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孤独な珊瑚と三代目の蛇屋  作者: 小町 慧斗
10/18

ミルク色のダイヤモンド2

 翌朝、頭を使いすぎた、とかなんとか言ってシキはいつも以上に起きて来ようとしなかったので、珊瑚は起こすのをあきらめてひとりで食堂へ向かうことにした。

 今朝は果物だけにしとこうかな、と考えながら、珊瑚は食堂へつながる廊下を歩いていく。


 棟と棟とをつなぐ渡り廊下は大きな窓ガラスが連なっており、海から昇る朝日でまぶしいほどだった。

 ここの食事は確かに豪華なものだけれど、来る日も来る日も新鮮な海の幸がふんだんに出て、正直なところいささか食傷気味でもある。始めから短期のつもりで来ている珊瑚ですらそうなのだから、ここに長くいる生徒は推して知るべしだろう。贅沢だからこそ、飽きるということもあるのだ。


 慣れっておそろしいわね、と思いながら珊瑚は食堂の前で足を止める。

 そこには、四十センチはあろうかという伊勢海老が、がしゃがしゃと柱の段差にぶつかってもがいていた。生徒たちは、きゃっと悲鳴をあげるもの、見てみぬふりで素通りするものなど様々だったけれど、珊瑚はじっとそれを見下ろす。


(というか、蛇と比べたら大抵の生き物は怖くないって最近わたくし思うの……)


 伊勢海老を片手でつかみ、まっすぐ厨房へと歩いていく珊瑚を、食堂の片隅から寧々が見つめる。理解しがたいものを見る目つきで。


「信田さん」


 珊瑚には、働く人をおじさんおばさんと呼びつける習慣がない。家でもそうだ。運転手なら田端さん、熟練の庭師は小田切さん。だから胸元のネームプレートに書かれている通り、彼女のことも名前で呼ぶ。


「信田さん、これ。脱走していたわ」


 伊勢海老を手渡すと、いかにも長年水を扱ってきたらしい、赤黒くてぶ厚い手の平がそれを受け取る。


「あらーよかった、こいつは今朝一番の大物だからね。手こずったんだよー」


「あの、もしや……ご自分で捕まえるの?」


「そうだよ、素潜りさ」


 当たり前が八割、残り二割が誇らしさの口調で言われて、珊瑚は思った。ここに豪の者がいるわ。


「そろそろ台風シーズンになるしね。今夜から天気が荒れるらしいから、今朝のうちに多めに獲っておかないと、と思って」


「ええと、漁師の家系でいらっしゃる、のかしら」


 まさか! と食堂のおばちゃんは豪快に笑い飛ばした。


「もとはといえば、あたしは可愛いメイドさんさ。ハンサムな坊ちゃまに大きなお屋敷。これはね、必要に迫られて覚えたの」


 ほら、メイドはなんでもできなくちゃいけないから! 腰に手をあてて自分で言ったことに自分で大笑いする彼女に、珊瑚は突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからないような、そんなときは無暗と話題を広げないほうが無難なような、複雑な表情の愛想笑いでその場をやりすごす。


(わたくしの知っている中では、鎌倉の大伯母様が一番の豪の人だと思っていたけれど)


 なにやらここ数日で、強く頼もしい女ランキングの上位が激しく塗り替えられているような気がしないでもない。


(世界は広いということね)


 そんなことを考えながらトレイに朝食を取るべく先に進もうとした時。ふと、珊瑚は肩越しに振り向いた。

 誰かがじっと見ているような気配を感じたのだった。


(……誰も、いない)


 だが振り向いた先には、いつもの清潔な感じのする食堂に、点々と散らばった生徒たちが、思い思いに食事をとっている姿があるだけ。誰もこちらを見てはいない。


(気のせいだったのかしら)


 そう珊瑚が思った時。はいこれ、焼きたてだよ! と食堂のおばちゃんが差し出してくれたのは、焼きたてのパンだ。パン籠を持っていないほうの手には、まだがしゃつく伊勢海老をしっかり掴んだままだった。

 その迫力に負けて珊瑚はそこからひとつ取り、適当にあいている席につく。

 焼きたてのアーモンドブレッドはひどく美味しかった。ツイストをかけた表面にはぱりぱりのアーモンドスライスが散り、もっちりした生地を噛みしめると練りこまれたペーストがほんのり甘い。

 ともかく、この料理の腕は素晴らしいわと珊瑚が素直に感嘆していると、


「珊瑚さんよね」


 声をかけられて、珊瑚は振り仰いだ。

 もう食べ終わったらしいトレイを持った少女が二人、テーブルの横で微笑んでいる。


「さっき、すごかったわ」


「勇気があるのね」


「そんな。とんでもないわ」


 伊勢海老のことか、と察した珊瑚は謙遜まじりに笑ってみせたが、あ、と珊瑚の頭越しに少女の片方がなにかを見つけて声をあげる。


「学園長先生がいらした」


「ほんと」


 彼女たちの口調と表情に憧れがにじむのを、珊瑚は冷ややかな気持ちで見ていた。

 出入り口付近の床に水滴が落ちていたらしい。女生徒が滑って転びかけるのを、居合わせた学園長が片手で支えてやったのだった。


「やだ、羨ましいわね」


「私もああいうふうにして頂きたいわ」


 ここは同調すべきところだろうとわかってはいたけれど、そうする気にはとてもなれなくて、珊瑚は曖昧に微笑んで流す。

 学園長が女子に人気なのはこの数日でわかっていたが、そんなにいいものだろうか、と珊瑚は遠目に彼を観察する。

 確かに整った顔立ちではある。甘い笑顔だし、背も高いし、女の子をエスコートする際の仕草も手慣れている。だが珊瑚には、少しもいいとは思えないのだった。それでも少女たちは片手を胸元に押し当て、もうたまらないというように瞳を潤ませる。


「お茶会にまたご招待していただきたいわ」


「カウンセリングと違って、予約すれば受けてもらえるというものでもないのよね、あれはね」


「あの、お茶会って」


 珊瑚が尋ねるのに、ふたりは説明した。


「たまに呼ばれるの。個人面談と懇親会の中間みたいなものね」


「お気に入りの生徒は呼ばれるのだとか、逆に、問題を起こしそうな生徒が呼ばれるのだとか、いろいろ」


「はっきりした基準が見えないところが、またレアなの」


 まあ。そうなの。それはレアですね。珊瑚はそつなく応じる。


「ではお先に」


「授業で、またね」


「ええ、授業で、また」


 彼女たちが立ち去って、小さく息をついた珊瑚の横に、


「おはようー。お隣失礼しまーす」


 聞き覚えのある、冗談めかした声がする。


「座っていいとは言っていないのだけど」


「まあいいじゃないですかあ」


 東郷朝彦は悪びれない。


「ひとりでいて、隣にあの人が来るよりましでしょ?」


 彼の視線の先を見なくても、誰のことを言っているかはわかる。彼も学園長のことをこころよく思っていないのだと知ってほっとする気持ちがあったけれど、だからと言って、それとこれとは別の話だ。


「どちらもお断りな場合はどうしたらいいのかしら」


 ひっどいなあ、と朝彦が言うのは無視していると、食堂のドアをあけて、つなぎの作業着を着た二人組の男が顔を見せた。男たちは最寄りの生徒に声をかけ、生徒が朝食カウンターに並んでいた学園長のところまで用件を告げに行く。


「スネークセンターの人だってさ」


 なにも聞いていないのに朝彦が言った。


「年に何度か頼んでるんだって」


「わたくしよりも遅くこの学園に来た割に、ずいぶん詳しいじゃないの」


「なんかね、女の子たちが教えてくれた。蛇いるんだってさ、ここ」


 知っているわ、と珊瑚は思った。

 学園長がつなぎの男たちと共に食堂から出ていくのを目の端で見ながら、珊瑚は言う。


「あなた、友達いる?」


 お茶の湯飲みが朝彦の手から滑って音を立てた。


「……なにそれ。ものすんごい皮肉?」


 違うけどね、と珊瑚は思った。でもそう思うなら、自分の言動をようく振り返ったほうがいいのじゃないかしら、とも。


「ではなくて、ひどく貴重なもの、という意味でよ」


「ああ。いないよ」


 彼はすぐに意味を理解し、あっさり答えた。


「ぜろにんだね」


「友達の条件って、なんなのかしら。ここ最近ずっと考えているのだけど、思いつかなくて」


 んー、と朝彦は視線を上へ向けて少し考えながら答える。


「僕たちって、いわゆる、こういう生まれじゃない。だから普通の中高生とは少し違うよね。条件というかさ」


「普通。いいわね、まぶしい言葉よね」


「ちょっと憧れるよねー」


「当たり前、とかも」


「同意。超同意」


 アイアグリー、と付け加えてから朝彦は本題に戻る。


「普通の学生だとさ、友達の条件って、利害関係抜きで好きだと思える人、とかだと思うんだよ」


「そうね」


「でも僕らの立場だとさ。それってすごーく難しくない?」


 沈黙で珊瑚は肯定の意を示した。心当たりが、ありすぎる。


「僕たちのまわりには、友人を装ってなにかを融通してもらおう、そう考える人間の方がはるかに多い。僕たちは幸いにして、相手の腹黒さをある程度読み取れるくらいには聡明だけれど、でも、計算ずくでない人間を探すのは」


「砂浜でダイヤモンドを探すようなものよね」


「そうー」


 それー、と朝彦は人差し指をぴんと立てた。


「価値観が同じのようだね、いいねいいね」


「わたくしは微妙に嫌だけどね……」


「あ、そゆこと言うんだー」


 だからね、と朝彦は時計をチラ見してから、再び話をもとへ戻す。


「僕たちにとって友達、というのは、相手が無力であったとしてもそばにいたいと思えるかどうか。だと思うんだよ」


 相手が無力であったとしてもそばにいたいと思えるか。

 いい言葉だと珊瑚は思った。


「と同時に、自分が無力になった時、相手が自分のそばにいてくれるか」


 どうかな、私見ですけど。と珊瑚の顔を覗き込む朝彦に、珊瑚は椅子を引いて立ち上がった。そろそろ出なくては一時間目に間に合わなくなってしまう。


「そして、ぜろにんなわけね。ごちそうさまでした、お先に」


 うわ、ひどっ! と朝彦の声が聞こえたけれど、振り返ることなく珊瑚は食堂を後にした。



 その日の放課後、台風がくるという天気予報の通り、空は次第に暗くになり、風も強くなりはじめていた。


「ごめん!」


 シキは顔の前で両手を打ち合わせて、授業が終わるのが待ちきれないというように出かけていった。


「今日の放課後の勉強はサボらせて? お願いっ」


 サボりって、こんなに堂々と宣言してから行うものなのかしら。と珊瑚は思って細目になる。いくら自分が世間知らずだからといって、それは違うと思うのだが。

 もうすこしましな言いぐさがあらまほしい、と思っているのが伝わったのかどうか、シキは続ける。


「なんかさ、スネークセンターの職員が来てるらしくて。見に行きたいんだよねえ。蛇屋以外の人間の蛇の扱い、すっごい興味ある!」


「まあそういうことなら、行って」


 行ってきたら、と珊瑚が最後まで言い終わるのを待てないというように、シキはすっ飛んでいった。

「ごめーん夜頑張るからー」


 というのも走りながらだった。

 さてどうしよう。偶然できた空白の時間を無為にするのももったいなくて、珊瑚は談話室に足を向けた。

 大きな窓から外の東屋へ出られるようになっている談話室は、悪天候のせいか誰もいなくて、珊瑚はキッチン脇に備え付けてある食器棚でゆっくりと茶器を選んだ。

 おそらく五十はくだらないであろう、ひとつひとつ色柄違いのカップとソーサーがそこには並んでいる。茶器の柄がよく見えるよう、皿は斜めに立てかけてあって、ひと目見てアンティークとわかる高価なものも多い。


 お茶でも入れて、自分の部屋でゆっくり考えようと思った。

 もともとここへ来た目的は、見合いをいかにして断るかだったのだから。

 白と水色のシンプルな地色に、金彩で細いラインが施されているのを珊瑚は選んだ。そこにちょうどよく朝彦が入ってきたのは、湯が沸くのを珊瑚が立ったまま待っていた時だった。


「ついてくるわね……」


 聞こえるか聞こえないかでつぶやいた彼女とは裏腹に、彼ははじめ驚いてつんのめるように動きを止めてから、次の瞬間、ぱっと嬉しそうな顔になった。その表情から、偶然居合わせたのだとわかるものの、不快であることに違いはない。


「お茶、ですか?」


「ぜろにんがひとりになった、とか思っているなら残念ですけど見当違いよ?」


 もうー、と朝彦は大げさに身をよじる。


「お茶をさ? 一緒しましょうよって言おうとしただけじゃん。容赦ないんだから」


「生憎だけど、わたくしひとりで考えごとがしたいの」


「僕とのことを?」


 つんと顔をそらしたまま、少しも反応するまいと珊瑚はつとめる。早くこの場を立ち去ってしまいたいが、湯はまだ沸く様子がない。


「そんな眉間にしわを寄せてると。そのまま固まっちゃいますよ?」


「そうなったならご自分のせいだとは、思わないわけね」


 言葉に力を込めて珊瑚は言う。


「わかりますよ? 僕とのお見合いが嫌なんでしょう。こんなところへ避難してくるぐらいに」


「嫌がられている自覚があって、なによりだわ」


「それだとしたらなおさらね、僕と話をしたほうがいいんじゃないかと思うわけですよ」


「……謎な理論ね」


「僕がなにを考え、なにを基準に動く人間なのかがわかれば、断る方法も思いつきやすいのではないかと。そう思う次第で」


 これって、ものすごく巧みなのか、ものすごく馬鹿か。プレゼンの出来としてはどちらに入るのだろうと珊瑚が半眼になっていると、朝彦はズボンの尻ポケットから長財布を出してテーブルの上へ置いた。まるで場所取りでもするみたいに。


「というわけで、お茶菓子持ってきますね。すぐ戻りますので。すぐ」


 なにが、というわけでよ。

 再びひとりになった珊瑚は、ようやくお湯が沸いたのを見て火を止めた。

 別に、このまま自室に戻ってしまえばいいだけの話ではある。まさか女子生徒の部屋へまでは入ってこられまい。

 だが、今この場には珊瑚以外の誰もおらず、テーブルにはぽつんと朝彦の財布が置かれている。


(……なんというか。ズルいけどうまい手、なんでしょうねこれは)


 その場を離れるに離れられず、珊瑚は不承不承、丸テーブルのひとつに腰掛けた。

 本当にすぐに、朝彦は戻ってきた。両手にはバタークッキーを箱ごとと、和三盆の干菓子、きれいな色どりの金平糖が一袋と、アイシングのかかったマフィンまで抱えている。


「……そんなに、いったい、誰が食べるの」


「ど、どれが好きかわからなかったもので。とりあえずありものをそのまま」


 荒い息遣いのまま朝彦が笑みを浮かべる。


「あーそのまま。座っていてください。僕がしますよ、サーブは」


 珊瑚が用意してあった茶葉を計り、彼はそこそこ手慣れた様子でお茶を入れる。手を動かしながら口の方も流暢だ。

 和菓子と洋菓子ならどちらがお好きですか。お茶はいつもストレートで? それともミルクを? これ美味しいですよ、どうぞ。

 朝彦はなにくれとなく世話を焼きたがり、珊瑚はすすめられるままにマフィンをひとつとりあげて口にした。香り高いレモンの風味に、柔らかいクリームチーズのアイシングが混ざり合って濃厚な味になる。

 この味、信田さんのだわと珊瑚は気づいた。朝食べたアーモンドブレッドと、味のバランスの取り方がまったく一緒だったからだ。それを言うと、朝彦は目を細めた。


「確かな舌ですねえー」


「褒めてほしくて言ったんじゃないわよ。こんなの、朝のカウンターにあったかしらって思ってるの」


「作ってもらったんですよ。頼み込んで」


 年上女の懐に入りまくりだなお前。シキがここにいたら言ったろうが、珊瑚にそのような語彙はなかった。

 彼がいれた紅茶はほどよい濃さで美味しかった。黙って飲み進めていると、朝彦はキッチンで見つけてきたトングやスプーンを使って珊瑚の皿にクッキーだの金平糖だのを取り分けてくる。


「これ好き? これは? はい、これも美味しいですよ」


 油断していなくてよかったと、心から思った。浅いスプーンで取り分けた金平糖が、きらりと光ったような気がしたからだ。


(……んん?)


 砂糖粒の輝きじゃない。そんなものじゃない。

 頭の中で警戒信号がともると同時に、片手を立てて珊瑚は拒絶した。


「それは要らないわ!」


「あれー、美味しいのに」


「ご冗談でしょう」


 金平糖の粒にさりげなく混ぜられていたのは、石つきの指輪だった。

 土台がプラチナで、石がミルク色だったのだけかろうじて確認する。


「油断も隙もない」


「僕にとっては褒め言葉ですけど、それ」


 やっぱり東郷勝彦の孫息子なだけはあるようね、と珊瑚は朝彦をにらむ。一瞬しか見ていないけれど、中央の石は親指の先程もあった。


「ムーンストーン……では、ないわよね」


「あはは、当たりー。ムーンストーンです。ほんのおもちゃですから、普段使いにどうぞ」


 大嘘つき。と珊瑚は目の下を軽く歪ませる。ムーンストーンが、あんなきらめきを放つものか。それに、あのカット。

 ムーンストーンはその多くが滑らかなカボションカットに仕立てられる。フラワーカットやラウンドブリリアントカットに仕立てられる場合も稀にあるが、その場合はあんな色艶、まして輝きにはならない。ムーンストーン独特の乳白色のけぶるような不透明さは、さっきのミルク色の内側から乱反射するような輝き方とは全然違うものだ。

 ジルコン? と一瞬だけ珊瑚は思ったが、すぐに打ち消す。もっと違うし、第一、この少年が相手をたらしこむ駒として安物の模造品を使うとも思えない。


(まさかね……でも)


 記憶と照らし合わせるのに、もう一度石をよく観察したかったが、うっかり凝視してしまって興味があると思われる方が一大事だ。極力視線をそちらへは向けないようにして珊瑚は断言する。


「ホワイトダイヤモンドね」


 朝彦は微笑を浮かべたまま答えない。

 答えないことが答えだった。

 風がいっそう強くなる。窓ガラスが強風を受けて音を立てるほどに。


「受け取らないわよ、わたくし」


「ほら、石の雰囲気がね。あなたにぴったりだなと思って」


「否定はしないわけね」


「あ、肯定した覚えもないですけど」


 わたくしもう少し世間の波に揉まれたほうがよさそうだわと珊瑚は心からそう思った。

 こんな時に、びしっと相手を拒絶する強い言葉が欲しい。シキがいたらいくらでも言ってくれるのだろうに、自分はまだまだ言葉を知らない。自分が今まで覚えてきた、上品で婉曲で棘のある言葉などでは、この少年はびくともしないだろう。


「さあさ、お手をどうぞ」


「いやだと言ってるでしょ」


 感情に見合った言葉が見つからない苛立ちで、珊瑚は朝彦の手を払いのけた。

 指先でそっとつまんでいた指輪が宙を飛び、視界から消える。


「……拾わないの?」


「ええ。安価なものですから」


 挑発的に言ったのに、しれっとして朝彦は答える。

 金属の落下音が聞こえなかったところを見ると、指輪は部屋の隅にある観葉植物の鉢植えの上に落ちたらしい。しかし朝彦が悠々として動かずにいる以上、珊瑚もそちらへ目を向けるわけにはいかない。

 よく言うわよ、と珊瑚は思う。普段使いとか言いながら、いましがた、はめようとした指は左手の薬指だったではないか。うっかり受け取りでもしようものなら、その瞬間に婚約者だ、くらい主張されかねない。


(それでは、いったいなんのためにここに来たのかわからないじゃないの)


「一度ちゃんと言わないと駄目みたいですね」


「なにを、とは敢えて伺わないわ。お茶とお菓子をどうもごちそうさま。わたくし部屋に戻ります」


 立ち上がろうとした珊瑚の手首を、朝彦はつかんだ。


「島から出たら、僕とお見合いしていただけませんか」


「お断りします」


「もちろん、将来的に結婚を前提としたお話になるとは思いますが」


「お断りしましたよね、今、わたくし」


「──こんな天気の時に言うのは、気が進みませんけど」


「天気、関係あります?」


 にこりともしないで言うと、朝彦はふと真顔になって声を低くした。


「この風ならね、少しは隠れ蓑になるかと思ったものですから」


 もっと大きな疑問符が頭に浮かんだが、騙し討ちの憤りの方がはるかに大きかったので、珊瑚は追及しないまま談話室を後にした。

 部屋へ帰ると、シキがいた。

 部屋の中央に膝をついてうなだれていたシキは、珊瑚に気づくや泣きそうな顔で振り返る。


「ど、どうしたの」


「いないの」


「え?」


 スネークセンターの人とうまく会えなかったの? お仕事は見せていただけなかったの? と尋ねると、シキは首を横に振る。

 部屋で留守番させていた夜刀の姿がないのだと、どこを探してもいないのだと聞いて、珊瑚も顔色を変えた。


「あの……いつもあなたたちは互いにだけ聞こえるやり方で、お話しているでしょ。今は聞こえないの?」

「声は、あんまり離れると聞こえないんだ」


 悔しげにうつむいてシキは言った。


「今日は冷え込むって予報だし……雨や風よりもむしろ温度の方が気になる。ごめん、あたしちょっと探しに行ってくる」


 そして、珊瑚がなにか言うより早く続けた。


「珊瑚はここにいて。もしもあいつが帰ってきて窓やドアを叩いたら、入れてやってほしいの」


 珊瑚は力強くうなずいた。


「わかったわ」



 それと同じ頃。

 朝彦はだんだん強さを増してくる雨に体を打たせながら、校舎棟の屋上で背中を丸めてしゃがんでいた。

 体全体で雨からかばうようにして覗き込んでいるのは、小型のノートパソコン。青白く光を放つ画面上では、いくつかのスクリプトが実行されている。


「……の子は、カウンセリングを……ていな」


 ざざっ。時折掠れて聞き取れなくなりながら、女の声がイヤホンに届く。

 いつもより頻繁にノイズが走るのに、やはりこの悪天候では雑音がひどいなと朝彦は眉をひそめた。だが校舎内や自分の部屋でこれをやるのは、あまりに危なすぎた。


「いえ、きっとそのうち」


 次に聞こえてきたのは学園長の声だった。どこか焦るような、機嫌をとるような声音は、学園内では決して聞かれない種類のものだ。

 彼の部屋にこれを仕掛けて正解だった、と朝彦は思う。


「そのうち?」


 だが、彼が話している相手の女の声に覚えがない。ここにいる人間の声は全員聞き分けられると自負していたので、意外だった。

 いったい誰だろう、と朝彦は声を聞くことに意識を集中させる。


「そのうちでは困るわ。いつから……悠長になったの」


 女の声は深みのある声質で、同時に力強い威圧感も兼ね備えている。

 なぶるような抑揚をつけて言う女に、学園長は返す。


「大丈夫です、すでに次の手は打ってありますから。決して取り逃がすような……は」


 次の手? 朝彦は思う。それがなにを指しているのか、耳に意識を集中させたけれど、二人はそれ以上その話題を深掘りしなかった。


「ならいいわ……フフ」


 どこか妖艶に女は笑った。


「御堂寺の娘は手中にひとりいるけれど、あれでは弱……駒としてはね」


 えっ、と朝彦は首をかしげる。もうひとりって、誰のことだ。


「御堂寺の娘を、なにもなくここから出してはいけないわ。取りこむのよ、必ず」


「お言いつけのままに……」


 ザザッ、とひときわ大きな雑音がして、朝彦は目をすがめた。

 再び静かになった時、もう声は聞こえてこなかった。



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