三 キキョウの逃走
ボルボルが無残に殺害されてから、早半年が経過した。
キキョウもさらに歳を重ねて、十五歳となった。
誕生日だからと言って、何かがある訳では無い。肉が食えるわけでもないので、どうでもいいのだ。
季節は冬に移ろい、最も厳しい時が来た。
この国は四季がはっきりしていて、夏は暑く、冬は寒い。
夏は夏で熱中症となって、そのまま死ぬ奴が多発するが、冬もまたしかりだ。
キキョウたちの服装は麻の服だけなので、とても防寒しているとは言えない。冬の凍てつく空気が、キキョウの白すぎる肌を常に刺激し続けるのだ。
息を吐くともわっと白い水蒸気が出る。白い息と呼んでいる。
これは寒くなると、口から出せるので、ちょっとだけキキョウは面白がる。
まー、そんなものは、本当に何の役にも立たないので、キキョウはせっせと体を動かす。今日もつるはしで穴を掘るのだ。体が震える。寒すぎるのだ。
キキョウは懸命に体を動かして、体を温めようとするのだが、やはりそれも難しい。ガタガタ震える体が、運動を阻害する。
「寒い……」
つるはしを振る。ガッと壁面につるはしが突き立って、小さな岩が零れ落ちた。それを小さな子供たちが拾い上げ、坑道の外に持っていく。
これがキキョウの人生の全て。
そしてこれからも続いて行くのだ。
――外に出てみたい。
何度思っただろう。
誰もが思っている。
ここを出たい。外の世界の空気を吸いたい。ここは窮屈だ。息苦しい。息をするのにも周りの目を気にしないといけない。自分の存在を小さくして、誰にも気づかれないようにしないといけない。
とてもじゃないが、生活する環境が整っているとは思わない。
けど、聞く話によれば、外は天国だというのだ。
あまねく大聖母――魔女様が治める大帝国。
ここは辺境の地。最果ての地の男性収容所。大帝国から切り離されて、陸の孤島と化している。
『カントク』はいつも言っている。お前らは第六階位の最底辺だ。男であるお前らは存在自体が罪であると。そうか。キキョウは男であるからして、居るだけで罪なのか。
大聖母――つまり魔女様は男が嫌いのようだ。
「違うって……」
これは身分制度だ。外の世界を知らないキキョウにだって、なんとなく、ぼんやりとだが、全体像が見えてくる。
この国は、いわゆる女尊男卑だ。いや、もしかしたら世界規模でそうなのかもしれない。
そしてその原因となっているのは――。
手を動かしながら、思索にふけっていると、ピピーッと休憩の笛の音が鳴った。
坑道の出口辺りまで移動すると、『カントク』が大声で叫んでいた
「貴様ら、今日はお客様が来る。失礼のないように食堂から一歩も外に出るなよ」
お客様。『カントク』が敬語を使っている。
これだけでもそのお客様というのが『女』だというのが分かるし、かなり高位の魔法使いというのが分かる。これは関わるべきではない。
収容所の男性陣はそれに気づいて、そそくさと食堂に移動した。
丁度その時、かなり豪華な馬車がこの貧相な収容所に現れた。
「早いな。オイ! お前ら、駆け足で食堂まで行け!!」
『カントク』やその他の女性が杖を抜いてまで威嚇し始めた。「第六階位など見せられる物では無い!」
女性が魔法を使う前に逃げ込んだ方が良い。
男性は急いで食堂まで移動した。雪崩のようにして、いち早く中に入ろうとする。
早く、早く。万が一『カントク』達が怒ったら、キキョウは死んでしまう。
キキョウは男だ。男は魔法が使えない。
女性を怒らせたら、男は虫けらのように殺されてしまう。
それを体感で、経験で知っているのだ。なにしろ、最近は誰も折檻によって死んではいないが、半年前にボルボルが『カントク』に殺害されたばかりだ。
魔法を使えない男たちは、女に対抗することなどできない。
唯々諾々として従うほかないのだ。
出入り口のあたりでは、人が混雑していてとても中に入れない。
ちょっと時間がかかりそうだ。
キキョウは少しだけ後ろを振り返った。
「これはこれは。アンハーバン様。お話は伺っております」
『カントク』の無駄にデカい声が、キキョウの耳にまで届いた。
だけど、『カントク』と話している人の姿は馬車に隠れて全く見えない。でも、あの『カントク』がペコペコ頭を下げている。あれだけでも、アンハーバンという人がかなり身分が高いことがうかがえた。
「今日は『男』の納品ということで、よろしいでしょうか」
「ええ」
品のある声だと、キキョウは思った。だみ声の『カントク』やその周りの女とは違う。透き通るような、透明感のある声だ。
キキョウは立ち止まった。もう一回あの声を聴きたい。だけど、それ以降あの声が聞こえる事はなかった。
「おいキキョウ。早く中に入れよ……!」
他の男がキキョウを押し込んだのだ。ああ。残念だ。あの声をもう一回聞きたかった。
アンハーバン様。
姿も知らぬあなたの声を願わくは、もう一度だけ聞きたい。
だけど、それも、無理な話だ。
第六階位のキキョウが最低でも第五階位以上の女性に対して、お願いをしても聞き入れられる訳が無い。
それにあのアンハーバンという人は『カントク』より、偉そうだ。少なくとも第四階位はあるかもしれない。そんな人に、真正面からお願いをするなんてとても不可能だ。どんな折檻が待っているかも分からない。
根本的に女の人は怖い。キキョウはそう思っている。この十五年の人生で、まともな女性に関わった事が無い。ほぼすべてが『カントク』というイメージで構成されている。
仮にアンハーバンという人が気品ある声の持ち主だとしても、男であるキキョウに対して優しい態度をとるとは全く思えなかった。
キキョウの女性像は中々に厳しいし、実際にそうだ。
恐らくというか、絶対に世の女性はキキョウたち男に対して、厳しい態度をとるに違いない。
何より、『カントク』が口酸っぱく言っている身分制度がそれを物語っている。
男は第六階位で、最も身分が低い。それを繰り返し言っているのであれば、外の世界でもそれは適用されるだろう。ここから出ても、キキョウには数多くの受難が待ち構えている。
後ろからまだ男たちが来ていたので、キキョウもさっさと進んで食事の準備をした。
「今日はパンだ」
それは真っ黒でこぶし大の滅茶苦茶に硬い小麦の塊だ。悪意があってこうしている様にしか思えない。
『カントク』達が食べる本物のパンはとても柔らかそうで、真っ白なのだ。まるで対極だ。
席に座って硬いパンを食みながら、窓の向こう側でペコペコ頭を下げる『カントク』が見えた。
「ありゃ相当だな」
隣の男がそう言った。キキョウも頷いた。
「凄い人がいるんだね」
「ああ。最低でも魔術師級はあるだろうな」
こんな辺境の地に第三階位の魔術師級が来ているなんて。それはあの『カントク』だって頭を下げて、敬語を使うだろう。
「いい気味だぜ。ああやって『カントク』が頭を下げてるの見てるとよ。やっぱ、『カントク』だって絶対正義じゃねーんだなって思うぜ」
男はそれからもぺちゃくちゃ喋りつづけた。話は終始『カントク』が頭を下げているのが滑稽だというのに尽きていた。
「……魔法、か」
キキョウにもあの力があれば、この現状を打破できるのだろうか。そうしたら、あの『カントク』にすら頭を下げさせることが可能なのだろうか。
この身分制度は、魔法の有無で決定されていると思う。
女性しか魔法が使えないから、女性は全ての男性より上という考えなのだろう。
魔法が使えるか使えないか。
それが全てを決めている。
魔法さえ使えれば……。
キキョウには心当たりがなくもない。
もしかしたら? というのがある。でもそんなの言っていい訳が無い。絶対に危ない気がする。これは隠さないといけない。誰にもばれてはいけないのだ。
外では馬車に誰かが乗り込んで、出発してしまった。
アンハーバンという人はもう行ってしまった。結局姿を見る事も出来なかったな。少し残念ではある。
まあ、しかし。見ても失望していたかもしれない。
『カントク』が一人の赤ん坊を抱いている。
「また餓鬼かよ。ありゃ絶対男だぜ」
隣の男が唾棄したように吐き捨てた。
大体、ここに運ばれてくるような奴は絶対に男だ。女が来ることはほぼあり得ない。この十五年でいない訳では無かったが、早晩死んでしまうので、あまり記憶にもない。
アンハーバンはあの『男』をこの収容所に預けただけだ。まあ、失望したと言ったら勝手になる。あの美しい声の持ち主も、この収容所を利用する。つまり、差別制度を利用しているのだ。
あの赤ん坊は男子で、まったく使い道が無いからここに運び込まれてきたのだ。
少し、冷めた。
いや、目が覚めたと言っていい。これが現実だ。男に需要はない。
少なくともアンハーバンはそう思って、あの赤子を預けたのだ。
『カントク』のお付きの一人が、赤ん坊を受け取って、それを収容所の一角に運び込んでいった。あの赤ん坊は今後三年間育てられて、三歳になった暁には強制労働させられる。破滅への道一直線だ。
「あの餓鬼も気の毒にな。女に生まれてれば、第五階位になれたのによ。男だからって、即第六階位だ。終わってるぜ、この国は」
そう、なのかな。キキョウには判断できない。なにしろ、キキョウは学が無い。今日まで一回も勉強というものをした事が無い。ただひたすらに岩を運んだり、穴を掘ったりしているだけだ。この人生の間に、勉強する隙など存在しないし、またそんな機会もない。
これも、差別制度のなせる技なのだろう。キキョウはそう思っている。
少ない情報から、拡大解釈して、出来るだけ正解に近い答えを導き出す。
短い人生だが、身に着けてきた能力だ。
「合っているかは、分からないけど」
結局はただの推測でしかない。外の世界も知らなければ、知識もない状態の予測なんて、まったく信憑性に欠ける。キキョウは考えたことを他人には話さないし、話す気もない。
「……ん? 何か言ったか?」
「別に、なんでもないよ。あ、『カントク』が戻ってくる。もう黙った方が良い」
キキョウは少し俯き気味になってから、一欠けらだけ真っ黒のパンを口の中に放り込んだ。
同時に『カントク』が食堂に入って、キキョウたちとは違う白くて柔らかいパンを受け取っている。
くそ。キキョウもそれを食べてみたい。一口で良い。
……そんな事を言えば、絶対に叩かれるので、心の内で呟くだけにとどめておく。
「あ……雪だ」
遂に降り始めてしまった。今にも降りそうな曇天だったが、やっぱりかと言う感じだ。これからすぐに猛吹雪になって、視界が悪くなる。それに気温もすごい勢いで下がるし、作業がさらに過酷さを増すはずだ。
キキョウはため息を吐いた。
自然に仕事の事を考えていた。
今日をどう切り抜けるかの算段を付けていたのだ。まったくここを抜け出すとか、そういう考えが無い。
これでは外に出るなど、夢のまた夢だ。
それから休憩時間が終わるまで三十分程度あったが、キキョウの予想通りそとは視界が無くなるほどの猛吹雪となっていた。
過去、これほどの吹雪は見た事が無い。せいぜい鬱陶しい程度のものだが、今年は違うようだ。
窓から見える景色はなく、ただただ真っ白な雪の弾幕が見えるだけだ。
外はすごい寒いだろう。ただの肌着一枚で生き残れるだろうか。
「貴様ら、何をぼさっとしてやがる。休憩時間は終わったぞ。さっさと坑道に行って作業を始めろ」
もしかしたらこの吹雪だ。作業は中止になるかとも思ったが、そうは問屋が卸さないようだ。全員渋々と立ち上がって、トレイを流し台まで持っていく。自分で清掃して、元あった場所に戻せば、それぞれ順番に外に出ていく。
「うぉっ! 寒っ!」
一番初めに外に出た男の叫びが聞こえた。扉を開けた途端冷たい風が中に舞い込んできた。食堂はある程度傍観されているので、外の寒さを実感しにくかったが、やはり相当な寒さだ。
しかし立ち止まろうとすると『カントク』が「止まるな! さっさと外に出ろ!」と威嚇する。
仕方ないので、男たちは肌着一枚という紙装備で、極寒の外に出た。
うううううわああああああああ。寒い寒い寒い。キキョウの体は瞬時に寒さに打ち震えた。さっきより格段に寒くなっている。ちょっと時間を置いただけなのに、こうも違うものなのか。
やはり田舎の天気は一瞬にして変わってしまうようだ。
続々と男たちが外に出る。全員、寒い寒いと連呼していた。キキョウも例外ではない。手や足をこすり合わせて、なけなしの暖を取ろうとする。しかし焼け石に水。まったく効果が無い。歯の根が合わず、ガチガチと勝手に顎が動く。
男たちの動きはかなり鈍かった。ひょこひょこと動くのが精一杯で、とても前に進めるような状態ではない。轟々と凄い風で耳が潰されているし、大雪でまったく視界がない。
「貴様らあぁぁぁ!! さっさと行かんかぁああ!」
『カントク』が怒り狂うのと同時に、何か生暖かいものがキキョウの顔にかかった。
しかしそれもすぐに冷めてしまうのだが、次から次へと生暖かいものが降ってくるではないか。とうとうキキョウは頭がおかしくなってしまったのかと疑ったが、そうではないようだ。
よくよく目を凝らすと、その降ってきたものは赤い液体だ。
前方で噴水の様に首の断面から血を吹き出している男から発せられたものだ。
首の断面。
そう。男の首は刎ね飛ばされている。
「え……?」
キキョウは素っ頓狂な声を上げた。徐々にそのざわめきが連鎖していった。
凄い風で耳がバカになっているので、あまり聞こえなかったのだが、ほとんど無い視界で、奥にいる男が真横に倒れた。まるで何かに支えられていたのに、それを突然失かったかのような倒れ方だった。
実際、頭が無くなったのだ。立っていられる訳が無い。
それより、問題はなぜあの男は突然首から上が無くなったのかという事だ。
「そんなの火を見るより明らかだってば……!」
こんなことはこの十年以上の間、なかったことだ。
「異形生物だぁぁぁ!!」
大雪の陰に、何かいる。それは大勢だ。体はキキョウよりやや小さい程度だが、恐らくだけど武装している。背格好から見ると、人型の異形生物だ。多分、猿の異形生物。
偶に迷い込んでくる猿人間と呼ばれる奴がいるというのは知っていた。
ここに来る猿人間がいるのも知っている。
キキョウも『カントク』が殺した猿人間を見たことがある。人間をまんま毛もくじゃらにしたような見た目をしているような奴だ。かなり頭が良いらしく、それぞれに文化を築いているとかいないとか。
でもかなり知的能力が高いのはうかがえる。
あんな品質の良さそうな武器を身に着けている。雪でほとんど見えないけど、黒い何かを着ているし、手に持っている刃物も真っ黒で恐ろしい。
場は騒然として、混乱していた。
「ウギャギャギャギャァァァァァ!!」
猿人間が何かを叫ぶと、物陰に隠れていた他の猿人間が一斉に飛び出してきた。
猿人間たちは手近な男たちを速やかに殺す。手に持っている刃物で貫いて、ぶっ叩く。
男たちは為す術なく殺されていた。頭を庇おうとしても、問題なく猿人間は刃物を振り下ろして、破壊していた。
「超筋力ォォォオオオ!!」
『カントク』が魔法を使った。筋肉がモリモリと浮きあがって、体格が倍以上になった。その膨れ上がった筋力を活かして、一体の猿人間を力任せにぶん殴って、即座に一体を殺した。
だけど、ダメだ。猿人間たちは『カントク』の相手を諦めて、すぐに次の行動に移った。
『カントク』を殺すのではなく、他の男たちを狙い始めた。いや、始めからそうだったのだけれど、その行動がより顕著になった。
猿人間たちは『カントク』が近くに来ると、一目散に逃げる。敵わないと分かっているのだ。賢い。確かに魔法を使った『カントク』が負けるとは思えない。
でもそうなると、まったく『カントク』が役に立たなくなる。
他の数名の女たちも各自応戦しているが、『カントク』ほどの迫力が無い。同じ魔術師見習い級でも差があるのだ。
『カントク』は今は無理でも、他の女は対応できると判断したのだろう。「ウキャクウクキャ!」とリーダーと思しき、一際体格のいい猿人間が叫んだ。
そうすると、女一人に対して数体の猿人間が攻撃に向かった。
女たちは魔法で応戦して、近づく前に一体や二体の猿人間を追い込むのだが、すぐにジリ貧になっていた。
キキョウは棒立ちになっていた。あまりの突然の展開に、頭が付いて行っていない。
目の前で繰り広げられる死闘を前に、完全に頭が止まっていた。
だが、それも数秒で終わった。
目の前にいた男が、猿人間に斬り伏せられた。男は血の海に沈んで、二度と動く事はなかった。止まっていたら、次はキキョウが殺されてしまう。
キキョウは一瞬の間に決断した。
「逃げなきゃ……ッ!」
キキョウは走り出した。とにかく、突然来た猿人間から逃げないと始まらない。
右を見ても左を見ても、前に行っても猿人間。そしてたくさんの男たちの死体。今も、たった今も、男たちは抵抗むなしく殺されている。
善戦しているのは女である魔法使いだけだ。
「ドラドラドォォオラアアアアア!!」
『カントク』が魔法で強化した自身の肉体を存分に使って、一匹、また一匹と猿人間を殺している。でも、明らかに効率が悪い。猿人間は『カントク』を攻めるつもりは、今は全くなさそうなのだ。たぶん、『カントク』以外を全員殺した後、じっくりと『カントク』を殺すのだろう。
無理をせずに、『カントク』に手を出すのではなく、有利になったところで殺す。
『カントク』以外の魔法使いたちは、まったく駄目だ。近寄られると、必死にあっち行けとばかりに、魔法を乱発しているだけで、最初ほどの勢いがない。今は完全に猿人間有利だ。
そして男たちはもっと駄目だ。どいつも「うぎゃあああ」と情けない声を出して、斬り殺されている。まったく抵抗していない。それも仕方ない。別段戦闘訓練を受けている訳では無いし、そもそも武器も何もないのだ。
この状況である程度武装している猿人間を殺せという方が無理だ。
そもそもキキョウたちは魔法が使えない。
魔法なしで異形生物と戦うなら、それ相応の準備が必要なのだというのは、本能的に分かる。こいつらは、強い。まったく男がかなう相手ではない。
キキョウは戦場を走る。猿人間に出会わない様に身を潜めながら、この戦いが集結するのを待っていた。
でも、この戦いって、どっちが勝つんだろう……?
突然の事でまったく情報の整理がつかないんだけど、これってどうなの?
猿人間は突如ここを攻めてきたけど、これは狙ったの?
「クソがぁぁぁああ! ちょこまかしおってからにッ!!」
『カントク』がやけにイラついている。ぶんぶん腕を振り回して、猿人間を殺そうとしているのだろうが、ほとんど見えない。
それもこれも、全てはこの猛吹雪のせいだ。
視界が悪いから、少し離れるとほとんど先が見えなくなるのだ。だから猿人間は『カントク』の攻撃を辛うじて避ける事が出来ている。あまり近づかない様にして、下がる時は頑張って下がれば、この雪が味方して『カントク』の攻撃から身を守ってくれる。
たぶん、猿人間はこのタイミングをずーっと狙っていたんだ。
生まれて初めてともいえる突如の猛吹雪。視界がほぼなくなるほどの大雪だ。これ以上のロケーションはない。天候を味方にして、猿人間たちは満を持してこの収容所に攻撃を仕掛けた……?
すべて推測だ。
まったく根拠が無い。
キキョウは見つからないようにしながら、こそこそ移動する。今も誰かが死んでいるし、魔法使いは奮戦している。
誰もキキョウのことなど気にしていない。
ドクンッと心臓が跳ねた。
「今なら逃げれる……」
もう一度、『カントク』がいる方を見た。いや、見えない。ほとんど視界が無い。『カントク』も他の魔法使いも、目の前の敵で精一杯だ。誰もキキョウ個人の事なんて全く気にしていない。
行ける。出来る。もしかして、これってチャンス?
十五年生きてこれほどの機会は存在していなかった。次のチャンスはいつ訪れるんだ。さらに十五年後? そんなに待っていられる訳が無い。明日生きているかも分からないのだ。
それに気づいたのは、何もキキョウだけではない。
それはほぼ同時だった。
無言で生き残っていた男たちは、一目散に蜘蛛の子を散らすようにバラバラに逃げ始めた。まるで打ち合わせでもしていたかのようだ。でも、そんな事はしていない。これはほとんど本能だ。
誰かと一緒にいると目を付けられる。だから一人で逃げた方が良い。それに追いかけられる確率を少しでも減らすには、ちょっとでも多く目標が増える事が重要だ。
追いかける対象が増えれば、猿人間の兵力も分散せざるを得ない。そうなれば、それぞれが生き残る可能性はぐんと高くなる。
それを知ってか知らずか、全員が合理的な行動を取った。
『カントク』が「どこへ行く気だッ!?」と一体の猿人間を屠りながら、そう叫んだ。
キキョウは完全に無視した。もうひたすらにここからの脱走しか考えていなかった。
ここしかない。これが最初で最後のチャンス。これを逃すと、一生収容所に閉じ込められて、いつか死んでしまう。家畜の如く生かされ、ただひたすらに消費される存在になってしまう。今しかないんだ。たとえ、命を落とす結果となっても、ここで延々とこき使われるより遥かにましだ。キキョウはそう判断した。
キキョウはもはや方向感覚がくるっている。この猛吹雪で視界もない事も大きいが、この十五年の生活で収容所の敷地より遠くに行っていない事が大きい。
キキョウは自分がどこに居て、どの方向に進んでいるのか最早わからなかった。
だけど、一瞬たりとも止まらない。他の事を考える事も出来ない。よくて、他の奴らが囮になってくれたら、キキョウの生存率が上がる程度だ。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
白い息が規則的に吐き出され、その度に足が地面を蹴り飛ばし、収容所から遠ざかる。
「待てと言っているだろがッ!!」
『カントク』の大音声が辺り一帯に響いた。もう姿は見えないのに、目の前にいるような錯覚がした。刹那、身が竦んだが、なけなしの勇気を振り絞って再度前へと進む。
もう無我夢中だった。他の奴もそうだろう。もう視界ゼロのなか突き進むしかないのだ。走れ。走るんだ。キキョウ。ここで止まったら、拷問された挙句、襤褸屑となり果てるまで殺し尽くされてしまう。この世とは思えない地獄を味わい尽くされ、最後には希望の欠片すらなく殺してくれと懇願するはずだ。
走るんだ。それ以外必要はない。
木々の間を駆け抜け、木の根を飛び越え、体を躍動させて、一歩でも遠くへと走る。足を取られるな。前と下を見るのを両立するんだ。キキョウは過去最高の集中力を発揮している。体の感覚が延長しているようだ。自分の体が広がって、ありとあらゆる情報がキキョウに流れ込んでくる。
その情報を使って、最適化した動きで動く。ここまで一回も転んでいないのは奇跡だ。足元はボコボコになっているのに、足を取られる事が無い。視界がほとんどないのに、木にぶつかる事が無い。やはり、今のキキョウは自分を超越している。
だからこそ、気付く事が出来た。
「いる……!」
追いかけられている。数は二体。くそ。キキョウを追いかけてきた。恐らく猿人間だ。「ウギャギャ」とか「ウキキ」とか叫んでいる。
逃げきれるか……!? 分からない。どうやらくじ運は悪いようだ。まさか二体も来てしまうとは。
だけど距離はある。まだ追いつかれない。猿人間の足取りも悪い。猛吹雪はこっちにも有利なんだ。だけど、あまりキキョウには体力が無い。満足な食事という物が与えられていないので、キキョウの体は小さい。白くてサラサラの髪の毛や透き通るように綺麗な白い肌と相まって、キキョウは確かに女のようだ。女より女している。そのせいなのか、キキョウは収容所の中でも運動があまり得意な方ではなかった。嫌いではないが、平均より下程度だ。
広がった感覚が教えてくれている。
徐々にその間隔狭まって、追いつかれ始めている。
真綿で首を絞めるように、その距離が本当に少しずつであるが縮まっている。
これだと、数分もしないうちに追いつかれてしまうだろう。
どうすればいいんだ。
分からない。
キキョウには知識がない。こういう時どうすれば良いのか分からない。
「走るしか……ッ」
心の中でうおおおと叫ぶ。持てる力をすべて発揮して、距離を稼ぐしかない。その間に猿人間がキキョウを見失う事を願うしかない。
全力を出すと考える事が出来なくなる。もうキキョウは考える力も走る力に転換している。物を考える余裕などもはや存在しない。一杯一杯だ。
さっきまでの全能感が無い。広がっていた感覚も収束してしまって、もうキキョウの感覚はキキョウが知覚できる範囲に収まってしまった。キキョウは慌てた。目の前が見えない。足元がおろそかになる。マズイ。
キキョウは仕方なくさらに速度を落とした。転んだらそこで終わりだ。視界ほぼゼロのなか精一杯進むが、やはりさっきより遅い。安全重視じゃだめだ。
危険を冒してでも進まないと。
キキョウは賭けに出た。
視界はない。耳も駄目だ。
だけど全力疾走する。止まったら死ぬ。遅れても死ぬ。だったら急ぐしかないじゃないか。
キキョウはさらに走った。横っ腹が痛い。体中が空気を求めていて、息が荒くなっている。余裕が無くなって狭い視界が、さらに狭まっている。
「ウギギイイイイイイイィィィィィィ……!!」
猿人間の声がすぐそこにある。さっきより近い。やはりもう駄目なのか。キキョウの人生はここまでなのか。
「あっ……!」
やはりキキョウはここで死んでしまうのではないかと思った。
キキョウは足元を見ていなかった。何をやっているんだか。キキョウは木の根に躓いて、盛大に転んだ。「うぎゃっ」顔面から地面に突っ込んだ。鼻がジンジンしている。タラッと何か液体が口のあたりに流れ込んできた。
立ち上がれ、キキョウ。臆するな。
振り返った。雪の幕から一体の猿人間が出てきた。手には長めの黒い反りのある剣を持っている。この辺りで取れる金属特有の色だ。キキョウたちもあれを掘っているのだ。だからこそわかる。あれは凶悪な武器だ。
「ウギャホィッ!」
猿人間が躍りかかってきた。ギリギリで地面を転がって難を逃れた。キキョウはすぐに立ち上がって、逃げようとしたが、背中に衝撃が走った。
「うがっ……!」
蹴られた。二体目の猿人間が思い切りキキョウの背中を蹴ったのだ。
キキョウは転びそうになったが、そのまま走り出した。
逃げないと。関わったらだめだ。逃げるしかないんだ。
「ウギャアア、ウガァァ!!」
当然、猿人間は逃げるキキョウを追いかける。すぐそこにいる。
集中するんだ。一歩でも遠く逃げろ。走れ。走ってくれ。動けよ。体。
キキョウの思いに反して、体はどんどん動きが悪くなっていく。
――絶対に追いつかれる。
考えがどんどんネガティブになっていく。
『死』という感覚が全身を襲ってきた。死が目の前にあるという事が、キキョウの体を縮こまらせているのだろうか。それとも、ただ単純にキキョウが遅いだけか。それともその両方か。
どちらにしても、キキョウはすぐにでも追いつかれて、殺される。
――戦うしか、ないのか。
これもリスクの内の一つだ。逃げ出したときからこうなることは決まっていた。
駄目かもしれない。
逃げる事は確実に無理だ。すぐにジリ貧になって殺される。
ならば奥の手を使って、何とか処理するしかない。
決断しろ。決めるのは自分自身だ。やるなら体力があるうちにやるしかない。
――やろう。やるしかないんだ。
すぐ数メートル後ろには猿人間が二体。
「やるしか、ないんだ……!」
キキョウはすぐに立ち止まって、左手を突き出した。
狙いを定める。間違える事は出来ない。外せば死ぬだろう。これは一世一代の賭けだ。命がかかった勝負。背筋を這うものがある。目の奥がチカチカする。吹き付ける雪が痛い。感覚が鋭敏になっている。
「じ――」
直後、轟音。閃光。まるで落雷がすぐそばに落ちたかのような感覚だった。青白い光が猿人間の体を打ち抜いた。
その猿人間はぶっ飛んで、そのまま動かなくなった。もう一体の猿人間は突然の現象にびっくりしてその場で硬直している。
キキョウじゃない。キキョウがやったのではない。
キキョウも呆然として、その場に立ち尽くしている。
あの青白い光は、右手の方向から飛んできた。
ピカッと光ったと思ったが、再度空気を思い切り引き裂いたかのような爆音が轟いた。もう本当に落雷だ。青白い光はさらにもう一体の猿人間をぶち抜いて、多分だけど絶命させている。
虚空にはバチチッと青白い光の残滓が浮かんでいる。
突然で、暴風の様な出来事だった。
そしてその人は来た。この時から、キキョウの人生は変わったのかもしれない。
――とても美しい。
一目見た感想だ。この世のものとは思えない。時が止まったかのような感覚にすら陥った。猛吹雪もそれを助長する暴風も止まった様に思えた。それほど、彼女の声は澄んでいて、とても綺麗だった。
「大丈夫か」
彼女の髪はとても綺麗だった。まるで金を溶かし込んで、それを細い糸にしたかのような綺麗で長い御髪。顔の造形はこれ以上は存在しないと思うほど、完璧な配置で整っている。そして目や鼻や口もこれでもかというほど美しく、そして危ういほどのバランスだ。何か一個でも狂ったら、そうとはならないだろう。この完璧なバランスが、彼女を彼女たらしめている。
まるで――。
「天使……」
キキョウはへたり込んだ。夢でも見ているのだろうか。こんな出来事があっていいのか。
だって、彼女の周りには正真正銘、雪を寄せ付けていない何かがある。彼女は一かけらすら雪がかかっていない。風で髪が乱れていない。
キキョウは今この瞬間も雪や風にさらされているのに、彼女は違う。まるで自然が彼女に遠慮をしているかのようだ。
「おい、座り込むな。立て」
「は、はい」
言われるがままに立ち上がった。途端にキキョウにも雪や風がかからなくなった。まったくどういうことなのだろう。これが天使のなせる技なのだろうか。
「珍しい髪と目だな。綺麗だ」
そんなことはない。あなたの方がキキョウの何倍も綺麗だ。そう言いたいのに、声にならない。
あなたのその金色の髪に碧い目。この世界であなた以上に綺麗な物なんてない。
彼女はキキョウの髪を優しく撫でた。
「良い手触りだ」
「あ、あ、ありがとうございます……」
彼女はフッと笑った。
「畏まるな。私は今、大変に気分が良い。これは拾いものだ」
どういう意味だろう。分からないけれど、キキョウは精一杯愛想笑いをした。
「それでいい。白い髪と赤い目の君。名前を教えろ」
「き、キキョウ」
「キキョウ。……桔梗か。なるほど。君の容姿を例えた良い名前だ。キキョウ。君はキキョウの花言葉を知っているか?」
突然なんだろう。でもキキョウは分からないので、素直に「わかりません」と口にした。
「素直だ。そういう君にこの名はピッタリだ」
彼女はキキョウの手を握った。突然の事で慌てた。
「キキョウの花言葉は、永遠の愛、誠実、清楚、そして従順。清廉潔白そうなキキョウ。君にぴったりだ」
「あ、ありがとう」
「礼を言う必要はない。キキョウ。君は本当に可愛いな」
「か、可愛い、ですか?」
「女の中の女という感じだ。非常にそそられる」
いや、キキョウは男なので、女と言われても困惑するだけだ。
「その困り顔も非常に良い。加虐心をくすぐられてしまう」
どうやら、彼女は少しおかしいのかもしれない。普通の人とは感性が違うのだろうか。
「キキョウ。ああ、キキョウ。良い名だ。そんな君に問おう。何故君はこんな所にいる?」
キキョウは困った。自分が収容所の人間だと知られたら、どういう扱いを受けるだろうか。
だけど、それは一種の興味だった。外の世界の人間が一体、キキョウの正体を知って、どういう反応を示すのか。それによって、外の世界が垣間見える。これは実験だ。たぶん、そうだ。だから、彼女に素直に告げる。
「……収容所に猿人間がたくさん来たんだ。だから逃げてきた」
「猿人間? ああ、あいつらの事か」
彼女はキキョウの後で絶命した二体の猿人間を見た。だが、すぐにそんなことには興味を失ったようだった。
「珍しいな。収容所に女が入れられるなんて」
どうやら彼女は勘違いをしている。キキョウは女じゃない。
訂正しようとしたが、それを彼女が遮った。
「自己紹介が遅れたな、キキョウ。私の名前は、カトレア・アンハーバン」
「……っ」
アンハーバン。さっき男の赤ん坊を収容所に容赦なく叩きこんで張本人ではないか。
……男だとばれたら、態度が急変するかもしれない。
キキョウはこんなに寒いのに冷や汗が出てきた。
最悪ここで捕縛されて、収容所に突き返されるかもしれない。それだけは困る。
すぐにでも彼女の元から離れないとマズイ。
キキョウが一歩だけ離れようとする前に、手を握る力が強まった。なにを。
彼女の顔を見ると、ニッと笑っていた。
「来い。キキョウ。あんな場所に戻る必要などない。女たるキキョウがあのような下賤の者どもが集う場所にいるべきではないのだ」
それは戻るつもりなどない。けど、その選択肢って……。
「そ、それはぼくを連れて行くってことですか……?」
「ふむ? なるほど」
彼女は一つ頷いた。「ぼくっ娘か」
まるで違う。
けど、勘違いはして貰わないといけない。
この優しい態度は、キキョウが『女』であることを前提にしている。それを考えれば、『ぼく』と発言したのは迂闊過ぎた。自分を殴ってやりたい心境だ。
「なお良い。キキョウ。私に付いて来い」
「え、で、でも……」
それはかなり困る。キキョウは外の世界に憧れて、色々夢想したものだが、こういうパターンは考えていなかった。どの妄想でも一人で生きていくキキョウを想像していた。
まさか女性と一緒に行動するなどあり得ない。
キキョウは精一杯高い声を出して、女らしくした。
……キキョウは地声も高いが。
「それは悪いと思いますが……」
「なんだ? 不満なのか? ふむ、なら問おう、キキョウ。君はこの猛吹雪の中どうやって町まで繰り出す予定だったのだ? そんな薄着ではすぐに凍死するだろう」
彼女がキキョウから手を離すと、今まで収まっていた猛吹雪がキキョウの体に降りかかってきた。
寒っ、寒っ、寒っ……!!
キキョウはすぐに体をこすり合わせた。一体全体どうなっているんだ。キキョウだけが自然の猛威に曝されているのに、彼女はまったく意にも介していない。雪や風が彼女を避けているようだ。
「キキョウ。して、訊こうじゃないか。君はどうやって町に行こうとしたのだ?」
「ご、ご、ご……」
あまりの寒さにキキョウは口が動かなかった。「寒いか、キキョウ」
キキョウは首を縦に何度も振った。
彼女はこっちに来いと、手を振った。
手を掴まれると、すぐに雪や風の猛威が無くなり、さっきは感じていなかったが、暖かな空気すら流れている。どうなっているんだ。
ポカンとしてた表情が面白かったのか、彼女はクスッと笑った。
「魔法だ。キキョウ。珍しいか?」
『カントク』の魔法など見てきたが、全て破壊的なものが多かった。こういう何かを守るようなものは記憶にない。
「まあ、私もこっちはまだ苦手でな。あまり大きな範囲をカバーできないんだ。凍え死にたくなければ、私の傍にいる事だ――ん」
言葉尻で彼女の言動が止まり、キキョウをじっと見つめた。「え、なんですか?」
「……フフフッ。これはとんだ拾いものだよ」
彼女は勝手に笑い始めた。なにか面白い事があって、笑いが堪えられない感じだ。
「キキョウ」
「な、何ですか……?」
少し怖い。何だというのか。もしかしたら、男だという事がばれてしまったのだろうか。
「魔法が使えるな?」
何故、そのことを……。誰にもばれない様にして生きてきたのに。
男のキキョウが魔法を使えるというのは、キキョウにとって奥の手だった。いざというときに使うための最終兵器として、大事に大事にしてきたのだ。
魔法は女しか使えない。
その通説を壊す存在だと、キキョウは自負している。
「君を捨てた親も馬鹿だな。気づかなかったという事か。キキョウ。いつから魔法が使えるようになった?」
もう、駄目だ。
嘘を吐かない事が、今は自分を守るための最大の行為だ。
男であることを隠せば、この場を乗り切ることだって可能だ。
「だ、大分小さいころに。なんとなく使えるかなって思いました」
「だろうな。例は少ないが、遅れて魔力が発現するタイプか。稀有な例だぞ、キキョウ。ふふっ。私も運が良い。おつかいでこんな辺鄙なところに来てみれば、こんな掘り出し物だ。大変に気分が良い」
「は、はあ……」
まくしたてる彼女に置いて行かれている。
「最初は可愛いから連れて行こうとしたが、それは取りやめだ。キキョウ。私と来い。君が欲しい」
だ、大胆だ……!
こんな直球に感情をぶつけられることなど、ほとんどなかった。いや、無い。「う……あ……」変な声しか出ない。
なんか変に顔が熱いし、心臓もばくばくしている。なんだ、これ。緊張……?
「言っておくが、拒否権など無い。私の一存で君の運命は決まってしまうのだから」
「な、何でですか……?」
辛うじて出た言葉がそれだ。まったく、知性が無い。
「さっきも言っただろう。キキョウ。この極寒の地で君の様な薄着では、あと一時間も生きる事は出来ないのだ。私に素直に保護されることが、君の生きるたった一つの道。分かるか?」
「あの……つかぬ事を聞きますが」
「なんだ。いいぞ。今は気分が良い。だが、質問の機会は一回だけだ。甘やかすのは良くないからな」
そうですか。まあいいや。
「一番近くの町までどれくらいかかりますか?」
「一日はかかるだろうな。馬車ならもっと早いが、キキョウは徒歩だろう? 道は分かるか? どこに行けばいいか分かるか? 何も知らないのなら、もっと時間がかかる。どうだ、キキョウ。今の気分は」
「……最悪です」
「すぐに極上に連れて行ってやる」
彼女はグイッと強引にキキョウを抱き寄せた。
む、胸が……! キキョウの胸板にぶつかって、ぐにゅりと潰れている。や、柔らかい……。
「私は君の命の恩人という事だ。分かるか?」
「……はい」
「つまり、今から君は私のものという事だ」
「はい――……えっ?」
キキョウは何を言っているのか分からなくなった。一体彼女は何を言っているのだろう。命の恩人という事は、あながち間違っていないだろう。確かに、この環境の中キキョウが生き残る確率は相当に低そうだ。
だからといって、キキョウの全てが彼女の物になるというのは……。
「冗談だ。そんなにびっくりするな。からかい甲斐があるな――まあ、だが。あながち冗談という訳でもないのだがな」
「そんな……」
彼女は微かに頬を染めている。なんでだよ……!
「やはりキキョウの困り顔は良い。そそられるな。これからは毎日キキョウが困っている顔が見たい」
そんな言葉ってある? どうなんだ、この方は。
「まあいい。私も鬼じゃない。最終決定権は君にある。どうする? キキョウ。私と共に来るか?」
彼女はいたずらにキキョウの手を掴んだり離したりして、楽しんでいる。いや、これは駆け引きだ。駆け引きか……?
彼女がキキョウの手を離すたびに、凍てつく空気がキキョウの肌を刺す。掴んだり、離したり。温かい、寒いを連続して行っている。
彼女の魔法がこの雪や風をどうにかしているのだ。
「ほらほら。どうした、キキョウ。寒くないか? 私に触れないと、風と雪は凌げないぞ」
「うう~~……」
寒いよ。本当に寒い。彼女に触れる温かさを知ってしまったから、尚更この寒さは身に堪える。
どう考えても無理だ。一人で一日もかかるという町まで移動できるはずがない。今が春や秋だったら、話も違っただろう。でも今は猛吹雪で、極寒だ。このまま彼女の魔法の恩恵無しで生きられるはずがない。
「い、行ぎまず……」
その言葉を聞くと、彼女は満足そうにうなずいた。
そしてキキョウの左手を握った。すぐに風や雪がキキョウに襲い掛からなくなった。すごいや。
「さて、キキョウ。私のものになったキキョウ」
「別にそういう約束は……」
「ふむ? そうか。それも仕方なし。だが、しかし、譲れない物があるな。キキョウよ」
「何がですか?」
「名前」
「え?」
名前は紹介したじゃないか。彼女は何度も何度もキキョウと呼んでいる。
だけど、そうじゃなかった。逆のようだ。
「キキョウ。君は私の名を一度として呼ぼうとしていないな。困った子だ。聞き取れなかったのか? それも仕方ない。この風だ。もう一度言おう。私の名前はカトレア・アンハーバン。気さくにカトレアと呼ぶがいい」
「そ、そうですか……」
一秒、二秒、三秒。
どっちも喋らない。
時間が経つごとに彼女の表情が険しくなっていく。
な、な、何……? 何かしたか?
「キキョウよ、何故名を呼ばない」
「今ですか?」
「そうだ。自己紹介をしたのだ。親しみと敬愛の情を込めて、私の名を呼んでくれ」
何ともいえない。やはり少しおかしいのかもしれない。まあしかし、名を呼ぶ程度なら。
「か、カトレア」
「うむ」
「――さん」
「……………………何故、さんを付けた」
「な、なんとなく?」
キキョウは女が上位であると教育されている。どうやら魔法使いであるらしい、彼女を呼び捨てにできるほど、キキョウは豪胆ではなかった。
「キキョウ。今いくつだ?」
「十五歳です」
「ほぉ。これまた。私と同い年だ。ならば、尚更さん付けは許せんな」
「で、でも、魔法使い様にあまり気さくに話しかけるというのは……」
彼女はキョトンした。
「何を言っている。キキョウも魔法が使えるのだろう? 私と同じ魔法使いじゃないか」
そういうことじゃなくて。
キキョウは男なのだ。第六階位なのだ。この世で最も身分が低い存在なのだ。こうやって対面で離していること自体、罪なのだ。
「カトレア、だ。言ってみろ。これは命令だ」
命令だ。そうだ。命令なんだ。身分上位からの直々の命令だ。ただ名を呼ぶだけ。それだけの作業だ。
「……カトレア」
「うむ。いいだろう。もっとスムーズに言えるとなお良い」
彼女――カトレアはキキョウの手を引いた。それにつられて、キキョウも歩き出した。
「まったく今日はいい日だ」
カトレアがそう上機嫌に呟いた。その横顔は、とても美しかったとだけ言っておこう。