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「トイレの汚れは心の汚れ」に落ち込んだ話

 この数年、公衆トイレに「トイレをきれいに使ってくれてありがとう」と書かれた張り紙を見かけるようになった。

 なかなかよく考えたキャッチコピーだ。いや、この言葉を考えた人、センスあるよ。めっちゃ頭いいわ。

 ことさらトイレの美化に関心がない場合、「いや、そんなお礼を言われることをした覚えないんだけど」とこそばゆく感じつつも、次からはちゃんときれいにしようって前向きな気持ちになれる。

 これが「トイレをきれいにしましょう」だと、たとえ丁寧語でも命令形だし、どことなく上から目線を感じ、ムカつく。そこまで被害妄想に至らなくても「トイレをきれいにしましょう」は当たり前のことだから印象に残らず、スルーしてしまう。


 なので「きれいに使ってくれてありがとう」のキャッチは気に入ってたのだが、最近私は、オフィスビルのトイレで、以下のキャッチコピーを見つけた。


「トイレの汚れは、心の汚れ」


 私は、このキャッチコピーを見て、ひどく落ち込んだ。いや、落ち込むなよ、と自分にツッコミを入れながらも、ひどく落ち込んだのだ。


 どう考えても落ち込むフレーズではない。趣旨はシンプルに「トイレをきれいにしましょう」と言ってるだけだ。それをちょっと刺激的に、インパクトを持たせたに過ぎない。

 実際、重い腰を上げてトイレ掃除をすると、なかなかスッキリする。落ち込んだとき、ちょっとでもトイレをきれいにすると、前向きな気持ちになれる。

 また、公共のトイレをきれいに使うことは、社会人としてのマナーであり常識だろう。そこに異議を唱えるつもりはない。



「トイレの汚れは、心の汚れ」に落ち込んだのは、私という人間の認知が歪んでいることにほかならない。

 なにせ自分、職位が上がった時「嘘だ! 絶対何かの陰謀だ! うちの会社は間違ってる!」って焦ったぐらいなので。もちろん、嬉しい気持ちもあったけど。

 そういう認知の歪んだ人間の戯言なので、軽く聞き流してもらえれば幸いである。



 なぜ落ち込んだのか? それは、トイレを汚すことは心が汚れている証なのか、という疑念が湧いたからだ。

 誰だって、おむつを外したばかりの頃は、なかなかトイレはうまくいかない。時には汚すこともあろう。では、そのような幼児は、心が汚れているのだろうか?

 また老人になれば、排泄行為はうまくできなくなる。いずれおむつの世話になるが、その過渡期にうっかりトイレを汚すこともあろう。では、そのような老人の心は、汚れているのだろうか。


 もちろん、このキャッチコピーには、そのような意味は含まれていないだろう。うっかりトイレを汚したことを責め立てているのではなく、汚したまま放置する行いを問題にしているのだ。

 だが私は真っ先に、排泄行為が技術的に難しい幼児や老人、また老人に限らず何らかの病気や障害を抱えているケースを思い出した。

 いや、他人事じゃないのだ。なにせ私自身、もう老人に近い人間なのだ。だから、まるで自分の心が汚れていると言われているかのように思ってしまったのだ。



 さらに私は考えを進めた。

 トイレはきれいに越したことはない。が、心はきれいでなければならないのだろうか? そんなに心を清浄に保たなければならないのか? そんな疑問がふつふつと湧いてきた。

 いや、このキャッチコピーはシンプルに、トイレを掃除すると、心にもいい影響が出ますよ、と言っているだけだ。私はトイレ掃除の精神的効果を否定するつもりはない。先ほども書いたが、実際に自宅のトイレを掃除すると、なかなか爽快感が出る。


 だがトイレと違って、心はそんなにきれいに保つべきものなのか?



 心をきれいになるよう努力すべきだ――そのような主張に、私はことさら反対するつもりはない。むしろ私はそのような努力を重ねる人を尊敬する。

 しかし私は最近、心の浄化を諦めてしまった。

 努力を放棄した人間が、努力を重ねる人に物を申す資格はないのかもしれない。しかし、放棄するに至った過程を語ることは許して欲しい。



 私もかつては、心は清くあらねばならぬと思い込んでいた。

 しかし、どうしたって醜い心が湧いてくるのだ。

 私はなかなか嫉妬深い。優れた才能やセンスを持つ人に対して、何とも言えない醜いモヤモヤした気持ちを持つ。そういう優れた人は親切にアドバイスされると、私は表面上「ありがとう」と言いつつ、内心「うぜーんだよ!」と毒づいていた。

 このような醜い気持ちをなんとか消したかった。努力もしないで優れた人に嫉妬する自分が、大っ嫌いだった。

 しかし。

 いや、大した努力してないけど、いくら「嫉妬は醜い」「考え方を変えろ! その人は善意で助言しただけだ」と言い聞かせても、醜い嫉妬心は消えることはなかった。


 私は醜い心の消去を諦めた。とはいっても、やはり嫌な気持ちを持ち続けることは苦しい。

 そこで私は、私の醜い心に「嫉妬ちゃん」と名付けた。

 なぜか霧が晴れたように、心が軽くなった。


 醜い心に「嫉妬ちゃん」と名付けた途端、この心は、わがままな困ったちゃんだけど憎めない可愛いペットになった。

 私は「嫉妬ちゃん」を消すのではなく、可愛がることにした。放置すると、暴走して本当に悪さして人様に迷惑をかけるからね。

 優れた人がアドバイスした時、「嫉妬ちゃん」は「うぜーよ! ムカつく!」と暴れる。私は「あー、そうだね。よく我慢してるね。いい子いい子」と頭をなでてやる。すると嫉妬ちゃんは「しょうがねーなー」と牙を引っ込める。

 私は多分一生、この「嫉妬ちゃん」をなでなでしながら生きていくのだろう。

 最近は「嫉妬ちゃん」が大人しいので、寂しいぐらいだ。



 ということで私は、心を清くする努力を放棄した。

 心をきれいにするためにトイレをきれいにするのではない。単に衛生上の問題でそうするだけだ。また、落ち込んだときの気分転換にトイレ掃除をするのも有効だ。

 うん、トイレ掃除は、立派な人間になるためにやることじゃない。必要だからトイレをきれいにするだけだ。



 まあ、心があまりに汚いまんまだとそれはそれで辛い。石鹸で洗ってシャワーを浴びたりお風呂に入るなどして、清潔に保った方が気持ちいい。

 しかし、長年の人生でついたシミやあざは落ちない。

 もちろん、シミは美容整形できれいにすることはできる。

 しかし私は、そこまでして心をきれいにしようとは思わない。それだけだ。


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― 新着の感想 ―
こんにちは。 す、すごい……。 「トイレの汚れは心の汚れ」に、ここまで深く考えた人間がいるだろうか。 自分の内面を見つめ、悟り、それは感情の擬人化までいきつく。 やろうと思ってやれるものではない。 …
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