氷川愛衣の願いⅤ
「あなたの願いは聞き届けられました。あなたの彼氏は、妊娠したことでしょう」
メイの方を向いて、少女は微笑んでいた。
「とはいえ、本当に叶ったのかは、わたしには分からないね」
「仕方がありません。ここは観測室。現世とは違う世界です。しかし、これくらいなら許されますかね」
少女は手近な星飾りを引っ張った。クリームまみれのそれは、ガコンという音を立て、一枚の写真を落とした。
「これは?」
「あなたの願いが確かに叶えられたという証拠写真です」
拾い上げた写真を見て、メイは吹き出さずにはいられなかった。
風呂上がりであろう彼が、姿見の前で、全裸でいる。その腹は、中年の男性のようにぷくっと丸いが、それにしては突っ張っている。そんな腹を、えもいわれぬ表情で見ている彼を収めた写真だった。彼が、腹の中の悪魔を探るように、出っ張った腹の上に手を置いている様子は、まるで妊婦そのものだった。
「あはは。傑作だ! 彼は今、こんな姿なの?」
「正しくは、これからです。特別に、少しだけ未来の写真を取り寄せました」
少女は舌を出して、ウインクをした。メイは、写真を丸めながら笑い続けていた。
「あははははははは。ざまあみろ。いい気味だ」
「ふふふ。私は良いことをしたようですね」
「ところでさあ、このお腹にいるのは、誰の子供なの?」
「それはですね」
少女はメイに耳打ちした。メイの笑い声はさらに大きくなっていく。
「そう来たか! 悪魔だね、あんた」
「お互い様でしょう。これから、面白くなりますよ」
クリームまみれの悪魔が二人、くすくすと笑い続けている。写真はメイの手に握り潰され、生クリームの海に沈み、どこかへ消えていった。
「しかし、私が伝えられるのはここまでです。これ以上は、何も言えません。ルールですから」
「出来れば、行く末を見守りたいけれど、ルールなら仕方ないか」
「さて、これから、あなたは死後の世界に送られます。ですが――――」
一拍置いて、少女はメイを指差した。指先から、ボタボタとクリームが垂れていく。
「な、なに?」
「あなたには、ここの片付けを手伝ってもらいます。クリームまみれにしたまま、死後の世界に行けるとは思わないことです」
「なんだ。そんなことか。手伝うよ。だって、わたしにも責任はあるのだし」
メイは勝手にいじくった装置の方を見て、そう言った。クリームに埋もれたその装置は、ピカピカと、赤や緑のランプを点滅させていた。
「あなたに装置をいじらせた私にも責任はあります。二人で片付けてしまいましょう」
「合点承知の助、ってね。それで、どうやって片付けるの?」
「これを使いましょう」
少女は天井奥の暗闇から垂れさがる、ハトのぬいぐるみを引っ張った。しばらく待っていると、水色の箱がぽとんと落ちてきた。側面にはRa226の文字が黒いペンキで描かれていたが、それにメイが気付く前に、ずぶずぶと、箱はクリームの中に沈んでいった。
「あの、沈んじゃったけど……」
「取り出せばいいだけです。ほら、始めますよ」
観測室の中に、膝まで溜まっている生クリームの海を掻きわけて、少女とメイは、箱の落ちた先へと向かっていった。
「あの中に生クリームを入れていきましょう」
「結構、小さかったけど大丈夫?」
「中は無駄に広いので大丈夫です。どんどんいれて、観測室を綺麗にしましょう」
「四次元ポケットみたいなものか。つくづく不思議な空間だ」
二人はせっせと、箱を掘り出していく。ある程度、掘り出せたら、今度はその蓋を開ける。中は空っぽであり、底が深いようにも思えなかったが、クリームを流し込むと、それはどんどん箱の中に消えていった。
「どんどん入っていくね。本当に不思議な箱だ」
「ほら、休んでいる暇はありませんよ。せっせと働くのです」
「はーい」
部屋中に飛び散ったクリームを、拾い上げては、箱の中に押し込んでいく。その作業を繰り返していくものの、なかなか終わりが見える作業ではなかった。それでも、クリームの深さは、ふくらはぎの半分ほどの高さまでになった。
そうして、二人が部屋の掃除をしていた時だった。突然、天井裏が騒がしくなり、がしゃんと、物が割れる音が響き渡った。
「な、なに?」
「嫌な予感がします」
少女は、冷静に天井を見続けていた。天井裏の騒がしさが増していく。すると、小さな天使のぬいぐるみが、ぽとっと、クリームの上に落ちてきた。
「やっぱり、お前か……」
ぬいぐるみはよたよたと立ち上がると、偉そうに、その短い手を少女に向けた。少女は、汚いものを見るかのような表情をして、それを見ていた。
「うわ! とっても、きたないな! てんしちゃん(かっこかり!)は、くげんをていする!」
「うるさい。黙れ」
天使のぬいぐるみは、甲高い声を上げた。少女はクリームでべとべとに汚れた手を気にすることなく、頭を掻いた。
それがおかしかったのか分からないが、ぬいぐるみはもっと尊大な態度をとろうとした。だが、それが良くなかった。短い手を無駄に大きく振りかざし、胸の前におこうとしたのだろうが、そのせいで、不安定な足場に足を取られた。転んだぬいぐるみは宙を舞い、頭からすっぽりと生クリームに突き刺さった。
「ぬけない! てんしちゃん(かっこかり!)は、いきができない! たすけて!」
「今、助けてやるよ」
少女はぬいぐるみの短い足を、むんずと掴むと、思いっきり引き上げた。ぬいぐるみは、ほっとしたように、胸を撫で下ろしたが、ボタンの目で少女の顔を認識するやいなや、すぐさま悲鳴を上げた。
「ぎゃああああああ! めりるだあああああああ! はなせええええええ!」
「うるさい!」
少女は口を開けた水色の箱に、ぬいぐるみをグイグイ押し込んでいった。箱の中のクリームに埋もれ、苦しそうに、それはわめく。
「もがもが……。てんしちゃん(かっこかり!)は、いきができない!」
「お前に口はないだろ。嘘つきめ」
「これじゃあ、てんしちゃん(かっこかり!)は、なにもつたえられない!」
その言葉に反応して、少女は、天使のぬいぐるみを引っ張り出した。
「何を伝えに来た?」
「そいつは、願われた! だから――、もがもが……」
「そんなことは知っている」
少女は言葉を最後まで聞くことなく、ぬいぐるみを再び、箱の中に押し込んだ。もがくそれを気にすることなく、どんどん深くへ突きさしていくと、バタンとふたを閉めた。次に蓋を開けた時にはもう、ぬいぐるみの姿はどこにもなかった。
「あのぬいぐるみは?」
「あれは私たちの邪魔をしに来ただけです」
「願われた、とか言ってなかった?」
「聞いていましたか……」
少女は横を向くと、諦めたように溜め息を付いた。
「どういうこと?」
「あなたはここで、他の人の願いの対象になったのです」
「へえ……。どうして?」
苦々しい表情をして、少女は頭を掻いていた。ぼたぼたと、長い髪の隙間からクリームが垂れていく。
「知りたいですか?」
「うう。なんか嫌な予感がする」
死ぬ前の出来事が、忘れられるべき記憶として、忘れられていたことを思い返す。思い出したくなかったことは事実だが、あれは、願いを叶えるうえでは忘れてはならなかったのかもしれない。けれども今は、願いを叶えた後でしかない。これ以上、記憶を取り戻すメリットは、どこにもない。
とはいうものの、そもそも、他に、忘れていた記憶があるのだろうか、という疑問が湧く。記憶は全て取り戻しているように思える。だからこそ、誰がメイに対して願い事をしたのか、さっぱり分からない。思い当たることは何一つなかった。
「これについて言えば、願いは既に完了しているのです」
「願いが完了している?」
「すなわち、その方が、あなたに願ったことは、生前のあなたに、既にもたらされている、ということです」
少女の話を聞いていても、やはり、何も思いつくことはなかった。メイが彼に願ったような、非現実的な事件は起こっていないし、それに巻き込まれた記憶もない。変わったことは、何も起こっていない。
「本当に、わたしが生きている時に?」
「はい、そうです。生前のあなたに対し、願いは実行されています」
「気味の悪い話だ……」
「そうですね。知らなくてもいいのかもしれません」
そう言って、少女は淡々とクリームを集めては、箱の中に押し込めていく。メイも、頭の中では、何かが引っ掛かりながらも、少女に倣って部屋中に散らばったクリームを、押し込んでいく。
体中をベッタベタに汚しながら続く作業は思いの外、体力が奪われるものだった。段々と疲労していくメイに引き替え、少女はペースを落とさずにクリームを流し込んでいく。
「よく、そんなに動けるね」
「私は神の代理人ですから」
少女はせっせとクリームを運びながら、そう答えた。
「わたしは、疲れたよ」
「では、休憩にしましょうか」
箱のふたを閉じ、少女はその上に座った。メイもその場に座り込んだ。クリームまみれの二人にとっては、これ以上、汚れることに、何のためらいもなくなっていた。
「ねえ、あの装置はいじると、いつもこうなるの?」
メイは壁際でピカピカと輝く装置を指差しながら尋ねた。
「いつも、ではありませんね。本来、あれは飲み物を出す装置なのです」
「生クリームが飲み物?」
「液体、ということでしょうか。まあ、あれは、あんまり精度が良くなくて、はっきりと考えながらスイッチを押さないと、たまに、変なものが降ってくるのですよ」
少女は首を曲げながら、装置の方向を見ている。その髪も首筋も、クリームまみれだった。
「面倒だね。だけど、何で生クリームだったんだろう」
「おそらくですけれど、あなたは、生クリームに関連した何かを考えていたのではないですか?」
「私が?」
メイに思い当たる節はない。生クリームに関連したこととは何だろうか、とメイは考えていた。
「前にも、イチゴジャムが大量に降ってきたことがありましてね。その時も大変でした」
「ふーん。イチゴ……?」
イチゴと生クリーム。それから連想された『ケーキ』という単語は、メイの脳内をぐるぐると巡っていた。忘れている何かが、狂ったように叫び、メイに襲い掛かる。
「はい。イチゴジュースを出そうとしたのですけれど。ん? どうかしました?」
「いや、何でもない……」
ぼうっとしてように見えたのだろうか、少女は不思議そうにメイを見つめていた。
「ねえ、あんたは、誰がわたしに願いをしたのか知っているの?」
「もちろん」
「それは誰?」
「夏島華菜です」
少女がはっきりと告げたその名前は、例の泥棒猫の名前だった。彼の愛を掠め取ろうとした、悪女。あまりにも憎く、学校から排除した女。そんな女の名前がどうしてここで挙がるのか。疑問が残る。
「カナが? どうして?」
「それは、あなたが一番よく分かっているのではないですか?」
少女は立ち上がり、メイの胸をつついた。次の瞬間、メイの頭の中には、雑音のような記憶が姿を現していた。
彼の愛を取り戻すために奔走した日々。手段を選ばす、徹底的な排除を試みた。セミの鳴き声よりもうるさい、悲鳴のような記憶。その対象の、夏島華菜という女。
メイが排除した彼女は一体、何を願ったのか。それより、彼女はどうして、メイに願い事をすることができたのか。その答えを既にメイは知っていた。確かめるように、少女に問いかける。
「カナは……、死んだの?」
「あなたと同じく、自殺しましたよ」
「ねえ……、カナは一体、何を願ったの?」
「さあ、何でしょうね」
少女はとぼけるように、微笑んでいた。
記憶とともに、明らかになる事実に、目を向けることはできない。かつて、メイの彼氏を奪おうとしたカナが、自殺した。何故、自殺したのか。その理由をメイは知っている。その彼女が、最期に何を願ったのか。その見当が、メイにはついてしまった。
「カナの願い事って……、まさか…………」
「そのまさか、ですよ」
少女は憎らしいほどの笑顔をメイに向けていた。その笑顔は、カナにそっくりだった。
まだまだ、続きます。




