夏島華菜の願いⅤ
観測室の天井に吊るされた星飾りは、再び、騒がしく揺れている。泣き腫らしたカナは、少女と抱き合ったままだった。
「ありがとう。あたしの話を聞いてくれて」
「いえいえ。お客人の話を聞くことも、私の務めです」
少女はニッコリと微笑んだ。
「それで、願いだっけ……。あたしが願いたくない理由は、なんとなくでも、分かってくれた?」
「はい。ですが、あなたが気にしていることは、願いには関係しませんよ」
カナはそっと、少女の腕を離した。そして、ため息にも似た吐息を漏らした。
「あなたも、人の話を聞かないのね」
「いいえ。そうではありません。あなたはおそらく、氷川という女か、飯島という男に対して、復讐することを願うつもりでしょう。ですが、それにまた復讐されるのが恐ろしいと、そう感じているのではないでしょうか」
「うん……。だって、そうでしょう? 神様は、誰にだって平等なんでしょう?」
「そうです。神は全てにおいて平等です。しかし、規則はあります」
少女は、古びた手帳を広げた。特に読むわけでもなく、パラパラとめくっていく。
「何でも叶う願いにも、実は、制限があります。それは、あなたが死ぬ前のことについては、願えないという点です。これはパラドックスを防ぐために存在しています」
「あたしが死ぬ前については願えない……?」
「残念ながら、飯島という男の存在を無かったことにしてほしい、というのは、不可能だということです。絶対の規則ですから」
「でも、氷川があたしに復讐できるのは変わらないはず――――。あ……」
「お気づきになられましたか」
少女は手帳を上に放り投げた。それは天井の奥の暗闇へと溶けていった。
「氷川は、まだ、死んでいない」
「そうです。ですから、生前のあなたに関することは、何も願えない」
少女はカナの手を取った。その手は、どことなく温かかった。
「でも、死後の世界はあるんでしょ? そこで、氷川と会うかもしれない」
「それは不可能だと言っておきましょう。毎年、死は、五千万人の下に訪れるのです。無限に増え続けていく死者を収めていく、そんな世界で知り合いに出会うことは、砂漠で一粒の砂を探すようなものです」
「でも、偶然があるかもしれない……」
「神はサイコロを振りません。いかなる偶然も排除されているのです」
少女は強く言い放った。吊るされたぬいぐるみが大きく揺れる。
「いいですか。あなたは何も気にする必要はない。あなたは、あなたが願いたいことを願えばよいのです」
そう言って、少女は天井から垂れさがる地球のボールを引っ張った。
「ケケケ。ソロソロカ?」
透明な糸に吊るされた操り人形が、ゆっくりと天井から垂れさがってきた。アンティーク調であり、着込んでいる服はどこか、古めかしさがあった。
「いや、まだ」
「ナア、願イガ決マッテカラ、呼ンデクレナイカ? 俺ダッテ、忙シインダ」
そう呟く人形を見て、カナは少女の後ろに、さっと隠れた。カナはそこで、小さく震えている。
「ほらあ。怖がらせちゃったじゃん」
「俺ノセイカ……?」
「そう。お前のせい」
少女は人形に背を向けて、カナの頭を優しく撫でる。人形は頭をぼりぼりと掻いている。
「あたし……、男の人は、ダメなの……」
「大丈夫ですよ。あれは人形。あなたに襲い掛かることはありません」
「でも、男の声だった……」
「エクス。聞こえたでしょ。声変えて」
人形は頭を掻いていた手を、そのまま喉に伸ばした。ぐりぐりと喉をいじくりまわしていく。
「ア……。あー、アー、あー。コレデイイカ?」
操り人形の声は、低い声から、まるで少女のように甲高い声になった。
「私、その声嫌い」
「メリル。チョットハ、我慢シロヨ」
「嫌だ。お客人だって、こんなに嫌がっているし」
カナは少女を掴んだまま、隠れるように人形を見ていた。
「ハア。仕方ネエナア」
人形は、頭を掻いて、再び、喉をいじくり回した。今度は小太りの貴婦人みたいな裏声になった。
「コレデ、イイノカ?」
「あとの問題は語尾だな。うん、そうだ」
「コレデ、ヨロシイデショウカ」
「問題なし。ついでにこうしよう」
少女は手近な星飾りを引っ張って、女物のかつらと口紅を落とした。
もじゃもじゃのかつらを人形に被せると、口紅を人形の口に塗った。そのへんてこな顔を見て、少女は大爆笑していた。
「いひひ。あーはっは。何それ。めっちゃ似合ってる。お客人も、ほら」
そう言って、少女はカナを引っ張り出した。カナも、少女につられて笑い出す。
「あはは。面白い!」
「傑作だよ。あはは」
「面白クナイワ」
人形は、かつらを被ったまま、白目を剥いた。それがさらに面白くて、一同は、ずっと笑っていた。
「これなら、怖くないでしょう?」
「うん。これなら大丈夫。でも、この人形は何?」
笑いをこらえながら、カナは尋ねた。
「こいつが、あなたの願いを聞き届けてくれるのです」
「ソウヨ。ワタクシガ、願イヲ叶エルノヨ」
もはや、どうとでもなれという風に、人形は裏声女の口調を続ける。
「それで、あなたは何を願いますか?」
「あたしは飯島と氷川の人生をメチャクチャにしたい。あたしを死なせた、報いを与えたい」
「どのようにやりますか?」
「どんな風に……。考えてなかったな」
確かに、飯島と氷川には恨みがある。彼らさえいなければ、カナの人生が滅茶苦茶になることはなかっただろう。でも、どんな復讐を企てればいいのかと言えば、それは分からない。
「死なせた報いを与えたい。そのような願いでは、あまりにもざっくりとしていて、こちらでも対処のしようはありませんからね」
「確かにそうだね。でも――――、思いつかない。二人を殺してもらうっていうのは…………。でも、それであの二人が反省するわけでもない。もっと、こう、二人を苦しめるような、そんな願いが良い」
「なるほど。あの二人に苦しみを与えたいのですね」
「もっと言えば、そうしたうえで、救われないようにしてほしい」
「後悔を抱きながら、救いようのないまま死んでいく。とても美しく、残酷ですね」
少女はカナの手を取った。宝石のような少女の瞳から、カナは目を逸らした。
「でも、そんな願いは思いつかないんだ。何が、あいつらにとって不幸なのか、分からない」
「そうでしょうか。あなたが話したことの中には、答えがあったように思いますが」
「あたしが話したことの中に……?」
「例えば、二人の関係性、とか、ですかね?」
少女は少しばかり、とぼけていた。
「二人の関係……。二人は――――、特に、飯島は、氷川と別れたがっていた」
「そうです。それを利用しましょう」
「でも、飯島と氷川を結び付けておいても、不幸ではないのかもしれない。よりを戻したカップルなんて、よくある話だもの」
「では、望まない形で、繋げてしまえば良いのではないですか?」
少女はニヤッと笑った。悪魔のようなその笑顔が、カナにとって天使のように見えた。
「望まない形……」
「どうして、飯島という男はあなたに近付いたのでしたっけ?」
「それは、おそらく、あたしの体目当てで……」
カナはハッとなったように、少女の目を見つめた。
「あなたを含め、全員、未成年ですよね? しかも、それぞれには、それぞれの立場がある」
「立場……。そうか、氷川も飯島も、まだ、それを望んではいないはず」
「そうです。望まないものを、最も望ましくないタイミングである今に、引き起こしてしまえばいいのです」
「誰も、こんなことは望んではいない。収拾なんて、付くわけがない」
カナは少女の肩を掴んで、クスクスと笑った。
「波乱を起こすのです。あなたを貶めた彼らを、どん底に突き落としましょう」
「悪魔だ。あたしも、あなたも、悪魔だ」
「ふふふ。そうかもしれませんね」
氷川のことは、良く知っている。とにかく体面だけは守る女。成人するまでは、その約束を守るだろう。それが、軽く股を開く様子を想像しただけで、笑いが止まらない。
少女は、ぼうっと佇む人形の頭を叩いた。
「面白い格好してないで、さっさと始めるぞ」
「誰ノセイダト……。マア、イイワ」
きっと睨む少女に、人形は凄んで、素直になった。
「サアサア、オ客人、コチラニ」
操り人形が口を開けた。その面白い顔の前に、カナは立った。
「願イ事ヲ言イナサイ」
カナは大きく息を吸い込んだ。氷川と飯島の慌てる素振りが、目の前に浮かんでくるようで、とても滑稽な気分だった。
「あたしの願いは」
観測室の天井を眺めながら、カナは大声で叫んだ。
「氷川に、今すぐ飯島の子供を妊娠させてほしい」
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。願イハ聞キ届ケラレタ。可及的速ヤカニ、ソノ願イヲ実行スル!」
人形は奇妙な笑い声を挙げた。天井のボールもぬいぐるみも星飾りも、騒がしく揺らいでいる。その下で、カナは叫び声を挙げていた。
「お前らさえいなければ。お前らさえいなければ、あたしは生きていられたんだ!」
カナの叫び声はいつまでも絶えなかった。その目からこぼれていく涙を、少女は見逃さなかった。
今回の話はここまで。次回からは、また別のお話。




