夏島華菜の願いⅣ
「新学期が始まってから、飯島の態度が変化していることに、氷川は気付いたのかもしれない。でも、決定的だったのは、噂が巡ったこと。つまり、傍から見ても、上手くいっていないんだって、気付かされたわけ」
「確かに、そうでなければ、別れたなんて噂は立ちませんね」
「それから、氷川は飯島の愛情を取り戻そうとして、必死だった。メイクを変えたり、服装を変えてみたり、小物を変えてみたり……。あたしも協力した。でも、それでも飯島は、氷川の方を、見ているようで見てはいなかった。その視線の先は、常に、あたしを向けられていた」
カナの話を聞いていた少女は、首を傾げた。
「ところで、飯島という男は、あなたがいじめられていた間、どうしていたのでしょうか?」
「どこかにはいたんじゃない。でも、それが始まってから、飯島は、あたしに関わろうとしなかった。ひどいよね。好いた女なら、助けろって、思うけど、そんな人間じゃないからね、彼は。でも、いじめが終わると、すぐに戻ってきたよ」
「ただのクズ野郎ですね」
「そう、ただのペニス野郎」
一瞬だけ、カナはクスッと笑い、話を続けた。
「愛情が戻らないことに、氷川は焦りを覚え始めていた。だけど、どうもできない。だって、飯島の愛は、あたしに向けられているんだもの。それで、氷川は強硬手段に出ようとした。そう。原因を排除することにしたの」
「原因を排除ですか……」
「そう。そして、判明した。飯島があたしに詰め寄っているって。でも、氷川はそう捉えなかった。苦労して手に入れた男が、あっさり、他の女のところに行こうとしているなんて、信じたくなかったのよ。きっと……」
カナはどこか遠くを見ていた。それは少女の居る方向でも、観測室の天井でもなかった。
「あなたを排除すれば、飯島という男は取り戻せる。そう、考えてしまったのですね」
「そういうこと。だから、あたしが何度、飯島に迷惑しているって言っても、信じなかった。それまで飯島のことを言い出せなかった、あたしも悪いかもしれないけど、だって、そんなこと言えるはずない。結局、話はこじれてしまった」
「ややこしいですね」
「でも、氷川はあたしを、いじめから救ってしまった。クラスのリーダーである彼女が、再び、あたしをいじめの対象にするのは、難しくなっていた」
「どうにかあなたを遠ざけたいけれど、その手段が断たれたというわけですか」
「そんなことをしたら、高校での立場が危うくなるから。だけど、あくまでそれはクラスだけ。クラスでなければ、そう、高校とは関係のない場所なら、悪評が立つことはない。そう、氷川は考えたんだ」
「学校以外の場所では――――、恐ろしいですね」
少女は身震いをした。でも、それは少し、わざとらしかった。
「それから、あたしは、氷川に呼び出された。飯島について話したいことがあるから、って。手を引くように言われると、あたしは思った。別に、そんなことは最初から考えていたし、飯島を彼氏にしようだなんて事は、これっぽっちも考えてはいなかった。でも、そこに着いた時、あたしは、あたしは――――」
カナの目が潤み、涙の筋ができた。少女は再び、カナを抱きしめた。
「辛いことがあったのですね」
「うん。でも、最後まで聞いて。お願いだから……」
「大丈夫です。私は、あなたの言葉を聞き届けますよ」
少女は優しく、にっこりと微笑んだ。その優しさがカナには嬉しかった。
「氷川と高橋、それから他に数人。男もいた。もちろんだけど、飯島はいなかった。でも、異様な雰囲気だった。とても、話し合いの雰囲気ではなかったの。あたしは不安を覚えたけれど、でも、事実を告げるべきだと、そう考えて、その場に留まり続けた」
「しかし、それは大きな間違いだった」
カナは大きくうなずいた。
「誰も、あたしの話は聞いてくれなかった。あたしの話は全部嘘で、氷川の話が本当。何度、言っても、話を聞いてもらえない。嘘つきだって、罵られた。あたしは必死に、事実を言ったんだ。携帯の画面を見せて、飯島からのメールを見せようとした。でも、氷川はそれをはねのけた」
カナは震えていた。その背中を、少女は優しくさする。
「あたしは押さえつけられた。『お仕置き』と称して、あたしは裸にされた。そんな私を、氷川は写真に収めていった。あたしが逃げることもできず、ただ泣き叫んでいた。それを見て、氷川は不気味に笑っていた。そして、こう言った」
カナは震える声で、言葉を紡ぎ出した。
「学校に来るようなら、裸の写真をネットにばらまく、ってね。あたしは恐ろしかった。裸にされたということ、それを撮られたということ、それで脅してきたこと。氷川の何もかもが、恐ろしかった。それから、あたしは学校に行けなくなった」
カナの瞳から涙がこぼれていく。少女はその背中をさすり続ける。
「それで、あの日のことは忘れようと思ったんだ。きっと、そうすれば、氷川だって、それ以上のことはしないだろうって。でも……」
「まだ、何かがあったのですか」
カナは言葉を詰まらせた。だが、声にならない声を発しながら、話は続いていく。
「それから、あたしは変な男に声を掛けられることが多くなった。見るからに気持ちの悪い男にね。体を触られたことだってあった。コンビニで買い物をしていても、駅前の商店街を歩いていても、気持ち悪い男があたしに話しかけてくるの」
「それは……」
「しばらくして、メールが届いた。知らないメールアドレスから。そこには、見たこともないアドレスが乗っていた。不思議に思いつつも、あたしはそれを開いてしまった」
くぐもった声で、カナは話す。
「そこには、あたしの住所と裸の写真が晒されていたの。氷川がネットに晒したのよ。それしか、考えられない。あたしは、外に出られなくなった。でも、気持ち悪い男は家の前まで、押しかけてきた。何度、警察を呼んでも、それでも、違う男が、毎日、あたしの家の扉を叩いていく。あたしは恐ろしくて、夜も眠れなくなった」
カナは、最後の言葉を、絞り出していく。
「睡眠薬を飲んでから眠ることも珍しくなくなった。でも、もう、嫌気がさした。ネットに流れた情報は、二度と消えない。なら、いっそのこと、死んでしまえばいい、そう思った」
「だから、あなたは睡眠薬を一気に飲んで、自殺した。死を求め、苦しい生から逃れるために」
少女はカナの耳元で、そっと囁いた。
「あたしは、何も悪くないのに。悪いのは、飯島なのに。なんで、あたしが……」
「そうです。あなたは何も悪くない」
大きな声を上げて、カナは泣き崩れた。その涙をぬぐうように、少女はいっそう、カナを強く抱いていた。
「どうしてよ! どうして、あたしがこんな目に遭わなくちゃ、いけなかったのよ!」
少女は何も言わず、穏やかに、カナを包んでいる。




