雨が続くのなら1
一晩明けて次の日になっても、夜刀は見つからなかった。
シキはかろうじて授業には出席していたが、見るからに上の空で、目の下には憔悴の色がある。
彼女は八つ当たりも愚痴めいたことも一切口にしなかったが、その背中にはどこかイライラした雰囲気が漂っていて、声をかけるのがためらわれるほどだった。
「シキ」
午前中の授業が終わり、鐘が鳴るのを待ちかねるようにしてシキが立ち上がったので、その裸の肘のあたりを珊瑚はそっと触れて振り返らせる。
「せめてなにか食べていないと。──あなたの体が参ってしまうと、夜刀のためにも、よくないわ」
そう言って、朝食の席で頂戴してきたマンゴスチンを数個、シキに手渡す。
「……ありがと」
以外にも素直に、シキは受け取った。
黒スカートのポケットにそれらを無造作に突っ込み、不格好にシルエットが膨れ上がった格好のままで教室から出ていく背中を見送って、珊瑚は思った。
誰が、夜刀を彼女から引き離したのだろうと。
一晩たって見つからなかった時点で、偶然はぐれただけという線は消えた。
夜刀が自分の意思で散歩に出かけて戻ってきていないだけ、という選択肢もだ。あんなにしっかりと自分の意思を持つ、冷静で聡明な生き物がそんなことをするとはとても考えられなかったから。
さて、それではいったい誰がしたのだろう。そしてそれ以上に、なんのために。
静かに考えこむ珊瑚の横顔を、寧々がじっと見つめていた。
ちくん、と珊瑚は下腹に痛みを感じて立ち止まった。
その日の夕食の時間、トレイを手にしてカウンターに並んでいた時だ。
(まただ……なにかしら)
午後の授業が始まって少しした時にも、一度感じた。その時はすぐにおさまったこともあり、あまり気にはしなかった。女性の体の周期的なものかとも思ったが、そんな時期でもない。
(──ッ、つう)
ごく短い間だが、強い痛みに襲われて珊瑚はその場でわずかに前かがみになる。まっすぐ立っているのがつらい。
「どうしたの」
すぐ横に誰か立った気配がして、珊瑚は反射的に眉を寄せた。
今はこの人に見つかりたくなかった。
いつもなら、表情を作れるのに、今はそんな余裕がないことが口惜しい。
「具合が悪いのかな」
「大丈夫です」
珊瑚は片手を下腹にそっとあてがいながら背筋をまっすぐにする。だが学園長は案じるような顔で珊瑚を覗き込んできた。
「体調がすぐれないなら、すぐに言いなさい。ここは離島で、天候によってはすぐにヘリが飛べないときだってある」
「そうですね、でも平気ですから」
「我慢は禁物だよ。医務室で休むかい?」
「いいえ」
医務室。お茶会。カウンセリング。
彼が目星をつけた生徒と二人きりになる合法的な仕組みが、ここには張り巡らされていると珊瑚は思った。
「しばらく休めば、大丈夫です。ひどくなったら伺いますね」
「そうかな……十分、つらそうに見えるが」
どうして最初から彼のことが不快だったのかわかった、と珊瑚は思った。本当に親身になってくれているのではなくて、そう思わせようとしているような、作為的なにおいがするからだ。
それを隠そうとして、隠しきれていないからだ。
(──ずいぶん、露骨にやってるよなあ)
珊瑚と学園長のやり取りを、入り口に立ったまま朝彦は見ていた。
距離があるため会話の内容までは聞こえてこないが、遠目にも、学園長の申し出を珊瑚が辞退しているのがわかる。一度、二度では諦めず、学園長がさらに食い下がっているのも。
(見苦しいぜ。そこまで必死だと)
冷ややかに彼がそう考えた時。すぐ横を、ダーッと駆け抜けた人影がある。
長めの前髪をふわりと揺らされて、朝彦は目をぱちくりさせる。
シキは珊瑚のところまでまっすぐ走っていくと、その首っ玉に自分の片腕を鈎型にひっかけると、その場から奪い取るようにして連れ返ってきた。
いきなりのことで学園長の顔がぽかんとしているのがここからでもわかって、朝彦はくっと笑いをかみ殺す。
「なんとも、力技ねえ」
かたや、奪い取られた珊瑚の方はまんざらでもなさそうな苦笑いだ。
「だって、寝てないし。いろいろ策を練るのがめんどくさかったよ」
「わかるけどね」
ぶすっとしたまま答えるシキに、珊瑚はくすくす笑っている。
シキは次に、朝彦のことをじろりとにらんだ。その目の下にははっきりとくまがある。
「お前。感じ悪いぞ」
シキが、直球しか投げられない田舎の年寄りのように言ったので、朝彦は少なからず狼狽した。
「えっ……ええと?」
「見てたけど。感じ悪かった、お前」
「あのそれ、僕のこと……かな」
「だって、観察だろ。お前がしてたのは」
「うわ」
核心から少しも外さずに彼女に言われて、朝彦はどきっとする。のみならず、それを素直に表情に出してしまいすらした。
「見守ってたわけじゃないだろ。絶対観察だろ、今の。感じ悪いぞ、仮にも求愛してんだろ。好きな女くらい守ろうとしろよ」
言うだけ言ってしまうと、シキはまたダーッと駆け去っていってしまった。
今の、なにしに来たんだろ……。と頭の片隅でどこかぼんやり朝彦は思う。
まさか、珊瑚の様子を見るためだけに、ここに来た、わけではないよな。
シキの台詞は的確なだけではなくて、妙な迫力も伴っていた。まだ胸がドキドキしている朝彦をよそに、珊瑚はおかしくてたまらないというように横を向いていた。その細い肩が震えている。
学園長から奪還して、敢えて自分のところに残していくということは、『お前が守れ。わかったな。拒否は許さない』そういうことなんだろうな、と朝彦は吐息をついた。
「突風のようだったな」
「そうねえ。それで? 観察していたの?」
うわ、君まで。と朝彦は上体をのけぞらせる。
「なんかさ。あれじゃない? ここ数日で君は彼女に性格が似てきたんじゃない?」
「そうだとしたら嬉しいことだわ。それで? あなたは観察していたのね、わたくしが学園長にからまれているのを? 観察というなら、ホワイトダイヤの時もそうだったのかしら」
珊瑚の薄茶色の瞳に朝彦はじっと見つめられる。口元と口調には笑みが漂っているけれど、瞳にはそれがない。
朝彦は両手を軽く肩の高さにあげて降参した。
「あーもう……そうだよ。そうですよ」
沈黙と、目に込めた力とで珊瑚は先を促した。
「だって、石のひとつで落ちる女に興味なんかないからね。学園長の外面の良さに騙される程度の女も。あなたがどう反応するか、どう切り抜けるのかな、と思って」
それは朝彦の本心だった。そして珊瑚にも正しく伝わった。思わず顔を歪めそうになるような身勝手で傲慢な物言いだからこそ、嘘ではないことがわかったのだった。珊瑚は小さくため息をつく。
「確かに、趣味は相当悪いようね」
「ごめんてば。でもわかるでしょう、こういう感じ」
朝彦はあくまで悪びれない。
「まあね」
わからないでもない、と珊瑚は思った。
相手がどれほどの人間なのか、見極める時の妙な高揚感。悪戯っぽい気持ち。そこにはわずかの楽しさも確かに含まれている。
「人を遠くから観察するのって、楽しいものよね」
すでに夕食をとろうという気持ちは珊瑚の中から失せていた。さっき学園長と話していた時ほどではないが、痛みが続いているのも気になる。
確か荷物の中に常備薬があったはずだ、と珊瑚が踵を返して歩き出すのに、朝彦も当然のように従った。
「腹痛ですか?」
「いいえ?」
「よければ、薬、お分けします」
「結構よ。……というより、いいえと答えているのにその台詞っておかしいでしょ」
「せめて体調がすぐれないときぐらい、隠さずに話してもらうこと、が当座の目標ですかねえ……」
「それは遠い道のりね」
珊瑚が心ならずも朝彦と並んで歩いていると、ちょうど渡り廊下に差し掛かったところで、さっき別れたばかりのシキを見つける。
「外に、探しに行くつもり?」
シキは飾り気のないポロシャツにショートパンツという格好で、外靴に手をかけたところだった。
「校内はもう全部当たったんだ。これでいないとなると……もう外しかない」
「危ないじゃないの、台風がくるのよ」
外では、いっそう強く雨が叩きつけている。校内にいてもその音がうるさいくらいだ。
「だからだよ。探すなら今しかない」
「そんな格好で……」
「ダメかな? じゃあ潜水用のウエットスーツでも着る? 信田のおばちゃんが持ってるってさ」
そうなんだ、と珊瑚は思った。
やっぱりあの人、海の幸あれこれ、自分で潜って獲ってきてるんだわ。
「いえ、そうじゃなくてね。着るなら雨合羽でしょう」
「それも考えた。けど濡れて気持ち悪い点ではたいして変わらんかなと。それで、珊瑚は、なに怒ってたの」
「えっ」
突然言われて、珊瑚は目をぱちくりさせた。
「今、あたしと話す前、怒ってたでしょ。なに怒ってたの?」
そんなことないわ、と珊瑚はかろうじて小さく首だけを横に振った。
いかにもとってつけたような否定になってしまった。図星を言い当てられると、人間はとっさに言葉が出ないものらしい。
くい、とシキは顎で朝彦を指し示す。
「こいつになにされた? もしくはなに言われた?」
「えっ僕!」
お前以外に誰がいるんだよ言ってみろよ、というのがシキの返答だった。
「さっきお前に預けてから何分経ったんだよ。この短時間でなにをすればこいつを怒らせられるんだよ。さっき釘を刺したばかりなのに、今またこれかよ。お前、向いてないよ」
「なににだよ」
つけつけと立て続けに言われて、軽くむっとしたらしい朝彦が返したが、シキは勢いを減じるどころが、さらに言葉で貫く。
「こいつの男に立候補するにはお前、向いてないっていうの。ちょっと考えればわかるだろ。こいつの立場って、気を遣ったり腹の底読みあったりの連続じゃん。そんな中でこいつの男になるんなら、そばにいて安らげる男じゃないと駄目だろ。余計に怒らせるんじゃなくて」
朝彦が黙ったのを、珊瑚は驚くような気持ちで見ていた。
「しかもお前、怒ってるのに気づいてすらいなかったよな。だから向いてないっつうの。──ていうか、お前にこいつはもったいないよ」
(……そんなふうに、思ってくれていたんだ)
容赦なくやりこめられて一言もないでいる朝彦には申し訳ないが、珊瑚の胸は熱かった。
もったいない。そんなふうに思ってくれていることが嬉しかった。
(シキは──わかってくれている)
そう考えると、たっぷりの湯船に浸かった時みたいに、体が内側からじわじわと温かくなってくる。先程までの胃痛は、どこかへ消えていた。
たしたし、と玄関のフロアに外靴を放り出すように置いて、そこに足を入れながら、歩きながら、靴を履くというよりつっかけて出ていこうとするシキに珊瑚は声をかける。
「着替えたら、一緒に探すわ」
「だめーっ、危ないから!」
「あなた、自分のことを棚に上げて」
あたしは野生児だから、いいのーっ。
そう言って、シキは暗くなった外へ飛び出していった。