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観測室のメリル  作者: 伊和春賀
幸せな女
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日隈梨夫の願いⅢ

「どうでしょう。何か思い出しましたか?」


 少女は男に向かって話しかけていた。


「ああ……。僕は絵を描いていた。そのはずなんだ。でも、ぱったりと途絶えてしまった」

「途絶えた? 何がですか?」

「突然、世界が闇に包まれたかのように、何もかもが消えたんだ。その後は、もう、ここにいたことしか覚えていない」

「なるほど。ならば、全てを思い出したようですね」


 男はその言葉に対して、首を大きく傾げた。


「これで全部だっていうのか?」

「そうです。それが、あなたに起こった全てです」

「それじゃあ、僕は、一体……?」

「あなたは死んだのですよ」 


 少女はにっこりと微笑んだ。


「僕が、死んだ……?」

「そうです。あなたは死にました」

「僕は、死んだ……」


 事態を飲み込もうと、何度もその言葉を反芻(はんすう)する。


「あなたは絵を描き続けるあまり、死んでしまったのです」

「だから君は、『神の代理人』なのか」

「そうです。あなたに祝福を送るのが、私の務めですから」


 少女は手にしている手帳を天井に向かって投げ捨てると、男を指差した。


「これからあなたは死後の世界に送られます。しかし、死は望まれるものではありません。人の子はそれから逃れるために、あらゆる手を尽くしました。けれども、死は絶対です。逃れることはできません。どんなあがきも、徒労に終わってしまいます。そんな人の子を、神は憐れんでおられました。いつも思い悩み、嘆息を漏らさない日はなかったそうです。そもそも、死という運命は、人の子に最初からあったわけではありません。それはかつて、神が泥をこねて作られたアダムとイヴという二人の人間に起因します。彼らが生まれた時には、死という運命はなく、ゆえに、死を苦しむことはありませんでした。ただ、彼らの生活は、それほど華やかなものでもなかったそうです。エデンという楽園は、苦しみも痛みもありません。安楽のみが存在します。ですから、何事も慎ましやかに、生活は営まれました。何の刺激も、快楽もなく、淡々と。しかし、その平凡な生活も、ささいな過ちで崩れ去りました。そうです。アダムとイヴの二人は、神に食べることを禁じられていた、知恵の果実をかじってしまったのです。それが何を意味するのか、神は知っていたのです。だからこそ、禁じていたのに、彼らは、そんな神の配慮を顧みることなく、果実を口にしました。そして、彼らは知ってしまったのです。刺激的な生活を。欲望の生活を。彼らは穢れてしまいました。穢れた者を、エデンに留め置くことはできません。ですから、神は彼らをエデンから追放しました。いくら、泣き叫ぼうが、許しを請おうが、神は冷酷に、彼らを地上に落としたのです。こうして、彼らは、そして、その子孫であるあなた方、人の子は死の運命を背負うことになったのです。しかし、これは何千年も、何万年も前の話です。百年さえ生きられないことが多いあなた方、人の子にとって、こんなにも遥か過去の過ちをいつまでも背負い続ける責任は、どこにあるのでしょう。本当に、人の子に死の運命を背負わせ続けるだけが、神としての役目でしょうか。そして、神は思いつきました。死の運命はもはや変えることはできない。その代わりに、人の子に祝福を与えることを思いついたのです。それを行うのがこの観測室であり、私は神の代理人として、死者に祝福を授ける役目を担っています。優秀にも()(がた)い死を乗り越えた者に対しての、いわば、ご褒美(ほうび)を与えるのです」


 男は少女の話を黙って聞いていた。


「それで、その祝福っていうのは、何なんだ?」

「いわば、願いごとですかね。現世を生き、そして死んだあなたには、願いを叶える権利があるのです」

「願いを叶える権利……」

「そうです。神は全てにおいて平等です。どんな願いでも叶えられることでしょう」


 少女は両手を広げて微笑んでいた。


「あなたはその死を代償に、何を願いますか?」

「僕は――――」


 その答えに迷いはなかった。

 しかし、この答えを聞いた時、それを少女が受け入れるかは疑問だった。それはあまりにも、非現実的で不可解な回答だ。共感を得られるとは、到底思えない。


「何か、言えないことでもありますか?」


 少女はずっと微笑んでいた。


「いや……」

「神は全てにおいて平等です。その願いが、いかに空想的であろうと、非現実的であろうと、反社会的であろうと、反倫理的であろうと、神は全てを叶えます」


 少女は男の手を取った。その白い手は妙に冷たく、まるで氷のようだった。


「あなたは何も迷う必要がないのです。あなたの欲望、願望、全てを受け入れる。それが、平等たる神が、真に平等である証明です」

「それなら――――」 


 男は口を開くのを、一度ためらってから、それでも、少女に願いを告げた。


「僕は、あの絵を、いや、あの女性に、一度でいいから、会ってみたいんだ」

「あの女性、とは?」

「言ってなかったっけ。僕が、最後まで――――、死ぬまで書いていたあの女性さ」


 男は最期の瞬間まで握っていた絵筆を思い出すように、その手のひらを見つめていた。


 あれは狂気だったのかもしれない。それでも、男は自分の感情を信じたかった。


 きっと、これは恋。

 きっと、これは愛。


 キャンバスの中の女性は、この世の誰よりも、美しく、愛らしい。それを愛おしいという感情のまま終わらせたくはない。たとえ、相手が作り出された虚妄であっても、真の愛とは、それをも乗り越えられるもの。だが、現実では絶対に不可能だった。


 しかし、少女は言った。『どんな願いでも叶える』と。


 虚妄の檻から、手を伸ばすチャンスを、少女は与えてくれると言うのだ。例え、それが嘘でもいい。可能性が、一分でも、一厘でもあるのなら、それに賭けるしかない。

 

 少しでいいから、キャンバスの中の女性に触れてみたい。


 それが、男の願いだった。


「なるほど。あなたはその女性に会ってみたいのですね」

「そうだ。何でも叶うのなら、僕は、そう願いたい」

「了解しました。では、その願いを叶えましょう」


 少女は地球のボールの下まで、ゆっくりと歩いて行くと、それにぶら下がるような格好で、ボールを引っ張り降ろした。



「ケケケ。ソロソロカ?」


 頭上の暗闇の彼方から、半透明の糸に吊るされた操り人形がゆっくりと垂れさがってきた。ベレー帽をかぶったその顔には、木目が一列に並んでいる。


「人形……?」

「準備が済み次第、お伝えしますので、こいつに願いを言ってくださいね」

「コイツトハ何ダ」


 男が操り人形に気を取られていることには構わず、少女は人形と話を進めていく。


「いつも、そう呼んでるじゃん。慣れてよ」

「ソウダガ……。アマリ、気ニ入ッテハイナイ」

「でも、お客人の前でエクスって呼びたくないし」

「何デダ?」

「なんとなく」


 少女は人形からベレー帽を取り上げると、それを被った。


「ソレデ、説明ハ――――」

「済んだ」

「本――――」

「本当だってば。何で、毎回、そんなことを聞くのさ?」

「手順ガアルカラナ」

「このマニュアル人形め」


 少女は操り人形の禿げ頭を引っ叩いた。首が外れたような音がしたが、人形の首は揺れただけで、その代わりに数本のビスが、バラバラと床に落ちた。少女はそれに気が付くことなく、男の方に向き直った。


「それでは、確認ですが。あなたの願いは、『あなたが描いていた絵の中の女性に会ってみたい』ということよろしいですか?」

「うん。僕は、あの美しくて愛らしい女性に、会ってみたいんだ」

「では、始めましょう」


 少女はベレー帽を被り直すと、操り人形を吊るす糸を数回、引っ張った。


「ほら、始めるぞ」

「何カガ外レタ気ガスル」

「気のせいだ。ほら、お客人を待たせるな」

「ソウダナ」


 操り人形は男の方を向いた。その丸い目玉が、じっと彼を捉えている。


「サアサア、オ客人、コチラニ」


 操り人形が口をカタカタと言わせながら、喋っていた。その前に男は立った。


「願イ事ヲ言エ」


 男は浅い呼吸を繰り返した。


「僕は」


 男は手のひらをじっと見つめると、それをぎゅっと握りしめた。



「僕が描いた絵の中の、あの素敵な女性に出会ってみたい」



「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。願イハ聞キ届ケラレタ。可及的速ヤカニ、ソノ願イヲ実行スル!」


 人形は笑い声を挙げた。その声は、糸に吊り上げられて天井に消えていく。途中で、人形の頭がずれ落ちたが、すぐに少女に拾い上げられ、天井奥の暗闇に投げ飛ばされた。


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