氷川愛衣の願いⅣ
「どうです? 全てを思い出しましたか?」
「ええ。おかげさまで。悪夢を見ている気分よ」
「それは何よりです」
少女は天使のように微笑んだ。嫌味たらしいその顔を、メイは殴りたくなった。しかし、心を落ち着かせた。
「だけど、なんとなく、あんたが言っていることが分かった気がする」
「と、言いますと?」
「仮にわたしがこれを思い出さなかったら、どこかで後悔していたんだろうな、ってこと」
「そうでしょう?」
少女はにんまりと笑った。
観測室は未だに生クリームまみれのままだった。少女もメイも、頭のてっぺんから足の爪先まで、クリームまみれのまま。だがそんなことは、二人とって、どうでもいいことになりつつあった。
「それで、願いっていうのは、何でも叶うの?」
「はい。何でも叶います。神は全てにおいて平等ですから」
「そっか。なら、誰に対して願うかは決めた。問題は、内容かな」
メイは出っ張った腹を忌々しくさすった。溜まっていたクリームが床に流れ落ちていく。
「その胎児を使うのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、まだお腹にいるのかなって」
「気持ち悪いですか?」
「ヒロキも望んでいなかった子供だしね」
「ですよね。私も胎児は嫌いです」
メイの手に、少女は手を重ねた。その手は、どことなくひんやりとしている。
「嫌いなの?」
「はい。一度、生まれてしまえば、死へ向かい、苦しみの道を辿ることしかできない。そうであるのに、生まれようとするこの存在は、理解に苦しみます。何故、苦しみに向かうと知っていて、生きることを選ぶのでしょう。私には不思議な存在です」
「変わった価値観を持っているんだね」
「そうでしょうか?」
少女は首をかしげたが、手を離すことはなかった。
「ところで、何をするの? この子供に、愛着を持っているわけではなさそうだけど」
「存在を抹消します。よろしいですか?」
メイは黙ってうなずいた。小さな光がメイの腹を包んだかと思うと、妊娠以前の姿に戻っている。凹んだ腹を見て、メイは一度だけ、それをさすった。
「あんたのような人がいたら、わたしは死ぬこともなかったのかな?」
「どうでしょう? 地獄の沙汰も金次第ですよ?」
「そりゃあ、ひどい話だ」
少女もメイも笑い声を挙げた。天井の星飾りが、ゆらゆらと揺れている。
「それで、願い事は決まりましたか?」
「うん。何となくね。どんな願いでも叶うんだよね」
「はい。神は全てにおいて平等です。どんな願いでも叶います」
「現実にあり得ない事でもいい?」
「はい。そのような願いでも叶います。神は全てにおいて平等ですから」
少女は両手を聖母のように広げた。その姿を見て、メイはクスッと笑った。
「何ですか?」
「いやあ、クリームまみれだなあ、と」
「誰のせいでしたっけ?」
「わたしのせい。ちゃんと覚えているよ」
メイはくすくすと笑い続けた。そんな彼女をよそに、少女はクリームまみれの地球のボールを引っ張った。べちゃっと音がして、ボールはクリームの海に沈んでいった。
「ケケケ。ソロソロカ?」
アンティーク調の操り人形が天井から垂れさがってきた。雨具に雨合羽を備え、クリーム対策はばっちりという風だ。だが、それのせいで、顔は良く見えなかった。
「聞イテハイタガ、コノ惨状ハ何ダ」
「人形が喋ってる! どういう原理?」
開口一番、部屋の惨状について呆れている操り人形をよそに、メイはその頭をぶっ叩いた。雨具にクリームがべっとりとくっついた。
「止メロ。汚レル」
「ねえ、どうやって喋ってるの、これ。腹話術?」
「知りません。そいつに聞いてください」
人形を揺らし続けるメイを、少女はただ見ているだけだった。
「ねえ、どうやって喋ってるの?」
「俺ハ生キテイル。ダカラ、喋レルンダ」
「何よ、それ」
「そういうことです。少しいいですか」
今度は、少女が人形の頭を叩いた。更にクリームがくっついた。
「何ダ」
「どうして、お前はばっちり対策をしているんだ」
「俺ハ、精巧ナンダ。汚レハ天敵ダ」
「ふーん。だったら、あの装置から生クリームを出せないようにしておくんだな!」
少女は操り人形の雨具も雨合羽もひっぺがした。剥き出しになった木の骨を、クリームで汚していく。
「止メロ。壊レル」
「お前の代わりはいくらでもいるんだ。壊れたってかまわない」
「ジャア、残リノ俺ハ何人イルンダ?」
「知るか」
人形の全身をクリームで汚した尽くしたところで、少女はそれを開放した。人形は、ため息をつくと、半目になって、無邪気に笑う少女を見つめていた。
「ソレデ、説明ハ済ンダノカ?」
「たぶん」
「曖昧ダナ」
「それより、この惨状はどうするのよ」
少女は、操り人形の首を三六〇度、回した。それが済むと、バキッと、変な音がして、操り人形の首は反対方向に、一周回り、元に戻った。
「掃除スルシカナイ」
「うへえ、面倒だなあ」
クリームの海に足跡をつけながら、少女は歩き周った。しかし、途中でクリームに足を取られ、すっ転んだ。そうして、少女はただのクリームの塊になり果てた。
「ああ、もう。このまま始めようよ」
「待テヨ。コノ生クリームハ、ドウスルンダ」
「汚れていようが、汚れていまいが、願いは叶うでしょ。もう、それでいいじゃん」
「ソウダガ……。オ客人ハ、ソレデイイノカ?」
人形の言葉に、メイは軽くうなずいた。
「あ、うん。ちゃんと願いが叶うなら気にしないよ」
「ほらあ。お客人もこう言ってるし、このまま始めようよ」
「ハア……。今回モ、オ客人ノ好意ニ甘エルノカ」
操り人形は溜め息を付くように口を開いた。少女の形をした生クリームの塊は、その隣で微笑んでいた。
「少シハ、ソレヲ払エ。コレカラ、始メルンダゾ」
「このぬめぬめ感、ちょっといいかもって、思えてきた……」
「オイ。違ウ世界ニ行コウトスルナ」
少女はしぶしぶ、全身のクリームを落としていった。ぼとんと塊が落ち、床に広がる生クリームと一体化していった。
「それじゃあ、始めようか」
「何ダカ、締マラナイナア」
操り人形は、独り言をつぶやくと、メイをじっと見つめ出した。ぎょっとする彼女が瞬きをすると、操り人形を汚していたはずの生クリームはどこかへ消えていた。
「サアサア、オ客人、コチラニ」
操り人形が口を開けた。奇妙なその顔の前に、メイは立った。
「願イ事ヲ言エ」
メイは大きく息を吸い込んだ。生クリームの甘ったるい匂いが、鼻孔をくすぐっていた。
「わたしの願いは」
操り人形を指差して、メイは言い放つ。
「こんな目に遭わせた彼も妊娠させて、わたしと同じ苦しみを与えてほしい」
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。願イハ聞キ届ケラレタ。可及的速ヤカニ、ソノ願イヲ実行スル!」
人形は鋭い笑い声を挙げた。その声は、天井の星飾りを揺らし続けた。徐々に、暗闇の天井奥へと帰っていくその人形を、少女とメイはじっと見つめていた。
どこまで続くのかなあ。




