琴川一真の願いⅠ
この調子でいつまで0ptを維持できるか試しても面白そう
「おはようございます」
耳元で囁く少女の声で、少年は目を覚ました。
「ん……。ここは?」
寝ぼけまなこの少年は、目をこすりながら観測室を見渡していた。大きな欠伸が漏れる。眠ってなんかいなかったはずなのに、という疑問が少年の頭をよぎる。しかし、そんな疑問を打ち消すように、少女は暖かく湿った吐息を、そっと耳元に吹きかけた。
「うわっ」
少年は驚いて、椅子に座ったまま飛び跳ねた。少女はその様子を見て微笑んだ。
「ごめんなさい。あんまりにも無防備なものでしたから」
「あ、あなたは誰ですか」
「私、ですか。ふふふ、誰でしょうね?」
小悪魔のような笑みを浮かべ、少女はじっと少年を見つめた。ガラス玉のように透き通った左目は、奥に黒水晶のような瞳が浮べていた。ただ、それは左目だけのことで、右目は真っ白の包帯に覆い隠されている。その奥にも輝くような瞳が隠れているのだろう。
少年がその宝石の色に気を取られていると、少女は指先を唇に置いた。次いで、少年の鼻先をちょこんと触った。ちょっぴり湿った指先は、少年の頬を僅かに赤くした。
少年に背を向けて、少女は小さくスキップをした。少女は観測室の中心で立ち止まり、そして振り返った。
「私は、観測室の主であり、そして、あのお方の代理人です」
少女はスカートの裾を摘まんで一礼した。腰まで伸びる真っ白の髪が、波のように揺らいだ。
「あのお方って?」
「あなた方の言葉で言えば、神です」
少女は純白の包帯が巻かれた、細長い指先で真上を指差した。
その天井の奥は暗く、何も見えない。だが、そこから無数の糸が伸び、様々なものが結び付けられている。イヌやクマ、キリンのぬいぐるみから、地球や月を模したボール。加えて、望遠鏡や真空ポンプ、果ては操り人形までが吊るされている。
とはいえ、目立つものはそれくらいで、残りの糸の先には、作りの甘い星飾りが取り付けられていた。
「ええと、色々と聞きたいことがあるんだけど」
「何なりとお申し付けください。神は全てにおいて平等です。どんなことでもお答えしますよ」
「それじゃあ、ここはどこ?」
「観測室です。私はプラネタリウムと呼んでいます」
「プラネタリウム?」
「ええ、星が綺麗でしょう?」
少女は星飾りの一つを引っ張りながら、そう答えた。星飾りの糸はぷつんと千切れ、少年の目の前に飛んでいく。少年がそれを拾い上げた。ボール紙と金色の折り紙でできた、幼稚園児でも作れそうな星飾りだった。あまりにそれは、綺麗というにはほど遠い。
「安っぽい星飾りだ、とでも言いたそうですね」
「そんなことは」
少年は慌てて、かぶりを振った。少女は微笑みながら、ボール紙の星飾りを取り上げた。
「いいのです。ここは観測室。あくまで観測するための場所です。偽りの星空を眺める場所ではないのですよ」
「そんなことはないよ。プラネタリウムっていう名前も素敵だよ」
「ふふ。ありがとうございます」
少女はくすりと笑いながら、星飾りを天井に投げた。それは、しばらくの間をおいて、再び天井に吊るされた。
「それでも、お世辞でもいいから、あのお方にもそう言ってほしいのですけれどね」
「あのお方というのは?」
「先ほど言った通り、神のことですよ」
少女は見えない天井の向こう側を眺めながら答えた。少年も追随してそこを眺めるが、無数に垂れさがる糸くらいしか見えなかった。
その時、一つの星が上下に小さく揺れた。何事かと思ったが、ふと、少女に目を戻せば、それを引っ張っていただけだった。
すると、小さな古びた手帳が天井から降ってきた。表紙は茶色に焼けていて、傍目でも中身がボロボロであることが分かる。そんな手帳を、少女はパラパラとめくっていく。
「あの、失礼ですが、お名前を」
「琴川一真です。楽器の琴に、三本線の川。一つの真実で、琴川一真といいます」
「良いお名前ですね」
少女の細くて白い指先は、手帳の表面をなめらかに滑っていく。彼女の目も、それにつられて右へ左へと動いていく。
「ねえ」
少年の呼びかけに、すぐさま少女は指を止めた。
「どうなされました?」
「ここがプラネタリウムって言うのは分かったけれど、そもそも、ここはどこなのさ」
「プラネタリウムですよ?」
「そうじゃなくて」
少女はキョトンとしながら、指を口元に置いた。そうして、しばらく考えて、合点がいったように、手を叩いた。
「ああ。この場所が具体的にどこか、ということですか。ここは、死者の旅立ちを見送る場所。そして、その死者に祝福を送る場所です」
「死者?」
「はい。そうです。あなたは死んだ。だから、ここにいるのです」
「やっぱり僕は死んだのか」
少年は深いため息をついた。それは悲しみや憂いから来たわけではなく、諦めの感情から吐き出されたものだった。
「やっぱり、とは?」
「そんな気がしていたんだ。あなたに起こされるまで見ていた夢――――、いや、現実を覚えていたからさ」
「あなたは、最期の瞬間を覚えている、ということでしょうか」
「そうなるのかな」
少年は頭を掻いた。少女は静かに手帳を閉じた、
「良ければ、聞かせてもらえませんか?」
「いいよ」
少年は目をつぶった。その瞼の裏に、最期の光景が映し出されていく。
彼はゆっくりと口を開いた。




