誓って言うけど生まれてはじめて1
「気がついたか? っていうか、起きたんだな。起きたよな」
誰かの声が聞こえている。
怒ったような、苛立っているような声だ。
「勘弁しろよな、手間がかかるにもほどが……」
今度はため息だ。
「なんなんだよ、ほんとお前」
ゆっくりと、御堂寺珊瑚はまばたきした。細長い蛍光灯が天井で白く光っている。身じろぎすると、軋むような音がたつ。合皮のソファーにあおむけに寝かされているのだった。
(どうしてここに、いるのだったかしら……)
とっさに直前のことを思いだせなくて、珊瑚はしばしそのままの格好で記憶を手繰った。
見慣れない天井だ。古木の形をそのまま生かした太い梁が何本も張られており、その黒っぽい色のせいで部屋全体が暗く見える。
(……ええと)
どうして自分がここにいるのか、目覚めたばかりの頭にはもやがかかっているようで、珊瑚はなかなか思いだせずにいる。
「まったく、起きたら起きたでぼけっとしてやがんのな」
珊瑚が黙っていると、また言われた。
「あのな、お前がそのへんで頭を打ったりしなかったのはな、ひとえに運が良かっただけなんだからな」
珊瑚は視線を巡らせて声のする方を見る。横でさっきから彼女を叱っているのはショートヘアの女の子だ。
「あとはあたしの反射神経!」
彼女が大声を出したり、反応の悪い珊瑚に顔をしかめてそっぽを向いたりするたびに、その子のくせのある毛先が跳ねる。
誰だったっけ。この子は。
彼女は色鮮やかな半袖シャツからのびる日焼けした腕を腰に当てて、彼女のまわりにはいくつもの薬瓶や大袋入りの薬草茶らしきものがひしめき合っている。
敏捷そうな長い手足。細いのに、か弱さは感じられず、機嫌の悪さを隠そうとしないその表情も含めて、生命力に溢れた野生動物のようだった。
珊瑚がじっと彼女を見つめていると、ショートヘアの少女は大股で彼女が寝ているソファの脇までくると、大きく一度、目の前で手をふった。ちゃんと見えているか、確認するように。珊瑚が反射的に目をぱちぱちさせるのを見て、その少女は大きくため息をつく。
「だいたいだな。自分から蛇屋にやってきたくせして、蛇見て卒倒するとか。ありえん!」
(あっ)
それを聞いてハッとした。
ぼやけていた頭がはっきりし、前後の記憶がつながる。
蛇屋。
蛇屋のシキ。彼女の名前も思いだす。
(そうだわ、彼女に頼みたいことがあって、それで)
だが細部を思いだすよりも先に、彼女が叱責を続けた。
「ていうか、蛇が怖いなら最初から来んな! 迷惑なんだよ、店ン中でぶっ倒れて!」
「ごめんなさい」
ようやく絞りだした声は自分でも聞きとりにくいほど掠れて小さかった。
シキはじろりと珊瑚を見下ろす。
「まったく、いいとこのお嬢様ってやつはこれだから」
軽く咳払いをして喉の調子を整えてから、珊瑚は改めて言った。
「本当にごめんなさい、気を失ったりするつもりでは、決して」
「そらそうだ。意図してするのはそれは、演技、つーんだよ」
「いつも気絶なんてしているわけではないのよ。誓って、あの、こんなことは生まれてはじめてなの」
わずかな沈黙が落ちる。
「それ、あたしになんか関係、ある?」
冷ややかな瞳を向けられて、珊瑚は声を小さくした。
「いえ、ないわ……」
我ながら、子供じみたことを言ってしまった、とすぐに珊瑚は後悔する。
謝罪しなければいけない場面で、言い訳などと。
動揺しているとはいえ、あまりに子供じみている。
内心で赤面しながら珊瑚はソファーに肘をついて置きあがろうとして、そこに、ぎょっとするような光景を見つけた。
「……!」
蛇たちが、首をもたげて各方面から珊瑚のことを覗き込んでいたのだった。
ソファの背もたれの向こう、古びたキャビネットの隙間、はたまた雑多にものが積み上げられている棚の上。それはもう至るところから。
(ひィ──……っ!)
珊瑚は声にならない悲鳴をあげた。
白いもの、茶色いもの、オレンジ色のもの。緑色で瞳孔が縦のもの、赤い瞳をもつもの、太いもの、細いもの、まだら模様を持つもの。色も形も様々な蛇に見つめられて珊瑚は身じろぎもできない。
へ、蛇ににらまれた蛙ってこういうことを言うのね、本当に怖いと体って動かなくなるものなのね、と頭のどこかで珊瑚は他人事のように考える。
珊瑚の恐怖心を敏感に感じ取ってか、蛇たちは舌を出し入れしている。
合皮ソファーのひじ掛け部分を乗り越えて、ひときわ大きな青灰色の個体が頭部を左右に揺らしながらゆっくり近づいてきた。
つるりとした頭部はゆうに珊瑚の手の平ほどもあり、艶やかな黒いビーズ玉みたいな目が珊瑚を凝視している。
珊瑚はとっさに目をつむった。
どうしようどうしようどうしたらいいのどうしよう。
いや怖い逃げたい、でもさっき卒倒したのにこれ以上迷惑はかけられない、どうしよう怖いやっぱり怖い。
頭の中をぐるぐると言葉が回り、身がすくむ。指先が冷たくなるのが自分でわかる。
その場から逃げ出さなかったのは、勇気があるというよりは、単に体が動かないだけだった。喉からは、今にも泣き声が漏れそうになるのを珊瑚はぐっとこらえて抑え込む。
「──寄ってくんな、散れ」
ぶっきらぼうな声がした。
珊瑚がそうっと薄目をあけてみると、シキが乱暴に片手を振って蛇を追いやるしぐさをしていた。
シュー。シュー。
蛇たちが空気音を漏らしながらうねうねと蠢いてその場にとどまろうとするのに、彼女は重ねて言う。
「やかましい。いいから散れ。お前らの気遣いは普通の人間には未来永劫通じねえよ」
蛇たちは、ゆっくりと頭部をめぐらせて去っていく。その様子は、まるで彼女の言葉がわかっているようだった。
蛇たちが、少なくとも手の届かない範囲まで離れていって、はじめて珊瑚は大きく息をすることができるようになった。余裕が生まれると考える頭ができる。
(今のって)
もしかしなくても、今のは、珊瑚が怖がっているから遠ざけてくれたのだろうか?
だがそれを口にして確認するより早く、とげとげしい彼女の声が響いた。
「気がついたなら、出てけ」
「あの」
実は頼みたいことがあるのだと、舌の先まで出かけた。
そもそもそのために来たわけだし。
だが彼女の険しい顔つきを見ると、とても、切りだすことはできない。
珊瑚は生成り色のスカートの裾を直しながら立ち上がるとバッグを手に取った。小さなバッグは手を触れられた様子もなく、ただちょこんと珊瑚が横たえられたソファーの脇に置かれていた。
「騒がせてしまって、ごめんなさい」
「ほんとにね」
とりつくしまもない。
シキの手に、先程のひときわ大きな青灰色の蛇がそっと巻き付く。シキは動揺しないどころか、どこか投げやりなしぐさでそれを外すと、無造作に脇へ放り投げた。
シキが顔をそらせているので、珊瑚もそれ以上言葉を続けることはできなかった。
重い足取りで店内を歩き、扉のところで振り返る。
「お邪魔、しました」
返事はない。
さっきと同じ蛇がしつこく巻き付こうとするのを、シキは手刀でびしびしと拒んでいる。
珊瑚が店を出る時も、シキはこちらを向こうとしなかった。
彼女の肩のあたりには、あきれと苛立ち、それに怒りが滲んでいる。
仕方なく、珊瑚はその場で深々と頭を下げた。
扉を押し開けて外へ出ると、あたためられたアスファルトの匂いがした。
季節的にはまだ春のうちだというのに、細い路地には熱気がこもっているようだった。
果たして、自分はどれくらい気を失っていたのだろう、と珊瑚は手首を返して時間を確認する。
夕方四時になろうとしていた。
ここへ来たのは午後の早い時間だったので、そうすると、結構な長い時間気を失っていたのだと珊瑚は思う。
ふとこめかみに指をあててみた。
この数日、ずっと重いような鈍いような痛みがあったのだが、今、それはすっかり消えていた。
珊瑚は今しがた出てきた場所を振り返る。
表向きは、いかにも年季の入った漢方薬局という佇まいだ。真砂漢方薬店とレトロな書体で横長の看板がかかっている。
ガラス扉の内側には目隠しの布があしらわれて中が見えないようになっており、扉の取っ手は大きな黒い四角形だ。
漢方薬・生薬認定薬剤師証と書かれた賞状が額に入って入り口の目につくところに掲げてある他は、この手の店にありがちな、宣伝文句の書かれたポスターや看板などはない。
わざわざ教えられてきたのでなければまず間違いなく入るのを躊躇するだろう、そっけない店構えだった。
『確かに、御堂寺家において当主の決定は絶対だわ』
そう言ったのは大伯母だった。
現当主をつとめる珊瑚の祖父から見て、姉にあたる人だ。
『だけどね、あなたがそんなに嫌なら、蛇屋に相談してご覧なさいな。今は上野に店があるはずよ』
珊瑚に同情してそう教えてくれたのだった。ここまでの道順を教えてくれたのも彼女だ。
外出の機会さえ見つけられれば、店を見つけるのはそう難しくなかった。
蛇屋は一見の客を嫌う、私の紹介だと言いなさい、そう教えてくれた。
『もっとも蛇屋もここ数十年で随分代替わりしたと聞いているから、私の名前が通用するかどうかわからないけれど。でも、なにもないよりましでしょう』
そう言って。
そう、そこまではよかったのだと、珊瑚は数時間前のことを改めて思い起こしてみた。
──カラカラン。ドアの開け閉めでベルが鳴って、カウンターの奥から、珊瑚とそう年の変わらなさそうな女の子が顔を出したのだ。
「いらっしゃい」
一瞬、男の子か女の子かわからなかったのは、身のこなしが大きなストライドで、その表情もあけっぴろげでまっすぐだったせいだ。だが話し始めると、すぐに女の子だとわかった。
「蛇屋はここだと聞いてきたんですが」
ショートカットのその女の子はちょっと首をかしげて微笑を浮かべた。
「誰かの紹介かな? そう、あたしが蛇屋だよ。名前はシキ。あんたは?」
「御堂寺珊瑚と申します。あの、紹介は、大伯母から」
「ふうん」
珊瑚は肩からかけたバッグの中に手を入れて、紹介状を取り出そうとした。だが同時に、もぞもぞする違和感を感じて、紹介状をつかもうとしていた手を頭上にかざす。ちょうど前髪の付け根あたりに。
まるで、昔ながらののれんの隅っこが頭の上に乗っかっているような、そんな違和感だった。
珊瑚が蚊でも払うようなしぐさをしたのは、ほとんど無意識に近かった。だから、手が先に出て、視線がそちらへ向かったのは後からだったのだ。
少し遅れて珊瑚は目をあげ──そこに、青灰色の蛇の頭部があるのを見つけた。
とっさにそれが蛇とはわからなかったほど、真っ正面から近距離で向かい合う。距離にして、およそ十センチといったところ。
蛇の頭部は大きかった。スリッパほどもあるだろうか。大きな頭部で小さな黒い目がじっと珊瑚を見つめており、暗色の舌が絶えまなく出し入れされている。
(……蛇屋に、蛇がいるのは、当たり前だわね)
どこか遠くでそんなことを思う。
と同時に、では、今わたくしの前髪に触れていたのは蛇なのだわ、とも。
(今この手で払ったのはもしかして、のれんの端っこやハエなんかではなくて、蛇の)
考えることができたのはかろうじてそこまでだ。
ふうっと珊瑚の気が遠くなる。
視界がぼやけ、目の前の景色が反転し──。
「あっ、おい!」
慌てたような彼女の声は聞こえたような、聞こえなかったような。
そこで珊瑚は気を失ったのだった。