夏島華菜の願いⅠ
『氷川愛衣の願い』という話の続きです。あわせてどうぞ
「おはようございます」
安楽椅子に座ったまま、きょろきょろと辺りを見回すカナに、少女は優しく微笑んでいた。
「ここ、どこ……?」
「ここは観測室です。私はプラネタリウムと呼んでいますが」
少女が指差す天井には、たくさんの星飾りが吊るされていた。ただ、吊るされているものは、星飾りだけでなく、サソリやヤマネコをデフォルメしたぬいぐるみや、地球や月のボールも吊り下げられている。そのどれもが、ゆらゆらと揺れている。ただ、その奥は真っ暗で何も見えないのだった。
「あたしは、夢を見ているの?」
「いいえ、これは夢ではありません」
「夢じゃない?」
「では、何でしょう?」
意地悪くそう言う少女は、その場でくるっと回転した。服の裾がふわりと舞い、長くて白い髪もまた、大きく舞い広がる。しなやかなシルエットが、照明の下で輝いている。
「何だろう……。でも、居心地は良い」
「そうですか?」
「うん。心が落ち着くというか、何だろう……。分からないけれど、そんな感じ……」
「きっと、あなたが求めていたものがあるのでしょうね」
「あたしが求めていたもの……」
カナは天井の星飾りを眺めていた。その揺らぎは、感じたことがない安らぎを与えてくれる。でも、これは夢ではない。そう、少女は言っている。
「ゆっくりと思い出しましょう」
「うん……」
少女は小さくスキップをしながら、観測室の端まで跳ねていった。そこにはカラフルな色合いの機械が備え付けられていて、少女はその装置のスイッチの前で立ち止まった。
「何かお飲みになりますか?」
にこやかに尋ねる少女だったが、カナはその言葉に気づいてはいなかった。二、三度ほど、少女が聞いたところで、ようやくカナは少女の問いかけに気が付いた。
「ああ、ゴメン。最近、ぼうっとすることが多くって」
「大丈夫ですよ。慣れていますから」
少女は優しく微笑んだ。
カナはしばらく考えて、ミネラルウォーターを頼んだ。少女は大きく頷くと、装置のスイッチを押した。すると、部屋の中心に小さな種が落ちてきた。
「種……?」
「少し待っていてくださいね」
その種は、すぐに観測室の床下に消えた。少しして、柔らかな双葉が生え、まっすぐ茎がのびていく。それは葉をつけ、透明な花をつけた。見たこともない花に、カナが見とれていると、それは急速にしぼんでいき、丸い果実となっていく。
「これを取ればいいの?」
「はい。それを割ってくださいね」
カナは果実を手に取った。ゼリーのようにぷるぷるとしていて、ひんやりとしたそれは、触っているだけで心地よい。そんな感触をしているというのに、少し力を入れただけで、その実は綺麗に二つに割れた。中には、ペットボトル入りのミネラルウォーターが入っていた。
「ふふ。おかしいね。こんなに非現実的なのに、出てくるのはペットボトルだなんて」
「ここは現実と非現実の狭間みたいなところですからね」
「でも、現実なんでしょ?」
「その通りです」
カナはペットボトルの蓋を開けた。きゅぽんと、快い音がした。水はどこまでも透明で、カナの喉を潤していく。
「どうです? 美味しいですか?」
「うん。美味しいよ」
「良かったです」
「あなたも飲む?」
カナはペットボトルを差し出した。少女はそれを受け取ると、ペットボトルに口をつけた。爽やかな水の味は、少女をも潤していく。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
少女はカナにペットボトルを返した。中身はまだまだ残っていたが、それを椅子の横に置いた。光が散乱し、小さな虹が出来ていた。
その虹を眺めながら、少女は天井に吊り下がる星飾りを引っ張った。それは少女が手を放しても、ゆらゆらと、その場で揺れている。その向こうの暗闇から、小さな古びた手帳が落ちてきた。
「それは……?」
「これは、あなたの全てが書いてあるものです」
「へえ」
少女は手帳をぱらぱらとめくっていく。
「あなたのお名前は、夏島華菜でよろしいですか?」
「ええ。でも、何でわたしの名前を知っているの?」
「ここに全て書いてありますから」
「書いてあっても、それがわたしの名前だってわからないでしょ?」
「ここには、あなたのことしか書いていないのです」
少女はそう言って、古びた手帳をカナに掲げた。ぐちゃぐちゃの文字で書かれたそれは、とても読めるものではない。
「読めないけど……」
「私は読めるので大丈夫ですよ」
「そういう問題なの?」
「むしろ、私以外が読めると問題が生じるので、これでいいのです。この世界も、個人情報の取り扱いには厳しいのです」
「なんだか、現実みたい」
「現実ですもの」
少女はくすっと笑った。カナもそれにつられて少し笑った。
「それで、どうです? 夢でないことは分かっていただけましたか?」
「うーん。ちょっと納得はいかないかな。確かに、夢じゃないとは思うけれど、これが現実だって言われると、少し違う気はする。でも、悪い感じはしない」
「あなたがいた現実とは確かに違いますね。いや、現世というべきでしょうか?」
「現世とは違う?」
「おっと、口が滑ってしまいましたかね」
少女は誤魔化すように微笑んでいた。カナは椅子に深く腰掛けなおし、天井の奥に潜む暗闇を眺めていた。
「もしかして、あたしは死んだ?」
「そうです。あなたは死にました」
「そっか。だから、こんな気分なんだね」
カナは大きなため息をついた。少女はそれを、優しく見つめていた。
「あなたはきっと、死を望んでいたのでしょう」
「そうなんだろうね。それが叶ったから、あたしは気分が良いのかもしれない」
死を望んだ理由を、はっきりと言えないまでも、確かに覚えている。しかし、思い出したくないから蓋をする。死んだことを、認めたくないのかもしれない。
「あなたも死んでしまったの?」
「いいえ。私はこの観測室の主にして、あのお方の代理人です。死んではいません」
「あのお方って?」
「あなた方の言葉で言えば、神です」
「神様ってこと?」
「そうです。神はこの世界であり、この世界ではないところにいるのです」
そう言って、少女は天井を指差した。真っ暗な暗闇が広がる天井の奥は、見えないほど深い。
ただ、その奥に小さな光の点が明滅する様子は、まるで、夜空がその向こう側にあるかのようだった。
「神様はあたしを見捨てなかった、っていうことなのかな」
「はい。神は全てにおいて平等です。何人たりとも、蔑ろにすることはありません」
少女は両手を大きく広げた。ふわりと髪が揺れ、その隙間から光が漏れる。
「神様は平等なんだね。でも、できれば――――」
「生きているうちに、そうして欲しかった。そういう声はよく聞きます。けれども、これはどうすることもできないのです。この世界が現世と関係がないように、神は現世に干渉してはならないのです」
「そういうものなのか……」
「難しい問題ですが、それがこの世界の規則なのです。それは神でさえ破ることはできません」
「仕方ないんだね」
「はい。そう捉えていただけると、幸いです」
少女の返事に、カナは納得した。
「それで、あたしはこれからどうなるの?」
「これから、あなたには祝福が贈られます。その後で、あなたを次の世界、すなわち、死後の世界に送ることになります」
「ここは死後の世界ではないの?」
「その一つ手前の世界、ですかね。あなた方に祝福を送るために存在する世界なのです」
少女は椅子の下に置かれているペットボトルを取り上げた。小さな虹が消える。それをカナに手渡すと、少女はにっこりと微笑んだ。
「これから、あなたには説明を行いますが、長くなります。水分補給は大丈夫ですか?」
「少し飲んでおこうかな」
カナはペットボトルの水を飲み込んだ。しばらく時間が経っていたが、水は冷たく、気持ちの良いものだった。
「さて」
少女は大きく息を吸い込んだ。




