蛇屋の娘の本領、らしい2
私立金葉学園の建つ黒石島では、ふたりの人影がヘリの到着を待っていた。
ひとりは背の高い男で、もうひとりは白と黒の制服をきちんと着こなした女生徒だ。
「そろそろ、ついていてもおかしくない時間なんだけどな」
古風な懐中時計を目にして言ったのは長身の男だ。
彼は暑いのか、黒い上着のマオカラーの襟元に指を差し込んでいる。年頃は三十代半ば、ひどく整った顔をしており、アッシュゴールドの長めの髪をきれいに撫でつけている。彫りの深い顔立ちはひと目見てアングロサクソン系とわかるものだが、その瞳とまつげは夜闇を思わせる漆黒、そして薄い唇から出るのは流暢な日本語だった。
「遅れるという連絡は受けていないが……なにか手違いでもあったかな」
「新しい生徒ですか」
「そう、ふたりね」
隣の女生徒の問いに、彼は口の両端を持ち上げてわずかに微笑んだ。
彼の丁寧に整えられた髪と隙のないたたずまいは学校関係者というより映画俳優のようだったが、女生徒はにこりともしなかった。
「寧々、色々と教えてあげてくださいね、彼女たちに」
「……どちらも、女生徒なんですね」
そう、と彼がまた微笑む。
「なんといっても、あなたが一番ここが長いのですから」
甘く魅力的な笑顔だったが、寧々と呼ばれた女生徒はきっと彼をにらみあげた。
「好きで長くいるわけではありません。学園長先生」
「それにしても、今日は暑いな」
男はそれを上手に無視して、手でひさしをつくると青い空を見上げた。
「ああ……見えた。あれかな」
風が吹くと、彼の体からは甘い葉巻の香りがする。彼の視線につられる格好で銀色に輝く機体を見つけて、女生徒はかすかに首をかしげた。
「なんでしょう、やけにふらついていますね。今日はそれほど風もないのに」
空から見ると、その学園が監獄のようだと関係者の間でささやかれている理由がよくわかった。
断崖絶壁でぐるりと囲まれた小さな島には、機能的な四角い建物が大小つながっており、学園というよりはなにかの研究施設のように見えたからだ。
もともとは軍が使っていた建物をこの学園のオーナーが譲り受けた、というのはのちに知ったことだ。だが近づいてみると武骨な印象は欠片もなく、美しく煉瓦で装飾された、マナーハウスを思わせる建物だった。敷地内の歩道は雑草一本なくすっきりと整えられ、一年中潮風に当たっているとは思えない。
「……は、吐いちゃう」
「ばかー、ここで吐くなっ」
「だって」
だがその時の珊瑚に、建物を観察する余裕はなかった。ぐらぐら揺れる機体の床に手をついて、吐き気を堪えているだけでやっとだったからだ。
「も、もう無理」
「もう着くから! 今着く、すぐ着く!」
船酔いよりもきついものがこの世にあるとは思わなかったわ、とどこか頭の片隅で考える。
シキが操縦する機体は、学園屋上のヘリポートに、大きく斜めにずれて止まった。
むしろ、シキの操縦技術からすると、コンクリ面に激突せずになんとか無事に着陸できたのが奇跡とも言えた。
プロペラはまだ激しく回っていたけれど、腹部のドアが内側から勢いよくひらく。
寧々と学園長とが見守るなか、シキはヘリの扉を片足で蹴りあけて、右手には蛇入りのボストン、左肩には珊瑚を抱え上げて降りる。
「や……やめ、はずか、し」
シキに二つ折りにされる格好で、珊瑚はぐんにゃりと顔を伏せている。長い髪が表情を隠しているが、苦しそうにうめく声は今にも消え入りそうだ。
彼女の懇願は聞き入れることなく、シキが声を張り上げる。
「すいません、どちらか!」
機体のエンジンを切っていないので、怒ったような大声になってしまう。
「この女か中の荷物か! どちらかをですね!……あと誰かわかる人を呼んでエンジン切ってください! あたしこの機体はじめてで!」
「はっ、じめて」
シキの肩の上でぴくっと珊瑚が反応した。細い足がじたじたと動く。
「信じ、られな……あなた、はじめ……ッ」
「ええいしゃべるな! また吐くぞ!」
ぐっと珊瑚は大人しくなる。
「あらあら、大変。ヘリ酔いしたのね」
一歩前に出たのは、肩までの黒髪を爆風に煽られないように片手で押さえた女生徒だった。
もう片方の手はスカートの裾をおさえており、プロペラが巻き起こす風の強さに目をすがめているけれど、長いまつげが縁取る瞳は黒目がちで、背は高からず低からず、日本人形を思わせる美少女だった。
「荷物は私が持ちましょう。中にあるのね?」
「そう。中、汚れてるけどね」
いやーーー、と珊瑚がか細い悲鳴をあげる。
「彼女のことは、私に任せて」
そう言って、長身の男がその両手を受け取る形に差し伸べる。
「改めて、私立金葉学園へようこそ。学園長のセオ・長澤だ」
「いや結構。それよりも、ヘリの方をお願い」
「もちろんそちらも了解したが、女の子が、人ひとり抱きかかえているのは、つらいだろう」
「あたしのことなら、心配ご無用」
彼はしばらく珊瑚を受け取ろうとしていたが、なにを言ってもシキが頑として珊瑚から手を離す気配がないので、諦めてヘリの戸口へ向かった。そこに追い打ちをかけるようにシキは言う。
「あと、中で死んでる人も」
ちょうど荷物を取ろうとして中を覗き込んだ女生徒がきゃっと声をあげる。
シキは彼らに背を向けていたので、彼らがどんな顔をしたのかは見ていないが、不穏な気配が一瞬膨れて、すぐに消えた。
「ご案内するわ、こちらよ」
ふたつのトランクを片手で器用に確保した女生徒がシキの前に立つ。
大きな荷物をふたつ持っていても、彼女の背筋から首筋にかけてはまっすぐに伸びており、まるで一本の芯が通っているようだ。彼女が横を通った時にふわりと爽やかな香りがして、シキは首をかしげた。
「なんか、いいにおい」
「そう? ありがとう」
彼女は首だけで振り向くと、目を細めてやさしく笑った。
「香水なの? なんて香り?」
「李氏の庭、というの」
エルメスよ、と黒髪の彼女は付け加えた。
「ここってまわりを海に囲まれているでしょう。今の季節、むしむしするのよね。だから爽やかな香りをと思って」
「ねえ名前は? なんて呼べばいいの?」
シキが言うと、彼女は屋上の扉に手をかけたままで動きを止めた。
それから、ゆっくり体をひねって振り返る。
まるで舞の一動作を見ているような気にさせられる、それは、優雅な所作だった。
「寧々、です」
寧々……とシキがオウム返しに繰り返す。
「高等部の三年生よ。なんでもわからないことがあれば、私に」
「寧々さんて呼んだ方がいいの、それとも、先輩」
どちらでもよいのよ、と彼女は目尻だけで微笑んだ。ごくわずかな動きだけで、そうやって繊細に感情を伝えてくるところが、なおさら彼女を大人っぽく、洗練させてみせる。
ただ、と寧々は付け加えた。
「強いていうなら、この学園では、お互いに下の名前だけで呼び合うのが慣例なの。素性を知られたくない生徒が多くいるせいね」
なるほど、とシキはうなずく。
「あたしは、シキ。こっちのぐだってるのは、珊瑚」
「よろしく」
死体を見たことなど、もう忘れたみたいに寧々は嫣然と笑った。
そして屋上の鉄のドアをぐっと押して、黒々とした階段へ足を踏み下ろしたので、シキも足元に注意しながら一段一段、そこをついていく。
背後では、ヘリのエンジン音が次第に小さくなっていた。
よいしょ、とシキは珊瑚を抱え直した。ぐう、と珊瑚がうめく。シキが声を殺して笑ったので、珊瑚は弱々しく反論する。
「わ、悪かったわね、どうせ今日一日でわたくしは一生分の恥を、まとめて」
「違うって」
くっくっと笑いながらシキは声を潜める。前にいる寧々には聞こえないように。
「あたしが言ってるのは、死体の方だよ」
「え?」
珊瑚の位置からは見えなかったが、シキの目は好戦的に光っていた。
「あんなものを見てもたいして動揺もしない学園長と女生徒か。──なんともキナ臭いよね。そう思わない?」
珊瑚は答えなかった。
答える気力が、いよいよ底を尽きたのかもしれない。
シキもそれからは黙って寧々の後について歩いた。
だが、珊瑚もシキもまだ知らなかった。
ここへ来たことで、思惑の歯車がゆっくりと動き始めたことを。ヘリの事故は、その始まりに過ぎなかったことを。