琴川一真の願いⅢ
「なるほど。だからあなたは、死の瞬間をはっきりと覚えているのですね」
少女は手帳に書かれていることと、少年の言う事の整合性を確かめていた。
「僕は友達を殺そうとした。だから、その報いを受けたんだ。やっぱり、神様はなんでもお見通し、というわけだ。あなたも、きっと見ていたんだ」
「いいえ。私は何も見ていませんよ。ここは観測室という名前ではありますが、人の運命を観測する場所ではないのです」
はっきりとそう言う少女の言葉に、少年は首をひねった。
「本当に?」
「はい。だから、何で観測室と言うのか、さっぱり分からないのですよ。ですから、私はプラネタリウムに改名しようと、何度も神に提言しているわけです」
少女は手帳を閉じた。紙の欠片がパラパラと落ちていく。
「それじゃあ、僕は地獄に送られるために、ここにいる。違う?」
「それは違いますね。天国や地獄なんてものは存在しないのです。それは人の作り出した妄想であると、そう理解していただけると助かります」
その言葉に、少年はますます首をひねった。
「それじゃあ、僕は何のために、このプラネタリウムにいるの?」
「それは今から説明します。ですが、少し待っていてもらえますか」
少年は頷いた。少女は仰々しい壁際の装置の下へ向かい、そのスイッチの上に手を乗せた。
「少し話が長くなります。何かお飲みになりますか」
「飲み物?」
「はい。この装置はどんな飲み物でも出してくれるのです。何がいいですか」
「じゃあ、レモネードで」
「承知しました」
少女は強めにボタンを押した。すると、天井の暗闇の中から、するするとツタが伸びてきた。黄色い花をつけたそれは、ゆっくりと少年の目の前まで伸びていく。その先には、ガラスのコップを握られていた。
少年はそれを受け取った。すると黄色い花は枯れ、同じ色の実を付けた。それはパン、という音を立てて弾けた。
目を見開いた少年の手元にあるコップは、気付かないうちにレモネードで満たされた。
「さて」
天井の暗闇へと消えていくツタを見送ると、少女は包帯の指先を、少年に向かって指差した。彼は居住まいを正して、少女の目をじっと見つめた。
「これからあなたは死後の世界に送られます。しかし、死とは恐ろしき不幸です。運命がそうさせているとはいえ、死はあまりに理不尽です。神はそのことに、心を痛めております。避けられない幕切れに向かって、死という破滅を演じなければならない、その悲劇から人の子を救いたいと、神は願っております。しかし、死とは必ずや来たるべきエンディングです。人の祖であるアダムとイヴが、エデンのリンゴをかじったことで、彼らより生み出された人の子に、知性という祝福が贈られました。確かにそれはそれで素晴らしい贈り物でしょう。けれども、知性とは堕落を生み出す要因です。純潔を旨とするエデンの園に、そんな二人をつなぎ留めておくことは、エデンという楽園を穢すことに他ならないのです。神は泣く泣く、その二人を楽園から追放したのです。それにより、その子孫であるあなた方、すなわち人の子は死という命運から逃れられなくなってしまいました。けれども、アダムとイヴが追放されてから、永遠に等しいほどの時が経ったというのに、どうして人の子は、未だに死の裁きから逃れられないのでしょうか。確かに、あなた方の祖が、死の無い運命を捨て、知性を選んだことは事実ですが、それはアダムとイヴの話であり、遠い子孫である人の子がその罪を背負い続ける理由はどこにあるのでしょう。しかし、一度手放した永遠の命を手に入れることは、溶けてしまった蝋燭に、再び火を点けるよりも、極めて難しいことです。ですから人の子を死の運命から救うのではなく、他の導きを与えることを神は選びました。つまり神は、死の代償となる祝福を人の子に与えることにしました。あなたたち、人が死という運命に向かって生きた、その苦しみを一つの対価として、一つの祝福を授けるのです。それを行うのがこの観測室であり、ここでは私が神に代わって、死者に祝福を授けます。優秀にも耐え難い死を乗り越えた者に対しての、いわば、ご褒美を与えるのです」
少年はレモネードを飲みながら、少女の長くて回りくどい話を聞いていた。だが、話のほとんどは、レモネードと一緒に腹の中に落ちていった。
「これからあなたには祝福が贈られます――――。って、話を聞いていますか?」
「あ、はい」
少年は虚を突かれたことで、変な声で返事をした。
「ならいいです。それで――――」
「あの、祝福というのは一体……?」
少年は、少女の言葉を遮るように質問をした。少女は嫌な顔一つせず、質問に答えた。
「祝福とはすなわち、願いです。あなたには願いを叶える権利が与えられます」
「何で僕なんかに?」
「あなただけではなく、現世を生きた誰しもが、平等に願いを叶えることができるのです。神は全てにおいて平等ですから」
少女は両手を大きく広げた。それが何を意味するのか、少年には分からなかった。だから、「なるほど」と、とりあえずの返事をした。
「分け隔てなく、人の子を扱うことが、真に平等といえるのです。それはそうと、お代わりはいりますか?」
少年の持っているコップを見ながら、少女は尋ねた。しかし、レモネードは半分以上、コップの中に残っていた。
「まだ、残っているのでいいです」
「そうですか。分かりました」
少女はお辞儀をすると、壁際の装置の下に歩いて行った。そして、同じスイッチを押した。先ほどと同じツタが少女の下へと伸び、コップを手渡した。花が枯れ、実が破裂するまで同じだったが、その実の色は青色だった。
少女はコップの中身を一気に飲み干した。小さく、可愛らしいゲップが口の端から漏れた。
「失礼」
少女は口を覆い隠し、誤魔化すように微笑んだ。そして、その手を地球のボールに伸ばした。ぐいっと引っ張ると、そのボールは地面に落ちた。
「え?」
呆然とした表情で、少女は床を跳ねるボールを眺めていた。どうして彼女がそんな表情をするのか、少年には分からなかった。少女は地球のボールを持ち上げると、天井の暗闇を眺め、次に少年へと向き直った。
「どうしましょう。取れてしまいました……」
「それが取れると問題があるの?」
問題の内容を少年が聞こうとした次の瞬間、黒い塊が少女のうなじあたりを直撃した。「ぐえっ」と、素っ頓狂な声を上げ、彼女は床に転がった。




