五 キキョウの魔法
馬車に乗っていると日も暮れてしまったが、それでも御者の人は馬を働き続けさせているようだ。早寝早起きが習慣のキキョウは、暗くなるとすぐに眠ってしまう。
カトレア様やアザミさんより早く眠ってしまうことに罪悪感を覚えたが、生理現象なので先に眠らせてもらったのだが。
かなり寝た感覚があったが、馬車がまだ振動しているのに気付いて、目が覚めた。
馬車の窓からのぞく空は、白み始めていて、そろそろ早朝を迎えようとしていた。
隣には腕を組んで寝息を立てているカトレア様がいる。世間では相当に早い時間なのだろう。キキョウにとってはいつも通りの時間の起床のつもりなので、意識は冴えわたっている。
アザミさんも寝ている――と思った。
「……早いですね。合格です」
何に合格かは分からないが、とりあえず「どうも……」と言っておいた。
アザミさんは備え付けられた棚から水筒を取り出した。カップにそれを注いで、キキョウに渡した。
「ありがとうございます」
キキョウは恭しくそれを受け取って、まずは一口飲んだ。
口を付けた瞬間、今まで飲んでいた水は水ではなかったと思った。こんなに無臭の液体を口にしたのは、いつ以来だろうか。もしかしたら、人生初かもしれない。
キキョウは夢中になって飲み干してしまった。
「……随分美味しそうに飲みますね。普通の水だと思いますが」
「いえ、こんな美味しい水は収容所では無かったので。あの……もう一杯いいですか?」
こんなに美味しいものを何杯も飲もうとしたら、怒られるかもしれないと思ったが、アザミさんは普通にカップに透明な水を注いでくれた。
「どうぞ」
いただきます、も言わずにすぐに口を付けた。清涼感のある冷たい水が喉を通って、胃に落ちていくのが分かる。臓腑に染みわたるとは、まさにこの事だ。
アザミさんも水を飲んだ。もう一杯飲みたいけど、流石に恥ずかしい。あまり欲張りに欲しがると、浅ましく見えそうで、気恥ずかしかった。
「もう一杯飲みますか? そんな目で見ていると、丸分かりですよ」
キキョウは自分の顔をこねくり回した。そ、そんなに欲しそうに見ていただろうか。たぶん、見ていたのだろう。アザミさんの水筒の中身がとても欲しい。飲み尽くしたい。
「お嬢様の分もあるので、最後の一杯ですよ。これで我慢してください」
それで十分です。浅ましい身にそのような慈悲をいただき、恐悦至極です。
「じ、じゃあ、あと一杯だけ」
「はい、どうぞ」
トクトクと水が注がれる。注ぎ終えると、キキョウは貪る様に水を飲んだ。今度は味わうように飲んだ。
スーッと清涼な感覚が喉を癒していく。今までの不浄が取り払われるようだ。
「ハァー……。美味しかったです」
「それだけ美味しそうにされると、こちらも感慨深いものがありますね」
アザミさんはカップや水筒をしまった。
名残惜しいが、また飲む機会もあるだろう。
「お嬢様はまだ起きる気配はありませんね。丁度良いです。授業を始めましょう」
「授業ですか?」
「お嬢様には、私がキキョウの教育係になると言っておいたので。話し合いましたが、キキョウにはお嬢様の専属侍女になってもらいます」
「ぼくがですか……!?」
ちょっと大きな声が出てしまったので、慌てて口を塞いだ。隣のカトレア様は起きる様子はない。
「成り行きですが、キキョウはお嬢様の侍女となるのですから、それ相応の知性というものが必要になります。それ即ち学です。もうじき入学の季節ですからね」
「? 何の話ですか?」
アザミさんはちょっと驚いたような顔になった。しかしすぐに納得したようだった。
「すみません。収容所暮らしというものの認識を改めた方が良いですね。あまり外の世界の常識を知らないようです」
「……すみません。全くその通りで……」
「謝る事ではありません。知識などいつ身に付けても良いのです。お嬢様も同様のことを言っていたでしょう。キキョウには機会が無かっただけなのですから。それを責めるというのは無粋です」
キキョウは頭を下げた。なぜだが、そうするべきだと思ったのだ。それに教えてもらおうというのだ。それ相応の態度がいるだろう。
「とはいえ、ここで出来ることなどほとんどありません。筆記用具もありませんし。正直今すぐにやれと言われても、私自身にもできる事はありませんし……。キキョウは何か知りたい事はありますか?」
キキョウはしばし考えた。こう訊かれると、意外に何を知りたいのか具体的に考えていないものだ。
しかし何も訊かないというのは、失礼にあたるだろう。無難に何か訊いておいた方が良いのでは……?
「……この馬車はどこに向かっているんですか?」
思いついたのはその質問だ。地理も糞も知らないが、訊いておけばいい。
「生憎地図はないので場所は示せませんが。アンハーバン家のあるキャメローという町に向かっています。キャメローはこの大帝国の中でも有数の都市で、多くの魔法使いが集まっている街です。今のキキョウでは想像もできないほど、多くの人が集まります」
キキョウでは想像できないほどの多くの人とはどれくらいなのだろうか。まったくわからない。
「うーん……。やはり捗りませんね。こんな事はあとから幾らでも仕入れる事が出来る知識ですし。馬車でしかできない事をやりたいですね」
「そんなものがあるんですか?」
「……ない」
アザミさんはさじを投げた。諦めて外の景色を見ている。「綺麗……」とか呟いている。
朝焼けを見る十歳前後にしか見えない少女。ふと、疑問が沸いた。
「……失礼ですが、アザミさんはお幾つですか……?」
「……それを訊きますか、キキョウ」
アザミさんは昏い目でキキョウを見据えている。その目に生気はない。駄目だ……! これは訊いてはいけない質問だった。
「何歳に見えますか」
もはや疑問形でも何でもない。ただ淡々と事実を述べろと言っているのだ。
女性に嘘は吐けない。でも、ここは気を使うべきなのか。だが、ずっと迷っているのが、もう答えを出しているようなものじゃないか。
「良いんです。年相応に見えない事くらいは分かってますから……」
「あの……若く見えて、良いんじゃないでしょうか」
「気休めはよしてください。実年齢の半分以下に見られる気持ちがわかりますか、キキョウには」
それは、きつい。キキョウで言えば、十五歳なのに、七歳前後と判断されているという事だ。
「こ、個性なのでは……?」
「吃ってますよ。心にない事は言わない方が良いですよ。アンハーバン家の侍女は嘘つきだということになりかねませんから。誠心誠意、誠実にあるべきです」
「……ぼくももうアンハーバン家の侍女という訳ですか?」
アザミさんは昏い表情をやめて、すっと精悍な顔つきに戻った。
「まあ勝手にこちら側が決めたことですから、キキョウがどうしても嫌だというのなら、私からお嬢様に伝えておきますよ」
「いえ、別に。そういう事では……」
「ではどういうことでしょうか?」
キキョウはまだ寝ているカトレア様を眺めた。そうしながら考えをこぼした。
「あまり実感が無いんです。突然こんな事になって、処理しきれてないっていうか。どうにも現実感が無いっていうか。色々ありましたけど、今ほど恵まれている時はないって思うんです。全部が全部思い通りに行っているわけじゃありませんけど」
これでキキョウは男であるという隠し事さえなければ、後ろめたいことなどなくなるのだが。しかし男であるということがばれたら、この馬車から突き落とされる。それで済めば御の字だ。
「現状を受け入れる事です。幸せ慣れしていないなら、今から慣れてください。魔術師見習い級たるキキョウは、元々もっと幸せであるべきだったのです」
それが男であっても、だろうか。
だけど、そんな事を言う事は出来ない。
差別制度が働いているこの大帝国で、魔法が使える男というのはどういう立場なのだろうか。
それに魔法が使える男というのは何なのだ。
魔法は女しか使えない唯一無二の存在なのではなかったのか。だが、そんな事を考えた所で、キキョウに正解が導けるわけでもない。
アザミさんがポンと手を鳴らした。
「魔術師見習い級繋がりで良い事を思いつきました。魔法を見せてください。何が出来ますか? 系統はどれですか?」
「け、系統、ですか……?」
初耳だ。
確かに思い返せば、『カントク』やその他の女性たちも色々魔法を使っていた。それが種類分けされていても別に驚く事ではない……かもしれない。
「あれ? 知りませんでしたか。説明すると長くなりますからね」
「面白そうな話をしているな」
突然カトレア様が起き上がって、キキョウたちの会話に割って入った。
「私が寝ている間に随分愉快な展開になっているじゃないか。私も混ぜてくれ」
「珍しいですね。こんなに早く起きるなんて」
アザミさんがやや皮肉めいたことを言った。だが、カトレア様は委細構わず話を続ける。
「キキョウの魔法は私も興味があるな。魔力は感知できても、どの系統の魔法を使っているのかとなると、これは直接見るしかない。それに、他人の魔法を見るというのは勉強にもなるし、興味をそそられる。そう見れるものじゃないからな」
カトレア様はグッと背筋を伸ばして、一気に眠気を吹き飛ばしたようだ。
「準備完了だ。キキョウ、良ければ魔法を見せてくれないか?」
「良いですけど……。大したものじゃないと思いますが……」
「それは私が決める事だ」
キキョウは魔法を使おうと思ったが、生憎対象となる物が無い。
「あの、何か金属とかありませんか?」
「何故だ」
カトレア様は真面目そうな顔で聞いてくる。いや、実際変なことを訊いていると思う。
「無くても良いですけど、あった方が目に見えると思うので……」
「……納得は行かんが、キキョウがそう言うのならそうなのだろう。アザミ。何かあるか?」
「護身用のナイフがあります」
「あ、危ないですから……! もっと違うので……」
カトレア様は一つ頷いて、指輪を一つ外した。
「これでいいか?」
「うーん、どうでしょう……。分かりませんが、やってみます」
キキョウは左手に指輪をのせた。すぐに昨日までひた隠しにしていた魔法を使った。
「……あれ?」
意図していたことが起きない。失敗か? そんなはずはない。今確かにキキョウの手から線が出ている。線というのは比喩だが、キキョウはそう言う風に読んでいる。
それは力の軌跡だ。魔法が力を及ぼしている範囲だ。指輪は確かにこの力の範囲にいる。なのに、まったく影響を受けていない。
「キキョウ、魔法を使っているな?」
「えっと、はい。使ってますが……。すみません。理由は分かりませんが、失敗です」
カトレア様は指輪を受け取って、それを指にあてがった。
「成程。かなり限定的だな」
「そのようですね。お嬢様はどのように見えましたか?」
「力魔法の一種だな。念通力のような範囲の広いものじゃない。力の及ぼせる範囲を金属に絞りつつ、またその中でも限られたものしか扱えないようだ」
キキョウはカトレア様が言う事に耳を傾ける。どうやら、キキョウの魔法のなぞ解きをしてくれているようだ。
「珍しいですね。力魔法の中でも特異な物ですか」
「範囲を限定しているから、扱えるものが少ない。汎用性は低いな」
「ですが、恐らく金属限定なら相当に上手く扱えそうです」
カトレア様はアザミさんからナイフを受け取って、キキョウに渡した。
「指輪は無理だったが、こっちのナイフはどうだ? 生憎、これ以外に金属はない。今用意できるのはこれだけだ。危ないからな、慎重にやってくれ」
「は、はあ……」
二人でお喋りしていたと思ったら、どんどん要求してくる。
どうやら二人の興味は完全にキキョウの魔法に移っているようだ。
キキョウはもう一度左手から線を出した。それをナイフに触れさせる。
「これなら出来ます」
感触が違う。線ががっちりとナイフを掴んでいる。危ないから、ゆっくりと操作した。
徐々に力を強めて、ナイフを浮かせた。
「すみません。こんな感じです。カトレア様の魔法の迫力に全然及びませんが……」
「何を謝る必要などある。これもまた一つの魔法だ。私には同じ事が出来ない。誇ると良い」
しかし猿人間を倒した青白い光の一撃と比べると、やはり何段も見劣りする魔法だ。これを最終兵器だと思っていた頃の自分が恥ずかしい。
「系統はやはり力魔法ということになりますか?」
アザミさんがカトレア様に尋ねる。
「分類すればそうなるだろう。生憎、門外漢だから詳しい事は言えないが。十中八九、磁力関係だろう」
キキョウは聞きなれない言葉をおうむ返しに問い返した。
「磁力ってなんですか?」
「うむ。磁力。そうだな……意外とどう説明すればいいのか分からないな。こういうのは感覚で覚えるしかないからな……」
カトレア様は少し困った顔になって、考え込んでしまった。
「キキョウ、あなたの魔法なのです。教えてもらおうという姿勢ではなく、自分から学ぼうとする意欲が何よりも大事です。アンハーバン家に色々書物があるので、あとで勉強すると良いでしょう」
次はキキョウが困る番だった。流石に申し訳なく思った。
「あの……字が読めなくて……」
二人が呆れたような顔をするような光景が目に浮かんだが、存外そんな事も無かった。
「そうだったな。アザミ。そこから教えてやれ」
「そのように」
「入学まで時間が無いから、国語と数学に絞れ。読み書きと計算が出来れば、浮く事もあるまい」
キキョウは魔法を解除して、丁重にナイフを手に持って、アザミさんに渡した。
「あの、入学って何のことですか?」
さっきから何回か入学という単語が耳に飛んでくる。疑問に思っていたので、ここらで質問しておいた。カトレア様が直々に教えてくれた。
「魔法使いは初等教育を終えると、高等教育を受ける権利が得られる。ついこの間、私も初等教育を終えたから、次は高等教育を受ける権利が発生したわけだ。この冬が終わって、春が訪れれば私はまた学校に行かないといけない。そういう意味での入学だ」
学校に行くという事だろう。多分だけど。とりあえず「おめでとうございます」とだけ言っておいた。
「何を言っている。キキョウも私と一緒に行くのだ」
「え?」
「なんのためにキキョウを拾ったと思ってるんだ」
アザミさんが「可愛いからとかそう言う理由でしょう?」とくぎを刺した。
「最初はキキョウが魔法使いと思わなかったからな。だが、魔法使いと分かれば扱いも変わる」
だが、ここでキキョウも疑問が出た。
「けど、ぼくは初等教育というのを受けていませんが?」
「そうだな。だから生徒扱いは難しいだろう。だから私の側付きとして入学させる。高等教育からは生徒一人に対して、原則一名まで側付きを同行させることが許されているんだ」
「だったら、カトレア様にふさわしい人を同行させた方が良いのでは……」
学も何もないキキョウが行ったところで、何にもならないではないか。
だが、その疑問を解消する答えをアザミさんが提示した。
「側付きが魔法使いというのは一種のステータスなのです。周囲に上位である魔法使いを従えるほどの力があると、周りに公言できるのですから。お嬢様も時間をかけて側付きとして同年代の魔法使いを募集していましたが、見つかりませんでした」
キキョウは少し驚いた。こんなに凄い魔法を使えるのに、この人の下で働こうと思う人はいないのか。
「魔法使いはプライドが高い。誰かの下に着こうという奴も少ないからな。だからこそ、側付きが魔法使いであることの意味は相当に大きい。キキョウが私と一緒に学校に行くのは、それだけで私にも箔が付くということだ」
「そ、そうなんですか……」
キキョウで良いのかとも思うが、カトレア様がそう言うのなら仕方がない。
「勝手に側付きにしようとしているが、キキョウもそれでいいか?」
「はい、構いません」
これでいい。先行き不安な人生より、少しでも見通しのつくようにしておきたい。
「給金も出すから心配はいらない。少なくとも収容所の様な劣悪な環境にはならない事は約束しよう」
「助かります」
ふと、キキョウは今あそこがどうなっているのか心配になった。他の皆は無事逃げる事が出来ただろうか。しかしそれはすぐに否定された。あの極寒の地で麻の服一枚で生き残れるとは思えない。前に進んでも後ろに進んでも死んでいたのだ。
キキョウはただただ運が良かった。
カトレア様に拾われていなかったら、この大地の肥やしになっていただろう。
「入学まで時間が無い。アザミはキキョウの教育の優先度を上げてくれ。知識を蓄える事だ。キキョウも頑張って励んでくれ」
キキョウは首を縦に振った。ここからキキョウの未来が広がるのだ。これで興奮しなければ、男じゃない。
やる気に満ちたキキョウを見て、カトレア様が苦笑した。
「私と君が出会ったのも、一つの運命だ。これがどういう結果になるのか、今から非常に楽しみだ」
話も終わるころになって、馬車も少しずつ減速し始めた。
「キャメローに着いたようです」