雨が続くのなら4
私立金葉学園の食堂をあずかる信田みさ子は、翌日の仕込みの手をとめて顔をあげた。
なにか物音がした気がする。
食堂の電気は消して、厨房の明かりだけつけてあるので、カウンターより向こうはよく見えない。
「誰かいるのかい?」
風邪っぽいだとか、お腹すいちゃった、とか言って生徒が夜中に現れることはたまにある。そんな時は即席の生姜湯を作ってやったり、残り物のご飯で夜食を作ってやったりするのがいつものことだった。
手をとめて目をすがめる彼女の耳に、びちゃっ、という音が聞こえた。
「おばちゃん」
「ぎゃ!」
手にした包丁を思わず持ち上げてしまうほど、信田みさ子は仰天した。
ぽたぽたとひっきりなしに水滴を落とす人影が、のっそりと姿を現したからだ。
貼りついた黒髪で顔の半分が覆われており、それをかきあげる元気もないというように、両手は肩からだらんとぶら下がっている。着ているものもびしょ濡れすぎて、もはやなにを着ているのかもわからないほどだ。
「成仏しとくれ! なんまいだ!」
「おばちゃん、あたし」
よれよれの人型をしたものがしゃべるのを聞いて、それが誰だかようやくわかった。信田みさ子は腹の底からため息をついてゴトンと包丁を置いた。
「なにかと思ったら……シャワー後でもここまでなるまい。外にいたの? こんな天気に?」
「ちょっと、さぶくて……」
当たり前だよ、と彼女は乾いたタオルをシキに投げてやったが、このありさまでは一枚で足りるかどうかもあやしい。拭いても拭いても、体のどこかから水滴が落ちている。
「その濡れ方。どんな海坊主かね」
「あたし女だけどね……」
「海女にしちゃ手ぶらだろ」
シキが無言になったところへ、信田みさ子はマグカップにジャスミン茶を注いで差し出した。明日の下ごしらえをしながら、自分でも飲んでいたものだ。
「あったまるよ」
「うん」
一口飲んで、シキは口元を歪めた。
「苦いかい。ココアでもつくってあげようかい。すぐだよ」
「いや、これで十分」
びしょ濡れの前髪を大きくかきあげて、シキは笑った。疲れていることがわかる笑顔だった。
ごちそうさま。そう言ってカウンターにカップを置こうとした手が空回りした。シキは確かにカウンターの上に置いたつもりだったのだが、カップは縁からまっすぐ落ちて無残な音を響かせる。
「ごめ……」
「ちょっと、大丈夫かい、あんた」
大丈夫、昨日寝てないから、それで。シキはそう言おうとした。
割っちゃった、ごめんなさい、とも。
だが、声にはならなかった。
思ったように動かない自分の体に、シキはわずかに首をかしげた。
どうしてこんなに体がいうことをきかないのか、わからなかった。