品井憲汰の願いⅢ
「あなたの願いは聞き届けられました。あなたが叶えられる願いの数は、更に増えたことでしょう」
少女は、ゆっくりと天井奥の暗闇へ消えていく操り人形に、手を振っていた。
「その願いも、何だっていいんだろう?」
「おそらく。神は全てにおいて平等ですし、叶えられないことはないと思います」
「何だ。はっきりしないな」
「こういう事態を知らないもので」
そう言って少女は手近な星飾りを引っ張った。分厚い本がバラバラと、たくさん落ちてきた。そのどれもが埃まみれで、表紙も中身もボロボロに破れていた。とても状態が良いものではなく、虫食いの跡さえ見られた。
少女はそのうちの一つ手に取り、パラパラとめくっていた。しばらくして、とあるページで指を止めると、じっくりそれを眺めていた。
「ええと。同じように願いは叶えられるみたいですね」
「やっぱりそうか」
「はい。この本にそう書いてあります。あなたの願いは何でも叶えられますよ。けれど――――」
少女がそう言った時だった。山積みになった古本の上に、何か、小さな物が落ちてきた。それは夥しい量の埃を舞い上げ、着地した。
「けほけほ。何ですか」
少女は咳き込みながら、落ちてきた物の方向を向いた。そのシルエットは非常に小さく、赤子くらいの大きさでしかなかった。ただ、その背中の羽のシルエットは、それが人ではないことを示していた。
「でばんをかぎつけ、やってきた! てんしちゃん(かっこかり!)のとうじょうだよ!」
甲高い声が、埃の向こう側から聞こえた。少女は舌打ちをすると、手にしていた本をその影に投げ付けた。
「いたい! それにおもい! てんしちゃん(かっこかり!)は、きゅうじょをようせいする!」
「誰が助けるか。クソ天使」
そう言って、少女はもやの中に飛び込んでいった。少女と落ちてきた何かのシルエットが激しく動き、揉み合っている。少しして、埃もシルエットの動きも落ち着くと、男にも状況が分かってきた。そこには本をぐりぐりと踏みつける少女と、本の間に挟まれ悲鳴を上げる天使のぬいぐるみがいた。
「ぎゃああああ! つぶされるうううう!」
「潰れろ! 潰れてしまえ! 二度と元に戻れないくらい、ぺしゃんこになれ!」
少女は高笑いしながら、本を踏んでいる。ぬいぐるみはその下で、辛うじて出ている頭を、バタバタとさせていた。
男は状況が呑み込めず、ただただ、立ち尽くしていた。そんな男を天使のぬいぐるみは見つけた。
「はっ! そこのひと! てんしちゃん(かっこかり!)を、このじょうきょうから、かっこよく、すまーとに、すくいだしてね!」
天使のぬいぐるみは、ボタンの目で男を見つめていた。男の方は、ただただ、意味不明な状況に唖然とするばかりで動かなかった。代わりに口だけが動く。
「それはぬいぐるみか?」
「いいえ。これはぬいぐるみではなく、排除すべきゴミです。死ね!」
「ええ……」
白いスクール水着を着た少女は、その水着がずれるのを気にすることなく、鼠径部まで見えてしまいそうなほど大胆に足を開き、ガシガシと本を踏みつけている。押し潰されている天使のぬいぐるみの方も、最初こそは何だかんだで抵抗していたが、その力は少女に遠く及ばなかった。やがて、本の重さに押し負け、「ぐぇっ」という断末魔とともに、少女とぬいぐるみの喧嘩は、少女の一方的な勝利で終わった。
「ふう」
少女は額を拭った。そして、ずれてしまった水着を直すと、ぬいぐるみが潰されている本の上に座った。
「おほん。失礼しました」
少女は咳ばらいをした。
「そのぬいぐるみは何だったんだ?」
「気にしなくていいです。ただ、邪魔をしに来ただけでしょうから」
まあいいか、と男は思った。ここは操り人形が喋り出すような空間だ。変なぬいぐるみの一つや二ついることだろう。気にする方が負けというものだ。それに男にはすべきことがあった。
「それで、願いは決まりましたか?」
「ああ、俺にはたくさん願い事がある」
男はまくし立てるように、どんどん願い事を言っていった。
「まずは金だ。有り余るほどの金が欲しい。それに女もだ。極上の女を俺に寄越せ。俺に逆らわない奴がいいな。それに、うんと可愛い方が良い。おっぱいも大きい方が良いな。だが、大きすぎるのもあれだ。君より少し大きいくらいが良いかな。それに――――――」
そうして続いていく男の話を、少女はうんうんと頷いて聞いていた。
「あとは権力もだ。誰もがひれ伏すような、偉大な人間に俺はなりたい。できるよな?」
「ええ、勿論。神は全てにおいて平等です。その素晴らしい願いも叶うでしょう」
「それじゃあ、あの人形を呼んでくれ。あの人形が俺の願いを神様に届けてくれるんだろう?」
「そうです。よく覚えていらっしゃいますね」
「当然だ。俺は賢いからな」
男は鼻を伸ばして答えた。しかし、少女は本の上から動こうとせず、ただ、足をぶらぶらとさせて、天井を眺めているだけだった。
「おい、あの人形を呼んでくれよ」
男がそう言っても、少女は鼻歌を歌うだけ。決して動こうとしなかった。
「さっさとあの人形を呼べったら」
「あなたが呼べばいいのです。地球のボールを引っ張れば、あいつは出てきますよ」
少女はニーソックスを脱いだり履いたりしながら、観測室の天井をいい加減に指差した。無数の星飾りがざわざわと揺れ、クジラやトビウオ、水瓶、帆船をデフォルメした可愛らしいぬいぐるみも、ゆらゆら揺れている。しかし、先ほどまであったはずの地球のボールはどこにもなかった。
「ボールがない」
「ないですか。どうせ、こんなものだと思っていましたよ」
古い本の上に、少女は仰向けに寝転がった。真っ白の髪が垂れさがり、地面に触れる。少女は逆さまの顔で、男を見つめていた。
「なんだって?」
「あなたにあいつは呼び出せない。今の私にも、それはできない」
「どういうことだ」
「あなたは願いを叶える条件を満たしていない、ということです」
少女はくるりと本の上で回転し、うつ伏せになった。少女の胸の膨らみが、その重みで潰れていく。
「願いを叶えられないってどういうことだ!」
「そのままの意味ですよ。あなたは願いを叶えたので、次の願いを叶えられない。それだけのことです」
怒鳴る男をよそに、少女は猫のように欠伸をし、猫のように体を伸ばした。
「俺の願いは聞き届けられたんじゃなかったのか」
「あなたの願いは、確かに聞き届けられましたよ。だから、問題が生じるわけです。あんな願い事をするような人なら、きっと気付いているものだと思っていたのですが、勘違いだったようですね」
「何だ。問題ってのいうは」
「私はあなたに説明しました。二度手間を踏ませないでください」
今度は分厚い本の山の上で、少女は胡坐をかいた。
「願いは一人一つっていうところか? それに矛盾したから願いを叶えられないというわけだ。神様っていうのもケチなんだな」
「いいえ。違います。もはや、あなたにその規則は適用できません。願いは全てにおいて優先されます。神は全てにおいて平等ですから」
「じゃあ、何だっていうんだ。どうして、俺の願いを叶えようとしない」
「はあ。本当に分からないんですか。いいですか。もう一回だけですよ」
白スク少女は溜め息をついた。一旦、立ち上がると、再び、本の上に座り直した。足をぷらぷらとさせ、
やる気無さそうに話し始めた。
「これからあなたは死後の世界に送られます。けれども死とは、泥沼にゆっくりと沈んでいくかの如く、この上なく恐ろしいものです。そんな耐え難い運命を背負った人の子の姿を見て、神は嘆き悲しみました。しかし、死は避けようがありません。その昔、ヘビに言いくるめられ、禁断の果実をかじったアダムとイヴが、エデンの園から追い出されたその時から、人は死の運命を背負わなければならなくなりました。これは絶対の約束です。これを破ることは断じてできません。しかし、アダムとイヴから長い時を経た人の子も、同じ罪で責められる所以があるでしょうか。たった一度の過ち、それもたった二人の人間の過ちを、いつまで背負う必要があるのでしょう。ですが、人の子である以上、アダムとイヴの置き土産を消し去ることは、不可能です。そこで神は考えました。人の子を救う手立てはないものかと。そして、思いついたのです。あなたたち人の子を祝福することを。地上を生き、そして死ぬという苦しみを対価にして、一つ限りの祝福を与えることにしたのです。それを行うのがこの観測室です。ここでは私が神に代わって、死者に祝福を与えます。優秀にも耐え難い死を乗り越えた者に対しての、いわば、ご褒美を与えるのです」
少女は、男に言った長台詞を、そのまま、一言一句変えずに呟いた。抑揚ないその声は、ただただ事務的に物事をこなすだけの機械のようだった。
「これが、私が説明したとおりの言葉です。どうです? 理解できましたか?」
「ああ、理解しているさ。けれど、俺が願いを叶えられない理由になんてない」
「いいえ、あなたが願いを叶えられないに足る理由がありますよ。いい加減、気付いてくれませんか」
「そう言って、はぐらかす気だな! ガキのくせに調子に乗りやがって!」
男は高圧的な態度をとった。少女はそんな彼を見て、再び大きなため息をついた。
「地上を生き、そして死ぬという苦しみを対価にして、一つ限りの祝福を与える。この規則こそが答えです」
「何が答えだ。何も答えになってはいないだろうが」
「はあ……。本当に分からずに、あんな願いをしたのですね……」
少女は諦めたかのように立ち上がった。
「何だと」
「私は言ったはずです。現世を生き、そして死ぬ。そのことを対価として、あなたの願いは叶えられると」
「それが何だ」
「人が一つの願いを叶えてもらうためには、現世を生き、そして、死ぬことが条件です。それによって初めて、一つの願いを叶える権利が与えられるのです。つまり、現世を生きないことには願いを叶える権利は与えられないのです。あなたは願いを一つ叶えてしまった。ですから、これ以上の願いを叶えるためには、現世に戻る、すなわち、生き返らないといけないのです」
少女は男の目の前に立った。しかし、その顔は違う方向を向いていた。
「何だって……。そんなのおかしいじゃないか!」
「どこがおかしいのです。私は最初に説明しました。これは神の下の平等に許された厳格なルールです」
「だったら、俺を生き返らせろよ。そうしないと願いは叶わないんだろ」
その言葉に対して、少女は大きく首を振った。
「そんなことは出来ません。願いは一人一つ限りです。あなたの願いは既に叶えられたので、無理です」
「そんなことってないだろ。なあ!」
男は少女の肩を掴もうとした。しかし、少女はするりとそれを躱した。
「あなたは欲をかき過ぎた。二兎追うものは一兎をも得ず、なんて諺がありますが、まさにその通りというわけですね。あなたは何も得られなかった」
少女は古本の山の上に飛び移った。ぐらぐらと本が揺れる。
「しかし、あなたの更なる願い事は、まだ叶えられていない。ですから、あなたを死後の世界に送るわけにはいかないのです。あなた自身があなた自身の願いを叶えるまで、ずっとここにいなければならない。けれども、願いが叶った暁には、あなたを死後の世界に送ることを約束しましょう」
少女は別の本の山に飛び移った。その勢いで、本の山が崩れ、埃が舞い散った。男には、少女のシルエットしか見えなくなった。
「それがいつの日になるかは、私にも分かりません。それはあなただけが知っている。だって、これはあなたの願い事ですから」
少女の影はついに見えなくなった。埃が晴れた頃には、本の山も跡形もなく消え失せた。潰されたぬいぐるみも、天井に吊るされたぬいぐるみも、無数の星飾りも、壁際の装置でさえもなくなった。観測室からは、何もかもが消えていた。
その中心に、男はただ一人、取り残されていた。
過ぎた欲は破滅を招く。
彼はいつまでも観測室にいる。
★★★
今回の話はここまで。次回からは、また別のお話。




