台風の夜
自分の指先が小刻みに震えるのを、シキは半信半疑で眺めていた。
ついさっきまでは、寒さに体がかじかんでいた。ずっと雨に打たれ続けて、さらに強風にあおられ続けていれば体温を奪われるのは当然だ。それでいきなりあたたかいところに来たので、体が変に反応しているのかな? と手を握ったりひらいたりしてみた、その視界が二重にぶれる。
おかしい、と気づいた時にはもう、まっすぐ立っていられないほどになっていた。
(どうして、この人が)
なにか即効性のものをお茶に混ぜて飲まされたことに気づいて視線をあげると、申し訳なさそうに食堂のおばちゃんがちんまり立っている。
彼女はいつもの白い三角巾を外して、体の前でぎゅっと握りしめている。
「ごめんよ」
そんな、謝られたって困る。
言いたかったが、声ももう出ない。
無理に出そうとすると、なにかが詰まったようになり、掠れたうめき声が出るのみだ。カウンターに手をついて、なんとか立っていようとするが、手にも足にも力が入らなくて、シキは膝からがくりとくずおれた。
「ほんとに、ごめんよ。あんたに恨みなんてない……本当だよ」
ほんとにだよ。とシキは最後に残った負けん気でそう思う。
なぜこんなことをされるのか、心底わからない。
だんだん意識が遠のいていき、最後に聞こえたのは、申し訳なさそうに淡々と口にする彼女の言葉だった。
「でもねえ、これは仕事だから」
時刻が深夜二時半を回っても、シキは戻ってこなかった。
なんとなく眠る気になれなくて、珊瑚は制服を着たままシキの帰りを待っていた。
一晩じゅう探すつもりなのかしら、あの人昨日も寝ていないのに、と思った途端、部屋の内線が静かな部屋に鳴り響き、珊瑚はびくっと肩を震わせる。
シキがかけてきたのか、と思って飛びついて電話に出ると、聞こえてきたのは暗い喜びをにじませる学園長の声だった。
「やあ、こんばんは。……起こしてしまったかな?」
珊瑚は冷ややかに応じる。
「なんの御用でしょう」
「話をしよう。厨房へいらっしゃい。……ひとりでね」
心の準備はしていたはずだけれど、業務用の調理台に寝かされているシキの姿をいざ目にすると、珊瑚の頭に血がのぼった。
(──よくもこんな真似を)
好き勝手な方向に跳ねている、いつもの彼女の毛先すら、今はぐったりとしおれて見える。
『相手が無力な時もそばにいたいか?』
朝彦が言った言葉が一瞬浮かんで、すぐに書き消える。
愚問だわ、と思った。あの子はわたくしが助ける。
「よくきたね、いらっしゃい」
シキの隣では、学園長が微笑んでいる。少し間を置いて、かっぽう着姿の信田みさ子が控えている。両手を体の前で揃えて、まるで服装を間違えた従者のように従順に。
「その子になにをしたの」
「ちょっと眠っていただいてるだけだよ。心配はいらない」
心配はいらない、ですって。
珊瑚の怒りが一層激しくなる。こんなことをしておいて言う言葉ではない。だが学園長は片手をシキの首の後ろへと差し入れ、やや上体を起こさせて、これから起こることが珊瑚によく見えるようにした。
「──やめて、シキになにもしないで。話なら聞くから」
珊瑚が言うのと、学園長が指先をシキの首筋に押し当てるのとが同時だった。
「いやっ」
彼の指にはにぶく光るリング状のものが嵌まっていた。
そのリングには二本の細い針のようなものが飛び出ており、その先端がシキの首筋に食いこんでいる。悲鳴をあげた珊瑚の目の前で、彼は針を根元までぐりぐりと押し当ててみせた。
「知っているかな……この島にはね、とある事情でハブがいる。専門の職員を呼んで定期的に駆除してはいるのだが、必ず、年に何人か咬まれる生徒がいるんだ」
押し付けていた指をゆっくり引き上げると、針先には鮮血がまとわりついていた。
シキはというと、微動だにしない。薬で眠らされているんだわ、と珊瑚は思った。
「あれを」
「どうぞ、こちらです」
信田みさ子は厨房脇の業務用冷蔵庫をあけて、そこから小さな薬瓶を取り出して彼に渡した。
「こんな天気に、こんな軽装で。外を出歩いていては、咬まれても不思議はない」
手に持った薬瓶をこれみよがしに揺らしながら、彼はなぶるように口にした。
「さて、これをどうするべきかな? 君の意見も聞いてみよう。珊瑚、君はどうして欲しい?」
「──シキから離れて」
「それは正しくない言葉遣いだな、珊瑚。お願いする時はなんて言う?」
「……お願い、します。シキに触らないでください」
「その願いをかなえてあげる代償に、私はなにを手に入れるんだろう?」
「なにが欲しいんですか」
「人形が」
そう言った時の学園長の歪んだ口元を、珊瑚は卑しいと思った。
自分に、今、権力がないことが悔しい。この男を今すぐ叩き潰してやりたいのに、自分にはなんの権限もない。
「傀儡、と言ってもいいかな。言うことをよく聞く人形を私は手に入れる。君は彼女の無事と安全を手に入れる。──どうだい、いい取引だろう」
「……わかりました」
こんなに本気で怒ったのは生まれてはじめてかもしれない。
なのに発する声は妙に落ち着いている。不思議だと珊瑚は頭の片隅でちらりと思った。さっき、寧々に対してはここまでの怒りは沸いてこなかった。突き飛ばされて、一歩間違えば荒れた夜の海に落ちていたかもしれなかったのに。
(そうか)
寧々は、己の嫉妬と割り切れない思いを直接珊瑚にぶつけてきた。それに対して、彼はシキと夜刀を使った。シキを動かすために彼女がもっとも大切にしている夜刀を用い、シキの安全を盾にとって、自分と交渉しようとしている。
(腹立たしい……)
こういう人間は嫌いだ。珊瑚ははっきりと思った。
怒りと反比例するように、頭の中はどんどん冷静になっていくのを感じながら珊瑚は口にする。
「それで? 彼女の安全と引き換えに、あなたはわたくしになにをさせたいの」
「素直でいい。始めからそうならな」
沈黙で先を促す珊瑚に、彼は続けた。
「跪け」
「今、ここで?」
相手の返事を待つまでもなく、珊瑚はその場に膝をついた。
このくらいのことで彼の自尊心が満たされるというのなら、いくらでもしてやろう。
「いつでも、私が命令した時には、私の足元に跪くんだ。肉体的にも、精神的にも。人としても、女としても」
「──……愛人にでもなれというのかしら」
愛人? 素っ頓狂な声を彼はあげた。
そしてひどく愉快なことでも耳にしたみたいに笑い声をあげる。
「そんな大層なものではない。人形だといったろう」
なるほど人形ね、と珊瑚は思った。
右といえば右を向き、鳴けと言えば鳴く。必要な時は呼び出して使い、必要がなくなれば廃棄する。人形でなければ奴隷と呼んでもいい。
「いつも、手駒に対してそんな扱いを?」
「本国にも何人かいるが、日本人としては初めてだ。光栄に思え」
彼は今や、これまで被っていた紳士の仮面を完全に取り払っていた。
傲慢な声と目つき。こちらの方が本性なのだと、誰に教えられなくてもわかる。
(下衆な男)
「ここで、それを誓えばいいの? そうすれば、シキには手を出さないでくれるの?」
「服従の仕方を教えてやろう。服を脱げ」
落ち着いていたはずが、かっと頭に血がのぼった。
冷たい床についた両膝が、そろそろ痛くなりはじめる。
「私に取りこまれるというのがどういうことか。教えてやる」
「なぜ、あなたの前で脱ぐことが、取り込まれることになるの」
クックッと、卑しい獣じみた笑い方を彼はした。こんなことをしているのが今回初めてではないどころか、これが彼の慣れたやり方なのだとわかるような口調だった。
「一度私のものになれば、二度とそばから離れようとは思わなくなる」
(死ねばいいわ)
ごく淡々と珊瑚は思った。
本来なら、怒る価値もない。だが、と冷静な胸の奥で闘志の炎がちらつき始める。
(シキに危害を加えた落とし前だけは、つけてもらわなくては)
「……先生」
じり、と珊瑚は膝であとじさった。
媚びる声など、今まで一度も出したことはない。はたして上手にできるかしらと珊瑚は思った。
「言うとおりにします、先生」
「逃げようとしても、そうはいかないぞ。こちらには人質がいることを忘れるなよ」
「違います、そうじゃありません」
他人を陥れる時には、感情で行動してはいけない。
さっき、寧々がどれだけ憐れに見えたか珊瑚は思いだしていた。決して、彼女自身はそんな印象を与えたかったわけではないだろうに。感情に流されるということが、どれほど危険かつ敗北を招くか、珊瑚はもう一度胸に叩き込んでから、せいいっぱい甘えた目つきで学園長を見上げる。
どれだけ自分が上手にできるか、やってみましょう。
「その人は、わたくしの大事な友人なんです。なんでもします、だから彼女のことは」
そこまで言った時、調理台の上でシキがぴくりと動いた。
だらんと伸ばした指先が震える。ごくうすくだけれど目があいて、視線がこちらに向けられる。なにか言いたいけれど声にはならない、そんな目つきだった。
薬が切れかけてきている。このやり取りは聞こえているのだと珊瑚は思った。
「さっさと脱げと言ってる。時間をとらせるな」
「ただいま、すぐに」
大丈夫、わたくしにまかせてみて。
心の中でそう言いながら、珊瑚は指先で制服の前のボタンをひとつ外す。
「待たされるのは嫌いだ。……なぜ後ろへ下がる!」
「恥ずかしいんですもの」
ややもたついて、時間を置いてさらにもうひとつ。
白い胸元が見えるかと思った時、珊瑚がうつむいたので長いふわふわの髪で肌と表情が隠される。
怯えているように見えるかしら? 本当に恥ずかしがっているように見えるかしら?
珊瑚が制服のボタンを外すたびに、布地の下では夜刀がじわじわ動いていた。それまでは極力珊瑚に負担をかけないよう、ごくやんわりと巻き付いていたのが、次第に形を変えてゆく。攻撃の形を整えるように。
夜刀もまた怒っているのが、肌を通して伝わってきた。
蛇の鱗が見えないよう、珊瑚は学園長に背を向ける。苛立った声が飛んできた。
「逃げるんじゃない! もっとこちらへ」
学園長の足が一歩、珊瑚に近づく。珊瑚が離れる。
学園長が大きく一歩踏み込んできて、細い肩を強くつかんだ。
「時間稼ぎしているつもりなら……」
「いいえ?」
顔を斜めにして、珊瑚は学園長の顔を見上げた。シキから彼を離れさせること。それはひとまず成功した。
「しませんわ、そんなこと」
結果に小さく満足してから、制服の胸元を両手で大きくひらいてやる。
そこでは、夜刀がもう待ちきれなさそうにしていた。
シキのように言葉こそ通じないけれど、珊瑚がしようとしていることを夜刀は正しくわかっていたし、夜刀がわかっていることを珊瑚も知っていた。黒灰色の鱗が光る蛇の頭部を目にした学園長が喉から悲鳴のような声を出す。
「だめ、逃げては」
その彼の腕を、ぎゅっと珊瑚はこちらから掴んでやった。
夜刀の動きは素早かった。
先程、寧々に対して仕掛けた時には顔を見せて脅すだけだったものが、今度は本気の素早さで、その筋肉の動きのせいで珊瑚の素肌が痛みに軋んだほどだった。
「坊ちゃま!」
信田みさ子が、思わずと言ったように声をあげる。
「行っておいで」
蛇は学園長の腕から肩へ、肩から首元へと乗り移っていく。
「行きなさい、あなたの大事な人を守るのよ」
夜刀は学園長の首にちょうどひと巻きしたところで、鎌首を少しもたげて珊瑚を見た。珊瑚は小さくうなずき返す。
学園長は両手を喉元にかけてなんとか蛇を引きはがそうとしたが、夜刀の体はびくとも動かない。彼の両手がもがくように暴れ、瞳の白目部分が充血し始める。
「坊ちゃま、ただいまわたくしが!」
調理用の小型ナイフをつかんで駆け寄ろうとする信田みさ子を、珊瑚が止めた。
珊瑚の手には、長い刃渡りのパン切り包丁が握られている。それを水平に構えて、珊瑚は低い声で言った。
「邪魔をすれば、邪魔をされるものよ」
ガシャガシャン、とやかましい音がして、珊瑚はパン切り包丁を油断なく構えたまま、目だけを動かしてそちらを見た。
首から体にかけて夜刀に巻き付かれたまま、学園長が倒れ込むように調理台の引き出しをあけ、中身をかきだしているところだった。
右手は空気を求めるように蛇と喉の隙間に差し込まれて、左手で引き出しの中身を片っ端から床にぶちまける。鉄の栓抜き、竹串、パレットナイフに黒の油性マジック。なにかしら武器に使えそうなものを探して、次から次に。
珊瑚のいるところから、夜刀の体表面がゆっくりと動き続けているのが見えた。大型の蛇が獲物を絞め殺すときは、一気に締め上げるのではなく、相手の呼吸や暴れる体の動きに合わせてゆっくり、ゆっくり締め上げていくのだということはのちに知った。
やがて、学園長は引き出しの奥からバーベキュー用の金串を見つけ出し、逆手にそれをつかんだ。
震える左手でそれを夜刀の体に突き刺そうとしたその手首を、掴んだ手がある。
「さ、せるか」
シキだった。