはどうやって叶えられるんだい?」
「まずは、あなたの絵をここまで持ってくる必要がありますね。さて、どうしましょうか」
パイプ椅子の下に白い箱を押し込みつつ、少女は考え込んでいた。時折、そのマットを爪で引っ掻きながら、足をバタバタとさせている。
「僕の部屋に行って、それを持ち出すというのは?」
「そうできればいいのですが、あいにく、ここは観測室。現世とは一方的にしか繋がっていないのです」
「一方的に?」
「ああ、でも、そうか。別に、気にすることないのか」
少女は立ち上がると、何やら呪文のように難解な理論をぶつくさと呟きながら、男の目の前に立った。
「少しだけ、目をつぶってもらえますか」
言われたままに、男は目をつぶった。同時に、ひんやりとした感触が目を覆い、光を完全に失わせた。それが少女の手であると気付いた頃には、手は男から離れていた。
「どうぞ。目を開けてください」
男は目を開けた。すると、そこには、見覚えのあるイーゼルに立てつけられたキャンバスが、純白のベールに覆われていた。
「これは僕の――――」
「良かった。間違いないですね」
男はゆっくりと、キャンバスに近付いていった。そして、純白のベールを、ゆっくりとめくっていった。
カラフルなキャンバス。その中に、男の理想が静かにたたずんでいる。物を言わず、それでいて、頬を赤く染めて、男を魅了した唇もそのままに、今にも飛びそうな麦わら帽子をしっかりと押さえている。
それは、男と女の心を秘めたキャンバスだった。
男は彼女の頬に触れようとしたその手を、自身の髪の毛に向かわせた。くしゃくしゃの髪を、出来る限り整え、いつ、女性に出会っても良いように心がける。それでも、息は荒く、心臓は高鳴るばかりだった。
「僕は本当に、この人と出会えるのか?」
「はい。そのためには、絵の向こうから呼び出さなければなりません」
少女は男の腕を取り、キャンバスへと向かわせた。
「僕が、彼女を連れ出せ、と?」
「そうです。あなたの手で、彼女をここに呼んであげましょう」
微笑む少女の手をそっと離し、男はキャンバスに触れた。その手は吸い込まれるように、キャンバスの中に入っていく。
すると、小さな手が見つかった。男はその手を取り、ゆっくりと後退した。
きめ細かな白い指が、腕が、キャンバスから姿を現した。
「ああ……」
その手を、男は覚えていた。ゆっくりと現れるワンピースにも、麦わら帽子にも、艶やかな唇にも、見覚えがあった。
男はそっと、彼女を抱きしめた。優しく、愛おしく、そっと、抱きしめた。
女性は何も言わず、彼に寄りかかった。
「僕は君に会いたかったんだ。その顔を僕に見せてくれ」
女性は何も言わない。
「照れているのかい?」
女性は何も言わない。
「僕の方から見てしまうよ」
女性は何も言わない。
「いいのかい?」
女性は何も言わない。
男はゆっくりと、その顔を覗き込んだ。頬を赤らめて、恥ずかしそうにしている。そんな女性の表情は見覚えがあった。
いや、見覚えがありすぎた。
何度も。
何度も。
何度も。
何度も見たその顔を、男が忘れるわけがなかった。
だからこそ、違和感を覚えた。
だからこそ、気が付いてしまった。
女性の表情が、キャンバスにいた頃と、寸分違わないことを。
決して、表情は崩れない。恥ずかしそうに微笑んだままだった。男が揺さぶろうが、声を掛けようが、常に微笑んだまま。呼吸音の一つ、心臓の鼓動の一つさえ、聞こえない。麦わら帽子は床に落ちない。それを支える腕は、固まったように動かない。彼女の着ているワンピースは、風になびいた姿のまま、動かない。口は堅く閉じられたように、動かない。
男はしばらく、何も言えなかった。ただただ、立ち尽くしていた。
「どうでしょう。理想の女性と出会えた感想は?」
男は女性をその場に立たせると、静かに、少女の胸ぐらをつかんだ。
「なんですか?」
「これはどういうことだ?」
「あなたの願った通りですよ。あなたの願い通り、絵の中の彼女と会えたではありませんか」
「そうじゃない」
男は、少女の服を更に引っ張り上げる。
「不服ですか?」
「僕は彼女に会ってみたかったんだ」
「間違いないではありませんか。キャンバスの中の、まさに絵そのものの彼女に出会えたのですから」
「そうじゃない」
男は少女から手を離した。少女は服を整えた。
「生きている彼女と会いたかったのですか?」
「…………」
男は何も答えなかった。しかし、彼の表情は肯定を意味していた。
「絵に命はありませんよ。所詮、絵ですから」
「所詮とはなんだ!」
男は怒鳴った。しかし、少女はひるまずに続けていく。
「石は感情を持ちません。土も感情を持ちません。絵もまた、感情を持ちません。至極、当たり前のことでしょう?」
「だから何だって言うんだ!」
「あなたは、絵に何を求めているのです?」
「僕は、彼女を愛していたんだ!」
叫ぶ男を、少女は冷めた目で見ていた。
「あー……。その女性で満足できませんかね?」
「僕は彼女の愛も欲しいんだ」
「…………」
少女は呆れて、パイプ椅子に座った。その少女に男は詰め寄る。
「僕の願いはまだ、叶い終わっていない。神様は何でも叶えるんだろ? それじゃあ、僕の願いだって、僕が思った通りになるはずだ」
「確かにそうですけれど……」
「でも、現実はそうなっていない。だから、すぐに僕の願いを、ちゃんと叶えてくれ」
「まあ、一理ありますけれど……」
少女は唾を飛ばす男から目を逸らした。
「なあ? 話を聞いているのか?」
「解決策を考えているところです……。ああ、でも、これだけはやめた方が……」
「どんな方法でもいい。僕の願いを叶えてくれ」
男の唾は、更に少女にかかっていく。少女はそれを拭いながら、しぶしぶ口を開いた。
「その女性に命を与えるという方法です。しかし――――」
「何の問題もないじゃないか!」
「たぶん、面倒なことになるかと……。それに、その女性が、あなたを愛しているとは限りませんよ」
「僕はこんなにも彼女を愛したんだ。彼女だって僕を愛してくれる」
「…………」
少女は溜め息をつくと、男をよけて、銅像のような女性の横に立った。
「後悔しませんね?」
「ああ、どこにも後悔はない。だって僕は彼女を愛しているから」
少女は頭を掻くと、大きなため息をついた。そして、女性の心臓あたりに手を置いた。
小さな白い光が、女性を包み込む。その輝きに目がくらみ、男は目をつぶった。そして、次に目を開いた時、男は女性がその場に座り込んでいるのを見つけた。
きょろきょろと辺りを見回す麦わら帽子の女性。困惑したように、じっと白髪の少女を見つめていた。そして、男を見つけると、すぐに、その胸に飛び込んだ。
「あなたに会いたかったの!」
「僕もだよ!」
二人はぎゅっと抱き合っていた。それを少女は、苦々しく見つめていた。




