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孤独な珊瑚と三代目の蛇屋  作者: 小町 慧斗
6/18

失われた顧客名簿1

 ついたその日は、一切授業には出ることなく終わった。


「ちょうど空き部屋があってよかったわ、お友達同士のほうが良いでしょ?」


 部屋をあてがわれ、まずは制服が合うかどうか見てもらう。

 珊瑚はへばってしまってそれどころではなかったので、シキだけが試着した。

 私立金葉学園の制服は、白地に黒の変則セーラー服で、脱ぎ着が楽なように上着のボタンは前あき、黒のスカーフは胸の高めの位置でリボン結び、袖はふっくらしたパフスリーブだった。黒のプリーツスカートは膝よりも少し短めで足がすらりと見えるタイプだ。

 こういうかわいいの、あたし似合わないんだけど。とシキは口を尖らせたが、寧々は、とっても素敵よ、スタイルがいいのねと上手に褒めてくれた。


「教科書は揃っていると思うわ。基本的な時間割はプリントにある通りだけど、希望すれば特殊な授業や高度な内容を受けることも可能だから。もしそうしたければ、先程の、学園長先生に相談してみてね」


「特殊って?」


「例えば私なら、子供の頃から日舞をやっているので、その先生を月に一度呼んでもらったり」


「にちぶ」


 あきらかに、それってなんだっけ、みたいな発音でシキが繰り返したので、寧々はくすりとおかしそうに笑った。

 寧々に案内されて校舎の中を歩いていると、ちらほら、他の生徒とすれ違う。


「こんにちは、寧々さん」


「ハーイ、寧々」


 生徒たちが挨拶するのに、寧々はおっとりとうなずいて返している。


「外国人の生徒も、いるんだね」


 すれ違う生徒の何割かが英語で話しているのを見てシキは言ったが、寧々はごく当たり前のことのように言ったのみだった。


「私立ですからね」


 その日の午後は寧々まで一緒に授業を休ませてしまったのだが、別に構わないわ、と本人は気軽に笑った。

 学園は決して大きいわけではなかったが、在籍している生徒数もそう多くないため、空間は広々として感じられた。


「五十人、いるかいないか、かしらね」


 中等部と高等部を合わせてもそのくらいで、人数は増えたり減ったりするのが当たり前なのだと、寧々は言った。


「それぞれに理由があってここへ来ているから、誰かがいきなりいなくなっても、あまり詮索はしないの。気にしないようにするといいわ」


「わかった」


 シキと寧々が部屋へ戻ってきても、珊瑚はまだヘリ酔いがおさまらないらしくて、目に冷えた布をあてて二段ベッドの下段で横になっていた。

 食堂までの道は覚えたかと寧々が聞き、シキは大丈夫だと請け合ったので、そう、と寧々は腰を上げた。

「必要なことは、私でも、他の誰でも、その都度聞いてくれたらいいわ。では、夕食の時間にまたお会いしましょう」



「わたくし、いらないわ……」


「え、食べないの?」


「とても食べられる気がしない」


 夜中になってお腹すくよ? ちょっとでもいいから食べておいたら? と誘ったが、ふるふると力なく珊瑚が首を横に振るので、その日の夜はシキだけ食堂へ顔を出した。

 そこは食堂というより、ホテルのビュッフェと言った方がいいような場所で、大皿に盛られた料理やパンかごがずらりと黒大理石のカウンターに並んでいた。

 プラスチックのトレイを手にしてシキがそれらを感じ入ったように眺めていると、カウンターの内側からにゅっと出てきた顔がある。


「今日から来た子かい?」


 まるっとした輪郭の、銀縁の眼鏡をかけた、もうじき初老に差し掛かろうかという年頃のおばちゃんが、白い三角巾の二ヵ所をピンでとめた頭を突き出していた。


「もうひとりはどしたの? ご飯の盛りは? 魚好きかい?」


「もうひとりはヘリ酔いで寝込んでます。えーと……好き嫌い、特にないです。いっぱい食べます」


「はいよ」


 なにか圧倒された気持ちでシキがそう答えると、おばちゃんの顔は勢いよく奥へと引っ込んでいき、手早く四角い皿に刺身の盛り合わせを作って、今度は四角いカウンターの穴から手先だけ差し出してきた。


「食べな!」


 迫力ありすぎる、とずっしり重たい皿を受け取ってシキは思った。刺身の皿から、伊勢海老の頭とヒゲがはみ出している。

 ありがとうございます。それ以外に言うべき言葉はない気がして、シキは毒気を抜かれたような気分でそれを持ったまま先へ進んだ。


「和食がお好きかしら?」


 白いご飯にみそ汁、刺身の他におかずを色々取り合わせて持ってきたシキに寧々が言う。

 並んでいた料理は、和食と洋食が半々くらいだった。生徒たちの様子を遠くから観察していると、パンを選ぶものが六割、ご飯が二割、残りは果物や飲み物だけをとっていくという様子だった。


「好きっていうか、その、これ、すごくない?」


 味噌汁の椀に伊勢海老がごろりと入っているのを指さしてシキが言う。よく見れば刺身の皿にも伊勢海老の他に仄かにピンク色をした真鯛が盛られていて、よくわからない淡白色の刺身をシキが黙って指さすと、それはロウニンアジじゃないかしら。と寧々がこともなげに答えた。

 とても寮の食事とは思えなくて、シキが思わず無言になりながら箸を動かしていると、


「お口にあったなら良かった」


「いつも、こんなすごいの?」


「まあね」


 寧々はあっさり言って肩をすくめた。

 濃厚な甘みが口の中に広がる刺身は言うに及ばず、海鮮かき揚げも、チキンのグリーンペッパーソースも、食事はどれもおいしかった。

 これって全部さっきのおばちゃんがひとりで作ってるのかなあ、と考えていると、


「よかったら、お替りしてあげると食堂のおばさんが喜ぶわ」


「そうなの?」


「ええ、食べる人あまりいないから」


「うわ贅沢」


 言うと、寧々は首を横に振った。


「海の幸はもうみんな飽きてるのよね……」


 まーじーでー、とシキはげらげら笑った。

 料理はどれもおいしかったのでぺろりと平らげ、お替りすると、おばちゃんは本当に喜んでくれた。

 カウンターの上にはグレープフルーツや緑色の葡萄にまじって、マンゴスチンが山盛りに置かれているのも驚きだった。いくら南方の島とはいってもこんなものが国内に自生しているわけはないから、どこかから仕入れてきているのだろうが、試しにひとつとって食べてみると、新鮮で、果汁がたっぷりでおいしい。冷凍ではないのがすぐにわかる。


(さすが、贅沢を売りのひとつにしてるだけはあるなあ)


 珊瑚に持って帰ってあげよっと、とシキは思った。具合が悪くても果物なら食べられるかもしれないし。

(ゆーても、具合悪くさせたの、あたしだけどね……)



 翌朝には珊瑚も問題なく起きてきて、豪華な朝食に目を見張った。

 美食には慣れているはずの彼女をもってしても、伊勢海老の味噌汁にはびっくりしたらしい。出汁をとった残りの海老の頭部が、長いひげを残したまんま入っているのを見て、すくったおたまを静止させていた。

 シキにはよくわからなかったが、授業のレベルはなかなかのものだと珊瑚は請け合った。

 人数が少ないため、学年ごとのクラスわけにはなっておらず、中等部生は中等部生で、高等部生は高等部生で大きくふたつに分けられており、同じひとつの教室の中で自分の進度に見合った授業を受ける。

 授業の映像を個別のモニターで見ながら、問題があればその都度監督の先生に申告するという、衛星授業のやり方を導入しており、生徒はヘッドセットで授業を聞くため、学校の授業というよりは個別指導の塾のような雰囲気だった。


 シキがそれを言うと、「そうなの?」と珊瑚が返してくる。生まれてこのかた、学校に通ったことがないため、よくわからないのだそうだ。

 生徒はみな上品で、シキや珊瑚と目が合うと、微笑して会釈をしてくれる。

 取り囲んで質問攻めにされることもないかわり、特に親しい生徒ができるわけでもない。だから、ここへ来て数日たったある日、寧々にお茶に誘われた時、珊瑚はさして迷うこともなくそれを受けた。


「どうかしら、この学園には慣れた?」


 おかげさまで、と珊瑚は笑みを浮かべた。


「それよりも、最初の日は、とんだ恥ずかしいところをお見せして」


 いいのよ、と寧々は気安く笑って濃い目に入れたミルクティを口に運んだ。

 つられて珊瑚もカップとソーサーを手に取る。寮の備品とは思えないほど、上等なカップだった。お茶は、正統派に限りなく近い英国式アフタヌーンティの様式。

 カップは敢えてお揃いではなく、ひとりひとり違う色柄のものだった。珊瑚の前にあるのは濃薔薇色と金彩が施されたロイヤルアラベスク模様。


 誰が選んだのだろう、いい趣味だわ、と思いながら珊瑚はチョコレートをひとつ摘まむ。菓子は他にもさっくりと焼きあがった割れ目も鮮やかなスコーンに、白黒のチェッカークッキー、小ぶりなキュウリのサンドイッチに、ナッツ入りのショートブレッドなどがあり、艶々のエクレアは一口か二口で食べきれるサイズだった。

 ナプキンで指先をぬぐい、お茶を一口いただいてから、珊瑚は改めて一同を眺めた。


 場所は寮の談話室からつながっている、海が正面に見えるテラスの一角だ。

 円形のテーブルについているのは、寧々を含めて高等部生の女の子が三人と、それに見覚えのない少年がひとりで、珊瑚もいれて五人というメンバーだった。

 寧々に誘われた時、シキも呼ぼうとして一度部屋に戻ったのだが、姿がなかった。授業が終わってから一度部屋に戻ってきた形跡はあったのだけど、しばらく待っていても帰ってくる気配がなかったから仕方なく珊瑚だけ参加したのだ。


「お茶はお口に合うかしら?」


「お菓子、もっとどうぞ」


「アサヒコ、あなたそんなにお砂糖を入れてよく平気ね」


「おいしいですよ?」


 少女たちは、日頃の礼儀正しいよそよそしさを二段階ほど緩和させて、珊瑚にも同席の少年にも愛想よく話しかける。

 いったい誰なのかしら、と珊瑚は初対面の彼を観察する。

 座っているので正確にはわからないけれど、そう大柄でないのはわかる。女子と並んで座っても違和感のない華奢な骨格は、もともとのものなのか、それとも成長途上だからなのか。くせのない黒髪はあくまで上品な感じに整えられて、さらさらと額にかかっている。

 男子の制服は、白い半そでシャツに細い色ネクタイ、それに女子と同じ素材の黒のパンツだ。少年のネクタイが臙脂色なので中等部の生徒なのだとわかる。


「それにしても、ほんとに、物怖じしない子ね」


「えー、してますよ」


「嘘おっしゃい」


「ほんとですってば。美しいお姉さま方に囲まれて、緊張しっぱなしです」


「アサヒコ、あなたよくまあそれだけ口が回るものだと感心してよ」


(アサヒコ……まさか、朝彦?)


 彼女たちが呼ぶ彼の名前に漢字が当て嵌まった瞬間、珊瑚はがたっと椅子を鳴らして立ち上がっていた。


「東郷、朝彦?」


 少女たちが会話をやめて珊瑚を見上げる。

 その合間で、少年はにこにこと笑っていた。


「やだなあ、ここでは下の名前で呼ぶのが決まりですよ、珊瑚」


「勝手に呼び捨てやめてちょうだいっ」


「では、珊瑚さん」


 悪びれることなく言う少年に、珊瑚は目に力を込めたままでじっと彼の顔から目をそらさない。


「よろしく、はじめまして。朝彦です」


 これに珊瑚は返さなかった。

 非礼と思われようと、この際どうでもいい、という気分だった。怒りと憤りで、テーブルについた手が震えそうになるのを意思の力で抑え込んで珊瑚は低い声を出す。


「どうしてあなたがここにいるの」


「えっと、お茶に招待されたので」


 ふてぶてしいまでのとぼけっぷりに、珊瑚はきつく唇を引き結ぶと静かに座り直す。

 少女たちは、はじめ黙ってふたりのやり取りを眺めていたが、途中からは何事もなかったようにお茶会を続行させていた。

 気味が悪いわ、と珊瑚は思う。

 こうしたやり取りに慣れているのか、それとも他人のトラブルには心から無関係なのか。そのどちらでもおかしくない気がしたし、どちらとも取れる気がした。


「珊瑚さん、お茶のお代わりは?」


「頂戴するわ」


「お菓子も召し上がってね」


「ええ、どれもとてもおいしくて」


「それはよかったわ」


 それでも、動揺を見せたら見せたぶんだけ弱さと脆さをさらけ出すだけだということは理解できる。


『多少はかりごとの匂いはするし、和やかなところとも言い切れないけど』


 シキが言った言葉が耳によみがえる。

 結構。と珊瑚は背筋を伸ばして姿勢よく座り直した。

 ええ結構だわ。そちらが、そうくるのなら。

 おや、というようにそれを見た寧々が眉をあげる。珊瑚が少女たちと歓談するのを、朝彦は向かいの席でじっと見つめていた。

 にこやかにおしゃべりに興じながら、珊瑚はその視線を跳ね返す。

 彼から話しかけられれば短く的確に返事をするけれど、決してそれ以上話を続けさせず、視線を合わせるのも最小限にとどめた。それでいて、少女たちとは愛想よく談笑する。手作りだというクッキーを褒め、ゆるやかに巻いた髪型を褒め、白を基調とした制服の手入れを教わり、強い日差しによる日焼けの心配に共感する。


「嬉しいわ、珊瑚さんがたくさんお話してくれて」


「あら、こちらこそ」


「あんまりおしゃべりしたら喉が……お茶じゃないものが飲みたいわ。ちょっと食堂へ行ってジュースをとってきますね」


「行ってらっしゃい」


 珊瑚は小首をかしげてそれに応じる。

 お菓子のお代わりが欲しいわ、という理由でもうひとりの少女が席を立ったのは、それからいくらもたたないうちだった。行ってらっしゃい、と珊瑚は応じる。

 最後に残った寧々が、「お湯を新しくしてきましょう」という理由で、まだ注ぎ口からかすかに湯気の立っているポットを手にして席を立った時に、珊瑚は理解した。このお茶会は、朝彦とふたりきりになるようあらかじめ仕組まれていたのだと。


 東郷朝彦はというと、素知らぬ顔で悠々とのどを潤している。

 動揺したら負け、と自分に言い聞かせながら手を伸ばして、珊瑚は白黒チェッカーのクッキーを一枚とる。バターの香りと仄かな塩気が口の中に広がった。

 背の高いシュロの植え込みが風で揺れて、鋭角な葉の隙間から強い日差しがテーブルにちらつく。


「腹黒いわね」


「はい!」


 満面の笑顔で帰ってきて、珊瑚は思った。違う、褒めてない。


「自分で言うのもなんですけど、手回しも早い方だと思ってます。だから、意外と相性はいいと思うな」


「誰と、誰の」


 冷ややかに見つめる珊瑚に、彼は臆面もなく言ってのけた。僕と、あなたの。

 たわけたことを、と珊瑚は思った。


「いつから、ここに?」


「昨日から」


「理由を伺ってもよろしいのかしら」


「別にいいですけど、珊瑚さんが思っている通りの答えだと思うから、聞くだけ無駄なことだと思いますよ。──ああ、無駄って言い方はよろしくないかな。余裕。余裕でどうですか」


 にこお、と微笑むその顔は、それが彼でさえなかったらかわいい後輩、もしくは弟みたいに思えたかもしれなかった。


「余裕って、大事なことですよねー」


「ええそうね、大事なことね。見合い予定の相手を追いかけて即座に自分も編入してくる、そんなやり方が逆効果だと、わかっていながらやってこられたのは、あなたに余裕がないからなのかしら、それともわたくしに手袋を投げたおつもりなのかしら」


「えっ決闘ですか。やだなあ違いますようー」


 皮肉というにはあまりに直截な、とげのある物言いにも彼は顔色ひとつ変えなかった。


「誤解があるとよくないので先に申し上げておきますね? 僕にとっても、今回のお見合いは一方的に用意されたものであることに変わりありません」


「──そうなの?」


 珊瑚の眉がわずかに下がる。

 ええ、と朝彦は愛想よく笑って見せた。まだ十四歳とは思えぬ落ち着きっぷりと愛想の良さは、彼が少なからず社交の修羅場をくぐってきたことを彷彿とさせる。また、そうであったとしてもちっともおかしくはない。なんといっても東郷家の子息なれば。


「お宅のおじいさまに気に入られたのは、知ってましたけどね。僕ねえ、年寄り受けがいいんですよ。政治家の家に生まれると爺さん転がしがうまくなるのかどうか、知りませんけど」


 ちょっと肩をすくめて、朝彦は続けた。


「だいたい僕、まだ中学生ですよ。御堂寺の名前は確かに魅力的ですけど、婿入り先を決めるのはもう少し先でもいい気がして」


「では」


 それならば共闘できるのではないか。ふたりで口裏を合わせて見合いを破棄できるのではないか。そう思って口をひらきかけた珊瑚に、朝彦は悪戯っぽく笑った。


「でも、あなたのことは気に入りました」


「……はっ?」


 思わず、素で眉をひそめた珊瑚に、朝彦は言ってのけた。


「僕と結婚するなら、すごーく馬鹿で僕のいいなりになるタイプか、逆にすごく聡明で、ともに戦えるタイプの女性がいいなってことはなんかもうわかってるんですよね。中途半端が一番よくないと思うんです。その点、あなたは一緒に戦えるタイプだとお見受けしたので、これは、わざわざお顔を拝見しにこんな場所まで追いかけて来てよかったなと。思ってる次第ですー」


 咄嗟になにか言い返したくて、珊瑚は言葉を探した。

 できるだけとげのある手厳しい言葉がよかったのだが、感情に相応しい、力のある言葉が見つからない。珊瑚の目の前で、朝彦はぬるくなったお茶を口にする。


「あなたは行動力がありますよね。たった五日でここにやってこられる人は珍しい。僕ですら一週間かかったのに」


「わたくしの力では、ないわ」


「知ってます。蛇屋、でしたっけ? 男の僕にはなじみのない人々ですが」


 でも、どんな協力者を得られるかというのも、実力のうちだと思うんですよ。と屈託のない表情で言う彼に、珊瑚は思った。わたくしは、愚かな間違いをしたのかもしれない、と。下手に動かずにじっとしていれば、もしかしたらこの少年は、自分のことを単なる箱入り娘だと思ってこの話は流れたのかもしれない。


「それに、動揺を抑え込むのもなかなかうまいですよね。甘やかされたお嬢様かと思っていたけど、どうしてなかなか。この人なら大丈夫かなー、と思いました」


「なにが大丈夫なのよ。勝手なことを」


 朝彦はにっこり笑って残りのお茶をからにすると、静かにカップを置いて立ち上がった。


「今日のところは、これだけ伝えられたので僕は満足です。安手の恋愛映画じゃあるまいし、出会いさえすれば都合よく恋になるとは思いません。あなたが僕に反感を抱いているのも承知の上なので、すぐさま心をひらいてもらえるとも思いません。……だけど、こう考えてみてもらえないですか」


 海から強い風が吹いて、朝彦の臙脂色のネクタイと長めの前髪をひらりと揺らした。


「味方につけて損はない相手だって」


「……それは、あなたが決めることではないような」


 言いたいように言わせておくつもりはなかったので珊瑚がそうとだけ返すと、朝彦は椅子を引いて軽く一礼した。


「じゃ、僕はこれで。お茶をどうぞ楽しんでね」


 朝彦が立ち去ってしまっても、珊瑚はしばらくその場を動かなかった。

 じっと厳しい顔つきで、目の前のティーセットを見据えていた。


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