1.
何処も彼処も人人人。見渡す限りの人人人。
ぎゅうぎゅう詰めの電車内、人々は押し合いへし合い、揉みくしゃになりながら自分の身体を何処へ運ぶ。僕は目の前のご婦人から痴漢に間違われぬよう、西部劇で銃を突き付けられた町人よろしく、必死で両手をホールドアップし、完全降伏の意を示す。
されど、そのご婦人、無慈悲にも凶器たるミサイルみたいなその胸を、ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうと、僕に押し付けてくるのだ。言っちゃ悪いが、甘ったるい香水と、汗の匂いの入り混じった体臭が、臭くて臭くてたまんない。後ろのおっさんの加齢臭と相まって、その場で反吐をぶちまけたいが、朝っぱらから醜態を晒す勇気なんてさらさらなくて、目鼻口を手で押さえ、ぐっと堪える。するとお隣の眼鏡を掛けた学生さんがバランスを崩し、僕の革靴をおもくそ派手に踏みつけやがった。吊り革掴まらんか! この、ばかもんが。なんて怒鳴ると口から鼻からこれまで堪えた酸っぱい何かが零れてしまいそうで、出掛けたそれをまた呑み込んだ。
【人人人。】
会社まで七駅分の地獄絵巻。着いたら改札潜るまえに駅の便所で、げぇげぇの胃液を吐き散らかす。自分の吐き出した反吐の匂いにまた嘔吐くこの悪循環に、未だ慣れることはない。
会社に辿り着く前から息も絶え絶え、早くも先を思い遣られながら口を拭う。あああああと、どうしようも無く帰りたくなる。今日一日ぐらい休んでしまおうか。毎日毎日こんな葛藤の末、結局は人の期待を裏切り、失望されるのが怖くて、きちんと会社に行くのだ。
就業十五分前。息を整えタイムカードを切り、自分のデスクに深く座ると、ピタリと首筋に何か冷たい物が当たる。びっくりして後ろを振り返ると、そこには缶コーヒーを片手に持つお茶目で頭の薄らった課長がニコニコと仁王立ちしていた。
「おはよう。今日からの新人ちゃんのOJT、君だよね? 紹介するよ」
うっかりしていた。研修を終えたばかりの新人を、今日から僕が任されることになっていたのであった。正直、何も準備をしていない。
うちのような零細企業は基本新卒を採用しない。他所で鍛えに鍛えた戦士、若しくは魑魅魍魎ばかりを中途採用で好んで雇う。育成する手間を省くのと同時に、他の企業の手法や思想を取り入れようとする卑しい魂胆なのであろうか。そんな我が社であるが、稀にお偉方が面接で気に入った、未経験のお坊ちゃんお嬢ちゃんが混ざってこの部署にやってくる。そんなお坊ちゃんお嬢ちゃんを受け持つのは、往々にして僕であることが多かった。ガツガツした他の営業マンたちが担当すると直ぐに辞めてしまうからで、今では何の肩書きも、手当ても、見返りも無しに、新人育成を担当している。お陰様で自身の営業成績は、芳しくない。迷惑な話ではあるが、逆に言えば、芳しくないからこそ、こういう面倒を押し付けられるのであろう。うちの会社だって、幾ら何でもエースにこんなことを押し付けない。
頭の薄らった課長に連れられ、背の低い人影が一つ。おどおどと遠慮がちにひょっこり顔を出すのは、ビジネススーツを無理矢理着させられたような、垢抜けない少女であった。おや、まぁ。これはこれは世間知らずそうなお嬢ちゃんだこと。こう見えて僕は、随分長いこと人と向き合い、腹を探り合い、自社の商材を売り付けることを生業としている。人を見る目にはちょいと自信があった。失礼な話ではあるが、初見で彼女が挫折し、心が折れ、この会社を退職するまでのビジョンが鮮明に頭に過る。もって半年であろうか。
辞めさせるなよ。と、ハゲ課長からの無言の圧力に、善処します。と、目線で応じる。
僕は品定めする為、新人ちゃんを見やる。新品のビジネススーツ、控えめなヒールのパンプス、薄い化粧に黒髪のショートボブと、服装だけ見ればネットで調べたまんまの女ビジネスマンである。ちょいとフレッシュ過ぎる。ただでさえ幼い顔を、大きな黒縁眼鏡が余計に際立たせている。オフはスニーカー派なのか、ヒールのあるパンプスに慣れないのであろう。よちよちとヒヨコみたいな歩き方が余計に初々しい。初々しい営業マンには、ものが売れないものである。優れた営業マンは、どいつもこいつも共通して自信に満ち溢れている。
「名前は?」
「佐々木 茉里です。よろしくお願いします致します」
今はまだ彼女の瞳は、希望に満ち溢れている。だけれどごめん。ここはきみの思っているような場所じゃないんだ。就職活動で失敗してこんなところに来ちゃったんだね。ご愁傷様です。
吐いて捨てるほど人が入れ替わって、随分古株になってしまったこんな僕でさえ、一生は続けたくないものである。もう少し僕が賢ければ、三日で辞めていた。
佐々木さんのことをマリちゃんと呼ぶのに、一日も掛からなかった。情報収集は営業マンの基本で、営業車の車内、彼女が大学を卒業するまで実家で暮らしていたこと。ニュージーランドに留学した経験があること。高校から付き合っていた彼氏がいること。様々な情報を引き出した。
それからマリちゃんを得意先への挨拶に連れて周り、紹介をしたり、移動中商材に関しての知識を混ぜながら雑談なんかをする。兎に角、会話を途切れさせないこと、あとは早く上がらせてあげることを念頭に置いた。
僕の場合、出社して帰るのは、平均で夜の九時ぐらい。彼女は夕方六時には帰れるように取り計らう。次の週は六時半、その次の週は七時と徐々に残業に慣れてもらう。僕らの一日が、如何に短いかを徐々に覚えてもらう。
そんな感じで悪の科学者よろしく、戦士への改造手術と洗脳は、順調に進む。
僕が想定していたよりも彼女には骨があって、半年を越えても退職することはなく、そんなある日、大手ショッピングセンターに設置される電話と周辺機器の契約を取ってきたのだ。大手柄である。しかし、ここでハプニングがあった。きちんと手配したはずの回線が引かれていないのだ。N○Tに再び問い合わすも、結局のところ言った言わないで、日本の電話回線を独占している天下の最大手に勝てるはずも無く、僕は彼女の上司として多方面に頭を下げ、この契約は破棄されることとなる。口を酸っぱくして教えたはずのファックスでのやり取りと、電話の音声録音を怠った典型的な凡ミスである。
僕は仕事の失敗が悔しくて涙していた彼女に追い打ちを掛けるかの如く、きつく叱った。マリちゃんはあずきみたいな大粒の涙をぽろぽろと流した。ちょっと、言い過ぎちゃったかな。雰囲気を変える為、その夜は食事に誘い、行きつけのメキシコ料理店で食事と酒を奢ることになった。
その日からマリちゃんと僕は、度々夕餉を共にするようになる。
月日が経つと、社会に揉まれ幾らか世渡りを覚えたのか、彼女との会話は随分と弾むようになった。マリちゃんは、僕に彼女がいないことを驚いてみせる。
「かっこいいのに勿体無いですー。せんぱい」
言っちゃ悪いが、それを鵜呑みにできるほど、僕も若くないが、化かしあいは、僕だって負けていない。ほんとに? そう言われると悪い気はしないなぁ。なんて心にも無いことを嘯いたりした。
そんなある日のことである。
「せーんぱい。今夜空いてます? 梅森台の工事の立ち合い早く終わりそうなんで、飲みにいきましょうよー。奢ってください。大きな契約取ったお祝い」
あの失敗から、幾つかの季節が過ぎマリちゃんは少し痩せて、眼鏡を辞めた。マリちゃんは随分と仕事を成功させ、今では僕の成績を抜いている。
他の誰でもないこの僕が、垢抜けない世間知らずな少女を、ワーカホリックな狂戦士に変えてしまったのだ。
どうやら僕は仕事の失敗が悔しくて涙していた頃のマリちゃんが好きだったようである。自分の失ったものをもっていたマリちゃんが良かったようだ。なんたる身勝手な思考であろうか。
マリちゃんは先日大口の契約を取ってきた。かれこれこれで数度目の大口契約である。その日、マリちゃんは、社長から直々に顕彰され、いよいよ僕の部下から離れる日は近いことを感じた。
仕事帰りのPM八時半。馴染みのメキシコ料理店で、僕らは勝利の美酒に酔いしれる。
「少し飲み足りないですねぇせんぱい。わたしの部屋で飲み直しましょうよ」
タクシー代の節約になりますしと、付け加える彼女の意図を察すれないほど、僕もアンポンタンじゃない。誘い受けなセリフに、僕はあっさりと屈する。こんな時、男はいつだって無力で、それを回避する術を知らない。
アプリで拾ったタクシーで辿り着いたのは、郊外の小さなアパート。生活感の乏しい部屋であった。水玉の遮光カーテンは締め切られ、既に肌寒い季節なのに扇風機が未だテレビの脇に鎮座していた。
冷蔵庫から出したビールを僕に手渡すマリちゃん。いくら誘い受けだからといって、こんなスキャンダラスな夜を乗り越えるにはコツがいる。相手と自分に言い訳を与える為に、幾つかの手順を踏む必要がある。端的に言えばムードを大事にすべきなのだ。がっついてはいけない。酔い過ぎないようにゆっくりと飲み、少しずつ少しずつ会話からジョークを減らし、目を見る時間を増やす。するとマリちゃんの睫毛がちょっとずつ濡れて、そっと手を伸ばし震えるマリちゃんの肌に軽く触れる。見つめ合う目と目、繋いだ手と手、綺麗に敷かれたシーツがくしゃりと皺になる。
この日、酒と達成感に酔いしれ、感極まり高ぶったマリちゃんを抱いた。マリちゃんの掠れたファルセットが妙に耳に残った夜だった。
翌週。朝礼を終え、得意先にアポイトメントの電話を入れる。資料でパンパンのビジネスバッグを抱え、会社を出て社用車の乗り込む朝九時半。環状線はまだまだ混雑している。どこもかしこも人人人。信号が前に進めと青に変わるも、僕の番はまだ来ない。前を行く奴らに一歩遅れてスタートするのだ。僕の前には、見渡す限りの人人人。
帰社したあと、いい歳した僕は、頭の薄らった初老の課長にどやされる。口癖のように佐々木を見習えと。もっと頑張れと。怠けてみえるのであろうか。
そこから日報を書き、別口の見積りを作成し、時計を見れば夜の十時。やや遅くなったが酷い日は終電を逃す。朝の六時半に起きて支度をし、遅い日は夜の十時から電車で帰宅する。僕の一日はとても短い。休みは週休二日のはずだが、僕が受け持つ取引先だって、営業をしていない土日に工事やら諸々を済ませてしまいたいもので、純粋な休みなど殆ど無くなった。安い賃金、僅かな時間で高貴なスポーツのゴルフを覚え、翌日仕事でも取引先に誘われれば、明け方まで飲みに付き合う。
この日、自宅に着いたのは午後十一時。僕は自分の部屋の前で、一人の男が座り込んで丸くなっていることに気づく。二十代半ばより手前であろうか。僕より幾分か若い気がする。物騒な世の中である。最大限に警戒しながら、僕は男に声を掛けた。
「えっと、お宅は? 僕の部屋に何かようですか?」
「……やっと帰ってきた。佐々木 茉里のことご存知ですよね?」
彼の口からマリちゃんの名前が出て、僕は色んなことを悟る。
「ええ。マリの彼氏です。最近どうも可笑しいんで、彼女の部屋に盗聴器とカメラ仕込みましてね」
きっとこれは修羅場ってやつだ。心拍数を上げるべきシチュエーションなのだ。我ながら滑稽で傑作な話である。ああ、なるほど。そういうことか。彼氏いたのか。そう言えば入社したての頃、高校の時から付き合っている彼氏がいると言っていた気がする。まだ付き合っていたのか、はたまた彼はまた別の人なのか。兎に角、今現在の自分が無感情なのか、冷静を装っているのかさえ解らない。
「盗聴器ですか。あなた自分がしたことを解っているのですか? 恥ずかしくないですか?」
「そっくりそのままお返ししますよ。こっちは結婚するつもりだったんだ。人の幸せを奪っておいてよく言う」
「佐々木さんは?」
「彼女とは先日別れましたよ。浮気相手がどんな顔してるのか見てみたくてね」
そう言って不意に彼は僕の顔を殴りつける。老化なのか、稲光のようにチカっと一瞬光ったように見えると、次の瞬間、僕は尻餅をついていた。そして追い討ちを掛けるように腹に数発蹴りを喰らい、僕は胃の内容物を吐き出す。
「殺してやりたいところだったけど、こんな不細工なおっさんだったなんてね。マリもどうかしてるよ」
彼は僕に唾を吐き、どこかに歩き去る。僕は放心して暫く動くことは、出来なかった。違うんだ。マリちゃんに彼氏がいたことなんて、忘れていたんだ。誰にでもない言い訳を聞いてくれるやつなんていなかった。言い訳をする人人人。こんなところにも人人人。武士の情けで言わなかったことがある。彼のことを哀れんで言わなかったことがある。僕が初めてマリちゃんを抱いたのは、先週のこと。多分僕が彼女と関係をもつ、遥か以前から、彼とマリちゃんの関係は終わっていたことを、僕は彼に言わなかったのである。