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観測室のメリル  作者: 伊和春賀
失われた青春
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氷川愛衣の願いⅢ

 クラスのリーダーであり、加えて容姿端麗であるメイは、学校のヒエラルキーの頂点に属していた。加えて、メイには彼氏がいた。高身長で優しく、その端正な顔立ちと爽やかな外見は、誰もがイケメンであると認める、そんな彼氏を持っているメイを誰もがうらやんだ。美男美女のカップルは、学校中のうわさの的だった。


 しかし、メイは知っていた。彼氏をかすめ取ろうと目論む女がいることを。確かに、彼は格好がよく、モテる。そうであればこそ、勝ち取った愛を手放したくはない。メイは彼氏の愛情を確固たるものにしようと、必死になった。彼に近付く泥棒猫を徹底的に排除し、メイ自身は、より彼氏の好みに合わせていく。メイクを変え、服を変え、小物を変え、より良い女であろうとし続ける。その甲斐(かい)あってか、彼氏はずっと、彼女のものであり続けた。

 とはいえ、不安はあった。いつまでも、彼氏がメイの方を向いてくれるとは限らない。彼氏の愛が、まだ続いているとはいえ、いつその熱が冷めるかは分からない。それに、敵がまた湧くかもしれない。


「ねえ」

 メイは、彼氏のひざ上に、猫のように寝転がっていた。

「わたしたち、もう大人だし……、その……」

 頬を赤く染めて、求めるように手を伸ばす。彼氏はじっと、それを見つめていた。

「わたし……、その……」

 彼はメイに顔を近づけた。ふと、触れた唇は、そのまま重なり合って、互いの愛を確認する。いつもより温かいそれが、果たして何を意味しているのか、二人はどこかで理解していた。

 彼はメイの制服のリボンを外し、首筋を露出させた。熱っぽい肌はいつになく、赤い。その首筋の汗を、彼氏は舐めあげた。メイは、くすぐったい感触をじっと見つめ、彼の成すがままにした。

 ボタンにかかる太い指を、メイが止めることはない。ボタンの外れたシャツの向こう側に、絹のような白い肌が現れた。熱を帯びた彼の指が、直接触れていく。丸い汗粒が熱気に当てられ、じっとりと互いの体を湿らせていく。もはや、激しくなっていく行為を止める者は誰もいなかった。

 彼女の制服が、ベッドの上に散らばっていく。部屋の端に打ち捨てられている濡れた下着は、日差しの影にひっそりと隠れていった。静かだった部屋が、愛で満たされていく。白い欲望が、メイの体に注がれていく。

 夜の星々が輝く頃、メイは彼氏の腕の中で、眠っていた。余韻(よいん)を楽しむかのように、抱き合ったまま、彼の腕の中で、すやすやと眠っていた。

 そんな彼女の顔はほころんでいた。


 それから、長い時間が経った。

 メイはまだ、彼氏の腕の中にいた。あの夜のことが功を奏したと、内心、喜んでいたものだった。彼の愛が、より深まっているように思える。もう、誰にも彼は渡さない。メイは彼の愛を一身に受けていると、勝利にも似た確信があった。


 それは、たった一本の赤紫の線で、崩壊した。


 吐き気。眩暈(めまい)。立ち眩み。月経の停止。

 最悪を想定した検査薬は、そのままに、平行の赤紫のラインを浮かび上がらせていた。メイはその結果を、ゴミ箱に投げ捨てた。しかし、思い直して、それを拾い上げた。判定の枠の中に、あってはならない直線が、確かに存在している。


「なんで……」

 メイは布団の中で泣きはらした。

 誰にこのことを打ち明けることができるのか、一晩中考えても、結論は出なかった。

 次の日は、体調不良を理由に学校を休んだ。そんな彼女のもとに、彼氏は訪れた。


「あのね……」

 たどたどしく紡ぎ出される言葉は、現実のものではないように思えた。それは、メイにとっても、彼氏にとってもそうだった。

「嘘だよな? 冗談だよな……?」

 目を見開いた彼氏の手を、メイはそっと取った。その手には、忌まわしき検査薬が握られていた。

「本当なの……。どうしたら……」

 学校のヒエラルキーの頂点に属し、誰もがうらやむ彼氏を持っている。勝者であった彼女が犯した、たった一夜の過ち。彼の愛情を持続させるため、劣情を催させ、肉欲を利用したあの日。彼に注がれた白い愛は、命を芽吹いてしまった。

 ぐるぐると、この先の事が、脳裏に浮かんでいく。歪んだ未来が、映し出される。

「わたし、どうしたら……」

 頭を抱えながら吐き出す言葉は、何もかもが無駄に思えた。お腹の中にいる悪魔をどうすればいいのか、想定も付かない。

「堕ろそう」

 赤く泣き腫らした目で、メイは彼氏の言葉をじっと聞いていた。

 彼らには子供を育てることはできない。それは経済的にも、社会的にもそうである。そう彼氏は主張した。秘密裏に中絶することができれば、それで全ては丸く収まる。

 メイは彼氏の言葉を信じた。彼はきっと、最後まで支えてくれるのだろうと、心の中で考えていた。


 だが、見通しが甘いことに気が付いたのは、それからすぐのことだった。

 

 彼はその日から、メイのことを明らかに避けていた。すれ違えば、すぐに(きびす)を返し、話しかけようとしても、逃げるばかりだった。

 それでも、彼女は自力で、どうにか中絶しようとした。しかし、正当に長期間、学校を休む理由は見つからない。加えて、中絶費用が思いの外、かかることも、想定外だった。とても、高校生である彼女一人では、中絶費用を捻出(ねんしゅつ)することはできない。

 そうしているうちにも、メイの腹は大きくなっていくばかり。それでも彼女は学校を休むことはなかった。お腹周りのことについては、太っただけと誤魔化すも、どこかで限界が訪れることは明白だった。


 三ヶ月が経った。


 やっと、メイは彼氏と面と向かって話す機会を得た。

 その時の彼氏の不満げな顔を、メイは忘れることができない。

「どうしてまだ堕ろしていないんだ!」

「堕ろすにもお金がかかるの。私一人でなんて、とても……」

「俺はお前のことなんて知らない。好きにしろ」

 そう言って去ろうとする彼氏を、メイは引き止めた。その顔を、彼は見ようともしない。

「待って! ここで堕ろせなかったら、あなたにだって迷惑がかかるの」

「だったら、どうして、もっと早く堕ろさない!」

「お金がなかったから……」

「金なんて、どうとなるでもなるだろ。ちくしょう! 何でこんなことに!」

 彼はメイを突き飛ばした。よろけて転んだ彼女を、彼は助けようともしなかった。

「俺とお前の関係は終わったんだ。もう俺を巻き込まないでくれ」

「待って。待ってよ!」


 彼は振り返らなかった。ただ一人残されたメイは、彼を目で追うことしかできなかった。


 それから、どうやって生きていたのかを、彼女自身すら覚えていない。

 三日後の事だったか、それとも、一週間後の事だったか、あるいは、一ヶ月後の事だったか、覚えてはいない。その日が晴れだったか、雨だったか、雪だったかすら、覚えていない。 

 何もかもが、メイにとっては、どうでも良かった。

 

 屋上に靴をそろえた氷川愛衣は、死体となって発見された。

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