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七 キキョウの日常

今日は二話投稿

こっちが二話目

 キキョウの朝は早い。


 日が登るか登らないかというギリギリの時間にはすでに起き上がっている。

 そうしたらカーテンを開けて、窓を開け、空気の入れ替えをする。


「んー……!」


 背筋をぐいーっと伸ばして、完全に眠気を吹き飛ばすと、棚にしまってある侍女服を取り出す。

 テキパキと着替え始める。すでに慣れたものだ。


 アンハーバン家の侍女服はとても動きやすいので、キキョウは非番の日も専ら侍女服を着ている。もはや慣れ親しんだ相棒の様なものだ。


 太ももまである長い白色の靴下をはき、その上に焦げ茶のロングブーツを装着すれば、この家での正装は完了だ。


 あと、最近髪の毛が伸びてきたので、それを一括りにしてちょっとしたポニーテールにしている。


 数日前、カトレア様に髪を切りたいと申し出たところ、猛烈に反対されたので、伸ばす事にしている。我が主(マイロード)の頼みとなれば、伸ばすのも吝かではない。


「君はもう少し伸ばした方が良いな。その方がより綺麗だ」


 確かにその方が擬態できるので、実用もあるだろう。カトレア様が望むような方向では決してないものの、利害は一致しているので、髪の毛を伸ばす事にした。


 顎のあたりまであるもみあげを触りながら、やはり長いなと思いながら、部屋から出た。


 カツカツと音を出しながら、大理石でできた廊下を進む。

 まだ廊下は暗く、誰もいない。


 キキョウは正面玄関からそっと外に出た。


 空は白み始めている。春も近い。だが、まだ朝は冷え込む。はーと息を吐くと、白く濁る。侍女服を引っ張って、顔を隠す。マフラーとか欲しいな……。カトレア様にお願いしようか。


 キキョウは物置にある箒を一本手に取って、早速掃除を開始した。


 冷え込む空気に包まれながら、黙々と地面を掃く。枯葉が所々に落ちているので、それを集めるだけの簡単な作業だ。だが、時折強い風が吹くのでそれに注意しないといけない。集めた枯葉が全部吹っ飛ばされてしまうのもしばしばあった。


 そうやって気を付けながら掃除をしていると、先輩の侍女がいらっしゃった。


「おはようございます」

「……おはよー、相変わらず早いね」


 目がしょぼしょぼしているので、やはりまだ眠いのだろう。


「新人ですから。色々覚えないといけないので」

「掃除なんだから、そう生真面目にしなくても良いんだよ?」

「ですが……」


 先輩もほうきを持って、キキョウの隣で掃除を始めた。


「まあいいけどね。キキョウが頑張ってるのは知ってるし」

「ありがとうございます」


 この屋敷は広大無辺なので、他の場所でも侍女の先輩方が掃除をしている。キキョウ達の持ちうけはこの辺りだけだ。そうは言っても時間がかかる。


「キキョウはさ、魔術師見習い級(アプレンティス)なんでしょ?」

「はい、カトレア様の見立てだとそのようです」

「いいなー。私も魔法使いだったらって思うわー。そうしたら不自由せずに生きて行けるのに」


 先輩はハァーとため息を吐いた。


「お嬢様の魔法見たことあるけど、凄いわよ。ズカーン、ドバーンみたいな感じで。キキョウは見たことある?」

「はい。その魔法で助けていただきました。命の恩人です」


 あの時の事は忘れられない。

 一瞬で過ぎ去ってしまった時間だったが、頭にこびりついている。


 空中を駆け巡る青白い光。雷鳴と間違えるような凄まじい轟音。何度思い出しても胸を熱くする。

 そして思うのは、尊敬と畏怖の念だ。


 魔法使いとして尊敬しながら、あの魔法が自分に向いてしまったらと思うと恐怖も感じる。今のところ、キキョウは上手く性別を隠している。

 誰もがキキョウのことを女だと勘違いしている。


 だが、男だとばれたら……。ぞっとする。


「キキョウもお嬢様と同じ魔法使いだからさ。なんか出来ないの?」

「うーん。カトレア様と同レベルの事は流石に……」

「そこまでじゃなくても、この掃除の時間を短縮するような便利なことはできないのかね」

「申し訳ありません。ぼくの魔法じゃ無理です」

「そっかー……」


 先輩は残念そうな顔をしながら、渋々と掃除をしている。

 キキョウもそろそろ真面目に取り組んだ。


 一時間もすると、侍女総員でとりかかった掃除も終わる。


「キキョウ、ご飯行きましょ」

「はい」


 先輩方は大変良くしてくれる。

 まだ早い時間だから、カトレア様やその御姉妹、奥様は起きていない。


 ご家族が起きる前に食事を済ませるのが、この家のルールのようだ。


 屋敷の中に入って、食堂に向かった。ここはご家族は使わないので、侍女専用と化している。

 すでに数名の侍女の先輩が食事をしていた。


「おはようございます、皆さん」


 キキョウの挨拶を皆、気さくに返してくれる。

 それを受け流しながら、専属の料理人が作ったまかないをトレイの乗せて、テーブルに着いた。


 ここの料理は、とてもじゃないが収容所とは比べるべくもない。キキョウは毎日三度の食事にありつけることを心から感謝している。前は一応、三回食事をとっていたが、満足のいく食事ではない。


 まず毎食、必ず肉か魚が出る時点で質が違う。

 

 キキョウが肉や魚を食べれる機会は年に数度あれば良い方だった。


 それが毎日。


「美味しい……」


 体が歓喜に打ち震える。今日は魚の『むにえる』というものらしい。外はカリッとしていて、中はふわっとしている。


 これ即ち極上である。


 キキョウは奥の厨房で料理をこさえる妙齢のシェフ(もちろん女性)に感謝を伝えるべくいつものように立ち上がった。


「また始まった……」


 先輩が何か言ったが、これはやらないといけないような気がする。


「いつも美味しい料理ありがとうございます!」


 シェフはヒラヒラと手を振った。寡黙な方なので、声を聞いた事はない。


 キキョウは満足して、魚のむにえるをまた口の中に入れた。

 思わず顔がゆるむ。


 ぱくぱくと食事を食べていると、不意に先輩が「なんか、キキョウふっくらしてきた……?」といいながら、キキョウのほっぺたをつついた。


「私もそう思った。最初は細すぎると思ってたけど、最近健康的になってきたっていうか」

「髪の質も俄然良くなってない? 羨ましい」


 それから連鎖して、皆が皆、キキョウのことを玩具にし始めた。体をぺたぺた触ったり、髪をなでたり、やりたい放題だ。


「でも胸はない」

「ぺたん」

「絶壁」

「まな板だ」

「だがそれがいい」


 心無い言葉が胸に刺さる。

 キキョウは反射的に無いはずの胸を腕で隠した。


 ……何やっているんだ、ぼくは。


「別にいいじゃないですか。胸が無くても」


 何を反論しているのだろうか。キキョウは悲しい思いを抱き始めた。


「いやー、無いよりあった方が良いっていうか」

「大は小を兼ねる?」

「キキョウはむしろ無」


 もうやめてよ……。何故か傷つくからさ。


 キキョウは話を打ち切るために、強引に立ち上がった。


「洗濯に行くので! これにて失礼!」


 キキョウはシェフに食器を渡し、再度感謝の言葉を述べて食堂を後にした。


 さあ、ここからは時間との勝負だ。

 お腹も膨れたので、活気に満ちている。キキョウは早足で洗濯物が一括で置いてある洗い場に向かった。


 洗い場は屋敷の裏庭にあって、人目につかない。

 水道もこの家は完備されているので、わざわざ井戸まで行って汲みに行く必要もない。


 なんとも『はいてく』だ。


 キキョウは山積みになった洗濯物を片っ端から桶に突っ込んで、水洗いをした。ごしごしと丁寧に服をもみ洗いする。冬場の冷たい空気が、より一層水仕事を苦痛にさせる。


 キキョウは一番下っ端なので、この仕事は一人でやらないといけない。一人は嫌いではないので、別に問題ではないが、流石に手が冷たすぎる。


 一心不乱に服をもむ。

 全部洗ったら、次は干さないといけない。これも中々に重労働だ。水を吸った布はかなり重くて、非力なキキョウには辛い。


 あまり愚痴もこぼしていられない。

 そろそろカトレア様たちが起きる時間だろう。


 一応はキキョウはカトレア様専属の侍女という扱いなので、身の回りの世話をしないといけない。まずはカトレア様を起こして、その後――。


「よし、終わり!」


 裏庭はほとんど洗濯物で埋め尽くされた。あとは乾いたのを見計らって、回収するだけだ。


 キキョウは急いで屋敷に戻って、二階に上がった。

 カトレア様の部屋の扉の前で、一階深呼吸をした。


「ふー……はー……」


 身だしなみを整えて、四回ノックした。最初は二回しかノックせずに怒られた。目上の人に対しては、四階のノックが常識らしい。


 コンコンコンコンと長めのノックをした。


「カトレア様、起床の時間です」


 しかし、数秒待っても返事はない。いつものことだ。ここで待っていても、永遠に待っていることになっているだろう。


「カトレア様、失礼します」


 部屋は相当に広い。キキョウの部屋の数倍はあるだろう。壁の一面は書物で埋まっていて、キキョウには何が何だか分からない。部屋のほぼ中央には特大の天蓋付きベッドが置いてある。そこにカトレア様はほぼ半裸で寝転んでいる。


 キキョウはあまり見ないようにして、クローゼットから今日の衣服を選んでそれを手に取った。

 今日はシックに黒と白にしよう。線の出る細いスキニーとワイシャツで締める。カトレア様の美しいボディラインが出て、見る者を魅了するはずだ。あとはジャケットを着て頂いて、それでいいだろう。


 それを持って、椅子に衣服を置いて、ベッドに向かった。

 無防備なカトレア様が目に入り、途端に罪悪感がこみ上げてきた。


 同性だと思っても、あまりそんなに肌を晒すのはいかがなものかと……。


 キキョウは出来るだけそっぽ向きながら、カトレア様を優しく揺すった。


「カトレア様、朝で御座います」


 それでも目覚めないので、カーテンを豪快に開けて、朝日を部屋の中に取り込んだ。


「あぁー……。もう朝……?」


 流石に直射日光を目に浴びたのがつらかったようで、カトレア様も目を覚ましてくれた。


「今日はこちらのお召し物になります」

「ん、分かった」


 カトレア様が服を手に取って、着替え始めた。キキョウは部屋の片づけをしつつ、目を逸らした。

 ほぼ裸のカトレア様を見る事は出来ない。せめてものの良心だ。


 視界の端で着替え終わったカトレア様が目に入った。簡単な片づけを終えて、カトレア様をアンハーバン家専用のリビングへと先導する。


 春のうららかな光を浴びながら、静かに廊下を歩く。

 

「今日はテストじゃなかったのか? 今日くらい勉強した方が良いんじゃないのか」

「寝る前に復習はしました。食事が終われば、ぼくの仕事はひとまず終わるので、そこでもう一回勉強します」

「そうか。まあ頑張れ。入学ももう明日だ。早いな。もう一か月経ったのか」


 そう。キキョウがこの家に来てから、すでに一か月の歳月が過ぎていた。

 その間、アザミさんの授業がずっと行われていた。


 この国の語学と数学。


「国語は大丈夫だと聞いているが、数学の方はどうだ。アザミからはやや苦手という報告を受けているが」

「うっ……。数学の方は苦手で」

「数学は反復練習だからな。勉強して間もないキキョウにはちと厳しいか」

「それにアザミさんは数学というより、算数レベルをひたすら教えているので……。加減乗除をマスターしろと言われていて」

「それでいいだろう。いきなり微分積分をやれと言われても出来んだろうしな。私も出来ん」

「微分積分?」

「高等教育の範囲だ。私も習っていない」


 キキョウもそれを学ばないといけないのだろう。これから苦労が続きそうだ。


 リビングまで移動したので、扉を開けて、先にカトレア様が入室する。その後、キキョウも入って、扉を閉めた。


「おはよう、皆の衆」


 カトレア様が先に集まっていたご姉妹に朝の挨拶をした。


「フン……」


 長女であるキンセンカ様はあまりカトレア様のことを快く思っていないようだ。二人がまともに会話している所をキキョウは見た事が無い。

 キンセンカ様は二十一歳の女性で、すでに働きに出ている。見た目が大層麗しく、キャメローにあるとあるレストランの看板娘らしい。


「おはよ。カトレア。キキョウちゃんも」


 次いでツツジ様がキキョウたちに声をかけた。薄ピンクの髪が大層綺麗だ。ツツジの花の匂いがするのではないかといつも思ってしまう。

 ツツジ様はカトレア様やキキョウに対して好意的だ。特にキキョウがお気に入りらしい。会うたびに良くしてくれるのだ。


 キキョウは軽く会釈して、カトレア様の席まで移動して、椅子を引いた。


 カトレア様が椅子に座って、キキョウはその後ろに佇む。


「やっぱりキキョウちゃんは可愛いわね。どう? やっぱり私の専属侍女になってくれないかしら?」


 毎度のことだが、ツツジ様は戯れにそう言ってくる。キキョウは苦笑しかできない。


「ツツジ、毎度毎度しつこい。キキョウは私専用だ。私が拾ったんだ、どう考えても私のものだろう」

「いいじゃない。ちょっとくらい。ね? キキョウちゃん。どうかしら」

「あー、五月蠅い五月蠅い。キキョウもこんな女の言葉に耳を貸すなよ」


 キキョウが苦笑していると、奥様が遅れて到着した。


 侍女たち――キキョウも一斉に「おはようございます、奥様」と頭を下げた。

 奥様は挨拶を返すことなく、上座に座って早速食事を食べ始めた。


 それを合図に食事が始まった。


 特に、会話はない。


 この中で仲がいいと言えるのは、カトレア様とツツジ様だけだ。


 どうやら奥様の事は、皆あまり好きではないようだ。

 当の奥様はそれに気づいているのかは分からないが、完全に無視だ。


 唯我独尊を地で行っている。


 キキョウは軽く目を閉じて、その場で佇む。

 

 カチャカチャと食器が奏でる音しかしない。

 これが家族の食事というものだろうか。


 キキョウには家族はいないので、分からない。収容所の食事も騒いだら殺される可能性があったので、ほとんど会話はなかった。やったとしても、ぼそぼそと喋る程度だ。


 なんか、ギスギスしてるよ。


 そんな中喋ろうとする奥様は、豪胆なのか、それ以外なのか……。


「カトレアは明日から高等学校ね。しっかりやりなさい」


 ピタリとカトレア様の手が止まった。キンセンカ様もだ。ツツジ様は構わず食事をとっている。


「……適当にやります」

「なんですか、その態度は。母に対して」

「はいはい。ちゃんとやればいいんでしょ」


 キキョウの目に入ったのは、なんとも複雑そうな表情をしているキンセンカ様だ。何か言いたげだが、言えなさそうにしている。


 ジッと見ているとキンセンカ様がキキョウの視線に気づいた。


「なに」


 鋭い語気でキキョウを問いただす。

 綺麗な人なのだが、その分目力が強くて、キツイ印象がある。


「い、いえ、なんでもありません。失礼しました」


 すぐに謝って事なきを得た。

 それがいけなかったのか、奥様の興味がキキョウにも移ってしまった。


「そういえば、その小娘も高等学校に行くのよね」

「キキョウの事ですか。そうですが」

「精々アンハーバン家に泥を塗るような事だけはしないでくださいね」


 キキョウは何も言わず頭を下げた。奥様の対処法は先輩方から聞いている。ただ頭を下げていればいい。ちっぽけな自尊心を満たしてしまえ。嵐が過ぎ去るまでじっとしているんだ。


「良いわね。才能のある人は」

「え……」


 キンセンカ様は立ち上がって、リビングを出て行った。

 キキョウはその後ろ姿を目で追った。その退出姿は、とても悲しげで、打ちひしがれていた。


「気にするな。ああいう奴だ」


 カトレア様が口を拭きながらそう言った。


「姉さんはキキョウちゃんが羨ましいのよ」


 キキョウのどこが羨ましいのか。男として生まれているキキョウの幸せはない。


 だが、キンセンカ様はキキョウのことを男性だと認識していない。


 高等教育を受けるには、魔法が使えないといけない。側付きとして入学するという手もあるが、それは一握りの人間しかできない。


 実質、魔法が使えない人間は、初等教育までしか受ける事が出来ない。


 そして、奥様。


 あの差別主義者の事だ。なにがなんでも魔法使いを産もうとしたはずだ。それはもう、何人も、何人でも……!


 だが、生まれたキンセンカ様は、非魔術師(第五階位)だ。ただの人なのだ。


 あの奥様の事だ。非難轟々だったに違いない。もしかしたら、人格否定すらあったかもしれない。


 ――すべて憶測だ。

 

 だが確実にあの一言は、キキョウに対して向けられている。それにカトレア様にも。


 キキョウのことが羨ましい、か。


 魔法が使えれば、この大帝国では色々な特典があるようだ。


 最も大きいのが、免税らしい。

 納税の義務は第五階位以下にしか発生しない。


 つまり魔法が使えないと、かなりの重税を払わないといけないのだ。


 徹底的な差別主義。


 魔法使いであるという事は、すでにあらゆる点で非魔術師を凌駕しているのだ。


 そしてキンセンカ様は奥様の待望の第一子。魔法使いであることを望まれた初めての女子だろう。


 だが、キンセンカ様には魔力が無かった。第五階位で税を納めないといけない。

 どうやら魔術師見習い級(アプレンティス)以上の階級が家族にいる場合、それもまた免税されるようなのだ。さらに国から助成金が発生し、裕福な生活を送る事が出来る。


 この家がこれだけ大きいのは、カトレア様のおかげだ。


 この生活を維持できるのはすべてカトレア様のおかげで、他のご姉妹はその庇護下にいる。


 これが屈辱でなくて、なんというのか。


 魔法使いでさえあれば、この国では安泰。


 そういう意味で、キンセンカ様はキキョウに対して羨ましいと言ったのだ。


 だけど、キンセンカ様。

 それは女性の話だ。


 男性は問答無用で地獄に叩き落されるというのを忘れてはいけない。


 あの奥様のもとで生活しているというのは同情に値しますが、だからと言って魔法使いになれないからと言って僻まれても困る。


 キキョウにしてみれば、女であること自体が羨ましい。


 それにカトレア様の身分があるからこそ、これだけの生活が出来ている。普通なら必死に働いて、多くの給金を大帝国に搾り取られるようではないか。


 同情はする。だが何もする事はない。


「キンセンカの戯言など無視しなさい。あなたは次代の魔導師(マギ)となるのです。その覇道を邪魔するものは私が排除します」


 奥様がそう豪語した。


 キキョウは滑稽に感じた。

 なんという茶番だろう。


 これが権力に憑りつかれるということなのだろうか。


 ツツジ様も呆れたような顔になっている。駄目だ、この母親はみたいな感じだ。

 ツツジ様はさっさと出て行って、仕事に向かった。


「行ってらっしゃいませ」

「また後でね、キキョウちゃん」


 続いてカトレア様が席を立った。


「行くぞ、キキョウ」

「はい」


 扉を開けた。先にカトレア様が退出した。

 その目は、大分険しかった。


「……貴様に何が出来るというのか」


 明らかな憎悪を孕んだ声で、そう呟いた。キキョウはギョッとして奥様の方を見たが、聞こえていなかったようだ。


 扉を静かに閉めて、カトレア様を追いかけた。


「ああいう事は言わない方が……」

「聞こえたか。済まないな。イラついてた」


 カトレア様はずんずん先に進んで行って、自室に戻っていった。


「テスト頑張ってくれ」


 それだけ言って、カトレア様は扉を閉めた。

 キキョウは取り残された形になったが、やることはある。


 するとアザミさんが廊下の奥の方から現れた。

 キキョウを手招きしている。小走りでそっちに向かった。


「すみません。午後に用事が出来たので、今からテストを始めます」

「……えっと、今から?」

「はい。今日はもう午後は消費する予定になってしまったので、今を逃すとテストをする時間がありません。すぐに用意して、私の部屋に来てください」


 アザミさんはゆっくりと奥に消えて行った。

 キキョウは数秒呆然としたが、やらないといけないなら、やるしかない。勉強はしていない訳では無い。


 急いで部屋に戻って、筆記用具を持ち、アザミさんの部屋へ急行した。


 ノックをして「どうぞ」の声の後、ゆっくり入った。


 一か月の間毎日通っていたが、やはり小ざっぱりした部屋だ。

 アザミさんはベッドに腰掛け、本を広げている。


「来ましたね」


 本を閉じて、紙を二枚取り出した。


「各六十分で解いてください。合格点というものは設けません。設定しても意味ありませんから。出来るだけ高得点を狙って、明日からの学校生活の糧にしてください」


 キキョウは問題用紙を受け取って、机に向かった。


「国語、数学どちらからでもいいです――では、始め」


 キキョウは鉛筆を持って、まずは国語から解いた。

 ザッと見た感じ、文字の書き取りが大半だ。あとは文章問題が二つ。

 

 ――厄介だな。


 まだ文章を読むのには、時間がかかる。未だに知らない文字が出るのもしばしばある。まずは書き取りからやろう。


 キキョウは一か月間の努力の成果を一枚の紙にぶつけた。偶にわからない物もあるが、だいたい解く事が出来た。


 アザミさんの持つ懐中時計が一周したようだ。


「六十分経ちました。次に取り掛かってください。その間採点しますから」


 キキョウは国語の答案用紙を渡して、次の数学に取り掛かった。

 数学とは言ったが、ほとんどただの計算問題。あと文章問題が三問。


 キキョウはゆっくり解く事にした。慌てなければ間違えない。文章問題は捨てる。計算問題を解いて、時間が余れば文章問題を解こう。


 あとはひたすら計算するだけだった。

 あっという間に六十分が経った。


「こっちが国語の結果です。数学の方をください」


 答案用紙を渡し、国語の結果を受け取った。


 ――77点。


 良いのか、悪いのか判断できない。間違えた箇所を見て、正答を見る。復習しながら待っていると、すぐに採点が終わったようだ。


「こっちが数学です」


 結果は――62点。

 国語より悪い。


「どうでしょうか……?」


 恐る恐る結果を訊いてみるが、あまり期待はしない方が良さそうだ。


「やや悪い。八割以上は取ってほしかったですね。国語は甘めに見れば及第点ですが、数学は駄目です。本当に基礎の基礎しか出していないので、より一層の努力が必要です。高等教育からはさらに難しくなります。頑張ってください」


 現実は厳しいようだ。そう簡単に行くものではないという事か。


「努力をたゆまぬことです。まだ勉強してからこれだけ出来たのですから、もっと時間をかければ出来るようになります。駄目なのは諦めて放り投げること。血反吐を吐いても喰らいついてください」


 アザミさんは本を収納して、キキョウの背中を強く叩いた。


「駄目でも死ぬわけじゃありません。落ち込む暇なんてありませんよ」

「……そうですね」


 キキョウはアザミさんにお礼を言って、自分の部屋に戻った。

 初めから上手く行くとは思っていない。キキョウは天才じゃない。凡庸のなかの凡人だ。平々凡々なのだ。


 二時間もテストを受けていたので、そろそろお昼の時間だ。

 あれをしたらこれをして……。それであれをやって……。まだまだ色々やる事はある。


 キキョウは気を取り直して、ご飯を食べて、感謝を伝え、仕事に取り掛かった。

 掃除に洗濯。やる事は山積みなのだ。


 キキョウは乾いた洗濯物を取り込み、高速で畳む。この屋敷に住む全員分の服がここにある。相当に時間が取られる。


 かなり時間をかけて畳み終わると、あとは一人一人の部屋に服を運ぶ。

 

 これが滅茶苦茶時間がかかる。あと二、三人は人が欲しい。

 とはいえ、他の人もそれぞれ忙しい訳で、キキョウだけが文句を言えるわけもない。


 日も沈み始めるころになって、ようやく割り当てられた仕事が終わった。


 へとへとになりながら、食堂に向かいまかないを胃に詰め込んだ。

 終わるとカトレア様を迎えに行って、アンハーバン家の食事に同行する。


「やっほー、キキョウちゃん、今朝ぶり」

「お仕事お疲れ様です、ツツジ様」


 すぐにキンセンカ様もリビングに来た。


 すかさず挨拶をした。


「お疲れ様です、キンセンカ様」

「……えぇ」


 一応反応してくれた。ほとんど空気が漏れたような声だったけど。


 その後、奥様も入ってきて、無言の食事が始まった。


 キキョウはカトレア様のコップに水を注ぐ以外は、基本突っ立ったままだ。

 あまり挙動不審にならないようにするのが精一杯だ。


「キキョウ、テストの結果はどうだった」


 カトレア様の発言は、食事が始まってほぼ終わりかけのころになってからだ。それまで誰も喋らなかった。空気の重さといったらなかった。


「えっと……。あまり良くないと言われたのですが」

「いい。言え」

「……国語が77点、数学が62点です……」


 なんだか恥ずかしくなって消えたくなってきた。


「低……」


 キンセンカ様が小さく言った。

 うっ……。やはり低いのか。


「まあまあ。キキョウは収容所から出てきて間もない。こんなもんだろ――」


 そこでガタンッと凄い音がして、とてもビックリした。

 奥様が滅茶苦茶に目を細めて、キキョウを睨んでいるではないか。キキョウはゆっくり目線を逸らした。


「収容所とはなんですか!? まさかこの小娘、収容所出身だというのですか!?」

「それがどうした。初日に言ったろう。収容所出身だから、気をかけてくれと。覚えてないか?」

「そんな覚えはありません! そんな素性のものだと知っていれば、居座らせるわけないでしょう!」


 カトレア様は構わず反論をぶつける。


「金を出しているのは私だ。キキョウの雇い主は私であり、それをとやかく言われる筋合いはない」

「金などという問題ではないのです! 経歴がすでに駄目だと言っているのですよ!」

「あまり大声を出すな。耳が痛い」


 カトレア様は水を飲もうとしたが、すでに無くなっていた。「キキョウ、水」

 キキョウは慌てて水を注いだ。失態だ。水が無くなっていたのに気付かなかった。


「すでに高等学校への側付きの名簿にはキキョウの名が記されている。今更変更できまい」

「だったら代わりの者を――」

「アンハーバン家に魔法使いが来るとでも?」


 奥様は言葉に詰まった。


「そもそも魔法を使える者の絶対数が少ないこの世で、フリーのキキョウは相当に稀有な存在。収容所出身とか、そういうもので差別しているのは阿呆のやる事だ」

「わ、私が阿呆だとでも!?」

「違うのか? たかだかテストの点数。出身地。どうでも良い事だ。母上が執着する身分制度で言えば、キキョウは第四階位の魔術師見習い級(アプレンティス)。キキョウが命令する事はあっても、されることはあり得ない。これはキキョウの慈悲だ。失礼千万を働いているのがどちらかそろそろ理解するべきだ」

「わ、私は、次代の魔導師(マギ)を生んだオダマキ――」

「それが的外れだと言っているのが分からんのか。第五階位」


 カトレア様は椅子にもたれかかって、ふんぞり返った。


「魔法使いが生まれるのはほぼ運だ(・・)。生んだとか生んでないとか、そういうのは的外れだ」


 カトレア様はキキョウの手を取り、引っ張った。危うく転ぶところだ。


「持っているもので戦え。魔法の有無など見ない。こんなのは付属品だ。持つ者、持たざる者。確かに大きな差だ。だが、キキョウの今までの人生に比べれば、貴様らは恵まれすぎている。細かい事に執着している場合ではない。ツツジがいい例だ」

「えー、私?」


 カトレア様の話は、どうやら奥様とキンセンカ様に向けられている。いや、ほぼキンセンカ様だ。


「いつまでコンプレックスを引きずっているつもりだ」

「あなたに何が分かるのよ」

「何もわからん。だから何をそんなにイラつているのか分からんのだ」

「私にだって魔法があれば……。こんな事には……」

「現状が不満なのか?」

「そういうわけじゃ……ないけど……」


 カトレア様は嘆息して、キンセンカ様を見つめた。


「何も今すぐ変われと言っているわけじゃない。そろそろ母上に引きずり回される人生を終えろ。この国のほとんどが魔法を使えないのだ。むしろ異端児は我々だ」

「偉そうに……! 私もその娘の事は認めない……! 魔法使いは全て敵だ」


 キンセンカ様の眼光がキキョウを貫く。キキョウは認識を改めた。思っていた以上に根は深そうだ。


「才能に胡坐をかいていろ。いつか痛い目を見るぞ……!」

「肝に銘じよう」


 キンセンカ様は綺麗な顔をゆがませて、肩をいからせながら退出した。専属の侍女が困った様にしていて、とても悪い気分になった。


「カトレア、あまり姉さんをいじめないでよ。キキョウちゃんの話がいつの間にかすり替わってるじゃない」

「おっと……。これはすまん。まあ、そういう事だ。キキョウはこのまま私が雇い続ける」


 奥様はそれでも「私は反対よ!」とキキョウを否定し続ける。


「私はキキョウちゃんがいる事に賛成。別に害があるわけじゃないし」

「ツツジ様……」


 まさにアンハーバン家の良心だ。


「賛成二、反対も二。同数だ。現状維持だ」

「な、なぜそうなるのです!? このオダマキの言う事が聞けないとでもいうのですか!?」


 カトレア様が立ち上がった。食事は終わりのようだ。


「そういうことだ。行くぞ、キキョウ」


 カトレア様が先に出て行ってしまったので、キキョウは取り残されてしまった。


「あ、あの……。お先に失礼します……」


 ペコッと頭を下げた。去り際、ツツジ様が小さく手を振っていた。キキョウも奥様にばれない様に手を振った。


 部屋を出ると、リビングから凄まじい破壊音が聞こえた。食器が割れる音が連続している。


「はっ……! 癇癪でも起こしたか」


 まだ部屋にはツツジ様が残っている。とばっちりを食らうのでは。


「ツツジの事は放っておけ。世渡りが上手いから、どうとでもするだろう。見習いたい点だ」

「……キンセンカ様にも何か見習いたい点はありますか?」

「どうした、急に」

「いえ、キンセンカ様もこの差別制度の被害者なのかと思うと。こう、何か……」


 言語化できない。胸に渦巻くこの感情をなんと表現するのかキキョウは知らない。


「……キンセンカか。あいつはな、笑顔が良い」


 キキョウはキンセンカ様の顔を思い浮かべた。まったく笑った顔を見た事が無い。


「あいつは表面を取り繕うのが上手い。あいつが働くレストランに行ってみると良い。とびっきりの笑顔で迎えてくれるはずだ。私や君ではそれを見る事は出来ないかもしれんがな」


 遠くからなら見れるかもしれない。今度、非番の日にでも見に行ってみようか……。


「まあいい。明日から学校だ。よろしく頼んだ」

「はい」


 ウジウジもしていられない。切り替えていこう。


 明日から学校だ。

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