ご所望なのは悪役令嬢ではなく舞台装置ではないのかしら?
シルヴィア・ファントヴェルンは王子の婚約者である。
幼い頃に決められたが故にシルヴィアは何の疑問も持たず、彼の隣に立つ者として相応しい教育を施されてきた。
幼い頃はそれなりに婚約者でもあるアシュレーに好意を持っていたと思う。
だが成長するにつれて、その好意はあくまでも幼馴染に向けるものであり、友に対して、というものである、とシルヴィアは自覚するようになっていった。
というのも、彼に恋をするのは不毛だと気付いたからである。
アシュレーは成長するにつれて、様々な女性と関わりを持つようになった。
あからさまな恋愛をしているわけではないが、よくシルヴィア以外の女性と一緒にいるのを目撃されていた。そうはいってもギリギリを見極めているので、周囲もハッキリとした叱責をする程でもない絶妙なライン。シルヴィアの周囲にいる者たちはやきもきしていたし、アシュレーの周囲にいる令嬢たちはあわよくば自分がシルヴィアの立場に取って代われるかもしれない、そうでなくとも愛人になんて思う者、実に多くの令嬢たちがアシュレーの元に侍っていた。
シルヴィアの目から見て、アシュレーは別に周囲に侍らせている令嬢たちの中の誰かが特別というわけではないようだった。単純に遊んでいるだけなのだろう。令嬢たちがそれを望まず付き合わされているのなら不憫だなとは思うけれど、令嬢たちも打算があって自分たちで近づいているのでシルヴィアは特に口を挟む事もなく静観しているだけだった。
たまに、野心を持った令嬢が友人で、その友人に巻き込まれる形で王子に近づく事になってしまった令嬢たちもいたけれど、そういう相手だけはそっとシルヴィアが手を回して遠ざけた。下手にアシュレーに目をつけられても、身分差からそういった令嬢はやんわりと距離を取るのも難しくなるだろうから。
結婚すれば落ち着くだろうから、と周囲の大人たちは言っていたが、シルヴィアは思う。
いやあれはもう生まれついての業みたいなものだから、大人になってもなおらないんじゃないかしら……と。
周囲に可愛らしい令嬢や綺麗な令嬢を侍らせてちやほやされているので満足しているうちは可愛らしいものだけど、成長していくにつれそれだけで満足できるはずもない。
多分そのうち、一線を越える相手が出てきたっておかしくはないでしょうね……とシルヴィアは思いながらも口には出さなかった。
多分周囲の大人もうっすら考えてるだろうし、シルヴィアがそれを口に出したらきっと周囲の大人は困るだろうと思ったから。
救いと言えるかはわからないが、とりあえずアシュレーは第二王子で立太子予定のないただの王族だ。
第一王子であるアルフレートがこんなんじゃなくて良かった、と思うべきなのだろう。
いや、もしかしたら第二王子という若干気楽な身分のせいでこうなったのではないか……? とも思えたが。
まぁシルヴィアにとってはどうでもよいものだった。
事情が変わってきたのは、シルヴィアとアシュレーが学園に通う年齢になってからだ。
あれからアシュレーは心を入れ替えて令嬢たちとの付き合いはなくなった……というわけではない。
今でもそれは変わらず、どころか前にも増して……といった感じであったが、そこにぐいぐい接近していく令嬢が現れた。
どんな形でも王族と縁付きたい、という家がないわけではないし、そういう家の者は今までだっていた。
ただ、そういった家の人間は婚約者であるシルヴィアを押しのけてでもその座におさまれ、とまではいかない。当然だろう。それをやった場合、シルヴィアの家とは明確に敵対する形となるのだから。
シルヴィアを押しのけてでも自分が彼のお嫁さんになりたいの、というくらいにアシュレーに恋をしている令嬢もいるにはいるが、そういう相手ならともかく、そうでなければ大体は愛人狙いだ。
シルヴィアとしては本当にあの女好きとシルヴィアを押しのけてでも添い遂げたいというのなら、どうぞどうぞという気持ちですらある。
ただ、学園に入ってから知り合ったであろう一人の令嬢に、どうやらアシュレーは少しずつのめり込みつつあるらしい。
今まで多くの女性に愛をばらまいてきた男が、ようやく心から大切に思える相手と巡り合い真実の愛を見つける――なんていう娯楽小説があったような気がするものの、シルヴィアとしてはそれもどうでも良かった。
相変わらずあのあたりは騒がしい事ですわね……なんて思いながらも、シルヴィアはシルヴィアで学園で友人たちと楽しくやっていたからだ。
どうやら本当にたった一人を見つけたのか、アシュレーは今まで自分に侍っていた令嬢たちとの関係を少しずつ整理しているらしかった。このまま片付けていって最終的にシルヴィアとの婚約もなかったことにして彼女と結ばれたい、とか言われたらそれはそれでシルヴィアも受け入れる所存である。
別にアシュレーの事を愛しているわけではないので。
幼い頃からの付き合いだから、情がないわけではないけれど。
でもそれだって、うっかり庭に迷い込んできた猫ちゃんに向ける情と大差ないものだな、とシルヴィアは冷静に判断していたからこそである。
婚約者。将来の自分の夫。
それが事実ではあるのだが、どちらかといえばとことんまで手のかかる弟みたいなものだった。血が繋がってないので弟扱いをする事もないが。
どうやら件の令嬢とアシュレーは一気に距離を縮めて今では周囲で知らぬ者はないというくらいに仲睦まじくなっているらしい。シルヴィアの友人である令嬢たちが「いいんですか?」「今まではまだしも今回は放置しておくのは不味いのでは……?」と心配そうに話を持ってくるせいで、自分で調べなくても勝手に情報が集まって来る。
それに対してシルヴィアは澄ました顔で言った。
「何も問題ありませんわ」
それは周囲に果たしてどう映った事だろうか。
取り繕っているように見えたかもしれないし、やせ我慢をしていると思われたかもしれない。
だがしかし、シルヴィアにとってアシュレーは愛する男ではないし、それ故に彼が他の誰かを心から愛するようになったとしても本当にどうでも良いのだ。
幼い頃に結ばれた婚約だって、そもそもいずれ臣籍降下するアシュレーが苦労しないで済む家を……との事でシルヴィアの家が選ばれたに過ぎない。
別邸に愛人を囲う予定だろうとなんだろうと、確かにシルヴィアと結婚すれば生活で苦労する事はないだろう。それはシルヴィア自身よくわかっている。
ただ、それを蹴ってでも他の誰かと添い遂げたい、なんてアシュレーが言い出すような事になれば。
むしろそれを是非見てみたいものだなとシルヴィアは思う。
誰彼構わず愛を振りまくような男が本当にたった一人、心から愛する人を見つける事ができたというのなら。
シルヴィアとしてはいっそ応援したい気持ちであった。
アシュレーの周辺ではどうやら市井で出回っている恋愛小説のような出来事がいくつか実際に起きているらしく、アシュレーと仲睦まじくなったご令嬢は今まで侍っていた令嬢たちからこまごまとした嫌がらせを受けているらしい。
まぁ、ポッと出の身分の低い女に今までの自分の立ち位置掻っ攫われたと思えば気持ちはわからないでもない。
そして、家の力を使ってその令嬢とそれに関するものすべてを消そうとすれば、それと同じことをシルヴィアの家がやらかしても文句は言えなくなるので流石にオオゴトにするつもりもないのだろう。だからこその、みみっちぃ嫌がらせである。
貴族の娘として育てられてきたのもあって、邪魔な相手の排除のやり方もわかってはいるだろうけれど、今回はそれをやると後が大変かつ面倒な事になる、とわかっているからか、訴えられてもそこまで大きな騒ぎにならない範囲での嫌がらせ、というもので済ませているようだが、そういったやり方に詳しいわけでもない令嬢たちは色々と苦労しているらしい。
やっぱり家の力でスパーンと全部キレイキレイしちゃうのが手っ取り早い、という考えに何度か行きついてしまっては、そこまでやると我が家も危なくなるし……と葛藤しているようだった。
大きな力を使うのは慣れていても、小さな力で実行するのは不慣れ。
それ故にシルヴィアもそんな令嬢たちの様子を見ては、ですわよねぇ……と内心で頷いていたのだ。
ただ、それらはアシュレーと件の令嬢――アリエッタとの恋愛を大いに盛り上がらせるスパイスになっているようで、アシュレーから別れを告げられた令嬢たちは全力で踊っているに過ぎない。
気付いているのかいないのか、気付いていたとしても、好きだった相手から捨てられたという事実を直視するのが辛くて……とかかもしれない。
恋する気持ちというものはそう簡単に割り切れるものではない、とはシルヴィアも一応知識として理解はしている。
ただ、嫌がらせを受ければ受けた分だけアリエッタもそれを利用してアシュレーからの同情を買って恋を育てているように見えた。
やられっぱなしでいないでそれを上手く利用するという点では、中々に強かな娘である。
最初から完全に他人事として傍観しているシルヴィアからすれば、ただの見世物でしかなかったが。
ところがそんな傍観者であるシルヴィアに、アリエッタがある日近づいてきた。
その時はたまたま周囲に友人もいない、シルヴィアだけの状況で。
もしかしたらアリエッタはそれを見越した上で近づいてきたのかもしれない。
てっきりアシュレーの事は諦めて、とか、彼を解放して、だとか。
娯楽小説にありがちなセリフでも飛び出すのかと思っていたのだが。
「どうして悪役令嬢をやらないのよ!?」
アリエッタの言葉はシルヴィアの予想を裏切るものだった。
悪役令嬢。
それはシルヴィアもわかる。
勉強の息抜きに娯楽小説にも手を出しているので、シルヴィアとてその意味と役割は理解できている。
だが、それを自分にやれ、とは……?
何言ってるのかしら……? とばかりにシルヴィアがアリエッタを見ていれば、アリエッタはそこから怒涛の勢いで語りだした。
曰く。
シルヴィアがちゃんと悪役令嬢をしないせいで、折角他の令嬢からの嫌がらせを受けてアシュレーとの恋が上手くいってるのに、シルヴィアのせいでこのままではフラグが立たない。
ヒロインであるあたしに嫌がらせをして、そうしてアシュレーがあたしを庇う事でハッピーエンドに向かうのに。このままじゃ中途半端で、アシュレーと結ばれなくなるかもしれない。
悪役令嬢なら悪役令嬢らしく、ちゃんとヒロインを虐めないとダメじゃない!
との事だった。
成程、意味が分かりませんわ。
そしてこれがシルヴィアの正直な感想である。
自分の事をヒロインと言い切ったアリエッタに、創作物と現実の区別がつかないお花畑だとシルヴィアは判断した。これはとても面倒な事だ。
こちらが現実を見据えた話をしても、相手は夢の世界の住人であるせいで、お互いの常識が異なるのだ。そのせいで話が通じない事もままある。
どうやらアリエッタはここを何かの物語の世界だと思い込んでいるらしく、自分がヒロインでアシュレーはそんなヒロインと結ばれる運命の相手との事らしい。
今まで多くの女性に愛を振りまいてきた彼が、運命の出会いをして本当の愛とは何かを知って、そうして二人は結ばれるの! とか言われましても……という気持ちである。
「まさかアンタも転生者なの……!?」
「なんですか、そのテンセイシャとは」
どうやらアリエッタの思い通りに動かないシルヴィアにわけのわからない事を言うも、シルヴィアとて流石にその言葉の意味は理解できなかった。
テンセイシャ……今まで読んだ娯楽小説の中にそんな言葉あったかしら……?
娯楽小説以外でも、今まで学んだものの中にそんな言葉はなかったような……?
そんな風に本気で困惑していたからか、アリエッタもシルヴィアが転生者ではない、と思ったのか。
「いい!? ちゃんと悪役令嬢としてあたしとアシュレーが結ばれるために動きなさいよ!」
そう言い捨てて立ち去っていったのである。
身分的にもとても不敬。
これが原因でアリエッタの家ごと潰されたとしても、仕方のない所業である。
ただ、なんていうか。
今までシルヴィアの周りにこんな無礼極まりない相手がいなかったのもあって、シルヴィアはしばし――アリエッタが立ち去っていくその背を見送って、それからややあってからようやく動いた。
まずは悪役令嬢の定義をよく確認しましょう……と。
令嬢はさておき悪役というのは基本的に主人公と対立する側の存在である。
そうして主人公たちの邪魔をし、行く手を阻み、最後は倒され舞台から退場する。
ざっくり言えばそんな存在だった。
主人公たちの目的を阻もうと妨害したり、直接戦ったり、裏でこそこそと暗躍する。
家にあったいくつかの娯楽小説に出てくる悪役の行動をチェックして、シルヴィアはアリエッタの言葉を思い返した。
アリエッタはアシュレーと結ばれる事を本気で願っている。
なんか色々言ってた中に、今までまともな愛を知らない男が本当の愛を知ってそれに翻弄されてどうのこうのと長々語っていたような気もするが、長すぎてシルヴィアはほとんど聞き流してしまっていた。
そもそも、マトモな愛を知らない、とアリエッタは言っていたが別に知らないわけじゃないだろう。
愛と一言で言っても、その愛には複数の意味が含まれている。
親が子に向ける愛をアシュレーは受け取って育てられてきたし、友人同士での愛というものもあった。兄弟愛もあるだろう。
アシュレーとシルヴィアの間に愛はない、とそこだけは断言できるが、それ以外での愛をアシュレーが知らないなんて事はない。
アシュレーがアリエッタに執心しはじめたのは、単純に彼の好みのタイプだったからか、恋愛の駆け引きみたいなのが楽しくてのめり込んでいるだけではないかと思われる。
そこからアシュレーが本当にアリエッタを愛してしまったとしても、シルヴィアとしては何を言うでもない。
それならそれでさっさとシルヴィアとの婚約を解消してアリエッタと婚約すればいいのに、というのがシルヴィアの正直な気持ちだ。まぁ、周囲がそれを許さないだろうなとも理解している。
シルヴィアの両親はアシュレーの態度に一時期酷く怒っていたのもあったけれど、しかしシルヴィアの、
「アレは飼い主以外にも尻尾を振る愛想のいいただの犬みたいなものですわ。ご近所のアイドルわんこ」
そんな言葉で怒りをおさめた。どうやらとても納得できたらしい。
まぁ、表に出さず内心ではまだ怒ってるだろうなとは思うけど。
これが国王夫妻に聞かれていたらシルヴィアが不敬となって何らかの処罰を下されたかもしれないが、聞かれていないし実際事の発端はアシュレーなのでセーフだった。
ともあれ、アリエッタの狙いはわかったが、ではもう一人、アシュレーはどうなんだろう?
そう思ってシルヴィアはアシュレー本人に確認しようと思い立った。
そうして後日、シルヴィアがアシュレーにアリエッタをどう思っているのか、と聞いてみれば。
「君には関係ないだろう。というか、アリエッタから聞いたが彼女に嫌がらせをしたようだな。嫉妬か? 醜いな」
実際はもうちょっと長々何やら言っていたが、要約すればこんな感じだった。
君には関係ないも何も、私貴方の婚約者ですが。
そう言いたかったが、面倒なのでやめた。
しかもアリエッタにはまだ何もしていないのに既にしたことになっている。
あらこれは初動が遅れてしまったようね、とシルヴィアはアリエッタの行動の速さに逆に感心してしまったくらいだ。いずれ悪役令嬢として自分に嫌がらせをすると信じて疑っていない。
シルヴィアが悪役令嬢をやるなんて一言も言っていないというのに。
というか、嫉妬も何もという話である。
まだ悪役令嬢やるとも言ってないうちから勝手に二人の恋愛劇場に参加者として巻き込まれた事に、シルヴィアは内心でイラッとした。
事前に相談されて了承してやるのと、勝手に巻き込まれるのとでは結果が同じであっても途中経過が大きく異なるのは言うまでもないわけで。
(悪役……悪役、ねぇ……? 要するに、二人が結ばれるための当て馬みたいなものって事よね……?)
大体、アリエッタは身分が圧倒的に上であるシルヴィアに対してあの態度だ。まるで自分の方こそが上で、シルヴィアはアリエッタの思い通りに動くと信じているかのようなそれにも、少々物申したい気持ちである。
だからこそこの場で、シルヴィアはしおらしく――本当なら全然悪くもないし悪いとも思っていないが――アシュレーに謝罪をして、立ち去る事にした。
アシュレーの中ではシルヴィアはアシュレーを愛していて、そのせいでアリエッタの事に嫉妬し醜くも嫌がらせなどをした、と思っているらしく、それについて謝罪をした、という風に受け取ったのだろう。
残念。
シルヴィアの謝罪は逆だ。
これからやる事に関して、先に謝罪だけを済ませたに過ぎない。
これからシルヴィアがやる事を伝えたわけではない。
だが、既にアリエッタがやったような事だ。アリエッタに許されるのならシルヴィアも許されて然るべきだろう。
シルヴィアはまだやってもいない嫌がらせをしたことにされている。だがそれは冤罪である。
ならば、同じように冤罪をかけられても文句は言えまい。
――シルヴィア・ファントヴェルンが毒に倒れた、というニュースは学園を大いにざわつかせた。
毒を盛った犯人はアシュレー。
どうやら彼はアリエッタと結ばれたいがために、邪魔になった婚約者を退けようとしたらしい。
アシュレー本人はその事実を否定しているようだが、しかし使われた毒が王家で使用されるものだった事。
致死量までいかなかったからこそ、シルヴィアは死にこそしなかったが生死の境をさまよった事。
更に、その毒が仕込まれていたのがアシュレーがよくシルヴィアに贈る菓子だった事から、アシュレーの自分はやっていない、という言葉は信用されなかった。
アシュレーとシルヴィアが婚約者であるという事実を、周囲は知っている。
だが決して仲睦まじいかと言われるとそうでもないという事も。
アシュレーの周囲にはいつだって他の令嬢たちがいたし、それが今はアリエッタ一人になったとはいえ、アシュレーの隣にいる女性がシルヴィアではないという事に変わりはない。
婚約者として定期的に交流を、というのでさえ、アシュレーは昔からそれらを適当にやり過ごしていた。
手紙のやりとりも簡素なもので、贈り物に関しても使用人に丸投げだった。ドレスや装飾品に関してはさておき、それ以外の贈り物などは適当に王都で人気の菓子でも届けておけばいい、と言って本当にそうしていたくらいだ。
毒に倒れた時、シルヴィアは、
「どうして……殿下……」
と消え入りそうな声でそう言ったと、ファントヴェルン家に仕えている使用人たちが耳にしていたのもあって、アシュレーがどれだけ否定しても完全に否定しきれない状況となっていた。
実際アシュレーから贈られてきた菓子を食べて倒れたのだから、どれだけ否定したところでアシュレーの疑いが完全に晴れる事などあるはずがない。
それでなくとも、婚約者を放置して別の女性、それも今度は本気なのかたった一人と仲を深めていたという話もあれば、どう見たって婚約者が邪魔になったアシュレーが、婚約を解消しようにも難しいと考えて直接相手を排除しようとした、と考える者は圧倒的に多かった。
そもそも他にシルヴィアを邪魔だと思って排除しようとした者がいたとしても、使われた毒は王家で管理されているものだ。入手できる者は限られている。
もし、アシュレーがアリエッタにその毒を渡した上でシルヴィアにそれを盛るようにした、となっても、しかし毒が入っていた菓子にアリエッタは一切関与していない事は調べでわかっている。
菓子はいつも通り手配したが、自分だってそれだけだ! とどれだけアシュレーが訴えたところで、疑いは全く晴れなかった。今までの行いのせいで。
一命をとりとめたシルヴィアは婚約の解消を願った。
殺そうとまで思っている相手と婚約を続けたところで、結婚してその後安全だとは限らない。それどころかますます危険な目に遭う可能性が高い。
今回はかろうじて生き延びたが、次は死ぬかもしれないのだ。
シルヴィアの両親も流石にそんな状態になってまで婚約を続けろなど娘に言えるはずもない。
そうでなくとも臣籍降下するはずのアシュレーがシルヴィアを殺すのであれば、婿入りした後彼はこの家を乗っ取るつもりであると宣言しているも同然。そんな危険な存在を家に迎え入れるなどできようはずがなかった。
もし婚約を続けるというのであれば、我が家は王家と敵対する事も覚悟の上である、とまで言われてしまえば王家とて無理を通すわけにもいかない。
ここでファントヴェルン家が敵対するような事になれば、他家も派閥関わらず王家への忠誠を捨てる可能性が高かった。アシュレーの臣籍降下後の生活に苦労をさせたくないがために結んだはずの婚約。
しかしそれを強引に続けたままでは、アシュレーの生活どころではない。最悪内乱が起きるかもしれないのだ。アシュレーの生活どころか現在の王族全員が断頭台の露と消えるかもしれない未来が見え始めたとなれば、王家とてファントベルン家の言い分を無視するわけにもいかない。
アシュレーは最後まで自分ではない、と犯行を否認し続けていたが、しかし状況証拠も物的証拠もアシュレーが犯人であると示している。
王も王妃もアシュレーを甘やかしていた自覚はあった。自覚はあったが、まさかここまでとは思っていなかった。なんでもかんでも横暴を許し続けるような甘やかし方をした覚えまではなかったので。
アシュレーを殺してこの一件を解決した、とするのは簡単だ。
だが、それをシルヴィアは拒んだ。
婚約の解消は勿論願うが、しかし命まで奪う必要はないと。
折角彼にも心から愛する人が現れたのだ。その愛のためにやらかしたとはいえ、それでも今まで花を飛び交う蝶のごとくであったアシュレーが、とうとうたった一人を見つけたのだから、であればせめてその相手と添い遂げさせてあげたい。
彼女だってそれを望んでいたのだから。
そう、毒のせいでやつれた姿でありながらも、シルヴィアは健気にも訴えたのである。
本来なら自分の命を奪おうとしていた相手だ。憎みこそすれ、思いつく限りの方法で苦しませろと言ったっておかしくはないのに、それでもなお、元婚約者の幸せを願うシルヴィアに、王も王妃も頭を下げた。
なんと慈悲深い娘なのだろう、とその一件を知る事になった者たちはそう思った。
アシュレーのやり方は確かに褒められたものではないが、それでも愛のために、初めての本気の恋に溺れた結果だ。シルヴィアがそれを成就させてあげたいというのなら、被害者がそうまで言うのだ。
ならば、アシュレーが他の令嬢たちとの関係を清算させてまで共にいようとしていたアリエッタと添い遂げさせてやるべきなのだろう。
本来ならそんな事になるはずもないが、しかし被害者たっての願いである。
叶えてやる事で、シルヴィアに対して王家は彼女を尊重するという意思表示にもなった。
「――めでたしめでたし、になるはずだったのにね?」
ところが、実際そうはならなかった。
逃げたのだ。
誰が?
アリエッタがである。
彼女にとってアシュレーと結ばれる事は望んだ未来であるはずだが、それでも彼女は逃げた。
逃げ出した先で、ならず者と遭遇し危うく貞操の危機に陥ったようだが、そうなるまいと逃げ続けた結果崖から足を滑らせ転落。
見事ならず者たちから逃げ出す事に成功したのである。
そのままあの世まで旅立つ形となってしまったが。
結ばれるはずだったアリエッタはしかしアシュレーと結ばれる事にならなかった。
そうなれば、アシュレーはどうなるか。
シルヴィアと再婚約などあり得るはずがない。
もしまた次に別の女性に心を移せば、今度こそ確実にシルヴィアが殺されるかもしれないのだ。
そして、こんな事件を起こしたことが知られた以上アシュレーに今まで侍るようにしていた令嬢たちとて今更彼と結ばれたいなどとは言わなかった。当然だろう。
誰だって第二のシルヴィアになりたくはない。
シルヴィアは生き延びたが、仮に自分がその立場になったとして、生き残る事ができるかはわからないのだ。
結果としてアシュレーは然るべき場所にて生涯幽閉される形となった。
生涯、とは言うが恐らくそう長くはないだろう。
「彼女の望みって本当はどういうものだったのかしら?」
ベッドの上でシルヴィアはそう呟く。
実のところ元気いっぱいなのだが、あまりにも早く復帰するとそれはそれで問題があるので当面は療養のためとして大人しくしているつもりだ。
確かに時々、婚約者としてお互いに手紙やら贈り物をしてはきた。
シルヴィアもアシュレーも義務としてやっていたに過ぎない。
アシュレーがアリエッタにのめり込むようになってからは、それすら放棄するかと思っていたが一応惰性か最低限の言い訳をするためか、そこは続いていた。
贈り物もなかったなら、シルヴィアはもっと他の方法を考えなければならなかったけれど、そうじゃなかったからそこまでの手間はかからなかった。
王家で管理されている毒に関しては、シルヴィアも手に入れる機会があったに過ぎない。
やろうと思えばやれる。
ただ、今まではやっても意味がないからやらなかっただけ。
盗もうと思えばシルヴィアにとっては可能な犯行だったが、使う予定もないのにそれを所持していたら大問題だし、そこで安全管理だなんだと問題になって今以上に厳重になれば、いざ必要になったとしてもその時にはもうシルヴィアには手が出せなかっただろう。
王家で管理されている毒が使われた、という事実が必要なのであって、実際シルヴィアはその毒を摂取してはいない。少量、致死量よりも更に少なくとはいっても、万が一という事はあった。実際にシルヴィアが飲んだのは別の毒だ。それも死なない量だと確定している。
毒は下剤の強力版と言っていいもので、解毒剤を飲んだ後でもしばらくトイレにこもる羽目になったがそのせいでいい感じにやつれる事になった。
貴族令嬢にあるまじきやらかしではあるが、毒を盛られたはずの令嬢がぴんぴんしていたら周囲の目は自分に疑いが向くので致し方ない。
王家が管理している、シルヴィアが盗んだ毒に関してはこっそりと処分した。
誰もシルヴィアが盗んだという事実に気付いてすらいなかった。
シルヴィアだって実のところあんな風に盗めるとは思っていなかったので、きっと他の人間も管理に問題はないと信じていたのだろう。シルヴィアだって本当に偶然、これもしかしていけるのでは……? と思う事があったからやってみただけで、そうでなければ危険な橋を渡るつもりもなかった。
だが、今回の件で管理はもっと厳重になるだろうから、次は無い。
こっそり返そうにも難しくなる以上、人知れず処分するしかなかった。
そう、最初から最後までアシュレーは自分は毒を盛ったりなどしていないと訴えていたが、それは真実なのである。
アリエッタを虐めたりなんてしていないのにそれをあっさり信じたアシュレー。
シルヴィアの言い分など何一つ聞き入れなかった彼は、同じように周囲からその訴えに耳を傾けられる事もなかった。
悪いとは思わない。
だってアリエッタが望んだのだ。
シルヴィアが悪役になる事を。
そしてそのアリエッタの側についたのはアシュレーだ。
アシュレーがシルヴィアに悪役令嬢を望んだわけではないが、しかしアリエッタと結ばれるつもりでいたからこそアリエッタへまだ嫌がらせもしていないシルヴィアを悪役令嬢に仕立て上げたのだろうから。
せめてシルヴィアがやっていないという言葉をちゃんと聞いていたならば、シルヴィアだって同じように冤罪かぶせようなんてしなかった。その時は違う方法を選んでいた。
アリエッタが逃げた原因もまたシルヴィアであった。
シルヴィアは毒に倒れたと周囲に知られた後、アリエッタに手紙を出したのだ。
それがなければ、アリエッタはアシュレーと結ばれていたかもしれない。
だが、アリエッタ曰くシルヴィアは悪役令嬢なので。
悪役がそんな恋人たちを結び付けるお助けキャラみたいな事をするわけがない。
悪役なら悪役らしく、最後まで主人公の邪魔をしてやろうと思っただけだ。
シルヴィアはこれも悪いとは思っていない。
何故ってアリエッタが言ったのだ。ちゃんと悪役やれって。
言葉通り、わざわざ従ってあげたのだから、むしろアリエッタはひれ伏して感謝すべきである。
ヒーローとヒロインは別に悪役に結び付けてもらうわけではない。悪役を乗り越えてくっつくのである。
なので、踏み越える事も乗り越える事もできなかったなら、それはシルヴィアのせいではなくアリエッタがヒロインとして不出来であっただけだし、アシュレーもまたヒーローには至れなかった。
シルヴィアとしてはそう思う。
アリエッタに出した手紙は、別に呪いの手紙とかそういうものではない。
悪役としてヒロインを虐める以前に毒を盛られ動けなくなったので、自分は悪役令嬢をこなせないという事。
実際は盛られたわけではなく自作自演だが、別にそれは明かす必要がない。
けれども悪役がいなくなった以上、障害は消えたという事実。
それだけならアリエッタが望んだ展開とは異なろうとも、彼と結ばれる事ができるのなら問題はないだろう。
だが、シルヴィアはそこに悪役らしく二人が簡単に結ばれないよう邪魔をした。
何も難しい事は書いていない。
ただ、素直に婚約を解消するとアシュレーが強く望めばその願いはかなったのに、あえてわざわざシルヴィアを殺そうとした以上、婚約者として幼い頃からそれなりの付き合いをしてきた相手を簡単に殺そうとするような男だ。今はアリエッタに恋をしているのかもしれないが、いつかその熱が冷めた時。
そうしてその時に、アリエッタ以上に魅力的な女性と巡り合いでもしたのなら。
その時、アシュレーは果たしてアリエッタをどうするだろうか。
穏便に話し合いで別れる事ができればいいが、そもそもシルヴィアを亡き者にしてまで結ばれようとしたのだ。
その上で、シルヴィアもまたアリエッタとの仲を推し進めるよう国王夫妻へ進言したのだから、愛が冷めたから別れたい、で二人が簡単に別れられるはずがない。
だがそれでも、愛を貫きたいとアシュレーが思うのなら。
第二のシルヴィアとなって命を落とすのは、間違いなくアリエッタである。
そうでなくとも元々他の女性を侍らせたりしていた男だ。
これから先一生アリエッタだけを愛し続けていけるのか、という疑問はある。
今はまだいい。
今はまだ熱が冷めていないのだから、何も心配する事はないだろう。
だが、その熱がいつまでも冷める事がないか、と問われれば、誰もそれを永遠の愛だとは言えないだろう。
結ばれたばかりであれば、二人の愛は永遠なのだと信じる事だってできよう。
だが、アリエッタとアシュレーが結ばれるために、シルヴィアは死にかけた。
勿論アリエッタはアシュレーと結ばれるために、彼に侍っていた他の令嬢たちを押しのけてきたし、結果として彼女たちから嫌がらせをされたりもしていた。
そういう意味では、二人の幸せの下には多くの令嬢たちの破れた恋が埋められている。
だが、行き場を失った気持ちだけが足元に散らばっているなら見ぬ振りもできたかもしれないが、明確に人が死にかけたという事実から目を逸らし続けるのは難しい。
アリエッタやアシュレーが気にせずとも、何かの折に第三者がその事実を突きつけたりしてくる可能性はある。本人たちに面と向かって言わなくたって、社交の場で噂として語り継がれる事になる可能性は高い。
直接的にでなくとも、遠回しに噂という形でもって二人を非難する者は間違いなく存在する。
皆が祝福し、一切の影がない状態というのはそれこそ二人が結ばれて幸せに暮らしました、で終わる物語くらいなものだ。
いつか。
二人の愛に陰りが生じるような事になった時。
それがいつになるかはわからない。
お互いにそれを感じ取っているならいいが、アリエッタがアシュレーを愛しているのに既にアシュレーの中でアリエッタへの愛が薄れていたならば。
抱擁した直後背中にナイフを突き立てられるかもしれないし、そうでなくとも贈り物に毒を仕込まれたりするかもしれない。
シルヴィアは一命をとりとめたけれど、アリエッタも一命をとりとめる事ができるかまではわからない。
手紙には、そういった不安を煽る事を書いておいた。
次に命を狙われるかもしれないのは、アリエッタなのだとばかりに。
いつ殺されるかはわからないが、それでもその間は幸せにと。
アリエッタがアシュレーについてあれこれ語っていた時に、今までまともに恋をしたことがない男が一人の女性によって恋をしてどうのこうのとか、本気の恋でそれ故に執着がどうのこうのとか、シルヴィアにはあまり理解できない事を語っていたのだから。
永遠の愛などではなくたって、一時的なものであってもアリエッタならそれで構わないのだろうと。
そう思っての事でもあった。
だが、小説の中の事と現実とではやはり違ったのだろう。
アシュレーが殺人未遂をやらかした、という事実にアリエッタはどうやら臆した。
結果として、そんな相手と結ばれるなんて、と思った結果が逃げ出すというやらかしだ。
アリエッタが逃げた先で出くわしたならず者たちに関しては、別にシルヴィアの差し金ではない。
アリエッタは勝手に恐れ、勝手に逃げ出し、そうして死んだのだ。
本当はアシュレーは殺そうなんてしていなかったというのに。
アリエッタは信じなかった。
ただ、シルヴィアが毒を盛られたという事実で、アシュレーがやったと信じ込んでしまった。
「悪役令嬢をやれ、って人に言うくらいなのだから、これもきっと悪役令嬢の仕込みだ、くらい疑うかと思ったのだけれど、ね……?」
だが、まぁ。
普通に考えて婚約者が浮気しているような状況で、そこに贈られてきたものに毒が仕込まれていた、という事実に見舞われた相手に、自作自演なんじゃないですか? なんて思ったところで口に出したら周囲から批判されてもおかしくはないものよね、とシルヴィアは「じゃあ言えるわけがないわね」と首を振る。
「悪役なんて望まなくたって、頼まれていたなら。
それこそ、アシュレー様と結ばれたいから協力してほしいと言われたなら、私もそういたしましたのに……」
本当に、アリエッタが望んだものは悪役令嬢だったのかしら。
二人が結ばれるために必要なものは、悪役令嬢ではなくただの協力者だったのではないかしら。
そんな風に思ったところで。
アリエッタはもういない。
シルヴィアのその疑問は、そのままそっと心の片隅に追いやられたのである。
次回短編予告
獣人、つがい。
運命と言われるそれ。
けれど、その運命は時と場合によって自らぶち壊す事になるのである。
何事も最初が肝心だと、果たしてどれだけの獣人たちがそれを理解しているのだろうか……?
次回 初手 地雷ワード
※予告では真面目装ってますが内容も文字数もとてもさっくりしています。