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出会いと別れと


「お嬢様を返してもらうぞ!」


「悪魔め! 覚悟しろ」



木製の扉を叩く鈍い音と怒号が2人だけの時間を壊す。捕食者と被捕食者の時間を。



蝶番が壊され、数十人の男たちが倒れる扉と共に部屋になだれ込む。ある者は松明をかかげ、ある者は槍を握りなおすと自分がここに来た使命を果たすため、悪魔ににじり寄る。しかし、声の勢いとは裏腹に、誰も悪魔に武器を突き立てる一歩を踏み出せず、一定の距離を保ったまま、2人が座っている長椅子をぐるりと取り囲んだ。



「モニカ様……」



集団の中で最も老いた男が、悪魔の腕の中で動かない娘に声をかける。モニカの顔はその豊かな黒髪で隠されてはいたが、老執事の方を向いていないことは明らかだった。彼女は目の前の悪魔と呼ばれる存在から目をそらすことなく囁いた。



「コルニクス。お願い」



コルニクスは瞬きもせず、瞳に映る美しい女を見つめ続ける。


彼は彼女に回していた腕を離し、その足首を掴むと静かに持ち上げた。


さらりと布のこすれる音がして、スカートからモニカのふくらはぎが顔を覗かせる。彼女のハリのある健康的な足に、何人かの男は思わず目を背けた。



これから何が起こるのか知っているのはお互いだけで、しかし、その場にいた誰もが固唾を飲んで、自分の内の震えを抑えようと必死だった。



絹を裂くような悲鳴が館中に響く。


あまりの痛みにモニカは身をよじり、長椅子から落ちてしまう。彼女の額には脂汗がにじんでいた。


そがれたモニカの脚の肉は、悪魔の口中に収まる。彼の口は赤く染まり、その瞳は松明の光のせいかぎらついて見えた。



――これは一人の人間が、悪魔に喰われる物語。






パトリア王国――コッタ領。


この地を治めるコッタ男爵の一人娘、モニカは本邸の厨房に立っていた。



「いいですかお嬢さん。ここからが山場です。最初はゆっくりで構いません。ですが、途中からは素早く。変化はきちんと見ていれば、感じられるはずです」


「分かったわ、ヘルバ。もし見逃していたら教えてね」



銅鍋を満たす液体を前に料理人と見習いは力強く頷き合った。



「それでは火にかけましょう」


ヘルバの言葉を合図に、モニカは木ベラを握りしめた。卵黄、砂糖、薄力粉、それに牛乳を混ぜ合わせた、いわゆるカスタードクリームをゆっくりとかき混ぜる。少しするとヘルバの言った通り変化が現れた。クリームの表面に小さな気泡、それに、かき混ぜる手に感じる抵抗感。


モニカはすぐに手の動きを早めた。



「そう!」



声高にヘルバが叫ぶ。



「なぁにが、そう! か。モニカ様! 本日の予定をお忘れですな。午後から子爵がお見えになるのですぞ。そのような格好で料理などしておる場合では――」



コッタ家に仕える執事。フルティオはそこらの娘と変わらない服装のモニカに苦言を呈す。しかし、そんなことはどこ吹く風。彼女は鍋に集中し、振り返りもせずに彼に言う。



「待って! フルティオ。今、手が離せないの」


「お嬢さん。もう火からおろしましょう。今がその時です!」


「はい!」



男爵の娘とその家の料理人の会話とは思えず、執事は盛大にため息をついた。その大きく開かれた口にスプーンがねじ込まれる。



「熱!……くはないですね」


「フーフーしたもの。大丈夫でしょ? それで、味はどうかしら?」


「そうですな……」



甘く滑らかなクリームが口にいっぱいに広がり、フルティオは口角が自然と上がるのを止められなかった。そんな彼の表情を見てモニカは胸をなでおろす。



「良かった~。今日のティータイムにこのクリーム使った『シュー・ア・ラ・クレーム』をヘルバが出してくれるんですって!」


「ほう。それは楽しみで――ではなく。ペポ子爵をお迎えする準備を!」


「はぁい」



不服さを隠しもせずモニカは自室へと去った。




「フルティオさん。男爵はお嬢さんをその……本当に子爵の元へ?」



足音が完全に聞こえなくなるのを待ってから、ヘルバは低い声で尋ねた。



「今日の顔合わせで余程の事がない限りは。……モニカ様は見目だけは麗しいですから。ええ、(あるじ)の望み通りここを去るでしょうな」


「この家に、この地にとどまるのがお嬢さんのためにならないのは僕でも分かります。が、ペポの噂は知っているでしょう?」



フルティオは黙したままだった。その眉間には深いしわが刻まれ、気持ちはヘルバと同じだと言っているように見えた。


モニカの父、グイド・コッタも病に侵されていなければ、このような婚姻を良しとしなかっただろう。領主が倒れ、衰退していく土地。そこに愛娘を残すより、肥沃な大地と華やかな街。何より安全な――悪魔がいないとされる場所で生きてほしいと願うのは親として当然のことで。



「どうしようもない。仕える身である我々には」


「でも、お嬢さんの気持ちは……」



モニカの気持ち。心。何度も考え、無視するしかないとフルティオは結論付けた。きっと理解してもらえると、そう信じるしかないと。






「信じられないっ!」



母親の遺したコタルディを着たモニカは、その服に負けないくらい顔を赤くさせて怒鳴った。グイドはノックも無しに寝室に飛び込んできた娘と執事に対し、顔色一つ変えなかった。



「モニカ……もう少し小さな声で話しなさい」



伏せっていても威厳をたたえた声で父は娘をたしなめる。



「ペポ子爵の出迎えと挨拶、ご苦労であった。その様子では彼は礼を欠いていたようだな」


「礼を、欠いていた? とんでもないわ。あのお方は礼を存じ上げないようでしてよ」



先ほどまでの時間を思い返して、モニカは両腕を組んだ。そうしないと感情が爆発してしまいそうだったから。



従者も連れずに現れたのは丸々と肥えた極彩色。彼は華美な服をまとい、針でつつけば破裂しそうな指にゴテゴテした指輪をこれでもかとはめていた。これが王都近くでは流行っているのだと言われても、誰も信じないほど悪趣味な格好だった。ペポが口を開く前から、彼への印象は悪かった。



「主よ。子爵はお嬢様と出会った途端に……おっしゃられたのです。その……」



言いよどむフルティオに代わって、モニカは声高に叫ぶ。



「『なんと美しい娘か! 寝室はどこだ』ですって! その後も隙さえあれば私に触れようとして、私は娼婦じゃないのよ⁉」



グイドも最早モニカの声量に言及することはなく、片手で自身の目元を覆った。全盛期であればすぐさま剣を手に取っていたところだが、今の身ではそうもいかない。



「それに加えて『今夜はこの家に泊まる』なんて言われたわ。夜に何が起こるかフルティオが説明したのに」


「ええ。何度も危険だとお伝えしましたが、聞く耳を持たれず。ですので今、子爵は客室におられます」



館は夕日に照らされ、夜の気配が近づいていた。これから子爵を説得し、帰らせたところで領地から出る頃には闇に飲まれてしまう。グイドはそう考えて、半ば諦めた声色で言う。



「外にいるよりは安全だ。丁重にもてなすように」



言いつけられたフルティオは男爵に一礼した後、すぐ寝室を出ていった。



「あんな人、悪魔に食べられてしまえばいいのに」


「モニカ。彼はお前がより良い暮らしをするための足掛かりだ。領民のためにも子爵に死なれると困るのだよ」



モニカは父の言葉を噛みしめる。



――彼と懇意になればどれほどの利点があるか。金も食べ物も、それにきっと医療も手に入るわ。そのために自分が身を捧げればいいだけ。その価値が私にあると子爵も認めた。少し我慢すればいいの。



「分かっているわ。お父様。……でも、悪魔も願い下げでしょうね。あんなに脂肪が多い人を食べたら、胸やけしてしまうわ」


「ふっ、はは! ッゲホ、ゲホ」


「お父様!」



咳き込む父に駆け寄り、モニカはカップに入った水を差し出した。グイドは少しだけ水を口に含み、その後も何度か咳をした。



「……大丈夫だ。すまない。モニカ……苦労をかけて」



その言葉に、モニカは首を横に振ることはできなかった。






幾重にも板が打ち付けられ、補強された窓では星の輝きを見ることも叶わない。月の無い夜は悪魔たちが餌を求めて町をかっ歩する。人々は皆一様に家の入口を封鎖し、誰の出入りもないようにする。扉や窓をいくら叩かれても静かに耐え、ただ祈る。今夜の犠牲者が自分以外でありますようにと。



――父の病さえなければ、この地が悪魔の餌場になることはなかった。私がこんな思いをする必要も――。



モニカはブランケットを頭までかぶり、幼い頃に見たグイドの背中を思い出していた。


剣を取り、勇ましく悪魔を薙ぎ払う父を誰もが尊敬し、慕っていた。妻を悪魔に殺され、壊れた心に肉体が追いつくのは当然のことだったかもしれない。戦えなくなった領主に次第に人々は離れていき、今やこの地には人間より家畜の方が多い始末。



「お母様……」



モニカは体を丸めて小さく呟く。彼女と同じく、豊かな黒髪をもつ母――ミコはいつも柔和な笑みを浮かべていた。グイドとミコはこの時代には珍しく、恋愛結婚であった。モニカは自分もいずれは母と父のような関係を築くと信じていた。互いを尊重できる相手と結ばれる。そんな未来を彼女は夢見ていた。



「……仕方ないわ。私が甘かったの。それだけ……耐えればいいのよモニカ。今と変わらないはず。悪魔が人間に代わるだけ」



女を対等な相手と見ていないペポの顔が思い起こされ、モニカは強く目を瞑った。自分にいくら言い聞かせてみても、悪魔のような男のことを考えると胸が冷たくなるようで、たまらず彼女は両手を胸に当てて熱を取り戻そうとした。



バキリ、と木の割れる乾いた音がモニカの耳に届く。それは隣の部屋、父の寝室から聞こえた。



「まさか、悪魔が?」



窓を破壊して侵入しようとしているのかと思い、モニカは体を起こすと膝立ちで壁に寄り、耳をそばだてた。


少しして同じような音がした。先ほどよりも大きなソレにモニカの肩が小さく跳ねる。彼女はそろそろとベッドから降り、自室の扉の前まで移動した。



――すぐにでも様子を見に行きたい。でも、私が行って何ができるというの。お父様の剣を使う?



モニカが迷っていると、またしてもバキリという音がして、不意に目の前の扉が大きく開け放たれた。驚いた彼女は尻もちをついてしまう。



「こんばんは。モニカ嬢。良い夜ですな」


「ペポ、子爵⁉」



子爵は床に倒れているモニカを一瞥した後、ゆっくりと部屋全体を見渡した。ペポが今まで見てきた物とは、格段に質の低い家具や装飾品を見て、彼はフンと鼻をならす。


ペポがどうして客室を出て、モニカの部屋に来たのか疑問に思いながら、彼女は立ち上がるとすぐに彼から距離を取った。



「今夜がどんな夜なのか執事が話したはずです。すぐ客室に戻ってください」


「必要ない。現にこうして出歩いても私は無事ではないか。館から出なければどうということはない。くだらぬ悪魔に怯えているからここはこうなのだ」



話しながらペポはじりじりとモニカに近づく。そう広くない部屋に逃げ場は少なく、僅かな攻防の後、子爵は男爵の娘をベッドに追い詰めることに成功した。



「そのようなこと、悪魔が隣室にいても言えるのですか?」


「隣に悪魔が? 枯れた男なら横たわっていたがな」



父を侮辱され、モニカはペポを思い切り睨みつけた。



「そのような目で私を見ていいのか? この地に手を差し伸べる、言わば救世主である私に」



ベッドフレームが悲鳴をあげる。ペポは女に覆いかぶさり、完全に逃げ道をふさいだ。彼の巨体を押しのけることはあたわず、モニカは肉塊に押しつぶされる息苦しさから喘いだ。



「……っ本当に、私たちを助けてくれるのですか? 私が、抱かれれば、それを約束してくれるのですね?」


「そうだと言えばお前は大人しくなるのか?」



心臓が強く脈打ち、嫌だとモニカに伝えてくる。緊張とわずかな恐怖のせいでモニカは口をつぐんだ。



「ふ、ふふふ。実に哀れな女よ。こんな土地を助けたとして、私に一体どれほどの得がある?」



ぶるぶると目の前で震える塊をモニカはただ見上げた。



「教えてやろうか? 誰も見向きもせん場所に私が一人で赴いたワケを。ん?」


「な、に――」


「グイド・コッタとその娘を辱めるためだ。……理解できるか?」



ペポは片手でモニカの両頬を掴むと顔を近づけた。顔をそむけたくともそうできず、彼女は顔をしかめる。その表情を見て、男の瞳にほの暗い光が宿った。



「全盛期のお前の父親は目障りで仕方がなかった。身分も低いくせに多くの貴族に目をかけられ、……私とはまるで…………それが今やどうだ? 少しでいいから手を貸してくれと、馬鹿にしていた私に何度も手紙を寄こした! なりふり構わずとはこのとこかと笑ってしまったぞ」


グイドが己より身分の高いペポを下に見ていたことは一切なく、彼の勘違いでしかなかったが、ペポの中では真実だった。


興奮したペポは早口で続ける。



「悪魔が隣の部屋にいると言ったな。あぁ、可哀想なモニカ。父親は私が押しつぶしてやった! 今のお前と同じようにな。ほとんどの貴族は私の見た目を笑うが、この肉体だからできることもあるのだ」



先ほどから彼が何をわめいているのかモニカには理解できなかった。しかし、『父を押しつぶした』という言葉は彼女の頭の中で反響し、その場面を想像させてしまった。



「お父様を……こ、殺したの?」



震える声でモニカが問えば、ペポは愉快そうに口元をゆがめる。



「恐ろしいことを言う娘だ。私はただ、あの男の部屋に入り、ベッドに全体重をかけただけだ。私の下で何かが暴れていたとしても、知ったことではない」



モニカはようやく、物音の正体が悪魔ではなかったのだと気づいた。一度目は扉の壊れる音。二度目はベッドの脚が、父親が壊される音だったと。彼女は子爵がこの部屋に入ってきた時点で、不審に思うべきだった。小さな木の閂とはいえ、鍵をかけた部屋に彼は入ってきたのだから。



誰かが耳元で叫んでいる。うるさくてかなわないとモニカは思った。少し静かにしてと彼女は言おうとしたが、それは無理なことだった。叫んでいるのは彼女自身。懸命に腕を振り回して子爵を殴った。泣きながら解放を求めて暴れた。そんな彼女の抵抗はペポにとっては些細なもので、彼は下卑た笑みを浮かべるだけだった。



「本当に良い夜だ。何もかも悪魔のせいにしてしまえる。モニカ、お前を堪能した後は、悪魔に喰ってもらおう! 後始末をしなくて済むからな」



ペポの太い指がネグリジェに伸ばされる。繊細なレースが引き裂かれ、モニカの胸元が露わになった。



「お嬢様!」



背後からの鋭い声に、ペポは振り返る。入口に立っていたのは燭台とナイフを手にした老執事であった。悲鳴を聞きつけたフルティオは、とうとうこの館に悪魔が来て、大切なお嬢様に襲い掛かっているのだと思った。彼が目にしたのは悪魔ではなく子爵ではあるが、モニカが襲われていることに変わりはなかった。



「フルティオ! 助け――」


「しーっ!」



モニカの声はかき消された。ペポは先ほど同様、彼女に顔を近づけて囁く。



「邪魔者を追い返せ。執事が殺されるのを見たくはないだろう?」



紛れもない脅迫。その言葉のお陰でモニカは少しだけ冷静さを取り戻す。涙を拭うと何度か深呼吸をした。



「フルティオに説明するので、どいていただけますか」



モニカが震えの残る声で告げれば、懐疑的な目をしたままペポは彼女の上からどいた。長い時間圧迫されていたため、モニカの足はしびれていた。ゆっくりと、ベッドからフルティオの元へ歩みを進めながら彼女は脳みそを回す。


フルティオは乱れた姿のモニカを見て、すぐに駆け寄ろうとしたが何と声をかけたものかと迷い、一歩も動けずにいた。



「フルティオ、私……」


「モニカお嬢様……」



言いよどむ2人に子爵の視線が突き刺さる。モニカはフルティオの手を両手で握った。ナイフを持った方の手を。



――このまま、死んでしまえたら。



そんな考えがモニカの頭を支配していた。熱い涙が頬を伝い、2人の手に数滴落ちる。



「お嬢様。もし、貴女様が望めば……私があの男を殺してみせましょう。このようなこと、やはり見過ごせませぬ。コッタ男爵には悪いですが、この地はもう……。あのような輩に援助してもらったとして、それが幸福につながるとは到底……」



燭台をチェストの上に置くと、フルティオはそっとモニカの腕に触れて言った。小さな声だったがその言葉には力がこもっていた。



「それはダメよ。そんなことさせられない…………フルティオ、すぐにこの部屋を出て」


「しかし!」


「お父様の部屋に行って。扉が壊れているでしょうから、家具で塞いで。夜明けまで誰も中に入れないで」



ペポが端からコッタ領を救う気が無かったこと、父が彼に殺されたことをモニカは伝えられなかった。今はただ口にしたくなかったのだ。グイド・コッタがもう二度と自分たちを守ってくれないなどとは。



「どうなさるおつもりです? 大人しく言いなりになるなどあなたらしくもない」


「言いなりにはならないわ」



相変わらずモニカの頭には死という文字がへばりついていた。しかし、フルティオと会話しているうちに、彼女は納得のいく方法を思いついた。



「お願いね。フルティオ……ごめんなさい」



その方法は身勝手なものだったが、このままペポの言いなりになって迎えるであろう未来と、結末は変わらないとモニカは思った。自分は死に、領民はさらに困難な暮らしを強いられ、いずれはペポも死ぬ。



――それなら過程を求めてもいいでしょ。



彼女は罪悪感に苛まれつつ、そうすることに決めた。






「本気で外に出ようと言うのかね?」


「子爵にとって悪魔はくだらぬ存在なのでしょう? それに終わったら私を食べさせるんですから、ね。外の方が早いわ」



すっかり落ち着いた様子のモニカをペポは不満そうに見つめた。その目を無視して館の扉を開くと、モニカは進んで外へ飛び出した。冷えた風が彼女の髪をなびかせ、子爵を(いざな)う。彼も外に出たことを確認するとモニカはすぐに鍵をかけた。館の人間にこれ以上危害を加えさせないために。



「行きましょう」



――悪魔を探しに。






雀のような小さな羽を背に広げ、パッセルは馬小屋の敷き藁の上に寝転がっていた。隣で眠る馬を起こさないように優しく撫で、毎月の至福の時を味わっていた。他の悪魔たちが食事をするこの夜。彼は家畜たちと交流するのを好んだ。そんなだから翼が小さいままなのだと馬鹿にする仲間もいたが、彼は気にしなかった。動物たちも悪魔が自分を傷つけないと知っているのか、目を覚ましたとしても騒ぐこともなく、彼の好きにさせていた。


そんな静かなひと時に誰かの話し声が割り込んできた。



――もう帰る時間なのか。



立ち上がりながらパッセルは声を張り上げる。



「今行きますから、ちょっと待ってくださーい」



仔馬を一撫でしてから彼が出ていこうとしたその時、扉がおずおずと開く。


知らない顔だとパッセルは思った。片方はやけに太った男。もう片方は黒髪の女。お互い黙ったまま、しばらく見つめ合ったが太った方が声を上げる。



「あ、悪魔!」


「人間⁉」



踵を返した2人の背中に何も生えていないことに気づき、パッセルは指笛を吹いた。ここに獲物がいると仲間に知らせるために。






「はぁ、はぁ」



背後から聞こえていた荒い呼吸が遠ざかり、やがて耳に届かなくなってもモニカは走るのを止めなかった。



――悪魔を探していた。子爵を殺してくれる悪魔を。自分を食べてくれる悪魔を。


――悪魔を見つけた。違うと思った。私を終わらせるのはこの人ではないと、そう思った。



坂道を駆け下り、民家の建ち並ぶ方へ向かう彼女の頭上を、何人かの悪魔が通り過ぎていく。外にいるのは悪魔だという思い込みと、パッセルの招集のせいで誰も彼女に眼もくれなかった。



「誰か!」



広場で小さな火を囲む悪魔の集団を目にした瞬間、モニカは叫んだ。何事かと数人がそばに寄る。



「あれ、こいつ人間かい?」



1人が呟くとすぐにその場にいた全員がモニカを取り囲み、彼女の周りが騒がしくなる。彼らはすぐには手を出してこず、おかげでモニカは皆の姿をよく見ることができた。ほとんど人間と変わらない容姿と服装。異なる点は背中の目立つ羽。鳥のようなもの、コウモリのようなもの、中には虫のようなものまでいる。



「俺らのこと人間と勘違いしたんかな」


「私もう満腹だからこの子はいらないよ」


「もったいないだろ」


「自分から来るなんて殊勝なことだ」



好き勝手話す悪魔たちの集団の一歩後ろで、興味なさげに羽繕いをしている男がいた。その場の誰よりも大きい漆黒の翼を持つ彼は、モニカがこちらを見ていることに気がついたのか、そのイエローオーカーの瞳をゆっくりと彼女に向けた。



「私を食べてほしいの。お願い!」



彼と目が合った瞬間。モニカの口からひとりでに言葉が飛び出した。人間の予期せぬ願いに、悪魔たちは口をつぐむ。しかし、それもほんの数秒のこと。いくつもの手が彼女に伸び、モニカは地面に顔面から倒れ込んだ。あらぬ方向に腕をねじられそうになり、彼女は無理やり顔を上げて叫ぶ。



「違う! 違うの! 今じゃないわ!」


「待て」


地を這うような低い声が悪魔たちの動きを止める。



「彼女は俺に言った。そいつを食べるのは、このコルニクスだ」



コルニクスの言葉がモニカを解放する。不満そうな瞳で彼を睨む者もいたが、ほとんどが大人しく引き下がり、もはや彼女を害そうとはしなかった。


一人、また一人と悪魔がその場を離れていく。観衆が片手で数えられるようになった頃、ようやくコルニクスはモニカに近づいた。彼は地面にへたり込んだままのモニカと目線を合わせると、その頬についた土を指先で拭う。ざらりとした小さな刺激にモニカはハッとし、彼に礼を言おうと口を開いた。が、悪魔は彼女に背を向けて立ち去ろうとする。



「待って!」


「あらら、彼女ってば本気で食べられに来たんだ。なぁ、コルニクス。帰るなら保存食を持っていかないと。飛んだら人間は付いてけないぜ」


「……ククルス」



黒褐色の翼をはためかせ、コルニクスの隣に降り立った青年は、親しみやすい笑顔をモニカに見せた。



「おっと。僕は手を貸さないからそのつもりで。パッセルとは違うんでね」


「…………わかったから少し黙れ」



翼で顔を軽くはたかれたククルスは大げさに痛がったが、コルニクスに言われた通りそれ以上口を開くことはなかった。


コルニクスはモニカに向き直ると大股で近づき、何も言わずに彼女を抱き上げる。



「あの……」


「いつだ」


「え?」


「食べるのは今じゃないと言っただろう。いつ食べられたいんだ」



それはまるで最終確認のようだった。これに答えたら、もう見逃してはもらえないとモニカは感じた。



――どうせ喰われるなら、その相手も、時も自分で選ぶ。



「私があなた好みの味になった頃に」



月の無い空に飛び立った2人の影は闇に溶け、咎める者は誰もなかった。

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