日隈梨夫の願いⅠ
年内最後の話
「おはようございます」
「ああ、おはよう……」
無精ひげの男に向かって、少女は微笑んでいる。男は大きな欠伸をしながら、腕を伸ばした。
「どうですか。私のプラネタリウムは?」
寝ぼけまなこをこすりながら、彼は観測室を見渡した。
ぼやけた視界の端には、大量に吊り下がる星飾りが見える。それを見上げれば、カニやキリン、時計といった脈絡のないぬいぐるみや、地球などの惑星を模したボールが目に入った。その奥には、何もない暗闇が広がっている。
「ああ、ごめん。今、起きたばかりで、頭が回らないや…………」
「そうですか。なら、コーヒーでも飲みますか?」
「そうだね。お願いできるかな」
少女は一礼し、観測室の壁際に向かって歩き始めた。そこでは、色とりどりの機械が、ピカピカとランプを輝かせている。その一つの前で少女は立ち止まると、巨大なスイッチを一息に押し込んだ。しかし、ランプは一斉に点灯したものの、それきり何が起こるわけでもなく、元の調子でランプは輝いている。
そのはずなのに、少女の手にはコーヒーカップが握られている。コーヒーが並々と入ったカップの縁には、子供が書いたような、下手くそなネコのイラストが描かれていた。少女はそのカップを男に差し出した。
「ありがとう」
男はコーヒーを啜った。てっきり、色合いからしてブラックコーヒーとばかり思っていたが、砂糖とクリームがたっぷりと入っていた。それはそれで、男には嬉しかった。
コーヒーを飲むと頭が冴えてきて、周りの様子がはっきりと分かる。この部屋は、ドーム状になっていて、壁際には、スチームパンクを想起させるような、無機質な機械が並んでいる。一方で、天井からは無数の星飾りとぬいぐるみが吊るされ、少女らしいメルヘンを演出する。ただ、その二つが噛み合っているわけではなく、互いに互いの要素を殺しているように思えた。
こんな奇抜な部屋を、男は見たことが無かった。そもそも、男は自分の部屋から出た記憶さえなかった。ただ、覚えている最後の記憶はあまりにも曖昧で、もしかしたら、出掛けたのかもしれないと納得して、コーヒーを飲み続けていたのだった。
「お口に合いましたか?」
「ああ。とっても美味しいよ。これは何の豆を使っているんだ?」
「秘密です。けれど、特別なものです」
少女はにっこりと微笑んだ。それ以上、何も言う気がなさそうだったので、男は話題を変えた。
「そういえば、ここはどこなのかな?」
「ここは観測室です。私はプラネタリウムと呼んでいますが」
少女は包帯を巻いた指先で、天井にぶら下がる星飾りを指差した。だが、それを見ても、男は何故、自分がここにいるのか、さっぱり思い出せなかった。そうして考えていた男の肩に、少女はそっと手を乗せた。
「どうしました?」
「実は、どうして僕がここにいるのか、分からないんだ。僕はこのところ、仕事に打ち込みっぱなしで、それで精いっぱいだったんだ。気付けば、数日飛んでいることだってあった。でも、早く完成させたくて、その――――」
「大丈夫ですよ。思い悩むことはありません。ここに来る人は誰しも、記憶の欠落があるものです」
少女の言葉を聞き返そうとしたものの、その前に少女は、手近な星飾りを引っ張った。ガコンという音がして、小さな古びた手帳が、ひらひらと舞い降りてきた。少女はそれを拾い上げ、静かに読み始めた。
「あなたの名前は、日隈梨夫、でよろしいですか?」
「ああ、そうだが……。それは名簿なのか?」
「いいえ。この手帳には、あなたの全てが書いてあるのです」
「僕の全て?」
「あなたが画家であり、一心不乱に絵を描いていたことを、私は知っています」
「それは誰かに聞いたのか?」
「いいえ。ここに全て書いてあるのです」
少女はぱたんと、手帳を閉じ、その表紙を男に掲げた。古びた手帳の表紙には、何やらタイトルのようなものが書いてあったが、とても読めるような字ではなかった。
「この部屋といい、その手帳といい、不思議なものばかりだ。それに君も……。そういえば、君は一体、誰なんだ?」
「私はあのお方の代理人にして、この観測室の主です」
「あのお方? それって――――」
男の言葉を、少女がそっと指でふさぐ。男の目の前で首を振る少女の髪が、ふわりと広がった。
「あなたの考えている、『あのお方』ではありませんよ」
「まだ言ってもいないのに」
「あなたのことです。きっと、尊敬する画家の名前を挙げようとしたのでしょう? でも、それは間違いです」
それはあたらずといえども遠からずだった。男は尊敬し、そして、自分を導いてくれるであろう巨匠の名を挙げようとしていたのだ。
「それじゃあ、『あのお方』っていうのは?」
「あなた方の言葉で言えば、神です」
「神?」
「そう。私ともあなたとも違う、高みにいるお方」
今度は、天井奥の暗闇を少女は指差した。その暗闇をいくら覗こうとも、その奥に何があるのか、うかがい知ることはできない。どこまでも、真っ黒な深淵が続くだけだった。
「何にも見えないけれど」
「神とはそういうものです。見ようとすれば見えず。見まいとすれば見えるのです」
「そう……、なのか?」
「ですが、私は常にここにいる。神の代理人として、あなたの前に」
微笑む少女を見て、男は苦笑いした。どうやら、スピリチュアルな少女につかまったようだと、内心、焦り出していた。きっと、良からぬ企みに乗せられるに違いない。壺を買わされるとか、そんなことを男は警戒し始めていた。
「神は全てにおいて平等です。あなたがここにいるというのも、その平等ゆえなのですよ」
「はは……。そうなんだ」
「もはや何も恐れることはありません。全ては終わったのですから」
話を続ける少女から目を逸らし、男はハッとなったような顔を作って、椅子から立ち上がった。
「ああ、そうだ。僕には用事があったんだ。この辺でお暇させていただくよ」
「用事?」
「そう、大切な用事がね」
男は出口を探した。しかし、壁はチカチカとランプを点滅させる機械で覆われている。観測室には、扉どころか窓すらないことに、ようやく男は気が付いた。その男の手を、少女は掴んだ。
「どこへ行くのですか。用事なら、今、こなしているではないですか」
「いや、別の用事がね……。それはそうと、出口はどこ?」
「出口なんてありませんよ。ここには入口があるだけです」
「は……?」
「まあ、落ち着いて、私の話を聞いてください」
そうして、男は再び安楽椅子に座らされた。
「何か勘違いをしていませんか? 私はあなたに危害を加えることはありません」
「いや……、そういうのじゃなくて」
目を泳がせる男をよそに、少女は話を続けていく。
「私は、あなたを祝福するためにここにいるのです」
「祝福……?」
「そうです。あなたは祝福されるために、この観測室に送られたのです」
少女は大きく手を広げ、くるっと回転した。白い髪がふわりと広がり、少女の服の裾もまた、大きく広がった。
「あなたはどうして、ここにいるのか分かりますか?」
「それは……、分からない」
「思い出してください。あなたはきっと、その理由を覚えているはずです」
男は記憶を辿り始めた。




