いつのまにか1
私情で投稿できませんでした。今少し、お付き合い頂ければと思います。
「離せっ」
シキの手を学園長はきつく振り払う。
いつもの彼女らしくもなく、あっさり振り払われてしまったのは、まだ相当に薬が効いているのに違いない。だがシキは肘をついて調理台の上に上体を起こした。
「お前が、したこと……絶対に、許さない」
シキの瞳は怒りに燃えて光っている。
「蛇屋を、舐めるな。……制裁を、受けさせて、や、る」
「うるさいっ」
金串を放り出して、彼は壁据え付けの電話機へと走った。そこに額をつけんばかりにして、指先でせわしなくボタンを押す。
「マム、マム!」
学園長の色白の耳が酸欠のために赤く染まり、プッシュボタンを押す指もひどく震えている。おそらくそのせいでハンズフリーのボタンにも触れてしまったのだろう。
「なあに、情けない声を出して」
電話機から聞こえてきたのは、美しい、深みのある女の声だった。
「マム、どうしたらいいの! どれなら殺してもいいの!」
「そのふたりは殺しては駄目でしょ、バカな子ね」
ああっ、と苦しげな声を学園長は出した。
「御堂寺の娘は、取り込めと言ったはずなのに」
女の声はきれいで聞き取りやすい英語だったので、珊瑚は眉をひそめた。
取り込む?
「それが、喧嘩を売ってしまって……いったいどういうつもりなのかしら。ねえ?」
その声には怒気はなく、かすかな笑いさえ含んでいた。
「厄介で強大な権力は、潰すのではなく、敵対するのでもなく、上手に取り込んでしまうものよ。今回はそれの良いチャンスだったのに」
「ごめんなさい! ごめんなさい、許してくださいマム!」
「そんなこともわからないとはね。思っていたより息子が愚かだったのかしら、それとも私の育て方が悪かったのかしら。フフ」
「マム! 聞いて!」
苦しさのせいか、見捨てられる不安のせいか、学園長の端正だったはずの顔は涙と鼻水で濡れて光っていた。
「どうかお願いです、挽回のチャンスをください。次はきっとうまくやります! 次は……」
「あなたは、誰」
彼の台詞をさえぎって珊瑚が割り込むと、彼女の声がわずかに艶を帯びた。
「その子の母親よ」
どこか誇らしげに彼女は続ける。
「普段はマムって呼ばれているけど。──シャーリーン・ガレリア。こう言えばわかるかしらね。御堂寺珊瑚。あなたなら」
彼女が名乗ったファミリーネームは、アメリカでも五本の指に含まれる資本家のものだった。
「ぐ……がッ、は」
学園長がうめいたのを、珊瑚は冷ややかに見つめた。
すでに夜刀の体を引きはがすだけの力は残っていないらしく、彼の両手は頼りなく宙を掻いており、顔色は奇妙に白かった。
「そこの蛇屋のお嬢さんに伝えてくれると助かるわ。その男を殺さないでくれると、今回の責任を取らせることができる、ってね」
珊瑚はシキを横目で見る。
シキは、まだ微妙に焦点の合わない瞳できょとんとしていた。
シキの英語の点数が八点だったことを珊瑚は思いだす。
「殺しても殺さなくてもどっちでもいいけど、生かしておいたら色々後片付けしてくれるらしいわ」
はは、と弱々しくシキは笑った。舌が回らないらしく、普段よりゆっくりと口をひらく。
「そういう頼まれ方はしてないんじゃないのー?」
「あら、頼みごとにしてはずいぶん上からよ、このかた」
「珊瑚はどうしたい」
「どちらでもいいわ。シキ、あなたは?」
あたしもどっちでも。と、殺されかけたにしてはずいぶんと心優しい返事だった。
「戻ってきな、夜刀。食べても美味しくないよ」
夜刀の体がゆっくりと緩んで、学園長の体から離れてシキのところへ戻るのを待って、珊瑚は再び口をひらいた。
「ヘリの死亡事故。これも、あなたが仕組んだことなの」
「そうよ」
女はやけに明るい口調で言った。指示したのは自分で、彼の食べた昼食に遅効性の毒を盛ったのは信田みさ子だと自分から種明かしまでして。
「よくわかったこと。賢いわね」
「理由を聞いてもいいのかしら」
「試したくて」
「──なんですって?」
「御堂寺の娘は、どれほどの強運を持っているのかしら、と思って。蛇屋の娘がヘリの操縦をできたのは予想外だったけれど、ま、それも強運のひとつに含めてもいいわね」
「死ねばいいわ」
夜刀が学園長でなく、この人の首に巻き付いているのだったらいいのにと珊瑚は思った。
そうだったら、決して、なにを言われようと通訳なんてしなかったのに。
「楽しい余興だったわ。ちょうど厄介だった使用人も同時に始末できたし」
フフ、と愉快そうに彼女は笑った。
「お嬢さん、あなたの振る舞いはなかなか見事だわね。花結びは美しい技術だったわ……日本人て素敵ね。蛇の娘に勉強を教えた時の要領も、なかなか良かった。学校に通ったことがないにしては、系統だった教え方をするのには感心したわ。それに、そうそう。ホワイトダイヤを目にした時の対応も良かった。高貴な感じでね」
珊瑚はぞっとして、眉をひそめた。
もしかして……いえ、もしかしなくても、自分の生活や言動は、この人に、すべて監視されていた……。
敷地内で道に迷った時の、あの奇妙な視線が思いだされる。
やっぱりそうだったのだ。誰かにいつもどこかで見られているような気がしていた。慣れないところに来たからではなかったのだ。生まれてはじめての集団生活に、神経が過敏になっているのではなかった。
(この学園で交わされる会話は、すべて筒抜け……)
「ただ」
女の声に、硬質で高圧的な気配が滲む。
「鎧が厚すぎる。人嫌いね。だから友達がいない」
珊瑚は黙って唇を引き結んだ。
持ち上げておいてから、思いきり叩き落すのだ。高いところから落ちたほうが人はより痛みを感じるから。
そう来るのではないかと思っていたから、油断していなかったのがよかった、と珊瑚は思った。防御なしの素直な心にそれを言われたら、どんなにつらかったろう。
(外れていないから、なおさらね……)
珊瑚はつとめて表情を変えないようにしていた。今のこの場だって、あちらには見えているに違いないのだし。
だが、内心では黒くて濁ったものが渦巻いていた。対等の敵だとみなしているなら、わざわざ親切に相手の欠点など知らせない。要するに、女は珊瑚を侮っているのだ。ものの数にも入らないと。
(……悔しい)
珊瑚の内心を知ってか知らずか、女は弾んだ声を出した。
「そこにいる、蛇遣いのお嬢さんも面白いわね。私は異国のシャーマン、大好き」
珊瑚は黙っていた。わざわざ通訳をしてやる義理などはない。
「伝えて? 一度遊びにいらっしゃい、って。うちの別荘は砂漠にもあるのよ。珍しい蛇もたくさんいますよって」
「ご親切に」
皮肉をまぶして、そうとだけ珊瑚は答えた。シキは英語を聞き取れないようできょとんとしているので、珊瑚は一方的に言う。
「気が向けば、伝えておきますわ」
誰が伝えてやるものか。
シキの性格だと、えっマジ、とか言って本当に素直に喜んで遊びに行ってしまいそうではないか。
(嫌よ、絶対だめ。ノーだわ)
「くそ女どもめ、許さないぞ……」
呪詛に似た声に、珊瑚は学園長の方を振り返る。
「このままで済ますものか、必ず、いつかこの借りは返してやるからな……」
彼は体をふたつに折り曲げ、苦しそうに浅く肩で呼吸をしながら珊瑚の方を見上げていた。
目の隅で彼のことを見下ろして、珊瑚は思った。好きにしなさい。
いつかっていつなの。わたくしも、シキも、もっとこれから成長するのに。今の時点でわたくしたちに叶わなかったのに、なぜ、次があるなどと?
「ママの言うこと聞いてろよ」
「ママの言うこと聞いてなさいな」
わずかにずれたのは語尾だけで、ふたりは、あら、と顔を見合わせた。