氷川愛衣の願いⅠ
前回の話で少女は死にましたが、特に気にすることなく次の話です
「おはようございます」
安楽椅子に座るメイに、制服を着た少女は優しく微笑んでいる。
「何、この不思議空間は?」
「観測室です」
「はあ? 観測室?」
「そうです。ただし、私はプラネタリウムと呼んでいます」
「はっきりしないね」
少女は少し考えるように、頬に人差し指を乗せる。しばらくして、その指先をメイに向けた。
「では、プラネタリウムでお願いします」
「人を指差すな」
「ごめんなさい」
少女は肩をすくめた。そんな様子を見ることなく、メイは観測室をぐるりと見渡している。それが済むと、すぐに少女の方を向き直った。
「あんた、うちと同じ高校だよね?」
「どうしてそう思います?」
「その制服。うちの高校の制服だよね。それで何のつもり?」
「何のつもり、とは?」
少女はとぼけるように首を傾げた。メイはいらいらしたように、頬杖をつく。
「あんた、ふざけているの?」
「ふざけてなんていませんよ。私はいたって真面目です」
「何が目的?」
「これが仕事ですから」
「仕事だって? これが?」
「はい。その通りです。私は、あのお方の代理人としての務めを果たしているだけなのです」
少女は包帯を巻いた指先で観測室の天井を指差した。
無数の糸に吊るされた星飾りが、きらびやかに輝いている。その光を受けて、ヘビやハト、キリンなどのぬいぐるみも、輝いているように見える。それらは天井から吊るされて、ゆらゆらと揺れていた。ただ、その奥は真っ暗闇が広がるばかりで、どこからそれらが吊るされているか、分かることはない。
「随分と、素晴らしい設定をしてるんだね」
「設定ではありません。現実に、そうなのです」
「皮肉が通じないとは。哀れね、あんた」
「私から見れば、あなたの方が哀れですよ」
少女はくすくすと笑うように口元を覆い隠した。そんな少女を前にして、メイのいらいらは募るばかりだった。
「わたしは、あんたみたいな電波ちゃんに構ってあげる暇はないの。早く、ここから出して」
「それは出来ません」
口の前でバツを作ると、小さく飛び跳ねた。真っ白の髪と、制服のスカートがふわっと広がる。
「出来ないだって? ふざけるんじゃない!」
「ふざけてはいません。私はいたって真面目に――――」
メイの堪忍袋の緒が切れた。へらへらと話を続ける少女の長い髪を、メイはいきなり引っ張ったのだった。
「わたしは、あんたの茶番になんか付き合っている暇はない。さっさとここから出せ」
「ぼーりょくはんたーい」
髪を引っ張られているというのに、少女の表情は何一つ変わることはない。棒読みの声からも、痛がるふりをしているだけと、すぐに分かる。そのことにメイは、うすら寒さを覚えた。
「な、何なのよ。あんた……」
「人の分際で、私に勝とうなどと思わないことです」
少女はにやりと笑うと、その真っ白で長い髪を、包帯を巻いた自らの手で引き千切った。メイの手元には、白い髪の束が残された。
「自分の髪を引き千切るなんて!」
「とんだ茶番ですね。その髪は差し上げますよ」
メイの手元には確かに少女の白い髪が握られている。そのはずなのに、目の前の少女の髪は、最初に見た時と同じ通りの、腰までの長さのままだった。
気味の悪い髪の束を、メイは投げ付けた。それは、少女の顔に当たり、辺りに散らばった。
「本当に、何なのよ。あんた……」
「私はあのお方の代理人です」
「あのお方……?」
「あなた方の言葉で言えば、神です」
口の中に入った髪を、少女はぺっと吐き捨てた。
「神……? 本気で言っているの?」
「はい。私は嘘をつきません」
少女は星飾りに飛びついた。引っ張られたそれは、天井に向かって、音を立てて飛び去っていく。代わりに、古びた手帳が少女の手元に、ゆらゆらと舞い降りていった。
「私は神より賜った使命を、ただ遂行するのです。それが私の役目ですから」
「あんた、正気……?」
「はい。私はいつでも正気です。まあ、あなた方からすれば、正気から外れるのかもしれませんがね」
制服の少女は手帳をめくっていった。紙の欠片がパラパラと落ちていく。
「何なのよ。もう……。ああ、なんかダメ。頭が痛くなる」
「大丈夫ですか?」
「誰のせいだと思っているの!」
少女は怒鳴られ、手帳をめくるのを止めた。しかし、その表情はきょとんとしたものだった。
「あなたの彼氏のせいではないのですか?」
「どうしてそうなるのよ。ああ、もう……」
「少なくとも、私のせいではない。そう思うのですが」
再び、少女は手帳をめくり始めた。そして、とあるページでその指を止めた。
「ああ。話すだけ無駄なのね。分かったわ」
「ところで、あなたが、氷川愛衣、でよろしいでしょうか」
「はいはい。そうだよ。わたしは氷川愛衣だよ」
「ありがとうございます。あなたが氷川愛衣なのですね」
そうして、しばらくの間、星飾りのこすれる音しかしなくなった。少女は手帳を読むだけであるし、メイは観測室を見渡して、どこかに出口がないか探すだけ。メイが安楽椅子から立ち上がろうとも、少女は気にも留めなかった。だが、壁際に備え付けられたスイッチに、メイが触れようとした時、少女は慌てて彼女を引き留めた。
「ダメですよ。その装置に触っては」
「なんで?」
「危ないからです。押さないでください」
「へえ、押しちゃいけないんだ」
忠告をよそに、メイはぽちっとボタンを押した。出口が現れるものだと思っていたのだが、現実は違った。
ビィーと警告音が鳴り響き、天井の星飾りが引っ込む。警告音がやんだかと思うと、二人の頭上を覆うほど大きなノズルが現れた。
少女は大急ぎで、壁際のスイッチを押しなおそうとしたが、時すでに遅し。大量の生クリームが降り注いだ。それは観測室をべたべたに汚し尽くしていく。真っ白のクリームの塊になったメイは、唖然とした表情で、汚れきった自分を見ていた。
「だから、言ったじゃないですか。おかげで生クリームまみれですよ」
じとっとした目でメイを見つめる少女も、制服を着ていることさえ分からないほど、生クリームでデコレーションされている。それでも、生クリームの雨は止まらない。それが止まったのは、二人のひざ下まで生クリームが埋め尽くした時だった。
「これは何? 夢?」
「現実です。リアルな現実です」
少女は大きなため息をついた。巨大なノズルは、最後のクリームを少女にぶつけると、天井の奥へと帰っていった。ノズルの合った場所には、クリームで汚れていない、キレイな星飾りが埋め尽くした。
「どうなってるのよ」
「そう言いたいのはこっちです。何を勝手なことをしてくれたんですか」
クリームの海を足でかき分けながら、少女はメイに近付いていく。クリームのせいで表情は読みづらかったが、その目は確かに怒っていた。
「ほ、ほら、わざとじゃないし」
「わざとじゃなければ、何をしてもいいんですか」
「こうなるって、知らなかったし」
「知らなければ、何をしてもいいんですか」
「そうじゃないけど……」
少女はメイに詰め寄った。そして、メイの手をガシッと掴んだ。生クリームのオブジェと化した安楽椅子まで、彼女を引きずると、どかっとそこへ座らせた。
「うへえ。ぐにょぐにょする」
「全身、クリームまみれなのですから、これ以上汚れようと、どうでも良いではありませんか」
「そうだけどさあ。拭くものとかないの?」
「あると思いますか?」
「はは……。ないよね……」
きっと睨む少女の視線に凄みを感じ、メイはそれ以上何も言わなかった。クリームまみれの手で、顔を拭う。同じように少女も顔を拭った。ぼとっと、クリームの塊が落ちる。
「責任を取れと、は言いません。ですが、することはしてもらいますよ」
「えっと、じゃあ、わたしは何をすればいい?」
「勝手な行動をとらないでください」
メイは黙ったまま、ただただ、うなずいた。べとついた全身が、勝手な行動の末路を物語っていた。
「こんな状況で、本当は話を進めたくないのですけれど、仕方ありません。元に戻せるまでは、このままです」
「元に戻せるの?」
「まあ、いずれは。たぶんですけれど」
「はっきりしないなあ」
「そういう場所ですから」
少女は手元にあるクリームの塊、もとい、古びた手帳の成れの果てを開いた。
「ところで、それは何?」
「これですか? これは鬼籍です。ここには、あなたの全てが書いてあります」
「わたしの全て……?」
「はい。あんなことからこんなことまで、どんな些細なことでも書いてあります」
「どうして?」
「そういうものだからです」
少女はぐちゃぐちゃになった手帳を読むのを諦め、それを天井裏に投げ捨てようとした。しかし、クリームまみれの手帳は星飾りに引っ付いて、そこでぶらぶらと揺れ始める。少女は溜め息を付くと、メイの方に向き直った。
「ところで、どうしてあなたがここにいるのか、分かりますか?」
「あんたが、わたしをさらったんじゃないの?」
「私を何だと思っているんですか」
「電波な少女。しかも、不思議な力を使うヤバめなやつ」
クリームまみれの指で、メイは少女を指差した。
「ヤバいですね、それ」
「あんたのことを言っているのよ?」
「まあ、そう思っていてくれた方が、話がすんなりと進みそうですね」
「そうかな?」
メイは首を傾げた。しかし、反論するのはやめておくことにした。
「とにかく、現状をあなたに伝えるべきでしょう」
少女は咳ばらいをした。次いで、手に付いたクリームをペロッと舐めると、その指先でメイを指差した。
「あなたは死にました」




