品井憲汰の願いⅠ
この世界観で何故か水着回
(試験的に、段落ごとに行間を開けてみました)
「おはようございます」
少女の甘い声で男は目を覚ました。
「お、おはよう」
まるで深い眠りから目覚めた時のように、男は体が軽くなったような気分だった。欠伸と一緒に出てくる言葉にも、今まで感じることのできなかった鮮明さがある。しかし、おぼろげな視界はなかなか晴れなかった。目をこすり、何度も瞬きをしてやっと、かすんだ視界は鮮明になった。
「よく眠れましたか」
「ああ、おかげさまで」
そう男は言ったが、いつから眠っていたのか、その記憶はなかった。むしろ、この上なく張り詰めた緊張のせいで眠れず、とても熟睡できるような状況ではなかったことを覚えている。しかし、今の気分はとても良かった。困難だった仕事を、ついに成しえたかのような快感が巡っていた。
とはいえ、そんな気分も微睡みの中の仮初であるのかもしれないと、男は目の前の少女の姿を見て感じていた。
雪ウサギの毛皮のように真っ白の髪が腰まで伸びている少女。それが覆い隠している肌はとても血色がよく、艶やかなその色には、若さゆえの瑞々しさがあった。それに加え、身に着けているものは、白いスクール水着に、真っ白のニーソックスといった、幼さを強調しつつ、挑戦的で扇情的なもの。年相応ながら背伸びしているようにも見える姿は、極めて背徳的な魅力がある。しかし、顔の右側と右腕を完全に覆い隠している包帯には、痛々しさが見え隠れしていた。
そんな少女を、男は知らなかった。記憶のどこにもそんな知り合いは存在しない。家族にも、親戚にも、こんな人はいない。例えこれが夢だとしても、それが、誰をモチーフにしたものかは分からなかった。
「ところで、君は誰なんだ?」
「私はこの観測室の主にして、あの方、つまり、神の代理人です」
少女は包帯を巻いた指先で、観測室の天井を指差しながら答えた。
男がそこに視線を移せば、無数の星飾りが天井を埋め尽くしている。その隙間には、クジラやトビウオ、水瓶、帆船をデフォルメしている、いかにも巷の女子高生が好みそうなぬいぐるみが見え隠れしていた。更には、地球や月を模したボールも、その間から吊るされていた。そのどれもが風もないのに、ゆらゆらと揺れていた。
「不思議なところだな。これは夢なのか?」
「いいえ。これは現実ですよ」
少女はきっぱりとそう告げた。しかし、それは男の想定内の回答だった。
こんな場所は現実に存在するはずがない。ざっと見渡したところで入り口も出口もなく、それらしい扉が隠されている風にも見えない。仮に、壁際に並ぶ装置がそれだとするならば、オーバーテクノロジーにも程がある。
やはりこれは夢であると、男は確信した。最近、全く夢を見ていなかった男ではあったが、夢と現実の区別は流石につく。その二つを天秤にかけるのなら、前者が相応しい。
「面白い夢だ」
男は部屋中をきょろきょろと見渡していた。だが、いくら見渡しても、ここが小さなドームであることくらいしか分からない。壁面に取り付けられた用途不明の装置の数々は、色とりどりのランプを点滅させるだけであるし、天井に吊るされた飾りの数々は、ただ揺れるだけ。
もはや少女すらも、ただそこにいるだけなのではないかと、錯覚してしまいそうになる。それほど、未知で満ちあふれていた。
「なあ、君」
「なんでしょう?」
「その装置は何をするものなんだ?」
男は壁面の装置を指差した。とりわけ、どの装置の中でも大きく、最も奇怪な形をしているそれは、男の気を引いた。
「あれですか。飲み物を出す装置です」
「じゃあ、何か飲み物をくれないか?」
「承知しました。何をお飲みになりますか?」
男は「コーヒー」と言ってから、「やっぱりココアで」と訂正した。白スクの少女は静かにうなずくと、その装置のスイッチを押した。ガタガタと音がして、ネジとランプが飛び出したり引っ込んだりしたかと思うと、その真ん中が開いた。中には熱々のココアが入った、ネコの肉球をあしらったカップがあった。
「どうぞ」
少女に差し出されたそれを、男は受け取った。ココアの良い香りが鼻孔をくすぐる。だが、同時に違和感を覚えた。これが夢ならば、ここまで鮮明にココアの匂いを感じるだろうかと。そして、そのココアを一口飲み込んだ時、違和感はさらに増していった。
「味がする……」
「当然ですよ。ココアですもの」
そう言う少女の手にもココアのカップが握られていた。
「とことん、不思議な夢だ」
「ですから、夢ではありませんよ」
少女はカップを足元に置いた。カップにはココアがたっぷり残されたままだった。
「夢じゃない? 本当に?」
「信用なりませんか?」
「あんまり」
少女はスクール水着の襟元を引っ張ると、その隙間に手を入れた。前かがみになって、奥に手を伸ばそうとするので、少女の胸の膨らみとその奥の肌がチラチラと見える。男は見てはいけないものを見ている気分になり、目を逸らした。
一方で、少女の方はそんなことに気が付いていなかった。それどころか、指先から逃げていくものを取るためだけに、半脱ぎになろうとしていた。肩ひもをずらし、肩を露出させ、ついには胸さえも剥き出しにした。そうしたあたりで、ようやく少女は、水着の中の探し物を掴んだ。その手には、茶色く古ぼけた手帳が握られていた。
「やはり、こんなところに物を入れるべきではありませんね」
少女はめくれ上がった水着を元に戻した。そして、目線を反らしている男に気が付いた。
「どうかなされましたか?」
「いや、俺は何も見ていないぞ」
男の言葉を疑問に思いつつ、少女は手帳をめくっていった。その音も、男には鮮明に感じられた。
「変な方ですね。そんなあなたのお名前は、品井憲汰、でよろしいでしょうか」
「ああ、間違いない」
「ではここで、はっきり言わせてもらいます。あなたは死にました」
その言葉に驚いて、男は少女に視線を戻した。
「死んだ? 俺が?」
「はい。あなたは死にました」
「俺が死んだってどういうことさ」
「どういうことと言われましても……。あなたは死んだからここにいるのです」
「変な夢だ。死んだと言われるなんて」
「だから夢ではないと……。もしかして、記憶がありませんか?」
少女の言葉で男は考え始めた。そういえば、ここ数日の記憶がない。昨日、何を食べたという事どころか、どこにいたかさえ覚えていない。最後の記憶といえば、電車に乗ったことくらい。それ以降の記憶は全くなかった。
「確かに記憶が飛んでいる気がする」
「はあ。道理で話がかみ合わないわけです」
少女は溜め息をついた。
「いったい、俺に何があったんだ」
「そうですね。順を追って説明します。どこまで覚えていますか」
「最寄りの駅から電車に乗ったところから――――。というか、全部知っているのか?」
「はい。ここに全て書いてありますから」
そう言って少女は手帳を男に掲げた。金釘流の汚い文字がびっしりと並んでいて、男にはそれを解読することはできなかった。
「読めない」
「大丈夫ですよ。私は読めますから」
男の心配をよそに、少女はすらすらと手帳を読んでいく。
「電車に乗った。ということは覚えているのですよね」
「ああ。それでどこに向かったかは覚えていない」
「二駅先のようですね。その駅で降りたことは覚えていますか?」
「二駅先か……」
少女にそう言われ、考えてみたものの、やはり男は何も思い出せなかった。二駅先の駅は、何もないことで有名だ。ただ海岸線が続くだけの寂しいところ。好事家には好まれるようではあるが、地元の人間にとっては、行く意味さえなかった。そんな何もない場所で降りて、一体、何をする気だったのか。男は記憶を辿るも、その道は途絶えていた。
「そしてあなたは、海の方へとまっすぐ歩いて行ったのです」
「海……。天気は?」
「雨です。嵐と言った方が適切かもしれませんが」
「なんで嵐の日に……」
男はますます分からなくなっていた。
わざわざ嵐の日に、そんな寂しいところに行く理由が見つからない。店も家も人もいないあの駅で、何をするつもりだったのか、疑問は深まるばかりだった。
「そして、あなたは死んだ」
少女は躊躇うことなくそう言った。その言葉に男は引っ掛かった。
そう、男は死んだのだ。寂しい海岸沿いの駅で降り、海へと向かった。荒れ狂う風も雨も気にすることなく、ただ、海へと。
それが答えであることに、男はすぐに気が付いた。
「身投げ……、か」
「当たりです」
淡々とした少女の口調を前にして、嫌な正解を引き当てたものだと、男は皮肉めいて笑った。
「俺は海に飛び込んだんだ。そして、その理由は――――」
それは考えるまでもなく、男の脳裏に蘇ってきた。できれば忘れていたかったな、と男は内心呟いた。
「思い出されましたか?」
「ああ。考えられる原因は一つしかない。嫌なもんだ」
男は溜め息をついた。
表現力のなさを実感するなあ




