第9話 朝鮮戦争④
新井組は、大宮が仕切る丁半博打の盆にも現れた。
イカサマだ、と難癖をつけて盆をひっくり返した。
「お客さん。断じてイカサマじゃありません。ただお気に触ったのでしたら、どうか私の頭でご勘弁ください」
衆人環視の中。大宮はその場で土下座して詫びた。
肩透かしを食った新井組組員は、下げた頭を踏みつけた。それでも大宮は我慢した。さすがに賭場に警察は呼べないからだ。
見かねた他の組のヤクザがとりなした。
「おい。盆はあんただけの遊び場じゃねえんだ。他の客に迷惑だぜ」
その男が大吉連合傘下の筋ものだったため、事無く収まった。
これも田口に言われたことだ。
「大宮。若頭とか舎弟頭とかカシラと呼ばれるやつは、下のモンに恨まれ憎まれてナンボなんだ。オヤジのためには自ら率先して悪役を演じろ。情けねえ、って役もだ」
ノミ屋や賭け麻雀屋、荻原興業仕切りの建築現場も荒らされた。その状態が半年近く続いた。それでも半数は手出しをしなかった。しかし、半数は破門された。
大宮と狭山が潤一に尋ねる。
「オヤジ。これじゃいざ決戦って時に、兵隊が足りなくなんじゃねえんスか?」
決戦は自分の見せ場だ。親衛隊隊長の狭山が心配気に尋ねる。
「新井んとこは構成員入れて70人位らしいから、数じゃ不利だな。だがウチには、巌と敬司がいるからよ」と笑う。
組長に下の名前で呼ばれるのは、このふたりだけだ。ふたりはこの笑顔のためにどんな恥をかいてもいい、命を落としてもいいと思う。
(不利、か。決戦なんてものが起きるのならな)
組長は別のことを考えていた。
戦前戦時中最も強力な官僚組織は、内務省だった。警察や地方自治を担うため選挙にも強く、政治家さえも言いなりだった。戦時中は軍部と癒着していたため、真っ先にGHQに解体された組織でもある。
瀬川隆介は陸軍参謀本部の数少ない生き残りだ。そのため旧内務省の役人と太い人脈があった。
「その荻原組とやらは何もしていないのに、一方的に暴行や業務妨害を受けたわけですね。警視庁にはデモクラティックな行政をしてほしいものです」と、旧内務省OBに伝えた。
瀬川が具体的なことを言わずとも、警視庁側は忖度する。忖度は日本の伝統文化である。
(確か5分と話してないはず。あの青年はこちらの意図を汲んだ上で、自分の利益に誘導したわけか。将来有望ですね)
瀬川は少しだけ贖罪ができた、と思う一方で
「あとは一切援護しません。そもそも国が操作できない暴力組織は、国家の敵ですからね」
と、独りごちた。
直ちに新井組に対する警視庁の一斉検挙が始まった。
現場が都内だ。埼玉県警には何の通達もなしに、新井組が所属する浦和会にまで捜査が及んだ。
「東京のデコスケが土足で上がり込んでんのに、埼玉の腐れマッポは指くわえて見てるだけか?」
浦和会の会長・星野朔太郎は激怒した。この頃の暴力組織と地方警察は持ちつ持たれつの側面があった。埼玉県警が手心を加える代わりに組織側が容疑者を差し出したり、対立組織の情報を共有したりした。だが、今回は県警ではなく東京の警視庁だ。手心も遠慮もなく、浦和会は引っ掻き回された。
これには当局側の事情がある。この年に施行された改正警察法では、これまで与えられていた帝都警察(旧警視庁)の権限が大幅に縮小され、警察庁という国の官庁の下に置かれることになった。
肥大化した旧内務省の既得権益を削ぐためだが、官僚にとって省益縮小は末代までの恥だ。そこで旧内務省の残党たちは、過渡期である今のうちに既成事実を作りたかったのだ。
警視庁は首都に関わる一切の事案に警察権を行使する、と。
銃刀法違反、薬事法違反、賭博法違反、恐喝、傷害、殺人…ありとあらゆる容疑で幹部までが連行されていった。当然、戸田競艇場への浦和会の入札権も、当局により取り消し処分となった。
「新井のボンクラは何してくれてんだ。ああ?」
激怒は止まらず、新井勇には浦和会への出入り禁止と謹慎が言い渡された。事実上の破門である。
入札には他の団体もいくつか参入したが、尾藤商事から情報を得ている荻原興業が現場工事の監督団体に正式に選ばれた。荻原組は大きな利権を手に入れた。
祝宴が開かれた。
新井組の圧力と挑発から守り勝った者たちは、その場で組長からの謝辞を受けた。
「みんな。喧嘩するよりよっぽど辛かったろうが、よく我慢してくれた。礼を言う。おめえらは荻原組の誇りだぜ」
歓声が上がる。滅多に話さない親分からお褒めの言葉をもらい、その場にいる者は感激しきりだ。
石橋が潤一を窺う。
(なるほど。こういう時のために、ふだんから幹部以外と話をしないんだな)
自分たちの時も今回も、想定外の策を弄して効率のいい勝利を収めた。この人のやることは計算ずくめだ。まだ25歳のはずなのに、老獪だ。自分の親分ながら空恐ろしさを感じる。
潤一の周りには秩父時代からの子分・大宮と狭山、それに沢村会の田口がいる。
(あの兄貴分の入れ知恵もあるんだろうがな)
宴もたけなわになると、自然と秩父グループと愚連隊グループに分かれて行った。
当初20人以上いた愚連隊も、破門されたりやられっぱなしに嫌気がさして離脱したりで、今や数名しか残っていない。彼らは石橋を中心に隅でひっそりと飲み始めた。手下の一人が小声で言う。
「石橋さん。親父さんは俺らを追い出したいんスかね?」
危惧していたことだ。その予兆は痛感している。
例えば今も、田口の子分たちが次々と現れては潤一を囲んでいる。おそらくは目減りした頭数を補充するつもりだろう。愚連隊はいよいよ行き場がなくなる。
老獪な親分のことだ。今回の抗争を、使える者使えない者の炙り出しに利用したのかもしれない。
「おやっさん。戻りました」
向こうを見ると、手に包帯を巻いた若い衆が組長に挨拶をしている。潤一が嬉しそうに迎える。
「おう。キム、ご苦労だったな」
キムという言葉にピクリとした石橋が手下に聞く。
「おい。あいつは確か、以前親分をドスで襲ったガキじゃなかったか?」
「はい。今回も例のキャバレーで、新井組の奴をドスで刺した…確か、金田?」
金田は韓国名キムがよく使う日本名、通り名だ。
「キム・イスンと関係あるのか?」
「従弟らしいっス」
金田が潤一に深く頭を下げる。
「あの。ありがとうございました。弁護士の先生に聞きました。保釈金を出していただいた、って」
「ふ。当然だろう。おめえは今回の功労者だからな」
つまり鉄砲玉の役割を果たした金田に、気前よく保釈金を払ってやったということだろう。新井組の挑発に乗って応戦した愚連隊は、今も刑務所の中だというのに。
そのあと潤一が金田を隣に座らせて、嬉しそうに酌をしてやる。
(あんな下っ端に?)
他にも違和感を感じていた。
荻原組が喧嘩を売りたいと思っていた矢先、偶然にも新井組の者が赤羽まで来て騒ぎを起こした。
(偶然にも?)
宴の一次会が終わり、各々が二次会へと四散していく。石橋が仲間と行きかけた時だった。
「孝。乗れ」
親分がハイヤーの後部座席から声をかけた。
(初めて名前で呼ばれた。何かあるな)
一気に酔いは醒めた。車に乗り込む。ドアが閉まる。これは鉄の密室だ。鼓動が早くなる。
車が走り出すと、潤一は火のついた葉巻をくゆらせながら言った。
「悪かったな。おまえとゆっくり話したかったんだが、次から次と客人が出入りしててな」
「いえ。おやっさんのお話なら、明日にでも自分の方から…」
ここから出たい。だが遮られた。
「知らなかったな。おめえにあんな別嬪の嫁と女の子がいるなんてよ。誕生日はいつだい?今度おもちゃでも買って贈ってやりてえんだが」
毛細血管が逆立つ。家族を人質にとられた。
「いえ。もう、お気持ちだけで」
そう言うのが精いっぱいだった。