いつのまにか3
四人が話している間にも、水平線からは朝日がまっすぐあがってくる。まぶしそうに目を細めて、シキが両手をあげて伸びをした。
「あーもうあの伊勢海老も食べられないのかー」
「なんなら、変わって差し上げてもいいのよ」
とげのある口調で寧々がシキをにらみつける。
「へへ、遠慮するー」
相手が無力な時もそばにいたいか、という朝彦の言葉が耳によみがえってきて、珊瑚はハッとした。それが友達の条件だとするなら、自分ははじめから、彼女にとって無力な存在だったはずだ。彼女がヘリの操縦に悪戦苦闘していた時も、自分は金切り声をあげて怯えることしかできなかったのだし。
(挙句の果てに、吐いて……)
だがそんな自分を、シキは抱きかかえておろしてくれた。ベッドまで運び、冷たい水で濡らした布を目の上に置いてくれた。
(べたべたに甘やかすようなやり方ではなかったけれど、当たり前の顔をして、世話を焼いてくれた)
寧々となにやら軽口を叩き合っているシキの背中は、シュッとしていて、まっすぐで、贅肉のひとつもついていない。
(無力だったのに、シキは一緒にいてくれた……ずっと)
もう、最初の依頼は無効になった。新しい頼み事も、特にない。
(ここで別れたら、もう二度と会えない……?)
急に心臓がどきどきしはじめる。
(嫌だわ、そんなの嫌。ノーよ、絶対にノー)
なにか言わなくてはと気持ちばかりが先走る。でも、なにを言えば?
『友達になって、って言えば?』
いつかの大伯母の台詞が耳によみがえる。
『子供じゃあるまいし。わたくし六歳ではなくて十六歳ですわ?』
あの時は憮然とそう返した。
だけど、それなら他になんて言うのかと考えると、情けないことになにも思い浮かばない。
「あのね」
半ば強引に話に割って入ると、シキは、なに? というように屈託なく珊瑚の顔を見上げた。
寧々も朝彦もすぐそばにいて、階段は狭いし、逃げ場もない。この状況で言わなければいけないのは羞恥以外の何物でもないが、恥ずかしがっている場合ではないのもわかっていた。
「シキ、あなたはひとりでなんでもできる人だわ」
「──それは珊瑚でしょ」
だから、わたくしなんか必要ないのかもしれないんだけど、でも。
そう言おうとしたのだが、予想外の言葉で遮られた。珊瑚は目をぱちくりさせる。
「ここに来るまでも来てからも、ずっと頑張ってたでしょ」
「そう、かしら」
「はじめてのこともたくさんあって、勝手のわからないことも多かったろうに。文句言わなかったよね」
言われて、珊瑚は思いだしてみた。
生まれてはじめての二段ベッド。食堂で他の生徒と一緒になって食べる食事。習った授業。逃げる伊勢海老。同じ年頃の少女たちとのお茶会。帰ってこない同室の少女を、いらいらしながら待つ夜のこと。
「割と、楽しかったわ」
シキは、参ったというように肩をすくめた。
「そう言えちゃうのがすごいよ。普通、言えないよ?」
「待って、褒めないで」
珊瑚は慌てて片手の平をかかげた。
「どうして」
「言おうとしてることが言いにくいからよ」
「あと、夜刀を助けてくれたこと。まだお礼言ってなかったよね、ありがとう」
「お礼も!」
こんな狭い階段でなかったら、十六歳でなくて六歳の子供だったら、足をじたばたさせたい気分だった。シキはそんな珊瑚の様子には構わず続ける。
「こいつによくさわれたよね。蛇屋以外でさわれる人、あんまりいないよ」
「夜刀ってなに」
事情を知らない朝彦が呑気に聞くので、シキは黙って胸元をあけてそこからニシキヘビの頭をのぞかせた。朝彦の濁音の悲鳴が響く。寧々は一度見ているので悲鳴をあげることはなかったが、足元があとじさろうとしているのが珊瑚のところから見えた。
「ねえ、シキ」
「なに」
シキは朝彦を脅かすのに夢中なふりでこちらを向かないので、表情が読めない。
冗談ではぐらかされているのだろうか。それとも、蛇屋は特殊な職業なので、機密保持のために特定の友人は作らないのだろうか。
(迷惑、だろうか)
そう思った途端。
朝彦と目が合って、彼はちょいちょいと指先を使って合図した。耳の、後ろ? 見ろって?
珊瑚は軽く首をかしげて朝彦の視線の先をたどり、それを見つけた。
(……あっ)
日焼けしていてわかりにくいが、シキの耳の後ろが赤く染まっていた。
大伯母様、と珊瑚は思った。先人の知恵をお借りしますね。
そばで見ていた寧々と朝彦の言によると、この時珊瑚はすっと背筋を伸ばしたらしい。
「シキって、どういう字を書くの」
「こころざすに、希望のき」
背中を向けたままシキは答える。
「上野のあのお店が住居も兼用しているの?」
「えっ、あたしそんなこと話したっけ!」
びっくりしたようにシキは振り向いた。話していないし聞いたこともないわよ、と珊瑚は思う。でもあれだけの蛇を、あなたが面倒見ないはずがない。他人まかせにするとも考えられない。それなら、導き出される答えはひとつではないか。
「わたくしの家は、来たことあるからわかるわね。今度から、正門から来てくれればわかるよう、家のものに言っておくから」
「えっ」
「連絡先も、あとで教えるから」
「えっ、ちょっと……」
シキはうろたえた声を出したが、珊瑚はぐいぐい押し続けた。
「絶対よ、必ずよ。しなかったらわたくし店に押し掛けるからね」
あーこの人の押しの強さ、御堂寺の血だよねえと朝彦が横で言い、私は似なくてよかったわと寧々も続けた。
なんだ、やってみたら簡単だったんだわと珊瑚は思った。
相手の言葉を待っているから切ないのだ。相手の反応を引き出そうとしていたからもどかしいのだ。自分から言えばいいだけだったのだ。
「友達になって」
まっすぐに伝えられたと珊瑚は思った。言葉も、気持ちも。
「友達になってよ」
自分が主導権を取って話せば、恥ずかしさも半減するのだとその時わかった。
シキがあらぬ方向を向いて顔を見せないので、珊瑚はどんどん続ける。
「黙っていたら、わたくしどこまでも話し続けちゃうから。最初に会った時も、今だってわたくしは正式にはあなたの客じゃないのに、あなたはわたくしを助けてくれたでしょう。それってどうしてなのとか。あなたの方もわたくしのことを友達だと思ってくれてるからなんじゃないのそれは、とか。あとほかにも」
「あーもーうるさあい」
明らかに誰が見ても照れ隠しとわかる言い方で、シキは返した。
「見た目はふわふわと大人しい感じなのに……ひとたびスイッチ入ると口が回ること回ること……」
それが御堂寺の血よね。その通りね。珊瑚と寧々が真顔で言い合うのを、シキは無視した。
「少し閉じようよ。その口」
「いやよ。もう友達でしょって、あなたが言ってくれるまで黙らないわ」
「言う隙も与えないどいて! よく言う」
「あなたが本気で困っているなら、やめる」
珊瑚はじりじりと降りていって、シキの隣に並んで腰かけた。コンクリの階段は、ふたりが並んで腰を下ろすとちょうどいっぱいになる幅だった。
「強引に、ぐいぐいしている自覚はあるから」
「困ってないよ」
言葉とは裏腹に、どこか困ったような口調でシキは言った。それは耳を済ませて静かにしていないと、波の音に打ち消されそうな小声だった。
「仕事柄さ、ツテは多いけど、友人っていないから」
やっぱりそうだったのだと珊瑚は思った。自分が彼女の身になってみればわかる。依頼人と友人の境目をあいまいにしていては、仕事としてやっていけないだろう。
「だから、どうしていいのかよくわからなくて」
「照れたのよね」
うるさい黙れ。と反射神経で返してからすぐ、シキは口調を変えて言った。
「いいのかな……蛇屋なのにさ、友達をつくっても」
「わからないけど」
今だ、と珊瑚の胸の中でなにかがささやいていた。言うのよ、あなたが言われて嬉しかった言葉を。
「一緒に、考えてみたらいいんじゃないかしら」
ふっと、シキの体のまわりにある空気が柔らかくなったのを珊瑚は感じた。
「ふふふ」
揃えた膝の上に顔を伏せるようにして、シキは笑いを漏らす。
もう返事を聞かなくてもいいや、と珊瑚は思った。
シキが言葉にしない部分まで気持ちは正確に伝わった気がして、珊瑚は両手を大きく前に伸ばし、深呼吸をする。絡み合わせた両手の指の隙間から、もうすっかり顔を出しきった朝日が眩い光を投げかけていた。
気持ちいい、と珊瑚は思う。こんなに朝って明るかったかしら。
「さあて……帰ると決めたのはいいけれど、帰ったら帰ったでまた大変だわ」
「なにがさ?」
顔を伏せた状態のままでシキが応じる。
「見合い話をきっちり断る文句を考えないとね」
それから白いセーラー服の半袖に包まれた腕をまじまじと見つめて、眉をひそめる。
「それに、随分日焼けしたなって言われてしまうわ。速やかにもとに戻しなさい、とも」
「なにそれ。束縛激しい彼氏?」
「父よ」
気持ち悪い。寧々とシキ、女ふたりの声がそろった。
伏せた顔を少しずらして、シキは顔の半分だけをのぞかせる。
「ねえ、珊瑚のおじいさまって、怖い人?」
「筋を通せば、怖い人ではないわ。少なくともわたくしには」
「今の御堂寺の最高権力者は、おじいさまなんでしょ。父親じゃなくて」
「そうね」
「もうさ、普通に断っちゃえばどうよ」
「普通にって」
「あの人はいやですって言うの」
「理由を尋ねられたら?」
「喰い足りませんって」
珊瑚は思わず吹き出してしまった。数段上の階段では朝彦が膝の上に頬杖をついて憮然としている。
「あのねえお嬢様がた。ここにね、本人いるんですけどね」
「いいかもしれないわね、それ」
ちょっと! と朝彦が異議を差し挟んだが、珊瑚はそれをほとんど聞いていなかった。
いいよ、ここを出たら改めてきちんと申し込むからさ。とぶつぶつ言う横で、寧々が細い眉を不機嫌そうに持ち上げた。
「あなたたち……私の前でよくも、そんな話ができるわね」
珊瑚とシキが彼女の方を振り仰ぐ。その、心からわけがわかっていなさそうな表情に、寧々は声を大きくした。
「無神経でしょ、帰るとか出るとか!」
「──ああ」
シキが、得心したというように軽くうなずく。
「そうか。出られないんだっけ」
「うちの父のせいでね」
「出してあげよっか」
「わたくしも、出してあげられると思う」
ふたりは無言で首をかしげ、どうする? というように寧々の返事を待っている。寧々はというと、ずいぶん長いこと沈黙していた。その黒目がわずかに彷徨っているので、返事に窮するというよりむしろ、言われたことを理解することに時間がかかっているのだとわかる。
「えっ……ちょ、そんな……急に」
寧々の動揺が冷めやらぬうちに、シキが四つん這いになって階段を上がっていき、胸ポケットからよれよれになった名刺を出した。
「その気になったら、これ」
「そんなもの持っていたのね、あなた」
珊瑚がちょっと眉をひそめる。
「わたくし、もらっていないけど」
「ご贔屓にどうぞー」
寧々は、差し出されたくしゃくしゃの紙片をしばらく見つめていた。やがて、体が勝手に動いたというようなうつろさで片手が動き、だが名刺に触れる寸前で素早く引っ込められる。
寧々は両手を体の後ろに隠すと、そっぽを向いた。
「むかつく! いやよ、自力で出ます!」
「ナイスガッツね」
「そうだね」
珊瑚が言って、シキがうなずいた。
妙な清々しさがあるのは不思議なことだと珊瑚は思った。四人が四人とも、割と激しくぶつかり合っていたはずなのに。居心地よく守られていたかといえば、決してそんなこともなかったのに。
思えば最初からなかなかハードな経験だった。蛇を目にして気絶もしたし、ヘリに酔って嘔吐もした。時間は短かったがスパルタで勉強を教えもしたし、嵐の夜に突き飛ばされもした。こんな経験を期待していたわけではなかったが、思い返せば、すべてはこれでよかったと感じる。
自分に限らず、誰にしても、人間はどこかで我が儘な素の部分を出さないと、うまくバランスが取れないのかもしれないな、と思いながら、珊瑚は言った。
「あなたに相談してよかった」
「そう?」
シキはそうとだけ言って、小さく笑った。
きれいな人。──そう、珊瑚は思う。
空は淡いラベンダー色から透明感のあるブルーへと変化しており、シキの背後に見える部分はまだ夜の気配が残っている。だが、東の空には太陽が顔を出しており、シキの顔をまばゆく照らしていた。
きれいなのはきっと、自力で立っているからなのだと思った。
シキこそが、本当は孤独だったのかもしれない。
人並みな生活はしたことがなく、同世代の友人もおらず。
そこだけ見れば自分とまったく一緒なのに、この人がこんなにきれいに見えるのは、自立した強い精神のためなのかもしれない、と。
──この人みたいになりたい。
憧れと親愛、それに尊敬の気持ちを込めて珊瑚はシキを見つめた。
シキは目を細めて珊瑚を見返している。その日焼けした頬には朝日が当たって、産毛が金色に光っていた。
それはなにか神聖なもののようで、珊瑚がしたことが間違ってなかったご褒美にどこかの誰かが特別にきれいな光景を与えてくれているようで、珊瑚は声もなくそれに見入った。
今目にしているものを、忘れないようにしようと思った。
これから先、自分の思うように進まないことがあって落ち込んでいる時にはきっとこの時のことを思いだす。
そう心に刻み付ける珊瑚自身は、気付いていなかった。
朝日を浴びて、自分がまるで発光しているように見えていることを。
ふわふわの髪は陽に透けて金色に輝き、潮風に揺れている様はまるで天使のように見えていることを。
決意を胸に秘めた今の珊瑚は、甘やかされたようにも弱々しくも見えないことを。
だから、シキがどうして目を細めて、まぶしいものを見るように自分をいつまでも見つめているのか、ずっと、知らないままだった。
短い間でしたが、お付き合いいただき、ありがとうございました。