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観測室のメリル  作者: 伊和春賀
幸せな女
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日隈梨夫の願いⅡ

 来る日も来る日も、男は、絵を描き続けていた。


 寝食を忘れ、狭い居室にこもり、一心不乱に絵を描き続ける。彼は、汗まみれになろうとも、絵の具まみれになろうとも、太陽が何度沈もうとも、決してキャンバスの前から動くことなく、ただひたすらに筆を動かす。何かに憑りつかれたという言葉では足りないほどの、狂気に飲み込まれていた。



 それは想像力の暴走。否、想像力の超越だった。



 最初は、その絵も真っ白なキャンバスだった。イーゼルに置かれたその真新しいキャンバスは、いつものように男の想像力を映し出す、ただのスクリーンであるはずだった。


 しかし、下書きを終え、色を乗せていくうちに、それがただの絵ではないことに気が付いた。


 色を乗せるたび、女性の肌がより一層明るくなり、自然と赤らんでいく。その頬も、その肩も、その脚も、露出した全ての肌に、瑞々しさが宿る。

 女性特有の甘い匂いが、キャンバスから感じられるようだった。男は首を振り、穢れた妄想を吹き飛ばそうとした。しかし、見れば見る程、そこにいる女性は、何者よりも美しく、そして、愛らしいように思えて仕方なかった。

 幻影を追い求めるように、男は、更にキャンバスに色を乗せていく。その度に、女性の髪は艶やかになり、ワンピースはまるで風に吹かれているかのように、ゆらゆらと揺れている。その時、女性の麦わら帽子が吹き飛びそうなことに、男は気が付いた。

 男はその帽子が吹き飛ばないように、筆で押さえた。ふと、彼女の手が、筆に触れたような気がした。慌てて筆を退けると、細長く、しなやかな指が、麦わら帽子を押さえていた。


「ごめん」


 そんな言葉が、口からこぼれる。女性はその言葉に対し、微笑みで返事をした。そのゆったりとした表情は、何もかもを包み込む優しさがあった。

 男はすっかり骨抜きにされた。キャンバスに色を乗せるたびに変化していく女性の表情は、更に男を魅了していく。

 全てが、男の理想そのものだった。理想を前にして、男は頬を赤らめながら、絵筆を進めていく。


 一方で、キャンバスの中の彼女もまた、その頬は赤らんでいるようだった。その目はじっと、男を見つめているが、いざ、男を見つめると、さっと、視線を逸らしてしまうのだった。

 男がそれに気が付いた時も、女性は目を逸らしていた。だが、その仕草こそ、男を射抜く、最後の一矢となった。


 男は居てもたってもいられなくなり、その(あで)やかな唇にキスをした。


 湿った柔らかい感触が、男の唇を包む。ゆっくりと、その口を離す。

 絵の中の彼女は、まるで、照れているかのように、頬を赤らめていた。男は口を拭きながら、目を逸らす。


 そのまま、一時間は経った。男はゆっくりとキャンバスに視線を戻した。

 女性は、男を待ち続けていたかのように、にっこりと微笑んでいた。ただ、その目は少し潤んでいるように思えた。男は女性の頬に優しく触れると、絵筆を再び、走らせていった。


 そうして、何日経ったことだろう。


 女性はより美しく、より愛らしくなっていた。だが、まだ終わりではない。確かにキャンバスの中の女性は、どんな女性よりも美しく、愛らしい。しかし、男が手を加えるたびに、更に美しく、更に愛らしくなっていく。

 だから、男は手を止めるわけにはいかなかった。女性にもっと美しく、もっと愛らしくなってもらうために、男は出来る限りのことを尽くそうと、それだけを考えて、手を動かしていく。

 彼女はそれに応えるかのように、いつでも微笑んでいた。頬を赤らめて、麦わら帽子をおさえながら、情熱的な視線で、男を見つめている。


 真っ白だったキャンバスは、そうであったことを忘れ、より華やかに、より鮮やかに染まっていく。描き出された理想像は、男の手によって、洗練されていく。



 男はパレットの色が尽きてもなお、女性を描き続けていた。



 男は絵筆が折れてもなお、女性を描き続けていた。



 男は命が尽きてもなお、女性を描き続けていた。

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