呪われた空
初投稿です。少し長いので注意です。
外は雨が降り続けていた。夏真っ盛りなこともあり、湿気は暑さと共にべたつくように肌に張り付いてくる。
暑さに耐えかねて扇風機の前で団扇を扇ぐが、焼け石に水とはこのことだろうか。全身の汗は止まらない。
「なあ、親父。このご時世にエアコンの一つも無いってどうよ?」
一郎は父に向かって思わず文句を垂れる。
「仕方ないだろ、母さん金が無いんだから。それにここまで田舎だと工事も何かと大変らしいぞ」
父はこちらを見もしないで他人事のように答えた。机に肘をつき、何が面白いのかもわからない通販番組をただ眺めているその姿はとてもだらしない。
「てか、お盆だからってせっかくばあちゃん家に来たのに、これじゃ家に居るのと変わんねえじゃん」
一郎達は盆休みを利用して、祖母の家がある三重県の田舎、”掃晴村”を訪れていた。村の殆どは田んぼが広がっているばかりで、人が住む家は数えるほどしかない。正直、過疎地域と言っても差し支えないほど寂れている村だった。
その村の端っこにひっそりと建っている一軒家に、祖母は住んでいた。二年前に祖父は他界しており、祖母以外にここに住む者は誰一人いない。
「しかし、ここまで酷い雨だと今年の祭りは延期だな」
相変わらず、騒ぎ立てるテレビを見つめて、父は独り言のように呟く。毎年、この掃晴村ではお盆の時期に神社が主催している祭りがある。それなりに人の集まる祭りなのだが、あいにくの雨模様では開催は無理な話だろう。
「さっき神社から電話で、延期やて連絡あったわ」
リビングの扉から祖母が入ってきた。確か年齢は七十を超えていたはずだが、まだまだ元気のようだ。今日も雨の中、畑の様子を見てきたのかズボンが濡れていた。
「ばあちゃん、外はどんな感じだった?」
「ん。まあ畑は大丈夫そうやったわ。しっかしこんだけ雨降るんは久しぶりやな。外、雷鳴ってたで」
「そうかぁ…」
祭りも畑も一郎にとっては大した事では無いのだが、窓に殴るように叩きつけられる雨粒を見ているとだんだん気分が落ち込んできた。
まだ時刻は午後五時半。いつもならば田舎特有の壮大な夕焼けが空に広がっているはずだが、今日だけは太陽は黒い雲海に覆い隠され、掃晴村は暗く沈み込んでいる。
「はあ……せっかく久しぶりに帰ってきたのにこの雨じゃ、やる気が削がれるなあ」
父が座っていたソファに寝ころびながら、ため息交じりに呟いた。
午後七時。少しだけ雨脚が弱くなったものの、雷の轟音は未だに鳴りやまない。時折、思い出したかのように輝く稲妻の光は、暗い空には酷く不気味に思えた。
そんな中、三人は祖母の作った夕飯の並ぶ食卓を囲みながら、簡単な世間話をしていた。今はどこの高校に通ってるのか、将来はどうするのか、彼女はいるのか。そんな祖母ならば当然気になる話題を、一郎はさらりと受け流していく。
父はといえば、テレビを見ながら祖母の作ったコロッケを頬張っている。その後も祖母と一郎の会話は続いたが、一向に父は参加してこない。そろそろ話題が尽きるかと思った矢先、父はおもむろに口を開いた。
「……なあ、一郎。お前の爺ちゃんがこの村で何してたか知ってるか?」
その妙な質問に一郎は思わず、頭に疑問符を浮かべた。その顔はおそらく、口を半開きにした間抜けなものだったに違いない。
ふと父の手元を見ると、机には開けられた缶ビールが置かれてあった。どうやら父は会話の間に、こっそりとアルコールを楽しんでいたらしい。
「……爺ちゃんが何してたかってどうゆうこと?ずっと畑仕事してたんじゃないのかよ」
父はにやにやしながらビールをあおる。元々、酒に強いタイプではない父の頬は、まだ一缶目にも拘わらずほんのりと朱色に染まっていた。
「まあ、それもあってるがもう一つ、親父には別の仕事があったんだよ。……一郎、”おんば”って聞いたことないか?」
「”おんば”?」
妙な単語だ。頭の中を検索してみたが、思い当たる記憶はない。いや、一つだけあった。
「確か、俺が小学生の時に悪さして親父に怒られた事があったよな。何したかまでは覚えてないけど、そん 時に親父は『そんな悪ガキは”おんば”が攫っちまうぞ!』って言ってたかも……」
「そうそう、よく覚えてるなあ」
「誠一、あんた急にどうしたん?”おんば”の話なんて」
誠一とは父の名だ。祖母は酒が回って饒舌になった父を怪訝な目で見つめている。
「いや、たまたま思い出したんだよ。それに今日は雨が降ってるからな」
雨?雨が関係しているのだろうか。それに何故突然、”おんば”の話など持ち出してきたのか。それらの疑問をぶつける前に父は口を開いた。
「”おんば”てのはな、実は『悪い子供を連れ去る恐怖の存在』じゃないんだ。お前にはそう教えたがな。本当の話はこうだ。『雨の日の夜に突然家を訪ねてきて、その家に住む者を連れ去る悪霊』」
「へえ。そりゃまたなんで、そんな嘘を教えたのさ」
記憶がかなり昔の事だからか、一郎は何処か他人事のように質問する。
「悪ガキを言い聞かせるのにはいい材料だったんだよ」
父はバツが悪そうに一郎から少し目をそらした。
「ま、それはともかく話はここからだ。なんで俺はそんな悪霊のことを知ってるんだと思う?」
「なんでって、ネットか何かで拾ってきた話じゃねえの。それか昔テレビで流行ったとか?まあ、そんな都市伝説、今じゃ珍しいもんでもないだろ」
一郎が子供の時と言えば、日本にオカルトブームが巻き起こった頃だろう。だから、父はそのブームに便乗してそんな作り話を吹き込んだのだと、一郎は決めつけた。
「正解はな、この”おんば”が掃晴村に伝わる話だからだよ。元々、この話の発端は江戸時代にまで遡るらしいんだが、正確にはよくわからん。昔から母さんにはよく言われたよ、『雨の日はなるべく外に出ちゃいかん。”おんば”が外うろついとるからの』ってな」
「へえ」
それは一郎にとっては初めて聞いたことだ。掃晴村に伝わる悪霊、”おんば”。まだ高校生の一郎にとって、その手の話は作り物だとしても、非常に興味を惹かれるものだった。しかし、どうにも解せないことが一つ。
「で、その悪霊さんと爺ちゃんにどんな関係があるわけ?」
”おんば”がこの地に関係する存在なのは分かった。ここまで聞くとただよくある怖い話だろう。だが祖父に関連するとなると、一気に話の着地点が見えなくなる。
「そうだなぁ。一郎、そんな悪魔みたいな奴が村にいるってなると、お前ならどうするよ」
「うーん…。悪霊なんだから、除霊しようとするかな…」
「そう、だから昔の奴らもそう考えた。そして村に神社を建てて封印したのさ。だが、その封印は完全じゃなかった。脆かったんだよ。誰かが守る必要がある。そこで」
「そこで、封印を守る役目を負ったのが私たちのご先祖様や」
唐突に祖母は父の話の見せ場を奪い取った。そのムッとした表情から何かに憤っていることが伺える。その憤りの対象が、父であるのは明白だろう。
「母さん、せっかく一番面白いところだったのに」
「あんたこの話、面白半分で広めたらあかんことぐらいわかっとるやろ。まさかこんな感じで外にも言いふらしてるんちゃうやろね?」
刺すような強烈な視線を向けられて、父はうめき声を上げた。
「だ、大丈夫だよ。俺も東京じゃ喋ってないよ。流石に…。でも一郎は息子なんだし、本当のこと教えてやってもいいかなって…」
今にも消えそうな声で父は答えた。すっかり意気消沈したのか、酔いも覚め始めている。
「まあ、そやなあ。一郎ももう高校二年やし、ええか。誠一はどこまで話したんやっけな」
一郎が呆気に取られている間に、どうやら話の主導権が祖母へと移ったようだ。
「封印をご先祖様が守ってたってところだよ、ばあちゃん」
「そやったな。それであたしらのご先祖は”おんば”の封印を守ってきたんや。それはもう、江戸時代からやな。うちの由緒正しき役目というわけや」
「ってことは爺ちゃんの仕事って…」
「神社の”おんば”の封印を守ることや。まあ守るゆうても、神社の見回り程度のもんやったけどな」
そうなのか。といっても今初めてこの話を聞いたのだから、いまいち信じきれない。昔、人を連れ去る悪霊が居て、祖父がその封印を守っていたなどと。
「それじゃ、今その役目は誰がやってるの?うちの一族がやってきたっつても、親父と俺は東京住みだし」
「…母さんがやってるんじゃないのか?父さんが死んだ時にてっきり、俺をここに連れ戻そうとすると思ってたんだが、そうでもなかったし」
父が二つ目の缶ビールを開けた。プシュッという清涼感のある音が響く。めったに酒は飲まない父だが、今日だけはやけにグイグイいく。
「……そうやで、あんたも仕事が忙しいと思って、私が引き受けたわ。正直、あんまりやることも無いし、丁度良かったわ。神社の源さんは俺が代わりにやるって言ってくれたんやけどな」
「………なあ、もう少し”おんば”のこと詳しく教えてほしいんだけど。例えば、そいつは雨の日に家を訪ねてくるって話だったけどさ、悪霊がわざわざそんな回りくどい事するの?それに連れ去られた人は何処に行くの?」
単純な話だが、人を攫う悪霊がわざわざ家を訪ねてくるのは違和感がある。霊ならば、勝手に入り込むなり、玄関をすり抜けるなりすればいいのだ。
「昔はねえ、”おんば”も人の家に上がり込んだりしてたみたいやね。でも、それを恐れた村人達は対策を立てたんよ」
「対策?」
「そう。昔から、『敷居は結界』ゆうてね。しっかりした家には悪いものを遠ざける力があるんよ。きっちり戸締りをしてさえいれば、いくら”おんば”でも易々と侵入は出来ない」
「しっかりした家ってなんか曖昧な表現だね」
「具体的には、風水とかやね。でも昔の掃晴村にはそんな知識無かったからねえ。霊も家に入りたい放題やったらしいで……。連れ去られた人がどうなるかは……ちょっと知らんなあ」
それは何とも恐ろしい話だ。昔の人々は雨の日に眠れない夜を過ごしたのだろう。”おんば”がやって来るかもしれない恐怖に。
「ま、これだけ長々と話しといてあれだが…、本当の話なのかね…。俺も散々聞かされてきたが本物の”おんば”を見たことは無いしなあ」
話を切り出したにも拘らず、そんな無責任な言葉を呟いて父はビール缶を飲み干した。
「弱点とかなかったのかな。例えば、塩に弱いとかさ」
一郎は誰もが考えそうな安直な思考に走った。霊の弱点が塩というのは、日本なら誰もが考えそうな発想だろう、それが本当に”おんば”の弱点だったとしたら拍子抜けだ。
「そうやねぇ、家への侵入が自由やないってのも考え方によったら弱点かもしれへんけど、他は聞いたことがないわ……。流石に塩くらいでどうにかできるほど弱い霊でもなかったみたいやし。あ、でも顔を」
窓の外に強烈な閃光が走った。一瞬遅れて、鼓膜を引き裂くような轟音が窓を震わせる。しばらく雷の気配は消えていたため、突然の出来事に三人は鳩に豆鉄砲の状態で、雨に濡れた窓を見ていた。
「……今のはどっかに落ちたね、雷」
「あそこは…たぶん神社の辺りじゃないか?」
「大丈夫やろか……」
その後、雷は幾度か落ちて、その鳴りを潜めたが、雨は止むことなくしとしと降り続けていた。
この家に電話がかかってきたのは、雷が落ちてから二十分と経たない頃だった。やかましくがなり立てる古びた黒電話に、祖母は足早に駆け寄り受話器を取った。
「はい、もしもし松木ですけども……」
一郎はそんな祖母の会話を聞き流しながら、漫画を読みふけっていた。
「おーい、風呂出たぞー。次は母さん……あ」
髪の毛をタオルで拭きつつ、父は祖母に話しかけるが祖母の表情を見て口を閉じた。
祖母はやけに深刻そうな表情で、電話の向こうの声を真剣に聞いている。だが次の瞬間、受話器の叩きつけられる音がリビングに木霊した。
「誠一、今から外出るで!ついてきい!」
突然、祖母は大声を上げながら外出の支度を始めた。何かを焦っている、そんな風に見受けられた。父も一郎も唐突の事に酷く動揺した。祖母があんな大声を出すことは、一郎にとっては初めてのことだ。
「え……、今からって……もう結構な時間じゃないか?」
父は酷く間延びした言葉で返事をする。
「とにかく誠一、あんたは爺さんの部屋から白面持ってきてくれへんか。それから出発や」
その祖母の言葉を耳にした途端、父は血相を変えて二階への階段を駆け上がっていく。
一郎には何が何だかわからず、ただその光景を唖然として眺めていた。
「一郎」
祖母の声で一郎の精神が引き戻される。
「……何?」
「今は説明してる暇あらへんけどな、……もしかしたら一郎が必要になる時が来るかもしれん。それまでここで待っといてや。それとな、あたしらが出てったら帰ってくるまで絶対に玄関の鍵開けたらあかんで。……絶対やで」
祖母は二回、念を押して言った。その顔は一郎が今までに見たことがないほど青ざめている。それはまるで死人のようだった。一郎はようやく、ただ事ではないと感じて、黙って頷いた。
バタバタと音を立てながら、父は二階から戻ってきた。その手には二枚の白い布が掴まれている。どうやら頭巾のような物らしい。四角い形をしていて、その一辺には長めの紐が通されている。
「じゃあ、行ってくるわ。留守は頼んだで」
二人はその布の紐を頭に括り付けて、布本体を顔に被せた。どうにも奇妙な姿だったが、何の意味があるのだろう。二人はその格好のまま、傘も持たずに外に出た。開け放たれた玄関ドアから、熱気と湿気混じりの淀んだ空気が流れ込む。その不快さに顔をしかめるが、すぐにドアは閉じられた。
そして、そのドアの鍵がカチャリと音を立てながら、かけられた。
祖母と父が家を出てから一時間。二人はまだ帰ってこない。流石に心配になったが、事情を知らない一郎にはどうする事も出来なかった。
取り残された一郎は一人で広いリビングに居るのが耐えきれなかった。”おんば”の話を聞いたせいか、この村で何かが起こっていることへの不安感かはわからない。ただ、リビングの端の暗がりやガラス張りの扉越しに見える廊下が、とても不気味に思えた。
二階にある、かつて祖父が使っていた和室へと場所を移す。祖父の部屋には小さいテレビがある。一郎はそのテレビのワイドショーをBGM替わりに、再び漫画を読んでいた。
有名な芸能人がテレビの奥で騒ぎ立てている。どうやら状況的に若手の芸人をいじって笑いを取っているようだ。一郎の嫌いな風潮だ。つるし上げられ、笑いのために生贄にされる若手芸人。昔から人間社会では、力あるものが世の中を支配し、弱者はその犠牲になるという構図は変わっていない。一郎は常々、そんな世の中に疑問を抱いていた。今の日本は民主主義を気取っているが、その本質は過去から何も進歩していないのでは、とも思っている。今、このテレビで起こっていること自体が、そんな社会の縮図ではないか。
不快感でテレビから目を逸らし、漫画へと向けるが今一つ集中することが出来ない。
ふと、部屋を見回した。テレビと大きな本棚が置いてあるだけの、簡素な畳の部屋だ。一つの壁は襖で、その先には祖母の部屋がある。祖父が他界した時にある程度、部屋の物は片づけたらしい。そのほとんどが処分されたが、一部の物はまだこの部屋の押入れに眠っている。
「たしか親父、この部屋からあの白い布出してきたんだっけ」
それを思い出し、押入れを開けた。
「うおっ!」
押入れの中は、下の収納物を無理やり引っ張りだしたのか、滅茶苦茶に崩れていた。普通ならば、綺麗に並べられているはずの衣服や箱があらゆる所に散乱している。恐らく、というか確実に、これは父の仕業だろう。先ほど、あの白い布を引っ張り出すために、ここを荒らしたのだ。
その崩れた収納物の山の頂上に、一つの古びた木箱が置いてあった。形は四十センチ程度の綺麗な正方形だった。蓋は無い。押入れのどこかに埋もれているのだろう。
中を覗くと、父が持っていた例の白い布が四枚入っていた。取り出して広げてみる。頭巾よりはるかに作りは単純なそれは、黒子が顔を隠すために被るあの黒い布を連想させた。依然として、何故これが祖母たちに必要なのかは不明だったが。
「……だ……たす……」
謎の布に注目していた一郎の耳が、人の声のような音を捉えた。とてもか細く、しかし必死に振り絞ったかのような声だったが、その声が何を意味する言葉なのかは雨音にかき消されてわからない。突然の事に体をびくつかせ、キョロキョロと部屋中を確認するが、声の出どころらしき場所の検討はつかない。
「まさか……外?」
小走りで、たった一つ祖父の部屋にある窓に駆け寄り、クレセント錠を解除して窓を開け放つ。降り続ける雨粒が顔に当たるのも無視して、窓枠から身を乗り出した。外の景色はそのほとんどが田んぼで、しかも街灯のような灯りは数えるほどしかない。そのため、どれだけ集中しても一郎の目では暗闇を見通すことは出来なかった。それでも必死に声の主を探していると、この家から田んぼを四つ隔てた道路に、傘をさしてゆっくりと歩く人影を確認できた。だが、そののんびりとした歩調は、その人物が先ほどの、鬼気迫った声の主であることを否定している。
気のせいだったのか、と考え直し、一郎が窓枠から身を引こうとしたその時、奇妙な光景が目に映った。
「何だあれ……」
歩く人影から少し後ろ側、視界内に数えるほどしか立っていない街灯の下に、誰かが居るのだ。その人は街灯の光に照らされており、歩く人影より幾ばくか、はっきりと目視することができた。白いワンピースを着ていて、どうやら女性のようだ。街灯の光のせいか、その顔をはっきりと確認することは出来ない。何故先ほどまであんな所に人が居たのに気づかなかったのか不思議だったが、それよりも一郎には注目する部分があった。
その人は傘をさしていないのだ。いくら雨脚が弱まったとはいえ、傘もなく外に出るのは正気とは思えない。祖母たちも、同じく傘を持たずに外に出ていったが、それとは別の理由をあの人物がもっていると直感的に感じた。それに彼女はどうしてあんな場所で突っ立ってるのだろうか。彼女は方向的にどうやらこちら側を見ているらしい。その異様な佇まいにはうすら寒いものを感じた。不気味さに怖気づいた一郎は急いで窓を閉め、カーテンで外の景色を隠した。
特にすることもなかった一郎は再び押入れの物色を始めた。それを見つけたのはようやく、その押入れの最深部を掘り出し始めてすぐの事だった。
それはあの白い布が入っていた木箱と素材が一緒の、だが一回り小さい箱だった。問題はその箱が隠すように押入れの奥で風呂敷にくるまれていたこと。何故かは分からないが、この箱の中身は見てはいけないのでは、そう思えた。だが、人間は隠されているものほど知りたくなる、たちの悪い生き物だ。一郎もまた、その欲望に負けてその箱の蓋を開いてしまった。
その中身は二冊の本だった。一つはボロボロで黄色く変色しており、かなり昔に作られたものであるのは明らかだ。しかしその表紙にはタイトルらしきものは何もなく、一体何の本なのかは一見しただけではわからない。その本を手に取り、開いてみる。
しかし、一郎にはその中身を読むことは出来なかった。古びた本に綴られていた文字はすべて、かなり古い日本語によって書かれていたのだ。さらに、昔の文字特有の草書体は、字と字をつなぎ合わせて、まるで黒いミミズが紙の上でのたうち回っているかのようだ。出来る限り、それらを現代語に翻訳しようとしたが、高校生となったばかりの一郎には無理な話だった。
「う~ん。流石に読めないか…」
本を床に投げ出し、体を大の字に広げて寝転ぶ。しかしなぜこんな古い本がこの家の、しかも祖父の部屋の押入れに大事にしまわれていたのだろうか。疑問を頭の中が回るうち、一つの仮説が浮かび上がった。
「もしかしてこの本、爺ちゃんの仕事と関係してんのかな…」
仕事とはもちろん、今日祖母から聞いた”おんば”の封印の番の仕事だ。祖父はその仕事を死の直前まで担っていた。それに関する文書があってもおかしくはない。起き上がった誠一は箱の中を見た。そこには古い本以外にもう一冊、別の本があった。それに向かって手を伸ばす。
もう一つの本は一冊目とは打って変わって、比較的最近作られた本のようだ。小綺麗な緑色の表紙やまだ白い紙の束。それらが四つ目綴じによって紐でまとめられている。和綴じ本と呼ばれる、日本の古い本の作成法だ。そしてその表紙には、白い細長の和紙が貼りつけられ、整然とした墨字でタイトルが書かれていた。
「『松木掃晴伝記』?……松木ってうちの…しかもこれ……」
松木とは一郎の一家の苗字だ。さらにそのタイトルの流麗な文字には見覚えがある。祖父の字だ。祖父は生前、書道をたしなんでいた。幾度となく目にしたあの完璧な形をした黒い文字たちは、祖父が死んで二年が経った今でも脳裏に焼き付いている。
つまり、この比較的新しい本は、祖父が書いたものであることを示している。
すぐさま本を開いた。1ページ目には、まぎれもなく祖父の字でこう書いてあった。
『もう、江戸時代に書かれた書物を読むことが出来るのは、この家では私と妻が最後だろう。先日、私は末期癌を医者に宣告された。もう時間はそれほど残ってはいない。だからこそ私は、掃晴村の封印の命を全うするために、この仕事に取り掛かることを決めた。すなわち、江戸時代に残された私の祖先の文書を現代語に翻訳することである。これから封印の番を担う者たちの為にも、これは必要なことだと私は考えた。しかしこの本は、封印に関係する者以外には絶対に見てはならない。それを重々承知したうえで、次のページを開くべし』
一郎はそれを見て一瞬逡巡したのち、ページをめくった。俺は祖父の孫だ。完全に無関係ではない。そう自分に言い聞かせて。
『私の名は松木五郎。この度、故郷の村を離れて長い旅に出ることとなった。それにあたり、旅で見聞きした事を出来る限りここに書き留めておくことにする。今日も私の村の田畑は豊作に恵まれている。今年の年貢も問題なく収めることが出来るだろう。この雄大な畑の景色をしばらく見ることが出来ないと思うと、少し胸が痛むが、これも村の為だ。致し方ない。では、そろそろ出発する』
松木五郎。つまりこの本は一郎の先祖が書き残した旅の日記だ。おそらく原本はあの古い本なのだろう。それを祖父はわざわざ翻訳し、遺品として残したのだ。しかし、そこまでしなければならない理由とは一体なんだ。文を読む目の動きが次第に加速していく。必ず何かあるはずだ。少なくとも、”おんば”に関する記述があるのは間違いないだろう。祖父が隠し事をしていたという事実に一郎の好奇心はくすぐられた。それを暴くのに多少、引け目は感じたが、一郎の好奇心はそれに勝っていた。
しかし、どれだけ読み進めても書かれているのは、たいして面白くもない旅の日記だけ。どうやら松木五郎は伊勢、つまりこの村がある三重県を出発して江戸に向かったらしい。だが、旅の事が書かれているだけならば、この村に伝わる”おんば”は一切、出てこなのではないか。そう考えかけた時、意外なところからその名前が現れることになる。
『江戸への旅路の途中で、信濃に寄ることとなった。小さな村の宿に泊めてもらったのだが、そこでこの村に伝わる大変興味深い話を聞かせてもらった。その話というのが、”雨おんば”なるものがこの辺りには出るらしい。雨の日に現れ、子供を攫う怪異だそうだ。どうやら、古くから存在しているらしい。今も時折、子供が姿を消すことがあり、それは”雨おんば”の仕業とされているのだそうだ。しかし、興味深いのはそれだけではない。”雨おんば”は子供を攫う恐怖の妖怪だが、雨を呼び干ばつから人々を救う神でもあるらしい。村を助けるかわりに子供が犠牲になるのは、なんとも酷い話だがそれで多くの人が救われるのなら、仕方のない事なのだろうか。実は、”雨おんば”を呼ぶ儀式も存在しているが、とても恐ろしくてここに書き記すことは出来ない。そろそろ日も沈み、辺りが暗くなってきたが、雨が降り出してきた。これは”雨おんば”が現れる兆候だろうか。尊い子供の命が犠牲にならぬことを祈って、今日はここまでにしておく』
”雨おんば”、その名前、性質からして”おんば”とほぼ同一の存在だろうか。それが五郎の旅の中で出てきたのだ。しかもそれは神として崇め奉られているらしい。子供を攫い、雨を呼ぶ特別な存在として。そんな悪魔のような奴を神として崇めることに、一郎は疑問を抱いた。
五郎はその話を信濃で聞いたらしい。信濃、とは今の日本ではどのあたりに位置するのだろう。一郎はスマホを開き検索してみる。すぐに画面に解答が表示された。長野県だ。江戸に向かうにしてはやや遠回りな気がしたが、一時、立ち寄っただけなのかもしれない。
その後も『松木掃晴伝記』を読み進めたが、特に進展はなく五郎は江戸に到着してしまった。ここでわかったのだが、彼は出稼ぎのために江戸まで来たのだそうだ。彼の時代の暮らしはそうまでしなければならないほど、切羽詰まっていたのかもしれない。『松木掃晴伝記』を読む限りだと、そんな風には微塵も考えられないが。
江戸を舞台にした五郎の日記は数十ページにわたって続いた。五郎は四年間、江戸で暮らしていたらしい。その間も日記に日々を記すことは止めなかった。
『江戸に来てからはや四年が経過した。ようやくここでの暮らしにも慣れ始めたのだが、村に帰らなければならない理由ができた。詳しく書いている時間はあまりない。とにかく明日にでも荷物をまとめて江戸を出るつもりだ』
江戸での日常が書き綴られる中、唐突にそんな文章が現れた。彼の江戸での生活が終わりを告げたのだ。何があったかはわからないが、とにかく急いでいたらしく、彼の日記はしばらく空白のページが続いていた。祖父の翻訳本も同じく、空白だ。できる限り、原本と同じ形を再現したかったのだろうか。
ふと、本の入っていた木箱に目を向けると、中に薄い紙のようなものが入っていることに気が付いた。細長い長方形の和紙で、意味のわからない漢字が書き連ねてある。これはもしや、御札ではないか。実物をみるのは初めてだったが、不思議と理解できた。
ピンポーン。ピンポーン。
甲高い、間抜けな音がドア越しに二回、聞こえてきた。一郎は突然響いてきた音に対して、一瞬は体を強張らせたが、次第に不快感を募らせる。あの音、誰かが玄関チャイムを鳴らしているのだ。
ピンポーン。
さらにもう一度。この夜中に訪ねてくる礼儀知らずは、どうやらよほど急いでいるようだ。
「ああ…もう!行けばいいんだろ!」
せっかくの好奇心に水を差されたイライラを隠すことなく、畳から体を起こす。手にしていた御札をズボンの右ポケットに無意識に突っ込み、一階へと降りる階段に向かった。一体、誰が来たというんだ。
階段の真ん中まで来て、一郎は壁の手すりを持ったまま固まった。祖母のあの言葉を思い出したからだ。
『あたしらが出てったら帰ってくるまで絶対に玄関の鍵開けたらあかんで。……絶対やで』
玄関のドアを開けてはならない。何故、祖母はそんな指示を出したのか。答えは明白だ。祖母は”おんば”を警戒していたのだ。俺が不用意に玄関を開けて、攫われるようなことがあってはならない。
ピンポーン!
だが、”おんば”は封印されていたのではなかったか?その疑問もまた、説明がつく。理由は不明だが、封印は解かれたのではないか。だからこそ、関係者である祖母たちはその連絡を受けて、血相を変えて外に出て行った。しかしだとすると今、玄関の向こう側に居るのは人を攫う化け物ということになる。本当にそんなことがあり得るのだろうか。
一郎はこの時点でもまだ、”おんば”の話には半信半疑であったことは否めない。そもそも、あんな荒唐無稽な話を信じろというのも無理がある。例えば他に、祖母と父が帰ってきたという可能性はないだろうか。それに本当に誰か村の人間が訪ねてきただけかもしれない。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
何にせよ、確かめなければ。気が付くと手すりを持った手のひらが、ぐっしょりと濡れていた。再び階段を下り始める。一歩一歩慎重に、自分の居場所を確かめるように、玄関の目の前までやってきた。いつの間にかチャイムの音は消えていた。少しだけ足が震える。変に緊張しているせいか、うまく声が喉から出ない。だが一度、大きく深呼吸をし意を決してドアの向こう側に語りかける。
「…あの…誰ですか、こんな夜に」
うわずった声で単刀直入に質問をした。だが、返事はない。雨の音だけがはっきりと聞こえてくる。どうやら雨はその勢いを増したようだったが、一郎にはそんなことを気にする余裕は無かった。玄関ドアにつけられた擦りガラスは外の闇を映している。
「もし、祖母に用があるんでしたら、また今度にしてもらえませんか。今は外出中ですんで…」
もし、この向こう側に居るのが祖母や父だったとするならば、反応がなければおかしい。それに二人は鍵を持って出かけた筈だ。つまり、外に居るのはそれ以外の誰か。そこまで考えて、違和感を感じた。
何か変ではないか?
その違和感の正体に一郎はすぐに気づいた。玄関ドアの擦りガラスに人影が映っていない。この家のチャイムはドアを開けてすぐ横の壁に取り付けられている。なのに何故、ドアの向こう側に誰もいないのだ。
その疑問を解消する答えはある。訪問者はチャイムを鳴らして俺が来る前に帰った。それしかない。だが、最後にチャイムが鳴ってから俺が到着するまで一分と経過していない。外からはこの家の明かりは見えた筈だ。誰かが家の中にいる、と普通は考えるだろう。訪ねてすぐに帰る理由がない。
訪問者の不気味で不可解な行動に一郎は当惑する。だが、訪問者は帰ったのだ。
『昔から、『敷居は結界』ゆうてね。しっかりした家には悪いものを遠ざける力があるんよ。きっちり戸締りをしてさえいれば、いくら”おんば”でも易々と侵入は出来ない』
祖母の言葉を思い出した。もし訪問者が”おんば”だったとしても、玄関を閉めていれば侵入することは適わない。きっとこの家にきた”おんば”も、侵入できないと悟って、帰っていったのだろう。何も心配することなどないのだ。
そう、敷居は結界、戸締りを守っていれば問題はない。その言葉を頭の中で反芻して、一郎は落ち着きを取り戻した。再び、二階へ戻るために階段を上り始める。また雨脚が強まったのか、その音は家の中でもはっきりと聞こえた。
きっちり戸締りをしてさえいれば、いくら”おんば”でも易々と侵入は出来ない。もし、戸締りが完全でなかった場合、”おんば”は家の中に侵入することが出来る。
階段を上り、祖父の部屋に向かう。雨の音がどんどん大きくなっていく。またしても、強い違和感が一郎を襲った。何か変だ。いくら雨が強くなっても、ここまではっきり音が聞こえるものだろうか。
廊下を抜けて祖父の部屋への入り口が見えたその時、雨音が祖父の部屋からだけ聞こえているのがわかった。そして一郎は、自分が犯した最悪のミスに気付いた。
戸締りは完全じゃなかった。あの時、俺はその手で開けたではないか。祖父の部屋の窓を。そして、一度はそれを閉めたが、鍵はかけなおしていない。あのクレセント錠を。つまり、戸締りは完全じゃない。結界は簡単に破ることが出来る。
全身から血の気が引いた。急いで窓の鍵をかけなければ。そう考えて祖父の部屋の入り口をくぐった瞬間、もう全て、手遅れであることを知った。
「ひっ……!」
押し殺した、情けない声で一郎は呻いた。視線の先には、開け放たれた窓がある。そして、その窓のすぐそばに、ゆったりと一人の女性が佇んでいた。絹のように白い肌。薄汚れた白いワンピース。そして顔には白く大きな袋を被せていて、その表情を伺うことは出来ない。その首元は袋につけられた紐できつく縛られていた。その姿はまるで拷問で被せられる顔袋だ。明らかに尋常ではない、そんな空気を纏っている。
こいつが”おんば”。人の家に侵入し、住人を何処かへ連れ去る悪霊。雨の日に現れる怪異。それが今、目の前にいる。
自分で招いたミスだ。奴は俺を監視していたのだ。そして、俺が窓の鍵を閉めていないことに気付いた。もしかすると、あの窓を開ける直前の声も、奴の罠だったのかもしれない。そして、何度もチャイムを鳴らして、俺を玄関までおびき寄せた。俺が玄関前まで来たらその隙をついて、鍵のかかっていない二階の窓から侵入を果たす。外から二階に上ることなど現実的には不可能だ。しかし、奴には可能だった。奴が立っている畳から窓の淵まで続く水跡がそれを物語っている。俺はまんまと奴に嵌められたのだ。
恐怖で頭がどうにかなりそうだった。この距離では、逃げる間もなく捕まり、連れ去られるだろう。そう考えると手足が震え、歯ががちがちと小さな音を立て始めた。
だが、一向に”おんば”は動こうとはしない。何故か、ある一点を見つめている。そこは部屋の隅、小さいテレビが置いてある。相も変わらず、芸人たちが騒ぎ立て大きな声で笑っていた。奴はまだ動かない。
画面を見ても、スピーカーの音を聞いても、一郎にとっては完全に別世界の出来事のように、それらは通り過ぎていく。テレビの向こうの住人達の動きがとても鈍重に感じた。部屋の片隅にある針時計の一秒一秒の動きの間隔がやけに長い。恐怖と絶望に支配された時間の中、一郎は必死に、一つの仮定を導き出した。
もしかすると……。
行動選択の余地はない。一郎の脳はまるで生存本能に目覚めたかのように、全身へと指令を送った。身体の震えを無理やり押さえつけながら、ゆっくりと後方へと移動する。音を立てないように慎重に。
焦るな、落ち着け。祖父の部屋を脱出し、廊下に出る。まだ大丈夫のはずだ。祖父の部屋のテレビの喧騒が次第に収まっていく。最もそこから近い物置部屋の扉のノブに手をかけ、逃げ込もうとする。しかし。
キィ、と扉が音を立てた。これは、まずい。一郎は素早い動きで物置部屋の中に入ろうとする。床を叩きつけるような足音が聞こえた。部屋に入った一郎は勢いよく扉を閉め、ボタン式の鍵をかけた。
外からドアノブが無茶苦茶に回される。ガチャガチャとやかましい音は数十秒続いた。鍵はかけたが、それは何処にでもある簡単なボタン式だ。もしも壊れたら、と想像して、息が詰まる。ドアノブが暴れ狂うことをやめた。諦めたのかと思ったその瞬間。
ダンッ!ダンッ!と扉が外から叩かれ、小刻みに振動する。その狂気じみた轟音に一郎の体は跳ね上がった。その音から汲み取れるのは、異常なまでの執念。いや怨念だろうか。しかしその音はやがて消え、廊下を引きずるような足音が遠ざかっていった。どうやら今度こそ、諦めてくれたようだ。
全身の緊張の糸が切れ、一郎はその場にへたり込んだ。ここに逃げ込むまで、ずっと止めていた呼吸を再び始め、空気を吸い込むと自分がまだ生きていることを実感した。
「……やばかった……」
最初に奴を目にした時、一瞬は何かの悪戯かとも思った。しかし、一郎が物置部屋に入る直前にちらりと見えたあの、全身を振り回しながらこちらへ向かってくるその姿は、奴が正真正銘、掃晴村に伝わる恐怖の怪異、”おんば”であることを示していた。
何故、封印されていたはずの奴がこの場に現れたのか。当然の疑問が頭に浮かんだが、この状況でその答えを考える余裕など無いに等しい。それよりも今、この家に入り込んでしまった奴をどう対処するか。そちらの方が重要だと思考のスイッチを切り替える。
先程の数秒間の逃亡でわかったことが一つある。奴はおそらく、目が見えていないのだ。あんな布袋を被っているのだから当然といえば当然だが、正直この部屋に逃げ込むまで、その仮定には自身が無かった。相手はこの家の外の壁を登って窓から現れたくらいなのだから、人間の常識が通用しないことは明白だからだ。奴はあの時、目の前にいる自分を無視してテレビを見ていた。今考えるとあれは見ていたのではなく、聞いていたのだと推測できる。その物体から発せられる奇妙な声に翻弄されて、俺の存在に気付くのに遅れたのだ。
そして、目が見ていない代わりに、耳が異常に良いのだろう。テレビの音が小さくなったとはいえ、あの一瞬の扉の音に気付いてこちらに向かってきたのだから。
部屋の中に明かりはない。まだ暗闇に目が慣れてないせいか、この部屋に何があるのかははっきりとしないが、壁の一番上のある小さな小窓から月光が差し込んできた。しかしまた、雨雲は空を覆い、やがては月すらも隠してしまう。
ようやく目が慣れ、暗闇を透かして見通すことが出来るようになった一郎は、部屋を見回した。物置部屋といっても正直なところ大したものは皆無と言っていい。あるのは使われなくなった服や布団。そして古びた中身不明の段ボール箱やすっからかんの小棚が横倒しに置かれ、埃を被っているだけだ。
現在、奴と自分を隔てているのは薄く、ボロボロの扉一枚だけだ。どうしても心もとない。もし奴がここに入ってきたなら、まさに袋のネズミだろう。何らかの抵抗手段は確保したいと思い、段ボールを開けるが中身はただの本が無造作に積み込まれているだけだった。
本……。そうだ『松木掃晴伝記』だ。あの本は”おんば”に関係している。ならば、あの本を読み進めていけば奴に抗する手段が書かれている可能性はあるのではないか。しかし、肝心のその本は今、祖父の部屋に置いてある。今この状況で物置部屋から出れば、奴に遭遇する危険は非常に高い。そのリスクを犯してまで、一郎にはこの小さな部屋の籠城を破る勇気はなかった。
どうすることも出来ないまま、時間だけが過ぎていく。そういえば、”おんば”は夜に現れるとちちは 言っていた。このまま籠城を続ければ、やがて朝が来て、奴もいなくなる。そう考え始めたのはいつからだろうか。それはほんの数分前とも、もう何時間も前とも感じられる。一郎の感覚は確実に異常をきたし始めていた。
奴は今、何処にいる。それが気になってしょうがない。あれから一度も、あの不気味な足音を耳にしていないのだ。
父と祖母はどうなったのだろうか。もしかすると、もう”おんば”の餌食となってしまったのではないか。悪い思考はさらに一郎の意識をナイーブにする。二人を連れ去った後は、自分の番ではないか。奴はもう足音を忍ばせて、この扉の前で好機を伺っているのかもしれない。
想像して、眼前の扉が余計に禍々しく、恐ろしく見えてきた。思わず部屋の隅の体をこすりつけるように寄り縋った。震える手で触れた壁の感触は、真夏とは思えないほどひんやりしている。
いや、これは壁じゃない。何故か触れた部分には円形の窪みがあった。大きさは手のひらより一回り小さい。さらに、他の箇所とは材質も違う。壁のほとんどは漆喰壁だが、その窪み周辺だけは鉄製だ。よくよく目を凝らすと、その正体は引き戸だった。引き戸の持ち手、つまり鉄製の窪み部分の位置は一郎の膝よりも低い。さらにその大部分は山積みの段ボール箱で覆い隠されていたせいで、この暗がりの中では気が付かなかったのだ。
ギィ、ギィ。
ふいに部屋の外から奇妙な音が鳴りだした。突然の音に驚きつつも、一郎の視線はまっすぐに、ただ一つのこの部屋の扉を捉えていた。
来た。奴は今、この家の木製階段を上がってきているのだ。踏みしめられた木版が一つ一つ、軋みを上げる。その感覚は嫌に間延びしていて、奴の動きが不気味なほどゆっくりであることを想像させた。
全身が総毛立ち、警鐘を鳴らす。逃げろと。だが、今回は、先ほどとは状況がまったく違う。奴は俺がこの部屋に隠れていることを知っている。そして逃げ出そうと扉を開けた瞬間、奴はそれを察知するだろう。現状、一郎に出来るのは、籠城を続けることだけだ。
奴がこの部屋に近づくのに合わせて、乾いた呼吸音を小さくしていく。だが、それと引き換えに心臓の鼓動は異常なまでに加速していた。奴にはこの心臓の音すら聞こえているのではないか。そんな錯覚に陥る。
足音が扉の前で止まった。一瞬にして世界が止まったかのような静寂が押し寄せる。一郎はその静寂を破らないよう、慎重に引き戸の持ち手に手をかけた。奴がここに戻ってきたのは理由があるはずだ。そしてその理由とは、あの鍵のかかった扉を開く方法を見つけた以外に考えられない。もし、本当にそうだとしたら、自分に残された手段はこれしかないだろう。
次の瞬間、静寂は突然破られた。いまままでに聞いたこともないような、歪な音が部屋中に鳴り響く。何度も何度も繰り返される破壊音。それに合わせて大きくたわむ扉。あまりの衝撃に一郎の体はすくんでしまい、指の先まで動かすことが出来なかった。
バキッという音と同時に、扉の真ん中あたりに細長い穴が空いた。そこから外の光が差し込む。その光に反射するように、扉の穴に挟まった金属片が不気味に光った。暗闇の中から、その物体の正体が明瞭に現れていく。
一郎の背筋が一瞬にして凍り付いた。金属片の正体、それは斧だった。
刃渡り十センチ程度の片手で握れる代物だ。この村で使われる斧の用途は薪割りだが、その威力は並々ならない。薄いボロ扉一つ破壊することなど、造作もないだろう。
斧は扉を破壊し、その穴を広げていく。そして再び、奴の姿が現れた。袋頭のそれは変わらず不気味だったが、一心不乱に斧を振り下ろすその姿は悪夢の一部にしか思えない。奴はこの扉を破るために、あんなものを持ってきたのか。一体何が、奴をそうさせるのか。暴走した機械のように動き続けるそ様相に、一郎は戦慄する。
時間はない、奴は扉を開く鍵を手に入れたのだ。呆気に取られていた一郎は我に返って、引き戸を開いた。斧の最後の一振りによって、扉は人間の腕一本が丸々通るほど崩壊していた。祖父の部屋から漏れた明かりが、真っ暗だった物置部屋と混ざり合い、その境界を曖昧にしていく。奴は拡大した穴から手を伸ばし、扉の鍵を開こうとした。一郎が引き戸の奥の小さな空間に体を滑らせたのは、鍵が開かれたのとほとんど同時の事だった。
一度、光を見て明順応してしまった目が再び、暗闇に同化していく。引き戸はまだ数センチ開いたままだった。ここに隠れるのと、奴が部屋の鍵を開けたタイミングが同じだったために、戸を閉め切れなかったのだ。今から閉めようとすれば、その音で確実に奴に気付かれる。本当は万全を期したかったが、苦渋の決断だった。
キィ、と奇妙な音を鳴らしながら扉が開いた。奴は悠然と部屋に歩を進める。その右手には鈍く光る手斧が握られている。一瞬、奴の頭がこちらを向いた。一郎の身が強張る。大丈夫だ、奴はまだこちらには気づいていない。そう自分に言い聞かせたが、その手には自然と汗が流れていた。
引き戸の奥は押入れと呼ぶにはあまりに小さい、横長の長方形の形をしていた。ここも、何かをしまい込むためのらしいが、幸い何も置かれていない。もし段ボール箱一つでも入っていたならば、一郎の身体は収まりきらなかっただろう。一郎は今、この小空間を丸ごと占有しているのだ。
じっとりとした湿気が、一郎の周りに渦巻いていた。纏わりつく汗が気持ち悪く、身をよじろうとするが、その為の隙間も、隙も有りはしない。奴はまだ、そこにいる。不用意に動けば気付かれる。
そのうすら寒く感じるほど白い足が、部屋中をくまなく移動している。俺を探しているのだ。
奴はもしかすると、とんでもなく狡猾なのかもしれない。この家に侵入した時も、奴は俺を罠にかけた。そしてついさっきも、斧を用いて鍵の掛けられた扉を破ったのだ。
一郎はこれまで、悪霊や妖怪といった存在は、決まったルールにそって奇怪な現象を起こしていると考えていた。それもあくまで実在すると仮定した話だが。しかし、その仮定はいとも簡単に打ち砕かれたのだ。少なくとも奴が多少なりとも考える力を持っているのは確実だ。
”おんば”は一向にこの部屋を立ち去る気配を見せない。そのまま膠着状態が続くかと思われたその瞬間、奴はゆっくりとこちらに向けて近づいてきた。自分に気が付いたのか、それとも偶然か。まさか、自分の息が奴の耳に届いたのか?あまりの緊張に、思わず口と鼻を手で塞いだ。
奴は引き戸の眼前で停止し、漆喰壁に手を伸ばした。まさに手探りで、隠れられる場所を探しているのだ。心臓の鼓動がさらに加速する。ひたひたと壁に手を当てる音だけが聞こえてくる。引き戸の隙間から見えるのは、気味が悪いほど真っ白な素足だけだった。
ズボンの右ポケットの中で、何かが出し抜けに振動した。突然のことに身体が跳ね上がる。それが、自分のスマホであることはわかったが、状況が状況だけに、恐怖が増加していく。振動は続いている。これは誰かが電話してきたのだろうか。一瞬、そんな推測が脳をよぎるが、今はそれどころではない。
”おんば”の足が徐々に、膝をつくように床へと降りていく。そして、前かがみの姿勢となった奴の頭が、目の前に現れた。その白い袋頭が引き戸の隙間から真っ直ぐに一郎に向けられている。
まだ、まだ大丈夫だ。そう何度も心の中で呟く。そうしなければ、恐怖で叫びだしそうだった。
だが、そんな心の暗示を無視するかのように、奴の手は引き戸の持ち手に手をかけた。ズルズルとその戸が開かれる。俺は祖母の話のように、連れ去られるのだろうか。それとも、その手にある斧で、ズタズタに引き裂かれるだろうか。身体を奥へと押しやろうとしたが、これ以上後退は出来なかった。もう、そんな空間は無かったのだ。
スマホはまだ、振動している。頼る物もない一郎は、ズボン越しにスマホを握りしめた。この追い詰められた状況で、幸いと言うべきかはわからないが、マナーモードにしていたスマホはただ振動するだけで、通知音は一切鳴らなかった。
”おんば”はまだ慎重な様子で床に手をついた。もう自分の居場所はばれたのかと思っていたが、奴はまだ、自分を捉え切れていないのかもしれない。
その推測が立った瞬間、一郎はポケットに手を突っ込んでいた。一気にスマホを引っ張り出し、開かれた戸の、奴の左脇に放り投げる。小さな音がしただけなら、奴はさほど気にしないかもしれない。だが、これなら……。
窓の下、木造床に落ちたスマホは、その振動で小刻みな重低音を鳴らした。その奇妙な音に、奴は明らかな不審の念を抱いたようだった。奴は江戸時代に封印された悪霊だ。こんな音は初めて聞いたに違いない。耳ざとくその音を聞きつけ、奴はスマホの落ちた小窓の下に歩いていく。
今しかない。ゆっくりと匍匐前進をしながら、引き戸をくぐり、隠れ場所から這い出した。音を立てないように、立ち上がり物置部屋を脱出しようとする。スマホを使った誘導は長くは持たない。急がなければ。焦る気持ちを抑え込んで、忍び足を保つ。
だが、あくまで奴は、”おんば”は利口だった。
物置部屋の扉が閉められていたのだ。奴が閉めたに違いない。扉を開ければ、あの時のように確実に軋み音が鳴る。その音を察知した瞬間、奴は俺が部屋を出ていこうとしたことに気付くだろう。これは、罠なのだ。
ではどうすればいい。もう、身を隠す場所など何処にもない。退路も断たれている。時間はもう無い。
いつの間にか、スマホの振動は無くなっていた。後ろを振り返ると、奴はうなだれたように窓の下に立っている。その手には一郎のスマホが握りしめられている。ゆらりと、その体が揺れ動き、ゆっくりと扉の方に向かってきた。
気付いたのか、自分が誘導されたことに。獲物がこの場から立ち去ろうとしていることに。こちらはもう、何も出来ない。いや、一つだけある。音を立てるのも構わず、全力で逃げるのだ。もし、うまく奴を引き離すことが出来ればそのまま夜明けを待てばいい。だが、失敗すれば……。
振り子のように左右に振れながら、不気味に近づくその姿はまさに悪霊そのものだ。考えている暇はなかった。もう覚悟を決めるしかない。
一郎は右手の壁に沿うように積み上げられた段ボール箱を、力の限り引っ張り倒した。中身をぶちまけられ、無数の音を立てながら段ボールの塔は崩れ落ちる。その隙に、出来る限り素早く物置部屋から脱出した。あの程度で奴を足止めできるとは思えなかったが、他に手段も思いつかなかった。
廊下に出て、そのまま全速力で駆け抜ける。階段を二段飛ばしに下り、玄関口へと向かう。後ろを振り返る余裕はない。奴の足音も自分のものに紛れて確認できない。
よく知った祖母の家だったが、これほどまでに不気味で、異様な空気だっただろうか。踏みしめる床が不確かで、頼りない。玄関までの道のりが、ひどく長い。
口の中がカラカラになりながらも、玄関まで辿り着いた。震える手で、ドアノブを手にする。
泡を食ったように鍵を開こうする一郎に、何かが耳をかすめるような感覚。そして、甲高い金属音が鼓膜を打った。気が付くと一郎の頭の真横を通り過ぎて、斧が玄関扉に激突している。
背後には奴がいた。確かな殺意を持って、狂気の斧を握りしめている。これでは、こちらが扉から脱出する前にあの斧の餌食だ。この時の一郎の脳は生命の危険に晒された状態で、覚醒しつつあった。思考は瞬時に次に取るべき行動を導き出す。
”おんば”は扉にめり込んだ斧を引き戻し、二撃目を振るうために大きく腕を上げた。だが、その攻撃は無効化される。奴に向かって体当たりを見舞ったのだ。奴は怯み、後方にのけぞった。しかし、奴の反応はそれだけだ。こちらは全力で突っ込んだはずなのに、奴の体は鉄の塊ように重たかった。
ゴトッという鈍い低音が響いた。
奴の脇を抜けて、リビングに入る。照明は消えていて、視界は悪いが、テーブルの上を手探りでやたら目ったらに調べているうちに、それが手の甲に当たった。テレビのリモコン。奴から逃れるためにはこれしかない。
リモコンの電源ボタンを押すと、リビングの32インチの液晶テレビが眩い光を放った。何の変哲もないニュース番組が映し出され、男のキャスターが淡々と今日の出来事を読み上げている。外の廊下から足音がする。ソファの下の隙間に身を隠しながら、テレビの音量を最大まで上げる。リビング全体を響かせるキャスターの声は耳に痛かったが、これで奴を多少かく乱出来るだろう。奴がこのリビングに入ってきても、容易には動けない筈だ。
番組はニュースから天気予報へと移り変わった。奴はまだ、リビングに入ってこない。
『現在、西日本は非常に活発的な雨雲によって覆われており、本日の昼から断続的に続いている大雨は、あと三日間は続くものと思われます。二時間前から三重県で発令していた雷注意報は現在、解除されており…』
まだ、雨は続くのか。そう考えて絶望の波が押し寄せてきた。もし今夜、”おんば”を対処出来なかったら、この先もっと恐ろしい事態が待っている。次の夜も、その次も悪夢が繰り返されるのだ。
ソファ下で身を翻して、廊下を覗いた。おかしい。
いくら何でも遅すぎる。一郎がソファ下に隠れてから、もうすでに二分以上は経過していた。決死の体当たりも大した効果は無かった筈だ。すぐにでも体制を立て直して、追いかけてくるのが普通の行動だろう。(もっとも、悪霊に普通が通じればの話だが)しかし、奴は一向に廊下に姿をさない。
まさか、こちらの位置を把握していない筈はないだろう。玄関から逃げるときも足音は聞こえただろうし、今もテレビの大音声が響いているこの部屋に俺がいると推測するのは容易だ。
では何故、奴は来ない。考えられる可能性が一つある。警戒しているのかもしれない。これほど騒がしい部屋に踏み込めば奴の耳は完全に塞がれるだろう。だから、襲撃の一手をかけることが出来ないのではないか。そんな希望的観測が浮上してくる。真っ暗闇の中で明かりが照らされていれば、誰もがその明かりにすがりつくだろう。もし、それが恐ろしい罠だったとしても。
リビングへの入り口は廊下に面した扉ただ一つだけだ。奴は廊下を通る以外にリビングへの侵入は果たせないのだ。一郎は廊下の監視を続けた。いつ何時、奴が再び襲撃してくるかもわからない。真っ暗闇の廊下を注視する。まだ、来ない。
ふと、小さな疑問が頭に浮かんだ。何故奴は斧を持ってくるのに、あれだけの時間がかかったのだろうか。あれはおそらく、この家の庭にある、農具を仕舞うための物置にあったものだ。あれを探すのに、さして時間はかからないだろう。だが奴はかなりの時間を置いて、出現した。もしかすると本当に、あれを探し続けていただけかもしれないが……。
さらに、違和感もあった。それは既視感と言い換えてもいい。一郎はこれと似た状況を既に体験している。それもつい最近に。だが、それを想起しようとすると、これまでに溜まった疲労感が邪魔をするのだ。
何だ、何だ。ぐるぐると巡る思考は、その既視感の正体をついに掴んだ。
これは、奴がこの家に侵入した時と同じではないか。あの時も、俺は奴が玄関の向こう側にいると信じていて、まんまとおびき寄せられた。だが、奴はその時すでに別の侵入ルートを確保して、二階に出現したのだ。そして今も、俺は廊下の奥に奴が待ち構えていると考えている。
次第に疑問の答えも、その姿が明確になりつつあった。もうすでに、奴は俺の意表を突くべく、手段を講じている。奴はあの空白の時間に何かをしていたのではないか。その何かとは、まさか……。
テレビのキャスターの声に混じって、妙な雑音がうっすらと聞こえる。よく耳を澄ませると、それは雨の音のようだ。一郎はこの時、どうしても動けなかった。まさか奴が、この家中の鍵を開けて、いつでも出入り出来るようにしていたなどと、信じたくはなかったのだ。だが、この雨音はリビングの窓が開いたことを示している。開けたのはもちろん、奴だ。
あれだけ不気味だった廊下の闇が、急に薄っぺらく見えた。その代わりに背後からテレビの光に照らされて、黒い人影が姿を現す。間違いない、奴はこの家じゅうの窓の鍵を、あらかじめ開けておいたのだ。そして、一郎に自分の位置を誤認させたのだ。もし、一郎がソファに隠れずに窓から出たりしていれば、確実に奴と鉢合わせしていた筈だ。その可能性も踏まえたうえで、奴はあえて外から姿を現したのだろう。
影はゆらゆらと歪にリビングを動き回る。一郎を探しているのだろうか。背後に向き直って奴の姿を直に確認したかったが、体は縛り付けられたように身動きがとれない。影は面白おかしく、踊り狂っている。その右手が、高く上がった。
ガラスが割れたような壮絶な音がした。それと同時にニュースキャスターの機械的な声がぷっつりと途切れる。テレビが破壊されたのだ。もう、小細工は通用しない。
芋虫のように、徐々にソファから這い出て、廊下に向かおうとする。あくまで、音を立てないように慎重に。
しかしその時、右足に身も凍るほど冷たい感触が現れる。ぎょっとして背後を振り返ると、奴がその身を伏せて、右足を掴んでいた。この隠れ場所は奴に看破されていたのだ。思い返せば、リビングには他に身を隠す場所は全くない。俺は自ら、自分の居場所を奴に教えていたのだ。
女とは思えないほどの力で”おんば”は一郎を掴んで離さない。奴の爪が足に食い込みどくどくと血を流す。
いやだ……死にたくない。
決死の抵抗とばかりに、奴の腕を左足で蹴り上げる。何度も。何度も何度も。
その途端、さらに爪が食い込んで、一郎は痛みのあまり低いうめき声を上げていた。もしかすると、気付かぬうちに泣いていたのかもしれない。
ようやく、奴の手の力が緩んだ。足を力の限り引き抜いて、ソファを脱出する。
足の血は止まらない。徐々に足から力が抜けていく。その傷自体は大したものではなかったが、血の気が引いて、足の感覚が無くなったような錯覚に陥った。うまく立ち上がることが出来ない。
はやく、逃げなければ……。
うつ伏せ状態の一郎に、”おんば”はいともたやすく追いついた。手斧を高く掲げて、その刃先が不気味に光る。
刹那、一郎は右手に転がり”おんば”の攻撃を寸での所で回避する。仰向けの状態になり、そこでようやく影となっていた”おんば”の姿が、再びはっきりと見えた。
真っ白であるはずのその身体が、雨に濡れて溶けていた。まるで、全身を包んでいたファンデーションがはがれ落ちているかのようだ。そして、溶けた肌から覗いていたのは、火傷のように爛れた赤色だった。それが、まだら模様となって全身に浮かび上がっている。ただ一つ、頭の白い袋を除いて。
奴は、悪霊などという生易しいものではない。もっと恐ろしく、もっと異常な存在だ。こいつを形容するなら、怨念の塊を擬人化したような存在だろうか。それほどの気迫と殺意を、奴は持っていた。
”おんば”は立ち上がり、一郎に掴みかかった。まだらの腕が一郎の首に伸ばされる。一郎はその腕を逆に掴み返し、押し返そうとするが、仰向け状態の一郎はそのまま床に叩きつけられた。
奴が一郎の上に跨る。身動きが完全に封じられた。奴の腕を抑える両の手が緩まれば、たちまち奴は俺の首を締め上げるだろう。だがそうでなくとも、もうすぐ、あの手斧が俺の脳天を直撃する筈だ。
完全に詰みだ。俺は結局、何もわからないまま”おんば”に殺されるのだ。
今日の出来事が走馬灯のように脳裏に浮かんだ。降り続ける雨。祖母から聞かされた、”おんば”の話。そして、その直後に起こった落雷。思い返せば、それらは全て、予兆だったのではないか。”おんば”が再び、晴掃村に姿を現すという前触れ。
あの落雷、父は神社の辺りに落ちたのではと言っていた。”おんば”の封印がどういったものかはわからないが元々、二百年に渡る封印で、その効力は弱まっていたのかもしれない。落雷は封印を破壊し、奴は解き放たれてしまったのだろう。だが、それがわかったところで何になるというのだ。"おんば”が今、斧をゆっくりと頭上に持っていく。
待て、落雷……確か……あれはかなり突然起こった。あの時、祖母は何かを言いかけて、遮られたはずだ。
『そうやねぇ、家への侵入が自由やないってのも考え方によったら弱点かもしれへんけど、他は聞いたことがないわ……。流石に塩くらいでどうにかできるほど弱い霊でもなかったみたいやし。あ、でも顔を』
顔。確かに、顔と言っていた。それが何を意味するのかは不明だが、もしかすると顔が奴の弱点なのかもしれない。少なくとも、あの袋の下に、その答えがある。
一郎は半ば無意識に右手で”おんば”の顔を覆っていた袋を掴んだ。その瞬間、奴は一郎を押さえつけていた手の力を弱めた。明らかな動揺を感じる。大きく身体をうねらせて、一郎の手を振りほどこうとする。
一郎は我武者羅に袋を奴の頭から引き剥がした。
今まで隠されていた、”おんば”の顔が遂に明らかになった。いや、顔と表現していいのだろうか。
真っ黒で、無作法に伸ばされた髪が、だらりと床に着く。そして、その黒髪の隙間から覗く奴の顔には、人にあるべきものが何もかも無かった。
口、鼻、そして、目。全てがそぎ落とされ、欠落している。何もない顔はまるで、真っ白な画用紙のように無機質で、不気味だった。そして、その両横にある形の整った耳が、逆にその顔の異常性をさらに際立たせている。何もない顔。
”おんば”は自らの顔を見られたからか、握っていた斧を床に落として、顔を手で覆い隠そうとした。一郎はこの隙を見逃すことなく、上に跨る”おんば”を突き飛ばした。その感覚は妙に軽く、易々と”おんば”は後方に倒れこんだ。あの鉄の塊のような重さが完全に消え失せていた。
これが、”おんば”の唯一の弱点。奴は顔を晒したくないのだ。その理由が何であるにせよ、これが最後のチャンスであることは間違いない。今、この瞬間を逃せば、次は無い。
”おんば”は床に落ちた斧を手で探り当てる。立ち上がり、黒髪を振り乱したその姿から読み取れるのは、純然たる怒りの感情だった。こうなってしまった以上、奴はこの俺をどこまでも執拗に追いかけてくるだろう。一郎はあくまで冷静を装って、悠然と奴と対面する。だが、その背中からは滝のように汗が流れていた。
奴の弱点。それが判明した時、一郎にはある考えが浮かんでいた。奴の正体が何なのか。それを考える暇は無い。だが、明白なことがある。それは、奴が霊、あるいは妖怪に類する存在であること。そして、弱点は顔。これらを踏まえると、自ずと奴を撃退する方法が見えてくる。一郎は既に武器を持っていたのだ。
だが、これは賭けだ。相手は未知の存在。思い通りに事が運ぶ可能性は、奇跡にも近いだろう。それでも、やるしかない。
膠着状態は思いの外、長く続いた。こちらはあの斧を無効化しない限り、近づくことが出来ない。奴は身動き一つせずに、こちらの出方を伺っているらしい。だが、その沈黙はあっさりと破られた。最初にその口火を切ったのは、奴だった。
斧を構えつつ、こちらに突進を仕掛けてくる。咄嗟に横に飛び退いて、間一髪の所で躱す。あの凶器がある限り、奴の絶対的優位は動かない、というのが奴の最終判断なのだろう。
肘に微かな痛みを感じた。少量だが血が流れている。先ほどの攻撃が掠ったのか。一瞬でも飛び退くのが遅かったらと想像して、鳥肌が立った。このまま後手に回り続ければ、やられる。
あの斧を対処することは素手の一郎には不可能。ならば……。一郎は覚悟を決めた。姿勢を低く保ち、次なる攻撃を待ち構えながら、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
そして、次の攻撃の瞬間が訪れる。”おんば”はその細見の足からは想像できないほどのスピードで、瞬時に一郎との間合いを詰めた。高々と斧を振り上げて、一郎の頭めがけて一直線に切り込む。
一郎はあえて飛び退かずに、”おんば”の胴体へと逆に体当たりを仕掛けた。身を低くしていたことも幸いし、”おんば”の攻撃は空振りに終わる。意表を突かれた”おんば”は頭から床に激突したが、まるで痛みを意に介さないかのように、その場で暴れ狂う。一郎は覆いかぶさるようにして、”おんば”を上から押さえつけた。そして、その手に握りしめられていたものを、”おんば”顔に目掛けて貼り付けた。
それは御札だ。”おんば”が侵入してくる直前、一郎はそれを木箱の中から発見していた。そして無意識のうちに自らのポケットに入れていたのだ。よもや、こんなところで使うことになるとは、思っても見なかったが。
その御札にどんな効果があるにせよ、霊や妖怪の類が神聖なものを苦手とすることは、言わずもがなだろう。そして、そんな代物を自らの弱点に叩きつけられれば、どんな悪霊もひとたまりもない筈だ。一郎はその可能性に賭けたのだ。
”おんば”は御札を引き剥がそうと、自らの顔を掻き毟るが、不思議なことに、御札はそののっぺりとした顔と一体化して、剥がれることは無い。やがて、”おんば”は苦しむように首を絞め始めたが、その力すら消え失せたのか、ピクリとも動かなくなった。
終わったのか……。何十時間も悪夢を見ていた感覚が一郎を襲った。ただ呆然とそこに立ち尽くして、床に転がる”おんば”を見つめていると、それは徐々に不定形で曖昧な物体に変形し始めていた。あの不気味な女性の面影は既になく、白と赤が混ざった絵の具の塊としか思えない、奇妙な形がそこにあった。
「……あっ」
だがそれも、ほんのひと時で、一郎の意識が完全に浮上した頃には、小さな水たまりが床を濡らしているだけとなった。”おんば”はその姿を消したのだ。
もしかしたら、これは本当に長い悪夢を見ていただけだったのかもしれない。一郎の頭の片隅にはそんな想像が浮かんだが、それは即座に否定された。
床には奇妙な水たまり以外にも、あの”おんば”の顔を包んでいた白い袋が残されていた。
死の淵を彷徨った一郎は再び、祖父の部屋へと戻ってきた。全ての窓、扉の鍵を閉め、あの白い袋は外に投げ捨てた。一抹の不安は残るが、これで当面の危機は去っただろう。半ば無理やり、自分を安心させて今、『松木掃晴伝記』を再び開く。
「確かここら辺に……。あった」
開いたページは、あの”おんば”を連想させるほど真っ白で、文字一つ書かれていない。筆者の五郎は突然、江戸から故郷の晴掃村に帰る部分だ。その理由については書かれていないが、熱心につけていた日記を書く余裕すらないほど、焦っていたのだろう。
一郎がまた、この本を読み始めようと思い立ったのには理由がある。一郎にはどうしても、これで全てが終わったとは思えなかったのだ。心の深層に残ったしこりは、徐々にその大きさを増している。今の一郎に出来ることは、この本を読み進めて、奴の真実に近づくことだ。そしてそれ以上に、自分の先祖が、祖父が、一体何を思って、この本を遺したのかを単純に知りたかった。
今も感じている焦燥感が、単なる杞憂であることを祈ってページを捲った。
『四年ぶりの故郷の土を踏む。だが、その二年という僅かな時間の中で、その土はどうやら脆弱になってしまったらしい。我が故郷の美しかったあの田畑の風景が、今では見るも無残に荒れ果てている。とても正視に耐えない、みすぼらしい土地に変貌していた。久々に会った友人の頬は痩せこけて、死体を連想させる。私が「何があった?」と尋ねると友人は力なく、「干ばつだ」とだけ答えた』
『一年前より、徐々に日照りが多くなり、私が帰ってきた頃には既に、4か月以上雨が降っていないらしかった。年貢を先送りにしてもらい、どうにかこれまで食いつないできたそうだが、もうそれも限界だと友人は言った。村は終わりだと。私は村長の元へと向かった。このまま村が死んでいくのを、ただ指をくわえて見守るのはどうにも口惜しい。私は私に出来ることならば、何でもするつもりだった。村長も他の村人と同じく、やせ細ったみすぼらしい姿をしていた。村長は状況を打開すべく近々、村に伝わる雨乞いの儀式を復活させるつもりだという。私はどうする事も出来ずに、自宅へと戻った』
何ということだ。この村はかつて、存続を危ぶまれるほどの危機に直面していたらしい。だが、その後の結果は一郎の知るところだろう。今現在も掃晴村は残っている。雨乞いの儀式は成功したのだ、そう考えていた。
『簡潔に言って、儀式は失敗だった。儀式の内容は大きな焚火を村人全員で囲み、躍り続けるものだったが、その効果は一向に現れない。時折、あの当然のように青空を昇る太陽を憎らしく感じる。それからも様々な雨乞いの儀式を試したが、全ては空振りに終わった。もう村中が絶望の色に染まっていた』
『ふと、寝床に就いた時に、信濃の村での話を思い出した。あの世にも恐ろしい”雨おんば”の話だ。その化け物は雨を呼ぶと彼らは言っていた。そして、私はその”雨おんば”の呼び方を彼らから教わっていた。その異常ともいえる呼び方を。一度、村長に話してみるべきか』
『次の日、私は逡巡した後にまず、友人に話すことにした。もう生気を失った顔で、最初は聞き流していたが、やがて興味を引かれたのか、食い入るように耳を傾けていた。一通り話し終えると、友人は何処かへ走り去っていった。それからしばらくして、私は村長に呼び出されて、彼の家に赴いた。小さな座敷に腰かけて、村長は不気味な笑みを浮かべている。追い詰められた人間は笑うしかないものだと思ったが、どうやらそうでもないらしい。「どうしたのか」と私が聞くと村長は「”雨おんば”について詳しく教えてほしい」と言った。友人は私の話を、こともあろうに村長に伝えてしまったのだ。私は裏切られたことを心底恨みながら、仕方なく村長に詳しい内容を教えた』
『元々、”雨おんば”とは人間の女だったという。行く先々で雨を呼ぶ、不吉な存在と蔑まれた女は周りから迫害され、絶望の内に自ら命を絶った。だが、屍となってもその怨念は消えることなくこの世に残り、それがやがては、妖怪”雨おんば”となったのだ。”雨おんば”は決まって雨と共に現れ、人間の子供を攫った。それを恐れた信濃の村人は、”雨おんば”を神として祀り上げることで、その怨念を鎮めることに成功する。だが、それから村には一向に雨が降らなくなったという。田畑が死に、ほとほと困り果てた村人たちは、神となった”雨おんば”に供物を捧げて雨を呼んでもらおうと考えた。供物とは即ち、人間の子供である。なんと恐ろしいことに彼らは、自らの子供の死体を縄で括り付け、木に逆さにぶら下げて、”雨おんば”に捧げるという狂行を幾度となく行っていたのだ。これが、”雨おんば”を呼ぶ方法である。この話を聞いた時は、全身が凍り付く思いだった。その真偽のほどは定かではないが、これほどまでに馬鹿げた話は無い、と強引に村長との話を打ち切り、家を出た。最後まで私は村長の顔を直視することは無かった』
ここまで、祖父の字を気味悪く感じたことは無い。子供を生贄にして雨を呼ぶなど、正気の沙汰とは思えなかった。
もしこれが真実ならば、あの”おんば”の正体とは……。
『私は、あの話を友人に、そして村長にしたことを一生後悔するだろう。私はもう、尊い人々の命を奪った罪人も同然だ。この罪を風化させないためにも、ここに書き記しておく。村長と話をした次の日の夜、我が家の外を村人が幾人かが通っていくのが見えた。この夜分に皆どうしたのかと訝って後をつけると、彼らは村の中心にある大きな林の中へ消えていった。何かよからぬことが起きている。そう確信した私は、他の者に見つからぬように隠れながら林道を進んだ。やがて林道は石造りの階段に変わり、そこを上ると見える大きな一本松の周りに、掃晴村の住人がほとんど全て集まっていた。その時に見た光景は目に焼き付いている。一本松の太く逞しい枝に、四本の縄がぶら下がっていたのだ。そしてその縄の先には男女が二人ずつ、逆さまに括られていた。その顔は白い大袋に覆われて、一体誰なのかは判別がつかない。私はその場で悲鳴を上げた。それに気が付いた村長が、にやにやと笑いながら近づいてきた。「ありがとう。これで村は救われる」村長は私に向けて言った。私は錯乱ながらも、村長を無視して一本松に駆け寄った。人ごみを掻き分け、一本松の前に出る。ぶら下がった男女が死んでいることは明らかだったが、私は構わず顔の袋を取り払った。だが、そこにあったのは顔と呼ぶにはあまりに無残で、醜いものだった。四人の男女は皆一様に、顔を火で溶かされていたのだ。溶けだした皮膚が顔を丸ごと覆い隠して、目と鼻と口は完全に無くなっていた。それだけではない。よく見ると全身に火傷の跡がある。もう、あれが誰だったのかを判別は出来ない。ただ、年若い人間だったことは間違いないだろう。私が「これは一体なんだ!」と叫ぶと、村人たちは口々に「仕方なかった」「抵抗されたから」と言った。彼らは度重なる苦境の中で、人としての心を失ってしまったに違いない。あれから一日が経った。今、外は沈むような雨である。村人たちは恵みの雨とばかりに歓喜の声を上げていたが、私にはあの水たまりが醜い人という化け物を映しているようにしか見えなかった』
異常だ。人の顔面を焼いて溶かし、挙句は殺し、木に逆さに吊す。昔の掃晴村の人々はそんな常軌を逸した事件を起こしていたのか。目と鼻と口が完全に無くなっていた。それは、”おんば”のあの顔と符合する。
今、一郎は”おんば”の真実に近づきつつある。そんな確信めいたものを感じた。息を呑み、次のページに目を落とした。
『あの悪夢の夜から半月。もうこの日記を再びつけることは無いと思っていた。しかし今、掃晴村で奇妙な事件が起きている。どうにも嫌な胸騒ぎがするので、ここに書き留めておく。それは三日前、その日は雨だった。雷鳴響く豪雨の中で、私は身を震わせながら眠っていた。あの日の事を思い出していたのだ。次の日外に出ると空は雲一つない快晴で、私は村中を歩いていた。だが、どうにも様子がおかしい。畑に村人が人っ子一人居ないのだ。偶然出会った友人に訪ねてみると、村人が二人行方不明なのだという。名を大輔と清之助といった。今は村総出で捜索の際中らしい。それはいけないと思い、私も捜索に加わったが、大輔も清之助も一向に見つからない。結果として、皆早々に諦めることとなった。彼らは一体何処へ消えたのだろうか』
『行方不明者は数を増やしていくばかりだ。今ではその数は十一人にも上っており、いずれの失踪も、雨の日の夜に起きている。何人かの証言によると、夜中に村をうろつく妙な人物が目撃されているようだ。このままではまずいと、村長は雨の日に村中を見回り、警戒することを取り決めた。とても嫌な予感がする。私も今日の見回りに参加するつもりだ』
『なんということだ。今でも自分が目にした光景は信じられない。このままでは、この掃晴村が滅ぶのは時間の問題だろう。その前に手を打たなくては。私は友人たちと、雨降る掃晴村の夜を巡回していた。唐突に悲鳴が聞こえたのは、巡回を始めてからしばらくたった後だった。私たちがその場に駆け付けると、そいつらはうなだれたように佇んでいた。そいつらとは五人の男女で、皆一様に不気味な白い袋を被っていた。その袋はあの悪夢の夜に、殺された男女が被せられていたものと同一である。そいつらの足元には男が一人、転がっていた。あの男は、殺されていたに違いない。私は心の底から震えあがった。私の本能が、はやく逃げろと警鐘を鳴らしていた。傍らで立ち竦む友人を尻目に、私は脱兎のごとく逃げ出した。その後に聞こえてきた悲鳴は、友人のもので間違いないだろう。私は彼を見捨てたのだ。後悔の念に囚われながらも、命からがら我が家に戻ってきた。そして今、この日記を書き殴っているのだ。私に出来ることはこれしかない。未だに恐怖で寒気がするが、同時に奴らは一体何者なのかという疑念も湧いた。正直、私には心当たりがある。奴らはあの日、雨乞いの儀式で”雨おんば”の儀式の生贄にされた者たちではないか。その服装も、不気味な袋も、ほとんどが一致する。奴らは理不尽に殺された恨みから悪霊へと変じたのかもしれない。そして、雨の日に現れては人々を襲う怪異になってしまったのかもしれない。あの儀式で私たちは、”雨おんば”を呼んだのではなく、”雨おんば”を作ってしまったのではないか。だが、それにしてはおかしな部分もある。確か、儀式で殺されたのは四人だったはずだ。先ほど、私が目撃した悪霊は五人組だった。数が一人、合わないのだ。しかし、私にはその増えた一人すら、心当たりがある。あの筋骨隆々で背丈の高い出で立ちは、間違いなく最初に行方不明になった大輔のものだった。何故、大輔があそこに居たのかはわからない。あまりに不可解で常識を超えた事態だ。私は果たして、この夜を無事に明かせるのだろうか。今も、奴らは村を徘徊しながら、住人達を(この先の文については、酷く震えていて判別不能)』
ここで、祖父の文字は一旦、止められている。原本に目を落とすと、そこには意味不明の文字が綴られている。もうそれは文字としての意味すら成していなかった。松木五郎は恐怖のあまり、発狂したのだろうか。
これでようやく、”おんば”の正体がようやく判明した。かつて江戸時代に、雨乞いの儀式などという迷信の犠牲となった哀れな人間たち。その怨念の塊こそが”おんば”の正体だったのだ。ならばあの、憎悪に満ちた異様な執念にも合点がいく。奴は他ならぬこの掃晴村に殺されたのだから。
そして、やはり一郎の祈りが神に届いていないことも分かった。”おんば”は複数存在する。一郎が撃退した”おんば”は、その内の一人だったのだ。まだ、悪夢の夜は終わりを告げていないのだ。
『結局、私は一睡も出来ぬまま、朝を迎えた。いつの間にか雨は止んでいた。これほど、空が青いことを感謝したのは初めてだ。当然ながら、村は騒然としていた。今回もまた、行方不明者が出たと。私と友人以外にも、村を巡回していた者はいたが、その中で消えたのは友人だけだった。あの悲鳴を思い出す度、背筋が凍る。私は先刻の出来事を村長に話した。包み隠さず、全てだ。しかし、村長は頑として受け入れてはくれなかった。それどころか、私を頭のおかしい異常者と断じたのだ。どの口が言うのだ、と怒りを通り越して呆れたがそれで事態が好転するわけでもない。結局、私は追い返され、その二日後の夜に村長は忽然と姿を消した。”雨おんば”たちからすれば、最も憎い存在だったに違いない。村長は彼らを生贄にした張本人なのだから』
『それからも怪異は止まらなかった。村長が消えた御蔭か、私の話は村に聞き入れられた。他にも目撃者が居たことも功を奏したようだった。私は奴らを”おんば”と名付けた。明らかに”雨おんば”とは別の存在だったからだ。我々は”おんば”をこの地から祓うべく、一人の男を頼った。名を長南という。小さな寺の住職だが、その力は折り紙付きで、この男に祓えぬ怪異はないともっぱらの評判である。江戸幕府がその力を借りることも、しばしばあるとの噂もある。私は江戸に住んでいた頃に偶然、長南と出会ったのだ。長南はこの村に着くなり私に「どうすれば、こんなにも恐ろしい化け物が生まれるのだ」と物凄い剣幕で迫ってきた。私はその圧迫感に押しつぶされそうになりながら、事の顛末を長南に教えた。全てを語り終えると、長南は押し黙ってしきりに何かを考え始めた。その表情に怯えのようなものを感じたのは私の勘違いだろうか。長南曰く、この村はもうすでに手遅れの状態らしい。負の感情が渦巻き、この地は穢れた不浄の土地へと変貌してしまったのだとか。その言葉は私の上に重くのしかかった。全ての原因を作ったのは私だ。私があのような儀式をこの村に持ち込んだからだ。”おんば”の呪いは今もなお、増長を続けているらしい。奴らは連れ去った村の人々を取り込んで、その数を増やしているのだ。最初の段階であれば、長南にも打つ手はあったのだが、今はもう呪いを止めることは至難の業だという。私は、初めて”おんば”を目撃した時の光景を思い出していた。あの時、”おんば”の中には大輔が居た。彼もまた”おんば”に取り込まれてしまっていたのだ。奴らの呪いは、この村を滅ぼすまで止まらない。そんな絶望的な予感がした』
『長南はそれから、しばらくの間村に留まり、”おんば”について調査を続けた。彼によると、”おんば”にはいくつか特徴があるらしい。そのほとんどは取るに足らない、どうでもよい話だったが。その中の一つに、奴らは顔がを見られたくない、というものがあった。なんでも、彼らが死の間際に顔面を焼かれた事に起因するらしい。それは奴らの、唯一の弱点でもあった。村の者たちが寄ってたかって彼らを痛めつけた事が、彼らを縛り付けている。それはある種の、彼らに掛けられた呪いだろうか。長南は数枚の御札を私に手渡した。これを奴らの顔に突きつければ、奴らの動きを多少封じることは出来るらしい。だが、それでも根本的な解決にはならないと、長南は言う。”おんば”を止める手段は、今のところ二つあるらしい。一つ目の手段とは、奴らをまとめて封印する事だった。奴らを林の奥の、あの一本松までおびき寄せ、そこで長南がその霊力を持って封印の儀式を行うというものだ。それは我々にとっては最も理想的な形の解決だ。だが、問題が一つだけある。それはその封印が持って二、三百年程度だということ。永久に封印することは”おんば”の力が強まった今、不可能に近いらしい。二つ目の手段については、まだここに書き残すべきか、悩んでいる。正直、最悪の方法だった。それを行えば、また新しい呪いを創り出す可能性すらある。だが、長南ははっきりと、”おんば”を完全に祓うにはこれしかないと言い切った。結局、我々は無難で、今に限った話ならば最も最善な一つ目の手段を選んだ。それは言い換えれば、遠い先の未来に問題を先延ばしにしているだけだろう。本当に私たちはこれで良かったのだろうか』
『封印は順調に終わった。”おんば”たちは一本松の下に閉じ込められ、雨の日が訪れてもこれ以上犠牲者が増えることは無くなった。役目を終えた長南はこの村を立ち去る前に、こんなことを言い残していた。この村の家は悪霊にとっては、鍵の開いた空き巣同然らしい。この先、百鬼悪霊を呼び込みたくなければ、敷居の結界を張っておくべしと。そして、いつか封印が解ける日が来た時、我々は真に決断を下さなければならないと。呪いのままに滅びるか、どんな犠牲を払っても”おんば”を消滅させるかを。私はそれから、一本松の近くに神社を建てることを決めた。その方が、封印を忘れ去られないと考えたからだ。これから私は一生を懸けて、この封印を守っていくつもりだ。そして我が一族に語り継いでいくことにする。この忌まわしい歴史と、”おんば”を消滅させる方法を。これからその重荷を背負うことになる我が一族には、申し訳なく思う。だが、どうか忘れないでほしいのだ。人は自らの為ならば、どんな犠牲も厭わない傲慢な生き物だ。そしてその傲慢によって、この掃晴村は呪われてしまった。その暗黒の歴史を後世に残していくことは、呪われた我々に出来る唯一の使命なのだと。最後に、長南が私に教えた、”おんば”を消滅させる方法を次に書き残して』
ここで文章は途切れていた。その先はどれだけページを捲っても、空白があるだけだ。何故か、祖父は最後まで『松木雑記』を翻訳しなかったらしい。
だが、一郎には何となくその理由が見えていた。最後の一文は薄れて、今にも消えてしまいそうな程か細い。祖父は正にこの本を書き残している瞬間に、こと切れたのだ。死の間際になっても祖父はその執念で、全てを記そうとした。この最後の空白に書かれようとしていたのは、”おんば”を消滅させる方法だろう。それだけに、そこが空白だったのが残念で仕方ない。肝心の祖父は死に、その方法は完全に闇に葬られてしまったのだから。
いや、もしかしたら、祖母ならば知っているのかもしれない。祖父がこの世を去る直前に、最も近くに居たのは祖母だ。ならば当然、この本には目を通している可能性が高い。原本を翻訳なしに読み進めることも祖母なら容易いだろう。そして、この本は木箱にしまい込まれて、押入れの奥に隠されていた。祖父が死んだ後にそれが出来るのは、祖母をおいて他にはいないのではないだろうか。
だとすると祖母は今、”おんば”を消滅させるべく、既に動き出しているのかもしれない。その方法とは一体……。
一朗は”おんば”を創り出す原因となった儀式を想起する。年若い人間を殺して、木に逆さに括り付け、ぶら下げる。何故か一朗にも、そんな経験をしたかのような感覚があった。あれは確か、まだ小学生の時だ。一郎はかつて、運動の嫌いなもやしっ子だった。だから毎年、秋に開催される体育大会は拷問にも近い苦痛の行事として、記憶に刷り込まれている。体育大会の前日、一郎は必ず自宅の窓際にあるものを飾るのだ。てるてる坊主と言えば、誰もが知っている明日の晴天を願うおまじないだろう。だが一郎は、それを逆さにぶら下げた。てるてる坊主のその逆、あめあめ坊主だ。窓際のカーテンレールに括り付けられた、ティッシュでできた逆さまの人形。結果として、その願いが空に聞き届けられることはほとんど無かった。だが、そのあめあめ坊主のおまじないは、かつて行われた雨乞いの儀式のやり方と妙に一致する。もしかするとそのルーツは同一のものかもしれない。
一郎は祖父の部屋を出て、玄関前に戻ってきた。父と祖母は今、何をしているのだろう。まだ、”おんば”は消えていない。未だ止まない雨だけが、無情にもその事実を物語っている。だが、今の一郎に出来ることは何一つなかった。
足元を見ると、そこには見覚えのある四角い物体が転がっていた。一郎のスマホだ。何故、こんなところにあるのかと疑問に思ったが、”おんば”がその手に持っていたことを思い出した。おそらく、一郎が決死の体当たりをした時に、ここに落としたのだろう。
しゃがみながら、スマホを手に取った。画面の端が割れていたが、何の問題もなく起動する。ロック画面と共に映し出されたのは、電話が一度だけ入ったことを示す通知だった。かけてきた相手は、祖母だ。四十五分前に一度、祖母は一郎に連絡を取ろうとしていたのだ。四十五分前といえば、まさに一郎があの物置部屋で、”おんば”に追い詰められていた時だろう。
一郎は通話アプリを開き、祖母の電話番号を入力した。祖母は家を出る前に、一朗の力が必要になる時が来るかもしれない、と言っていた。祖母が連絡をしてきたというのは、正にその為だろう。
数回のコールの後に、あの祖母の声が耳元で響いてきた。
『もしもし……。一郎?』
「うん…」
心なしか、その声には生気が感じられない。
「いろいろ事情があって出られなかったんだ。婆ちゃん、”おんば”の封印は解かれたんだよね?」
『……そうや。ようわかったな、一郎』
「直接会ったんだよ。罠に嵌められて、家に侵入してきたんだ。爺ちゃんの部屋にあった御札を使って、何とか撃退したんだけど……」
祖母は驚いたらしく、しばらく絶句していた。
『そうか、なら話は早いわ。一郎はあの本読んだんやな」
「うん、結局”おんば”を消滅させる方法まではわからなかったけど」
『今、私は神社におる。”おんば”を止めるためにや。だけど、それにはどうしても必要な物が一つ足りひんのや。せやから、あんたに電話したんよ。電話が繋がらへんかった時はもうおしまいやと思ったんやけど、あんたが生きててよかったわ。……一郎、今から神社まで来てくれへんか?』
予想外の祖母の頼みに、一郎は面食らった。今、神社まで向かうだと?それは……。
「でも……それって危ないんじゃ……」
『当然、危険や。今も外には、あの”おんば”どもがうようよ居るわ。神社の周りは大丈夫やけどな。せやから、私らが家出る前に被っとった白い布、覚えとるか?あれは”白面”ゆうてね。あれを顔に被るんや。そうすれば、多少はあいつらを欺けるんよ。あと、傘はあかん。雨に打たれる音で”おんば”に居場所がばれるからや』
祖母たちが大急ぎで家を出た時につけていた、あの白い布を思い出した。あんな布切れ一枚であの狡猾な”おんば”を欺けるのかは甚だ疑問だ。だが、他ならぬ祖母の言うことなのだから、間違いないのだろう。
「それで、俺は神社に着いたらどうすればいいの?」
万全の状態でことに望むためにも、聞き出せることはすべて聞いておこうと思い、質問する。
『すまん、一郎。今はそれを説明している余裕は無いんや。とにかく出来る限り早く、神社に来てくれるか。……頼んだで』
「え?ちょっと!」
祖母を静止する間もなく、通話は一方的に切られた。若干、その頼みに理不尽さを感じないでもなかったが、よほど時間が無いのだろう。祖母の声はいつになく焦っていたのだ。
一郎はさっそく、白い布を取りに行くために再び、祖父の部屋に戻った。だがそこで、改めて祖母が焦っていた理由を実感させられることになる。
祖父の部屋唯一の窓は、真っ白な何かに覆われていた。それは”おんば”の手のひらだ。それが窓一面に広がっている。そしてその手の隙間からはいくつもの”おんば”の頭が見え隠れしていた。手のひら達は窓の表面を撫で、蠢き、鍵が開かれるのを今か、今かと待ち望んでいる。
「ひいっ!」
一郎は情けない声を上げながら、腰を抜かした。その悲鳴を耳ざとく聞きつけたのか、”おんば”たちは皆一様に、窓を叩き始めた。今にも窓が割れそうなほどの、気味の悪い太鼓のような音が響きだす。これが”おんば”たちの真の怨念なのだろう。この呪いは、村の人間全てを自らの仲間に引き込むまで、決して止まることは無いのだ。
耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、床を這いずり、白面を手に取った。この一枚の布だけが、彼らを遠ざける唯一無二の命綱だ。白面を掴んだ手を、固く握りしめた。
”おんば”たちを出来る限り見ないようにしながら、祖父の部屋を後にする。これから、あの化け物ひしめく外に出なければならない。自然と、足が震える。一郎は自ら危険の中に飛び込むほどの勇気は、持ち合わせていない。ただ、父の実家に帰省しただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。今の状況の不条理を嘆いたが、それで事態が好転することは無い。
白面を顔に被せた。こんなものをつけていては前が見えないのではと懸念したが、布の生地自体がとても薄い作りになっていて、前方はそれなりに見渡せる。
心も、体も、何もかもが準備不足だったが、やらなければならない。意を決して、玄関の扉を開いた。
途端、湿気混じりの空気が、一郎の身体を吹き付けた。いや、それだけではない。この村全体に渦巻く怨念が、憎悪が、呪いが、その雨と共にこの土地を覆っているのだ。そしてそれは、邪悪な瘴気となって空気を穢しているに違いない。
雨は想像以上にその勢いを増していた。一歩、家の外に足を踏み出すと、全身がずぶ濡れになった。肌に浸透する雨粒が一瞬で、一郎の体温を奪う。異様な寒気がした。
一郎は身を屈めながら、畑道の端を歩く。幸い、まだ”おんば”には一度も遭遇していない。神社までの距離はそう遠くはなく、ものの十五分程度でたどり着けるが、慎重に慎重を重ねた足取りは、その時間をじりじりと引き延ばしていく。
周りを包む暗闇せいで、足元は判然としない。ぽつりぽつりと点在する街灯だけが、一郎の心の拠り所だ。
距離にして二百メートル程前方にある背の低い街灯、その下に二つの人影が見える。長身の男と妙に時代錯誤な和服を着た背骨の曲がった老人。どちらも、頭には”おんば”の象徴である白い袋を被っている。
ふと、祖母はこの布のことを”白面”と呼んでいたが、あの袋こそが本当の”白面”ではないかと思えた。ただ、それらは悪夢の歴史として、忌避され、今の形として村に残ったのかもしれない。
二人の”おんば”はこちらに向けて歩き始めた。よくよく見ると、その手には荒起こし用の鍬と、小さな鎌が握られている。対して、一郎は”おんば”が持っていた手斧を、武器として持ち出していた。無いよりはましと、急いで持ってきたのだが、それすらも”おんば”と対峙した時のことを考えると、脆弱な玩具としか思えない。
畑道の脇、畑に降りるための小さな斜面を下って、身を伏せる。いくらこの白面で”おんば”たちを欺けるとしても、なるたけ接触は避けたほうがいい。服に泥が染みついたが、なりふり構っている暇はない。
二人の”おんば”が一郎の頭上を通過する。奴らがこちらに気付いた様子はない。
まだだ、まだ動くな。奴らが十分に離れていくのをじっと待つ。
真隣の畑が突然、音を立て始めた。一瞬は安堵しかけた一郎の心が、凍り付く。なんと真の悪いタイミングだろうか。予想外の事態に、一郎はパニックを起こしかける。一度だけ、音を立てないように大きく深呼吸をした。
徐々に音はこちらに近づいてくる。一郎は息を潜めて、その場にとどまり続けた。
背の高い稲を押し倒して、小さな少年が姿を現した。全身が不気味なほど真っ白な少年。こんな幼い子供までもが、”おんば”となってしまったのか。
少年は虚ろな動きで、一郎の周囲を徘徊する。その動作にはおおよそ、生気というものが感じられない。少年はひとしきり周囲を探索したかと思うと、また畑の中に消えていった。
正直、一郎はまだ、事態を楽観視していた。このまま神社にたどり着いて、祖母に後を任せれば、全てが丸く収まると勘違いしていた。だが、その結果が如何にせよ結局のところ、もう掃晴村は終わりなのだ。この分では、村民の大部分が既に”おんば”となってしまったのは疑いようのない事実だろう。かつて松木五郎が、生涯をかけて封印を守ろうとしたことも、”おんば”が復活した時の為に用意された準備も意味を成してはいなかったのだ。
だが、立ち止まっている暇はない。この呪いを、いち早く断たねばならない。
一郎は立ち上がり、再び歩き出した。
何人の”おんば”とすれ違っただろうか。その数は合計して三十人以上に上っていたかもしれない。遠目に”おんば”の大群を確認したこともあった。よってたかって追い込み漁のように、まだ生きている人間を捉えようとしていたのだ。男性の上ずった助けを求める声が、今なお耳にこびりついている。一郎は助けようかと逡巡したが、結局何も出来ないまま、男性と”おんば”の大群は薄闇に消えていった。自分は助けを求める人間を見捨てたという、罪の意識だけが残った。彼が今も無事であることを祈る。
もう神社は目と鼻の先というところまで来ていた。神社の周りには大きな林が広がっている。あの先には人口の明かりは無い。ここからの道のりは、頼る物もなく、暗夜行路を進むがごとく不確かだろう。
ここを何度か訪れたことはあった。だが、昔はあれほど美しいと感じた景色は一変して、その異様さだけを際立たせている。人間は異常な状況に身を置かれると、自分の過去の記憶すら改竄して、恐怖に染まった目で周囲を覆ってしまうものなのだろうか。
林の暗闇をスマホのライトで照らしながら進む。画面が濡れることは避けたかったが、こうなっては背に腹は代えられないだろう。それに、”おんば”たちは目が見えないのだから、明かりがこの手にあるのはメリットしかない。
林の中は整備すらされておらず、ひたすら獣道だけが伸びている。ゆっくりとその道筋を辿りながら、周囲を警戒する。林に入ってからまだ”おんば”には一人も遭遇していない。それは神社が近くにあるお陰だろうか。
祖母の話では奴らは神社に寄り付かないらしい。その理由までは判明していないが、もしかすると悪霊である奴らは、神の聖域には近づけないのだろうか。それか、元々封印されていた場所を恐れているのかもしれない。
音がした。雑草を踏みつける、小さな足音。
反射的に一郎は音の出処を探るように周囲に明かりを向けた。だが、誰もいない。
気のせいかと思い前方に明かりを戻したとき、また足音が聞こえた。今度ははっきりと、右手側からだ。
明かりを向けてじっと待つ。音の主はその姿を現さない。ここで下手に動くのは自殺行為に等しい。
そのまま膠着が続くかと思ったその時、それは林の奥からゆっくりと歩いてきた。
顔は影になっていてよく見えないが、恰幅のいい少し背の低い男性。白いシャツに半ズボンの服装。
「親父!」
それはまぎれもなく、父の姿だった。この時一郎は、祖母が神社に居るのだから、父も同じ場所にいるとばかり思っていた。だから、父がこの場に現れたのは、自分を迎えに来たものと考えた。
「……親父?」
だが、様子がおかしい。何故、そこに突っ立ったままなのだ。何故、喋らない。暗くて顔は見えないが、”おんば”特有のあの白い袋についた紐は首にない。だから、父はまだ”おんば”にはなっていない筈ではないか。
どちらも身動き一つせず、雨音だけがうっとおしく鳴り続けている。
「……おい、何とか言えよ親父。黙ってても始まらないじゃないか……」
返事はない。
一郎は頭に浮かんだ悪い妄想を必死で打ち消そうとした。しかし、一度湧いてきたそれは脳裏に焼き付いて離れない。
父は”おんば”になったのかもしれない。
震える手を抑えながら、ゆっくりとスマホのライトを父の顔面に向けて上げていく。
父の顔にかかった影が取り払われていく。そこに一郎の知っている父の顔は無かった。
何もない顔。人間を思わせる部位は全て、きれいさっぱり喪失している。その身体は間違いなく父であるはずなのに、顔だけが全く別の生き物であるかのようだ。その姿は、昔テレビで見たのっぺらぼうという妖怪にとても酷似していた。
一郎は叫んだ。今まで押し殺していた声が決壊したように。自分の家族が無事であると信じていた一郎にとってそれは悪夢以外の何物でもなかった。父は”おんば”になってしまったのだ。
それに触発されたのか、父は一郎のもとへゆっくりと動き出した。そこに父の遺志はもう無いのだろう。あるのはただの怨念だけだ。
一郎はその場で手斧を落としながらも、必死に走った。その時には叫びも止んでいたが、かわりに呆然自自失の状態だった。涙も流していたかもしれないが、雨に流されたせいで、それを判別することは出来ない。
何度も転びそうになりながら、神社へと続く長い石造りの階段まで来た。後ろを振り返る余裕も、父の無残な姿をもう一度見る勇気も無かったので、父が追いかけてきているかはわからない。
脱力感が身体を支配する中、残った気力を振り絞って階段を上る。その間も、頭にあったのは父の事だけだ。
親父は死んだ。
親父は死んだ。
俺の父さんは死んだ。
階段を上りきると、神社が見えた。一郎の記憶にあったのは、木々の木漏れ日に照らされた、神々しい雰囲気すら感じる古い建物だったが、今、目の前にあるのは雨に晒され、暗く沈み込んだこの村を取り巻く絶望の象徴だ。
一郎はその場にへたり込んだ。
神社の拝殿から、祖母が出てきた。顔を見たが、どうやら”おんば”にはなっていないらしい。
「よう無事やったなぁ」
祖母は安堵の声を漏らして、一郎に抱き着く。しばらく一郎はされるがままだったが、やがて祖母が離れたタイミングで口を開いた
「……父さんが”おんば”になってたよ」
一郎が父の事を最後にそう呼んだのは、いつだったのだろう。確か中学一年の時だったか。そんなことを思い出しても、父は帰ってこない。もう涙は枯れ果てていた。
祖母は無言だった。当然、そのことは知っていたのだろう。一郎が祖母に電話していた時点でもうすでに父は手遅れだったに違いない。それでも一郎に話さなかったのは祖母なりのやさしさだろうか。
祖母は一郎から離れて、拝殿へと歩き出した。
父さんは最後、どんな感じだった?祖母にそう聞こうと口を開けかけた時、妙なものがちらりと見えた。
祖母のポケットから黒いハンカチがはみ出していたのだ。だが、そこかしこに白い模様がある。あんなハンカチを、祖母は持っていただろうか。
「何してんの。早お神社ん中入るで」
祖母に急かされて、一郎はハッとして小走りになる。これから”おんば”を止めなければならない。その為に一郎はここまで来たのだ。
二百年前、江戸時代。松木五郎は長南という霊能者から、その方法を聞き、自らの日記に書き残した。祖父はそれを現代語に訳そうとしたが、志半ばでこの世を去った。だが、祖母は知っている。後はすべて、祖母に任せればうまくいく。早くこんな悪夢を終わらせなければならない。そして、父の無念を晴らさなければならない。
しかし一体、その方法とは何をするのだろうか。『松木掃晴伝記』によれば、それは最悪の解決方法だったらしい。それによって最終的には、松木五郎も長南も尻込みして、封印という応急処置的な対応をとるに至ったのだ。
そもそも、これほどの影響力を持つ”おんば”の呪いを止めることなど本当に可能だろうか。奴らは今も、人を連れ去り仲間を増やし、力をつけ続けている。この呪いは暴走した機械も同然だ。怨念というエンジンを燃やし続け、永遠に止まることのない機械。それを止めるには……。
瞬きをするたびに、あめあめ坊主の姿が瞼の裏側に映し出される。逆さに吊られた人形。あめあめ坊主と”おんば”の起源は同じだ。飾れば、雨を呼び寄せる儀式。雨、雨を止めるにはどうしたらいい。
そうだ。雨が降るならば、晴れになるように願うのだ。幼いころにそうしたように。てるてる坊主を窓際に飾って。
再び働きだした思考にのめりこみ、一郎の足取りはしだいに緩慢になっていく。祖母は怪訝な目でこちらを見た。
「どうしたんや。はよしな手遅れになるで。ここで”おんば”を止めな、誠一が報われへんやないの」
祖母のその声は、現実と剥離したような奇妙な空気を纏っていた。抑揚のない、感情が込められていない無機質な声。それはまるで、言葉ではなく機械的な音だ。
ゆっくりと瞬きをする。また暗闇の中にあめあめ坊主が映った。窓際に吊るされた、粗末なティッシュの人形。カーテンレールから垂れた輪ゴムの紐は、人形の首に目掛けて一直線に伸びている。いや、これはあめあめ坊主ではない。これは、てるてる坊主だ。
一郎はその瞬間に、全てを理解した。何処かで引っ掛かっていた疑念が消え、次に一郎の心に現れたのは、途方もない恐怖だった。そんな恐ろしいことを、目の前の人物は実行しようとしていたのか。
「……婆ちゃん、俺わかったよ」
震える声を隠しもせずに、振り絞る。
「何がや」
祖母の声は明らかに、暗く不気味なものを秘めていた。あの明るく快活な祖母の声は何処に行ったのだ。
「……”おんば”を止める方法だよ。てるてる坊主と同じことを、人間でやるんだよね」
”おんば”を呼び出すに必要なことは、死んだ人間を木に逆さまに吊るすことだ。それは、そこそこ通俗的なおまじないである、あめあめ坊主のやり方と妙に一致していることは既に分かっていた。重要なのは、そのおまじないと対になる、もう一つのおまじないが存在していることだ。明日の晴天を願うおまじない、てるてる坊主。そのおまじないを”雨おんば”の儀式がそうであったように、人間で行えば、この空の雨と”おんば”の呪いを止めることが出来るのかもしれない。
祖母は背を向けたまま、口を噤んでいる。
一郎はこの推測が外れていることを願った。もしこれが事実ならば、祖母は一郎をここに呼び出して、儀式の生贄にしようとしていたことになるのだから。
「あたしはね、誰よりも”おんば”のことが怖かったんやわ。子供の頃に両親からこの話聞いた時は、そらもう震えあがって夜も寝られへんかったんやで」
祖母はよく通る明るい声で話し始めた。
「この村の封印のこと知った時も、いつ解けるかわからへん弱い封印やて言われたから、気が気でなかったわ。それでな、二年前に偶然、”おんば”を倒す方法があることを知ったんやわ」
それは松木五郎の日記を指しているのだろうか。祖母の目が、爛々とした輝きを帯びる。
「それで今日、またとないチャンスが巡ってきた。あれだけ恐ろしかった”おんば”を葬れるチャンスや。そう思った。でもなぁ、どうしても足りひんかったんや」
「足りない?足りないって何が?」
一郎は聞かずにはいられなかった。
「何って、はは。そら儀式で吊るす人間の数に決まっとるやん。本当は四人必要なんやけど、どうしても最後の一人が見つからんかったんや。本当は誠一、あんたの親父を使おと思ったんやが、逃げられてしもてなぁ。いやあ、一郎が生きてここまでこれて良かったわぁ」
祖母は世間話でもするかのように、流ちょうに口を動かした。
「じ、じゃあ、父さんが”おんば”なったのは……」
消え入りそうな、か細い声で訊ねる。藁にもすがる思いで、祖母の事を信じていた一郎の思いはもう既に、木端微塵に破壊されていた。唯一の希望と縋りついたのは、獰猛な蜘蛛の巣だったのだ。
「私が追いかけてるときに”おんば”に捕まってしもたんや。あれは肝冷やしたわ」
祖母はにべもなくそう言って、ゆっくりと首を回して顔を一郎に向けた。
誰だ、こいつは。
その顔はしわの寄った、ぐにゃぐにゃとした粘土で作ったような歪な曲線を描いていた。あまりの不気味さに、それが笑顔であることに気付いたのは、その数秒後のことだ。
一郎はその表情に、誰の犠牲も厭わない異常性と悪意を見た。その口ぶりからして、もう既に数名の人間がその手にかけられていることは明白だろう。
こいつはもう祖母ではない、別の人間。いや、こんなものを人間と呼んでいいのか?
その吊り上がった口端から、ぬらりとした涎が流れていた。目は虚ろで焦点が合っていない。ゆらゆらと左右に揺れ動くその姿は、”おんば”によく似ていた。祖母は、呪われた怪異の一部と化してしまったのかもしれない。
祖母はおもむろに、自分のポケットから黒い大きなハンカチを取り出した。そして、そのハンカチを自らの顔に被せた。よくよく見ると、それはハンカチではない。赤黒い血に染まった、白面だった。
「もう、あんたで最後や。他の三人はもう吊ってもうたからな」
思わず後ろに後ずさろうとして、濡れた地面に足を取られた。大きく尻餅をつく形で、水たまりに突っ込んだ。
老女はその間もじりじりと一郎との距離を詰め寄ってきている。そしてその手には、どこから取り出したのか、怪しく光る包丁が握られていた。白面によってその表情を伺うことは出来ないが、きっと満面の笑みを浮かべているのだろう。
祖母は地面を勢いよく蹴り上げて、一郎目掛けて一直線に走ってきた。小脇に抱えられた包丁の切っ先は、まっすぐに一郎の心臓を捉えている。一郎には立ち上がる猶予すら与えらえれなかった。
咄嗟に、突っ込んでくる包丁を、渾身の力で横に振り払った。その軌道は右に逸れて、祖母の攻撃は空振りに終わる。
だがそれもつかぬ間、祖母は横なぎの一撃を見舞った。考える暇すら無い。反射的に右腕で防御の形を取る。相手が素手ならば、それは対応としては正しかっただろう。しかし生憎、相手の武器は人を殺すに十分な攻撃性能を備えたものだ。
一郎はあまりの激痛に一瞬、自分の腕が丸ごと両断されたかと錯覚した。右腕に食い込んだ包丁が、骨の芯まで達している。今まで経験したことのない痛みに、一郎の意識は根こそぎ持っていかれそうになるが、歯を食いしばって必死で堪えた。
みるみるうちに右腕の力が抜けていくのが分かった。紅い鮮血が徐々に傷口から流れ落ちていく。
祖母はまるで拷問を楽しむように、笑顔で包丁を持つ手の力を強めた。より一層、包丁は食い込み尺骨が悲鳴を上げる。一郎は残る気力を振り絞って、眼前の祖母を蹴り飛ばした。老女の体は勢いよく地面に押し倒され、水しぶきが飛び散った。
刹那の隙を得た一郎は、震える足で立ち上がった。痛みが次第に消えていくとともに、右腕の感覚が無くなっていくのがわかる。すでに指の先すら動かせずに、右腕が一郎の肩に垂れさがっている。血はなおも流れ続けて徐々に頭がぼんやりとし始めていた。
逃げなければ。ただその一心だけが、一郎の意識をつなぎとめる唯一の鎖だ。考える余裕はない。神社の右手に生い茂る林へ向かって走り出した。
祖母は倒れたまま呻き声を上げて、その場でのた打ち回っている。今がチャンスだ。
林に逃げ込んだ一郎は、他の木よりもに一回り大きな大木に身を隠した。小さく身を屈め、木の根に身体をすり寄せる。流れる血のせいか、降りしきる雨のせいかはわからないが、徐々に背筋が寒くなっていくのを感じた。
このまま俺は失血死してしまうのだろうか。一郎に医学の知識はほとんどなかったが、人間が死に至る出血の総量はおよそ1.5リットルであることは知っていた。一郎は白面を右腕に巻き付けた。これで出血が減るかはわからなかったが、気休めにはなるだろう。
息を潜めて隠れているうち、雨の音が耳から遠のいているのに気が付いた。だが、雨自体は止んでいない。代わりに自身の鼓動がどくどくと響いている。今、一郎の五感は生きるために極限まで鋭敏化されているのだ。奴はまだ、ここまで来ていない。周囲の音に耳を傾け、警戒する。
聴覚に意識を向け続けていたせいか、周りの暗さがより一層増した。慌てて、首を回して林を見ると、二、三メートル先の奇妙な光景が目に入った。
その木は根本から真っ二つに割れて、崩壊していた。二股に分かれた木の幹は、周囲の木々にもたれ掛かり、その枝たちをへし折っている。そしてその割れた木の根は真っ黒に焼け焦げていたのだ。そんな状況は普通ではありえない。一体ここで何が起こったのか。
一郎は直感した。ここが”おんば”を封印があった、林の一本松に違いない。あの数時間前の雷が一本松を焼き焦がし、封印は破壊されたのだ。だが何故、今日なのだ。今日でなければ、父さんは死ななかった。今日でなければ、俺がこんな目に会うこともなかった。やり場のない憤りが湧きかけたが、それは即座に無力感へと変わった。運命とは得てして、唐突に、理不尽に、生けるもの達に降りかかるものだ。
そんなことを考えたが、即座にそれを否定する。これは運命などでは断じてない。これは、傲慢な人間に対する罰なのだ。苦しみの果てに自らの保身に走り、数多の人間を犠牲にしてきたこの村にかけられた呪いという名の罰。
不可解な音が微かに聞こえる。ギィという低い音。
一瞬、一郎はパニックを起こした。その音が祖母によって引き起こされたものだと思ったからだ。だが、一向に祖母は姿を現さない。音は一定のリズムで鳴り続けている。これは……。
ふと、その音が頭上からのものだと気が付いた。高鳴る心臓を抑えながらゆっくりと、上を見上げる。
大木から分岐した太い枝に、巨大な黒い影が三つ、ぶら下がっている。そのあまりに非現実的な光景を前にして、一郎はしばし唖然として見つめていたが、ようやくその物体の正体が判明した。それと同時に、胃の底から不快なものがこみ上げてきた。
それは三人の人間だった。紫の袴をはいた老人。一郎よりも背丈の低い少女。夏の農家を思わせる服装の男。三人共、頭に”おんば”と同じ白い袋を被せて、首を吊っていた。その光景はまさしく、てるてる坊主を等身大で再現したものだった。
吊られた人々が死んでいるのはもはや疑う余地すらない。先ほどの不可解な音は、木の枝がその重みに耐えられずに軋みを上げる音だったのだ。
やはり一郎の推測は正しかった。そしてこれは、同時に祖母がその凶行を行った決定的な証拠でもある。
喉元までせり上がった酸味の塊を、必死で飲み下す。ここで吐くのはまずい。その臭いで奴に自分の位置を悟らせてしまう可能性があるからだ。目に涙を浮かべながら、沈黙を貫いた。
遠くから、祖母の声が聞こえてきた。ぶつぶつと何かを呟いているようだが、一郎の耳には地獄の底から響く呪詛にしか聞こえなかった。一郎は木の陰から出るのをためらって、その場で固まっていたが、徐々にその声はこちらに近づいている。
そこで、はっとした。この場所に隠れるのはまずい。ここは死体を吊った木の真下だ。否が応にも目立つだろう。人間の心理からして、そんな場所を真っ先に調べるのではないだろうか。
「……す。殺す……。殺してやる……。何処だ……何処だ……」
そんな恐ろしい独り言が聞こえる。
やめろ。来るな。
もしあの時、一郎が父の目の前で斧を落としていなかったら、それを武器にして闘うことは出来たかもしれない。だが、それはもしもの話だ。現実はそうではない。手はがちがちと震え、体温が急速に奪われていく。一郎はただひたすらに、祈った。はやくこの場を立ち去ってくれ、と。
唐突に、祖母の独り言が消えた。周囲に沈黙が訪れる。
「みぃつけたぁ」
一郎はその声に戦慄した。
どうしてばれた。まだ、奴は姿を現していない。位置的に考えれば奴は今、大木を隔てて一郎とは反対の場所にいるはずだ。一郎が見つかるのは、奴がこの木を通り過ぎる直前以外にあり得ない。パニックに陥るのを必死で抑えて、そこまで考えた瞬間、自分が侵したミスに気付いた。
足跡だ。今日はずっと雨が降っていた。だから、土の地面は泥になり一郎の足跡を鮮明に残していたのだ。祖母はそれを見つけたに違いない。
一郎はこれ以上隠れることが無駄だと悟った。追い立てられた羊のように、木の陰から飛び出し、決死の逃走を図ろうとする。全速力で走れば、祖母は追いつけないはずだ。だが、その浅はかな行動は無残に打ち砕かれた。
一郎が飛び出るのとほぼ同時に、祖母が音もなく目の前に躍り出た。一瞬立ち竦み、踵を返してその魔の手から逃れようとするが、もう遅い。老女は低く姿勢を保ちながら包丁を振るった。
後ろ向きになった一郎の左足に激痛が走る。その弾みで転びかけるが、ぎりぎりの所で踏みとどまる。一郎の左足は包丁によって深く抉り取られていた。
負傷した左足を庇いながら、無我夢中で林を駆け回る。その速度は老人から見ても亀並みに遅かったに違いない。祖母は狩りを楽しむかのように悠々と歩きながら、背後を追ってきている。
もつれる足で走るうち、一郎は林を抜けて神社へと戻ってきた。障害物もなく、ただ広いだけのそこは、祖母にとっては格好の狩場だろう。
もう、何処へ逃げても無駄かもしれない。一郎の決死の逃走も虚しく、奴はもう背後まで来ている。一郎は既に思考する余力すら無くなり、その場に立ち止まってしまった。どうすれば……。
もう体力も限界をとうに超えていた。荒く、浅い呼吸を繰り返す。口の中はカラカラで、唾すら湧いてこない。
朦朧とした意識の中、足だけが動き出した。それは無意識化で発揮された、生存本能ともいうべきものだったのかもしれない。神社の境内から出ようとしているのか、ここに来るために上った階段に向かっている。
ああ、だめだ。その先で逃げおおせたとしても、あの先には”おんば”がいる。だが、一郎自身にもその歩みは止められない。階段へと身体が引き寄せられていく。
階段へと到達した一郎は、そのまま下ろうとするが、左足が痛みに悲鳴を上げ、崩れるように倒れてしまった。右腕と左足はもう使い物にならない。どうにか起き上がろうと身体をよじるが、地面をのた打ち回るだけだった。
祖母は遂に、一郎に追いついた。地面に転がる一郎の眼前に奴の足がある。見上げると、白面に覆われた顔に、ちらりと微笑みの表情が張り付いていたのが見えた。
奴は包丁を逆手に持ち、無慈悲に一郎へ向けて振り下した。
一郎は咄嗟に地面を這いずって、階段へと身を投げ出す。階段を滑るように落ち、真ん中にある踊り場に全身をしたたかに打った。大きな怪我はなく、伏せていた首を上げた。
階段を下ったその先の道に、黒い人影が一瞬見えた気がした。
あれは……。あれは一郎を殺すために使わされた死神だろうか。それとも……。
何かに導かれるように階段をズルズルと下っていく。祖母は大きな足音を立てながら、階段を下ってきていた。
石の無機質な感触が消えて、泥の粘つきが手のひらに伝わってきた。階段が終わったようだ。
祖母は横たわる一郎の傍らに降り立つ。ここまで来たら、もう逃げることは叶わない。祖母は手の中で包丁を遊ばせ、にんまりと笑っていた。こちらに反撃する術はないと、高を括っているのだろうか。
一郎はその隙をついて、祖母の膝に全力で噛みついた。
「ぎいっ」
予想もしていなかったのか、祖母は驚愕の混じった呻き声を上げた。祖母の顔は怒りに満ちた鬼の形相へと変化する。
一郎は動く手で自らの口を塞いだ。先ほどの影。生き残るための唯一の方法は……。
祖母は殺意を持ってして、一郎にその凶刃を突き立てようとする。だが次の瞬間、祖母の肩に何かがめり込んでいた。
その何かとは、斧だ。刃渡りにして十センチ程度の片手で握れる代物。それが祖母に襲い掛かっていたのだ。
祖母の絶叫があたり木霊した。その視線の先には、斧を手にした一人の”おんば”が佇んでいる。その”おんば”は父の成れの果てだった。
肩に刺さっていた斧が引き抜かれ、祖母の鮮血が飛び散った。だが、息つく間もなく二撃目が繰り出される。祖母の頭は斧によってかち割られた。
祖母はその場に前のめりに崩れ落ちて、動かなくなった。
一郎がじっとその場で音を立てないように地面伏せていると、一郎の存在に気付いた風もなく、”おんば”は祖母の足を掴んで、引きずりながら林の中へと消えていった。
丁度その時、あれほど降り続けていた雨がようやく、小降りになってきた。
次の日の朝は、抜けるような青空だった。雲一つない晴天は山の向こう側まで続いており、あの悪夢のような夜が本当は嘘だったのではと錯覚してしまう。
その爽快な朝を邪魔する一群がある。けたたましいサイレンを鳴らしながら、白い車が村中の道という道にひしめき合っている。騒ぎを聞きつけた警察たちが、村に殺到してきているのだ。だが、事態を収束させるにはもう何もかもが遅すぎる。
一郎は神社から村全体を見渡していた。青々とした田畑が眼下に広がっているその景色は、かつて子供の頃にみたあの美しい光景と寸分違わない。ようやく、地獄は終わりを告げたのだという実感が湧いてきた。だがそれは、もう二度と父とも、祖母とも会えないという絶望の混じった実感だ。
階段の頂上に座り込み、ただ呆けていると、一人の警官服の男が階段を上ってきた。
男は一郎を見て、一瞬立ち尽くしたかと思うと、無線で誰かに連絡を取り、小走りで一郎の元までやってきた。
「君、大丈夫かい?」
男は陶器にでも触るように、優しく話しかけてきた。だが、一郎の負傷した腕と足をみて、驚愕の表情をしていた。
「……うん」
一郎は一言だけ返事をする。
『先ほど発見した生存者は腕と足に大きな怪我をしている模様。至急、救急車の手配をお願いします』
無線に向かってそれだけ伝えると、男は一郎に向き直った。
「今朝、この村で通報があったんだ。この掃晴村の住人が何名も行方不明になっているってね。でも来てみて驚いたよ。村の住人全員がほんとに消えてるんだからね。君が初めて発見された生存者だ。名前は?」
「松木一郎」
男の顔に不審なものを見る顔が浮かんだ。
「……一郎君、君の名前が住人名簿の中に無いんだが、どうしてここにいるんだい?」
「俺は、父さんと一緒に婆ちゃんの家を訪ねに来たんだ。今は盆休みの時期だし、別に不思議なことでもないと思うけど」
男の質問攻めに辟易しながら答える。
「……あ、ああ。そうだったね。じゃあ、その親父さんと祖父母さんは今どこに?」
父さんと婆ちゃんはもう……。質問に答えようとしたが、声が喉に引っ掛かり、出て来なかった。口を開けたまま絶句する。もう枯れていたと思っていた涙が、一郎の頬を伝った。
それから、どれくらいの時間が経過しただろうか。男は出来る限りの質問を一郎に繰り出したが、そのほとんどに答えないまま、他の警官たちが到着した。
「俺以外の村の住人は見つかっていないんですか?」
一郎は無気力な声で、警官たちに質問した。警官たちは皆一様に、答えるのをはばかられている様子だったが、最初に到着した警官が答えた。
「残念だけど、まだ見つかっていないよ。君には悪いんだが、これから病院で事情聴取を受けてもらうことになる」
「そう、ですか」
また口を閉ざした一郎の耳に、警官たちの会話が聞こえてきた。
「神社の奥にある林を捜索したんですが、特に誰も発見できませんでした。それと……少し変な場所がありましたね」
「変な場所?一体何だ?」
大柄な警官が訝しげに尋ねる。
「それが、黒焦げになった木があったんです。根元から真っ二つに割れていて、人間業とも思えなかったんですが……」
「ああ、そりゃあ落雷だな。昨日は酷い雷雨だったし、丁度そこに落ちたんだろ」
警官たちは疑問に納得したのか、そのまま何処かへ行ってしまった。
だが、一郎には腑に落ちない会話の内容だった。黒焦げの木以外に、特に異常は無かったかのような会話だったが、そんな筈はないのだ。その黒焦げの木の正面には、祖母によって殺された三人の人間がいるはずなのだ。”おんば”となった村の住人が姿を消すのはまだ、納得できる話だが、あの木に吊るされた人々はただの人間に殺されたのだ。なのに、消えたというのは一体……。
気が付くと、救急車が到着していた。真っ赤なパトライトを見ていると、目がチカチカした。
付き添いの警官に連れられて、林を抜ける。太陽の光が木漏れ日となって地面を照らしているのは、見ていて壮観だった。
一郎は迷っていた。昨日の夜の出来事を包み隠さず警察に話すべきかを。はっきり言って、あの恐ろしい事件を話したところで、これほど荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい妄想話はない、と一笑に付されるのが関の山ではないかとも考え始めていた。
救急車に乗せられる前にふと、神社の方角に振り返った。木々の間から、あの石造りの階段と拝殿が見える。そして、三人の人間が立っているのが見えた。
遠目からなのでその姿を正確に捉えることは出来なかったが、よく目を凝らすと、三人共白い袋のようなものを被っているのがわかった。
一郎は彼らの姿を見て衝撃を受けたが、どこかでそれは予感していたのかもしれない。彼らはたぶん、祖母によって儀式の生贄にされた三人なのだろう。あの時、祖母は儀式には人間が一人足りないと言っていたが、本当は儀式はあの時点で成功していたのだ。今、こうして空が晴れ渡っていることも、それを証明している。江戸時代、この村によって殺された者たちが”おんば”となったように、彼らの報われない魂もまた、恐ろしい怪異へと変貌したのだ。
人間のその愚かな行いは、時代を超えてもなお残り続ける。それはぐるぐると渦を巻く螺旋のように繰り返され、止める術はもはや無いのだ。何故なら、それは人間自身に対する呪い、あるいは罰なのだから。どれだけ許しを乞うたとしても、背負わされた業から逃れられはしない。
彼らもまた、愚かな人間たちを許しはしないだろう。惨劇は再び起こってしまう。そんな気がした。彼らがあそこに居るのが、何よりの証拠だ。
一郎は彼らを見た瞬間、一つの決意をした。これから、警察に全てを話そう。初めのうちは異常者か、気が狂ったと判断されるかもしれない。それでも、やらなければならない。これ以上、あの夜と同じ悪夢を繰り返さないために、俺は語り継いでいかなければならないのだ。
ふと、松木五郎が後世にあの日記を遺す決意をした時も、きっと同じ気持ちだったのだと思った。彼もまた、呪われた運命を背負って自らの人生を過ごしたのだろう。ならば、遠い先祖がそうしたように、一郎もまたそうするべきなのかもしれない。
暗い確信に満ちた一郎の意識は急速に移ろいで行く。これまでの疲れが押し寄せてきたのだ。
タンカーに身体を乗せられて、救急車の中に運び込まれる。警官が一人、同乗してきて何か話をしていたが、まどろむ一郎の耳にはもう届いてはいない。
一郎は目を閉じて眠りにつく直前、仰向けになって空を見た。
そこには人間が生み出してしまった、呪われた晴天が広がっていた。