氷川愛衣の願いⅡ
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「え?」
メイは、少女の言葉を素直に受け入れようとしなかった。
「あなたは死んだ。だから、ここにいるのです」
「ちょ、ちょっと待ってよ。死んだって何? それもここの設定?」
「いいえ。現実です。あなたは死んで、この観測室に送られた。そして、次の世界、すなわち、死後の世界に向かう直前であるのです」
少女は天井の暗闇を指差した。次に、その指をメイの心臓に向けた。
「死んだ、ということに思い当たることはありませんか」
「ない。そんなものはない」
「ないですか。ともすれば、忘れてしまったのではないでしょうか。死とは苦しいものです。人間は苦しみを忘れられるようにできているのです。もちろん、都合の悪いことも含めて、ね」
制服の少女は自らを抱くような仕草をした。
「忘れた……? わたしが、何を……?」
「それを思い出してもらいます。あなたには、死んだことを自覚してもらわなければなりませんから」
「どうして? そんなこと、忘れておけばいいじゃん」
「どうせ、ふとしたはずみで思い出すのですから、それが、今だろうと後だろうと、同じことではありませんか?」
白髪の少女は狐のように笑った。底意地の悪い笑いだった。
「そうは思わないけれど……」
「私は、思い出しておいた方が良いと思いますよ。あなたが何故、死んだか。それは、この後することに関連しますから」
「この後することって?」
「あなたに祝福を送ることです」
少女は両手を広げた。腕に付いたクリームが流れ、指先からボタボタと落ちていく。
「これからあなたは死後の世界に送られます。しかし、死とは苦しみであり、痛みです。怪我、病、老い。これらは全て、死がもたらす、避けようのない苦痛です。神はその運命に従わざるを得ない人の子について、憂いを感じておられます。死という苦しみから人の子を逃がすことができれば、神にとって喜ばしいこと、この上ないでしょう。ですが、死とは絶対であり、逃れることはできません。受け入れるしかないのです。かつて、アダムとイヴが楽園にいた頃には、そんなことはありませんでした。楽園には死も苦しみも痛みも存在しなかったのです。けれども、喜びも幸せも愛も存在していませんでした。そんな彼らを見た、ヘビは言いました。『そんな生活に満足しているのか? 神のようになりたくはないのか』と。そして、彼らに楽園の果実を食むように唆したのです。彼らはそれを受け入れ、果実を口にした。そうして、知恵を得てしまったのです。恐るべき知恵は、穢れを生み出しました。それは羞恥心であり、猜疑心です。穢れてしまった彼らは、もはや楽園にはいられなくなりました。神はアダムとイヴを追放し、地上に落としました。その子孫があなたたち、人の子に当たるわけです。こうして、あなた方、人の子は、知恵を持つ代わりに、死の運命を背負うことになってしまったのです。確かに、知恵は素晴らしいでしょう。楽園で享楽を甘んじて受けいれるより、よっぽど、生産的で発展性がある。しかし、それは本当に死を代償にするほど価値のある祝福でしょうか。死は、本当に知恵に見合っている代償でしょうか。神はそれについて、何度も思い悩みました。来る日も来る日も悩み続け、そうして、一つの結論を得たのです。人の子が知恵を持つ以上、再び楽園に戻し、永遠の命を与えることはできない。ですが、それに値する祝福を与えることを、死という苦痛の代償とすることにしたのです。私は神の代理人として、死者に祝福を授ける役目を担っています。優秀にも耐え難い死を乗り越えた者に対しての、いわば、ご褒美を与えるのです」
よく分からない話を聞かされているメイの頭からは、煙が立ち上っている。そんなことはお構いなしに、少女は話を進めていこうとした。
「そういうわけで、あなたには祝福が贈られます。理解はできましたか?」
「無理です。もっと噛み砕いてお願いします」
「もっと噛み砕いてですか。分かりました」
そうして、少女は再び、長台詞を最初から繰り返そうとする。それをメイは引き止めた。
「ストップ。それじゃあ、全然意味が分からないのだよ」
「そうですか」
「もっと分かりやすく――――、というよりも、短くお願いできる?」
「短くですか。分かりました」
少女はしばらくの間、考え込んでいた。時折、しゃがんだので、少女のスカートの中まで、クリームにまみれていった。再び立ち上がって、ふとももの端から、ぼたぼたと白いクリームをこぼしながら、少女は口を開いた。
「つまり、人は死ぬ。だから、神は祝福を送る。以上です」
「それは、あまりにもざっくりし過ぎじゃない?」
「何ですか。まだ、文句があるのですか?」
「そうじゃないけど。あー……。祝福って何さ?」
「祝福とは、すなわち願いです」
少女はまるで、誰かを抱きかかえるように大きく両手を広げた。クリームで汚れたその胸に、飛び込む人は、誰もいない。
「願い……?」
「そうです。あなたは現世を生き、そして死んだ。それは一つの願いを叶える権利を有しているということです」
「なるほど……。よく分かんない」
「つまり、あなたは何でも一つ、願いを叶えることができるのです」
少女のおざなりな説明では、メイは分かったような、分からないような、そんな中途半端な気分だった。しかし、メイは死に、それで願いを叶えてもらうということは、なんとなく理解できていた。
「でも、それがわたしの死んだ原因と、何が関係あるわけ?」
「多くの人が、死ぬまでにできなかったことを願います。ですから、最期の瞬間を知ることは、あなたが何を後悔し、そして、何を願いたいのか、ということを考えるうえで重要なのです。それに――――」
「それに?」
少女はメイの肩をポンと叩いた。べちゃっという音がして、肩に乗っていたクリームが飛び散った。
「このくらいの衝撃でも、重要なことを思い出すほど、人というものは単純な作りをしているのです」
「わたしは昔の機械か何かか?」
「おや? 何も思い出しませんか?」
「当たり前でしょ。それで思い出せるんなら、苦労なんてしないわ」
「今度はもっと強く叩いてあげましょうか? 大丈夫です。壊しはしません。脳みそが五回くらいシェイクされるだけです」
「さらっと恐ろしいこと言うのね、あんた……」
とはいえ、少女に肩を軽く叩かれた程度では、メイは何も思い出さなかった。だからといって、少女にぶっ叩かれる理由もない。そもそも、死因を思い出すことの必要性すら感じていない。そんなことを無理に思い出す必要があるのかと、再び、少女を問いただした。
「あなたは気にならないのですか?」
「何を?」
「どうして、そんなに若くして死んだのか、ということを」
「別に。どうせ、不慮の事故とかでしょ?」
「いいえ。あなたは事故で死んだわけではありませんよ」
その言葉に、メイは目を見開いた。その目前で、少女はにこやかに微笑んでいる。
「事故じゃない……? それだったら、わたしは何で死んだのさ?」
「思い出せば、すぐですよ。さあ、あなたが忘れている事実を、思い出しましょう」
少女はメイの手を掴んだ。ぬるりと、手に付いた生クリームが指の間をすり抜けていった。そのことに気持ち悪さを覚えても、メイの記憶が戻ることはなかった。
「いや……、何にも思い出せないんだけど。そもそも、あんたは知っているの? わたしの死因をさ」
「はい。あそこにくっついている手帳に、全て書いてありましたから」
少女はメイから手を放した。そして、星飾りにくっついたまま、プラプラと揺れている手帳を指差した。
「じゃあ、教えてよ。本当に分からないんだから」
「嫌です。自分で考えてください」
「なんで?」
「ですが、ヒントは与えましょう」
天井を指していた少女の指先は、ゆっくりとメイに向けられていく。
「な、なに?」
「ヒントはあなたの体の中にある」
「はあ?」
空中を滑る指先は、頭を越え、胸を越え、腹のあたりを指していた。
「そこがヒントです」
「なによ。わたしが太っているとでも言いたいの?」
「そうではありません。こうもクリームまみれでは、体形なんて意味はない。問題はその奥にあるのです」
少女は、メイの腹へと指を近づけていった。そうして、クリームまみれの服に指を埋もれさせると、つーと、指を滑らせていった。
「あひゃひゃ。くすぐったいったら」
「ここに、あなたの秘密がある」
少女の細長い指先は、へそのふちまで辿り着いた。数回、円を描くと、ぐりぐりと指を、穴にもぐらせていく。
「そこをいじっても、何も出ないったら」
「ここまでしてもダメですか。では――――」
少女はぐいと、メイに顔を近づけると、急に、メイの首筋を一舐めした。少女の舌が白い生クリームを舐め取り、代わりに透明な唾液の筋を残していく。そうしている間にも、少女はへそをほじくり続けていた。
突然の行為に、思わずメイは少女を引きはがした。少女はバランスを崩し、クリームプールの上に尻もちをつく。
「な、なにをするの!」
「何も思い出しませんか?」
少女は立ち上がった。スカートの端から、クリームが滝のように流れ落ちていく。
「わたしを弄んでいるだけじゃない。これで、どうして、死んだ理由を思い出すんだよ」
「そうですか。あなたがしていたことを、真似してみただけなのですが」
「わたしがこんなことを?」
「正しくは、『あなたが』、ではなく、『あなたに』、ですかね」
「誰がこんなことを?」
「本当に思い出さないのですね」
少女はため息を漏らした。そして、メイの耳元で、男のような低い声で囁き始めた。
「『俺とお前の関係は終わったんだ』」
その言葉に、メイは目を見開いた。
「その言葉は……」
「『どうしてまだ堕ろしていないんだ』」
「どうして、その言葉を、あんたが……」
「『堕ろそう』」
「もうやめて!」
メイは叫んで、耳を塞いだ。記憶の扉は、音を立てて開いていく。ギイギイと、錆びた鉄のこすれるような音が、耳を塞いでも消えない。
「思い出されましたか?」
「どうして、どうして、あんたが、あいつの言葉を知っているのよ!」
「私は全てを知っているのです」
少女はペロッと、頬に付いたクリームを舐めた。そして、首を傾け、口角を上げた。




