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観測室のメリル  作者: 伊和春賀
雨と終焉
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琴川一真の願いⅡ

読者って本当に存在しているのか、という疑問がたまに起こる。一応、いるよね?

 それは土曜日のことだった。天気予報の通り、土砂降りの雨が降っていた。


 少年はその日、友人と遊ぶ約束をしていた。友人は新作のゲームを遂に手に入れたのだ。そのゲームを是非とも一緒にやりたいということだった。しかも、翌日まで親が出掛けているとあって、一晩中、ゲームができると、友人はしゃいでいた。


 興奮冷めやらぬうちに、少年は友人の家に泊まる約束をとりつけた。それが今週の月曜日の話だった。


 少年は昼過ぎに友人の家に行くことになっていた。友人の家は、少年の家から三十分程度で辿り着く、年季の入ったアパートにある。その七階の端に友人は住んでいた。


 もちろん、友人の家に行くのは、早ければ早いに越したことはない。しかし、友人の親が出掛けるのが、昼からというので、仕方なく、それに従うことにした。


 だからそれまでの間に、少年は荷物を入念に確認していた。その動作状況も含めて、全て、完璧であるかどうかを。


 約束の時間の丁度、二時間前。少年は傘をさして出掛けた。夕食のことを親に聞かれ、友達と食べるから大丈夫、と答える。親は疑いなく、その言葉を受け入れた。


 少年は真っ直ぐに友人の家に向かおうとしなかった。それとは反対方向のコンビニに立ち寄り、備え付けのATMから金を下ろした。彼が万札を大量に引き出す様子を、誰も疑いもしない。彼は淡々と物事をこなすだけだった。


 少年は傘をさすと、その下で、携帯をいじくっていた。友人に『遅れる』と連絡した。既読が付き、『オッケー』という無愛想な返事だけが帰ってくる。それに少年は既読をつけないまま、メモ帳に記された段取りを確認した。全てを確認し、削除する。ついでに途中の橋で、濁流の中に携帯を投げ捨てた。


 少年は駆け足で友人の家へと向かっていた。しかし、カバンの中身が重いせいで、足取りはそこまで速くはなかった。既に約束の時間は過ぎていた。


 少年は友人のアパートの一階についた。傘はほとんど意味をなしていなかったようで、肩から下はずぶ濡れ。息は荒く、整えるのに時間を要した。少年はカバンの中に忍ばせた物を確認しながら、インターホンに手を伸ばす。


 友人の住む部屋番号をインターホンに打っている時、その手は微かに震えていた。それが寒さからであるのか、それとも恐怖からであるのか、少年には判断が付かなった。


 ピンポンという音が鳴り、しばらく待っていると、マイクの奥から楽しそうな友人の声が聞こえた。ゲームの音声も聞こえ、それは友人が言っていた新作のゲームであることには、すぐに気が付いた。


 オートロックが開かれると、少年はエレベーターには乗らずに非常階段へと向かった。その際、深々とフードを被ることを忘れなかった。そして、裏口と、防犯カメラの位置をちらりと確認した。それは何回も友人の家を訪れた時と、完全に同じだった。


 非常階段は一階の廊下の突き当りにあるが、外にあるため、当然、雨が吹き付ける。扉の開きづらさからわかるように、この階段が使われることは、滅多にないようだ。その証拠に、手すりのペンキは完全に剥げ落ち、階段にもいくつかの腐食が見られた。


 そんな階段を上っていく足取りは、やけに重かった。吹きさらしの階段には遮るものは何もなく、雨は更に少年を濡らし、その服からは雫が垂れていく。()びた金属製の手すりはやけに冷たく感じられた。


 少年は六階まで辿り着いた。この上の階に友人は住んでいる。だが、そこから先へと足が進まない。接着剤に貼り付けられたかのように、階段の上に足が伸びない。震える足を必死で押さえつける。


「何を恐れているんだ」


 激しい雨音が少年の独り言を掻き消していく。轟轟(ごうごう)と流れていく濁流が、眼下に見える。落ちた枝葉が、茶色の渦に飲み込まれていく。


 突然、少年はカバンを開けた。


 その中には、着替え、食料、消臭剤の他に、万札が詰まった財布、家から持ち出したロープや大量のごみ袋が入っている。その奥にひっそりと隠した黒いものを、少年は取り出した。



 スタンガン。



 少年は雨でそれを濡らさないように、すぐ服の下に隠した。その真新しいスタンガンは、異様なほどに艶やかな黒色だった。


 この日のために、少年はこれを用意していた。


 必要以上の警戒を払い、誰にも知られることなく手に入れた品。これが届いた日には、どのように人を殺そうかと、狂ったものだった。そうして立てた一世一代の殺害計画は、この上なく完璧で、彩りない生活に華を添えるための、偉大な指示書に思えたほどだった。


 計画は万全であり、全ては滞りなく進んでいた。ありとあらゆる偶然が彼の味方をしていると、錯覚するほどに完全無欠だった。


 だから、スタンガンという実行手段さえあれば、どんな恐ろしいことで易々(やすやす)と実行できる。少年はそう思っていた。


 だが、何かが少年を止めていた。それが何かは、少年に見当が付かない。雨音だけが、耳元で騒がしく響く。


「ここまで来て、戻るわけにはいかない」


 少年は、一歩、また一歩と、階段を上っていく。

 

 雨は勢いを増していくばかり。近くを流れる川の勢いが、どんどん早まっていくのが分かる。川上から流された丸太が、大きな音を立てて飲み込まれていった。



 その時だった。



 突風が少年を包んだ。カバンが手から滑り落ちた。その中身が風に飛ばされていく。散らばる衣服や紙幣に手を伸ばそうとした彼は、濡れた階段のせいでバランスを崩した。階段をずり落ち、踊り場の手すりに頭を打った。


 少年は頭を押さえ、立ち上がろうと、手すりに体重を掛けた。それはミシミシと音を立てていく。

 だが、その音を雨音が隠していた。だから、気が付いた時には、手遅れだった。



 バキン。



 拍子抜けするほど軽い音がして、少年の体は宙に浮いた。正しくは、まだ、足だけは踊り場に残っていたが、それは何の気休めにもならなかった。


 金属の破片が飛び散っていく。6の文字が9に見えた。廊下の蛍光灯が伸びていく。


 少年は雨の中を泳ぐように、もがいていた。既に階段は遥か上。足下では彼の鞄が(ひるがえ)り、中身を吐き出していく。


 少年は手を伸ばした。その先にあるコンクリートの空は、水たまりの中に灰色の地面を映し出す。雨は頭上に向かって降り続けている。少年はその様子を、雨粒の一つ一つに至るまで、克明に見ていた。


 薄暗い灰色の波紋は広がり、落ち着くことを知らない。その歪んだ鏡面は、少年だけを映し出す。逆さまの世界が終わりはすぐだった。


 鈍い音がした。視界が赤く歪んだ。



 それが最期の光景だった。


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