柳岡悠の願いⅠ
読みにくいのか読みづらいのか分からない。
「おはようございます」
悠はそっと囁く少女の声で目を覚ました。
「うわっ」
唇と唇が触れそうなほどの近くで、少女は彼を見つめていた。甘ったるい少女の匂いが悠の鼻をひくひくとさせる。
「何を驚かれているのですか」
少女の湿った吐息が悠の口元にかかった。少女はなおも距離を詰めていく。
「近い、近い、近いったら!」
心臓がバクバクと動く。悠は少女の肩に手を置き、優しく自分から距離を置かせた。
「すみません。なかなか目を覚まさなかったものでしたから」
少女は服の裾をつまみ、一礼した。少女の真っ白の髪がふわっと広がった。
「な、なにか僕にしたのか――?」
「いえ、何もしていませんよ」
少女は小さく笑った。その言葉を、悠は少しばかり残念に思った。
「そんなことをしてしまうと、あのお方が拗ねてしまいますから」
そう言って、少女は真上を指差した。
悠の頭上には無数の星飾りがぶら下がっていた。その隙間に、ウサギ、ウシ、クジラなどの可愛らしいぬいぐるみや、地球や月を模したボールが吊り下がっている。よく見れば、人形の足のようなものもぶら下がっている。一方で、その奥は真っ暗で何も見えず、吸い込まれてしまいそうな闇が広がるばかりだった。
「あのお方って?」
「あなた方の言葉で言えば、神です」
「神?」
「そして私は、さしずめ神の代理人、といったところでしょうか」
少女は髪を掻き上げた。その隙間から、純白の包帯に覆われた右目が見え隠れした。
「それじゃ、もしかして、僕は死んだの?」
「察しがいいですね。そうです。あなたは死にました」
少女は頭上の星飾りに飛びついて、それを引っ張った。すると、古い手帳が少女の頭に落ちてきた。「あ、痛た」と、小さく呟き、頭を押さえながら床に落ちた手帳を拾った。
「あなたは死んだ。だから、ここにいるのです」
少女はパラパラと手帳をめくった。それをめくるたびに、紙の欠片がぽろぽろと落ちた。
「ええと、ありました。お名前は柳岡悠、で間違いないでしょうか」
「はい。でも、僕が死んだってどういうこと? 何があったの?」
「どうやら記憶が飛んでいるようですね」
少女は悠の頬を軽く掴み、有無を言わせず 額と額をくっつけた。
「な、なにを⁉」
「じっとしていてください」
少女の温もりが額を通して感じられた。鼻先と鼻先がくっつきそうなほど目前に迫った少女の顔は、悠の心臓を破裂させるのに十分だった。悠は顔を赤らめて、自身の鼓動を聞いていた。
少女は目をつぶり、小さく呪文を唱えた。その甘い声が更に悠の心拍を早めていく。
「はい、これで大丈夫です」
少女はそう言って、悠から額を離した。悠は残念そうに自分の額をさすった。すると、記憶の奥に何かが蘇ってきた。
「あ」
悠は全てを思い出し、小さな声を上げた。
「思い出されたようですね」
「そうか、僕はトラックに轢かれたのか……。そうだ。あの子は、あの子は無事だったのか⁉」
「あなたが助けた子供ですか。ちょっとお待ちください」
少女は古い手帳をパラパラとめくった。時折、唾を指に含ませてページをめくっていく。
「ああ、ありました。無事だそうですよ」
「よかった」
安堵する悠を見て、少女は少しばかり首を傾げた。
「あなたは死んでしまったのですよ?」
「それでもいいんだ。こんな僕でも、最期に誰かの役に立つことができたから」
「そうですか」
少女は頬に人差し指を置いたまま、くるりと悠に背を向けた。そして、部屋の隅にある小さなスイッチの前で立ち止まった。
「何か飲みますか?」
「え、あ、はい。コーラで」
「コーラですか。私もそれにしますかね」
少女は陽気にスイッチを押した。すると、天井の奥から何本の紐に吊るされたトレイがゆっくりと下りてきた。その上には二つのコップが置かれていた。少女はそれを取ると、ネコの絵柄が書かれたコップを悠に差し出した。
「あ、ありがとう」
「いえ、お構いなく」
その言葉が終わるとすぐに、少女はコーラを飲み始めた。悠もそれにつられてコーラを飲んだ。
「けぷ」
可愛らしいゲップをしながら、少女は続けた。
「これからあなたは死後の世界に送られます。ですが死はこのうえなく辛いものです。それを神は憂いています。しかし、死は絶対です。アダムとイヴが知恵のリンゴをかじり、エデンの園を追われたその日から、人の子は死から逃れられなくなってしまったのです。いくら神といえども、一度作られた世界の摂理を歪ませることはできません。それには世界を再編するしかない、つまり、世界そのものを根底から作り変えるしかないのです。やろうと思えば出来るのでしょうが、まあ、この話は良いでしょう。そこで、神は考えました。不幸な死に値するものはないかと。アダムとイヴの罪を背負わなければならなくなった、哀れな人の子を救済する術はないものかと。その打開策が人の子に祝福を与えるということです。それを行うのがこの観測室です。私は勝手に、天象儀と呼んでいますけれど。とにかく、ここでは私があの方に代わって、死者に祝福を与えます。優秀にも耐え難い死を乗り越えた死者に対しての、いわば、ご褒美です」
悠はぽかんとしながら、少女の話を聞いていた。いきなり始まった少女の話はあまりにも分かりにくく、理解するには脳が追い付いていなかった。
「これからあなたには祝福が贈られます。それについて――――」
「あの、何を言っているのかさっぱり分からないんだけど」
「理解できませんでしたか」
「あ、はい」
単刀直入な物言いに、悠の心は少し傷ついた。少女は表情を変えることなく、天井を指差した。
「つまりですね。神は無能で面倒くさがりなので、人は死ぬ運命を背負っています。ですがその代わりに死後、人の願いを叶えることにしました。あなたは死んでしまったのでその権利があります」
「願い……?」
「そうです。あなたは一つだけ、願いを叶えることができます」
「願いを叶えることができる……。それは何でも?」
「ええ、何でも。神は全てにおいて平等ですから」
少女は手を広げてニッコリと笑った。包帯で隠された右目も、きっと笑っていた。
悠は何を願おうか考えた。金持ちになりたい? 偉い人になりたい? それとも、クラスの可愛い女子を彼女にしてみようか? 迷う――――。
だが、あれこれ考えているうちに、悠はあることに気が付いた。
「あれ? 願いを叶えるといっても、僕は死んでいるんだよね?」
「そうです。あなたは既に死んでいます」
「じゃあ、例えば、お金持ちになりたいって願った場合、それはどうなるの?」
「あなたには望むだけのお金が贈られます」
「その後は?」
「あなた方の言葉で言えば、死後の世界に行きます」
「その死後の世界でお金は使えるの?」
「知りません。それは私の管轄外です」
少女は冷静に言い放った。
「私はあくまでこの観測室の主です。そして神の代理人である私は、死後の世界の存在しか知りません。ただ一つ言えるとするならば、あなた方が考えるような天国も地獄も存在しないということだけです。それ以上のことは、私にも分かりません」
「そうなんだ」
「死後の世界は、あなたたち人間の世界ですからね。それはそうと、おかわりはいります?」
空になったコップを見て、少女は尋ねた。
「いや、いいです」
「そうですか。ではカップをこちらに」
少女は空のコップを取ると、天井に向かって乱暴に投げ捨てた。パリンとそれが割れる音がしたが、コップの破片が落ちてくることはなかった。
「結構、荒っぽいんだね」
「そうですか? 気になるようでしたら、改善しますが、どうしましょうか?」
そう言ったものの、少女は悠の意見を聞こうとはしなかった。代わりに天井から垂れさがる地球のボールに向かって、猫のようにジャンプすることだけに集中していた。その度に少女の服の裾が大きく揺れ、血色の良い左のふくらはぎと、包帯が巻かれた右のふくらはぎが見え隠れした。悠は目を逸らした。が、視界の端では、ぴょんぴょんと跳ねる少女の様子をじっとその様子を眺めていた。
少女はジャンプの繰り返しの末、地球のボールに飛びついた。ガコンという音がして、ボールは僅かに下に移動した。それを確認すると、少女は床に飛び降りた。が、着地に失敗し、尻もちをついた。
「いたた」
「大丈夫?」
悠は少女に手を差し伸べようとした。しかし、それを何かが遮った。